豊田スタジアム(とよたスタジアム、)は、愛知県豊田市の豊田中央公園内にあるサッカー専用スタジアムないし球技専用競技場。通常サッカー専用グラウンドは埼玉スタジアム2002のようにフィールドがやや狭くラグビーの公式戦開催が不可能なものを指すが、名古屋グランパスはサッカー専用スタジアムと紹介している。サッカー専用スタジアムとしては埼玉スタジアム2002に続き、日本国内で2番目の大きさを誇る。施設は豊田市が所有し、株式会社豊田スタジアムが指定管理者として運営管理を行っている。元々は2002 FIFAワールドカップを日本で開催する為に作られたスタジアムであり、設計は建築家・黒川紀章が行った。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟する名古屋グランパスのホームスタジアムの一つであり、開場以来ホームゲームを開催している。また毎年8月には豊田国際ユースサッカー大会が行なわれている。2002 FIFAワールドカップの開催候補地となったが落選。2019年ラグビーワールドカップの会場には当選した。また、トヨタ自動車がオフィシャルスポンサーを務めていたFIFAクラブワールドカップでは、日本で開催された2005年〜2008年および2011〜2012年の大会において開催会場の1つとして選ばれた。スタジアムの「10番ゲート」はグランパスのOBで、元監督のドラガン・ストイコビッチの功績を称え『ピクシー・ゲート』と名付けられている(ピクシーは、ストイコビッチの愛称、10番は代表でもグランパスでも彼の不動の背番号であった)。現在も彼のガッツポーズをモチーフにした装飾と、「PIXY GATE」と書かれたゲート看板が残されている。なお、ストイコビッチがこのスタジアムでプレーしたのは開場直後に行なわれた引退記念試合の1試合のみである。なお、アウェー側サイドスタンドとバックスタンドの4階席部分に「TOYOTA」の文字が刻まれているほか、トヨタグループの企業によるスポンサー看板も多く設置されている。また、2005年9月にメインスタンド1階コンコースに「スタジアムギャラリー」がオープン。球技専用スタジアムのため陸上競技用トラックは存在しないが、市民マラソン大会である豊田マラソンや豊スタナイトリレーマラソンの会場となる等、市民を対象とした陸上競技イベントも年に数回開催されている。2008年1月6日、スタジアム内のプール施設において、天井が落下する事故が発生。2009年には本スタジアムで使用する天然芝の農地が豊田市内に作られた。競技場の芝を地産地消で賄うのは日本で初めての試みであるという。マスコットは「トスタくん」。2001年7月21日に誕生。頭はサッカーボールで、緑色の髪の毛は芝生。同スタジアムには可動席屋根を備えている。この屋根は天幕(テント)式のものであるが、国土交通省の規定により、毎秒10m以上の風速が記録された場合は天井からの落下物が発生する恐れがあるため、屋根を動かすことができないとして、実際2014年8月9日の名古屋グランパス対鹿島アントラーズの試合では屋根を開けた状態で施行した事例がある。また2007年11月、屋根の開閉部分に故障が見つかり、修理に10ヶ月の期間を要すると発表された。これにより修理が完了するまで天候の状況に関わらず屋根が開かれた状況でイベントが行われた事もあった。2015年度以降は、原則として屋根を開けたままとすることとなった。これは屋根の修繕費や維持費が、2032年度までに約109億円がかかるとしており、2015年度からは経費削減の一環として屋根を原則開けるとしており、開閉屋根の撤去も検討しているとされている。愛知県では、1989年に刈谷市が5万人収容で国際規格のサッカースタジアムの建設を計画していた。また、同時期に2002年に開催予定のFIFAワールドカップ(W杯)を日本に誘致する計画が浮上し、愛知県でも開催地を誘致する動きが活発化した。愛知県内では、1992年7月13日に刈谷市が正式に誘致を表明した。名古屋市でも誘致の検討がはじまり、1993年1月14日に立候補を表明した。