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井上勝

井上 勝(いのうえ まさる、天保14年8月1日(1843年8月25日) - 明治43年(1910年)8月2日)は、日本の幕末から明治にかけて活躍した武士(長州藩士)、官僚。正二位勲一等子爵。幼名は卯八(うのはち)、通称は弥吉(やきち)。鉄道発展に寄与し、日本の鉄道の父と呼ばれる。長州五傑の1人。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン卒業。天保14年(1843年)、長州藩士・井上勝行(1807年 - 1893年)の3男として萩城下に生まれる。幼名は卯八と名付けられたが、これは干支が癸卯で8月生まれにちなんだためである。父は大身200石の藩士で、母久里子は同じ長州藩士田坂家の出身だが、弘化元年12月22日(1845年1月29日)に卯八が1歳の時に死別している。また、兄の井上勝一(1831年 - 1886年)は後に父の家督を継承、弟の赤川雄三(1850年 - 1904年)と湯浅光正(? - 1870年)はそれぞれ他家に養子へ出されたが、いずれも卯八に先立ち亡くなっている。天保19年(1848年)に野村作兵衛の養嗣子となり野村弥吉と改名し藩校明倫館で勉強、開明派で蘭学重視の父に従い西洋学を学ぶことを志す。嘉永6年(1853年)の黒船来航に伴う相模警備に江戸幕府から長州藩が命令され、安政2年(1855年)に沿岸警備に駆り出された父と共に宮田(現在の神奈川県横須賀市)へ赴任、そこで伊藤博文と出会い親交を結ぶ。翌3年(1856年)に萩へ戻った後は安政5年(1858年)に藩命で長崎へ遊学、再会した伊藤と共に1年間洋学兵法を学び取ったが、それだけで飽き足らず、帰郷から間もない安政6年(1859年)に藩