立候補時は瑞穂公園陸上競技場の増築によって賄う計画で、同年7月25日にはスタンドを2層構造とするなどの具体案が発表されたが、という2点の問題や狭い敷地のために周辺が人であふれかえることなどに日本サッカー協会が難色を示したため、計画の実現性が低いと判断され、1994年5月9日に瑞穂案の断念が発表された。続いて、名古屋市南部の大高緑地公園に10万人収容のサッカー専用スタジアム構想を立ち上げ、「決勝戦も可能」と謳うが、環境保護団体と地域住民の猛烈な反発にあい、計画段階で断念。さらにナゴヤドーム内に天然芝を敷き詰めて開催する案を提出するものの、打つ手をなくした名古屋市としては条件を満たすスタジアムの設置が不可能と判断し、立候補を取り消す事態に発展した。一方、豊田市では1993年12月の市議会で加藤正一市長がW杯誘致に意欲を見せた。1994年10月24日には、豊田市体育協会・連合愛知豊田地域協議会・豊田商工会議所の代表が、同年8月から10月にかけて集めたサッカー場を建設を求める254,899人の署名を豊田市長・市議長に手渡した。W杯誘致では、名古屋市の撤退が発表された後、日本サッカー協会から「日本有数の大都市圏で試合が無いのは問題である。」との意見が入り、1995年1月25日、愛知県が立候補を発表。同年2月9日に日本サッカー協会理事会で承認された。名古屋市の立候補により表立った活動をしてこなかった刈谷市と豊田市の2市が立候補に名乗りを上げ、熾烈な誘致合戦を行った。1995年4月12日、愛知県サッカー協会の審査の結果、交通の便や市民の熱意は刈谷市が上回るものの、との理由で「愛知県」枠は豊田市となった。1995年夏に豊田市の新聞『矢作新報』が市民千人にスタジアム建設の是非を問うたアンケートでは、賛成20%、反対40%、どちらでもない37%との意見であった。その後、同大会は日韓共催となることが国際サッカー連盟理事会によって決定する。これにより、日本側の割り当てである10会場に会場を絞り込むことになった。1996年12月の開催地を決定する投票で、同じ中部圏の新潟県が推す新潟スタジアム(現・デンカビッグスワンスタジアム)との決選投票となり、結果落選した。落選後、設計の見直しが行われ、1997年9月25日に収容人数を4万3千人に減らすなどの設計が公表された。一方、スタジアム建設反対派住民らによって結成された「巨大サッカー場問題を考える会」は、1998年7月3日に市に対して31,817人の署名とともに住民投票条例制定を求める直接請求を行ったが、同月17日の市議会臨時会で否決された。2001年7月21日、開場記念セレモニーが開かれ、2,001人によるテープカットや、Kiroro、ゴスペラーズ、THE BOOMによるオープニングコンサートが行われた。その後、FIFA関連のイベントでは、FIFAクラブワールドカップの日本開催時の会場の一つとして使用されている(使用年については下記年表を参照)。2014年のJリーグアウォーズにて、Jリーグベストピッチ賞を受賞した。瑞穂陸上競技場と同様、Jリーグ開催時のホーム・アンド・アウェー側サイドスタンドは通常、半分がアウェイサポーター専用、残りがグランパスサポーター専用(アウェイサポーターが混在しているときもある)となっているが、浦和レッズ戦など、アウェイサポーターの来場が多く見込まれる試合においては、全席アウェイサポーター専用となることもある。また、屋根を開いた状態で試合を行うか閉じた状態で試合を行うかについては、試合当日の天気の予報により、試合の数日前に名古屋グランパス公式サイトに発表される。急な雨には対応できず、その場合は一部の座席が濡れる席となる。なお、先述したとおり、防災規定により風速10m/s以上の際は開閉装置を作動させることができないため、台風など強風が予想される場合は雨天でも屋根を開けての開催となる。これは可動屋根がテント式の構造となっており、強風による天井からの落下物や損傷を防ぐために国土交通省の防災規定の取り決めによるもの。2015年からは経費削減策のため原則として屋根を開けた状態で行う。
出典:wikipedia
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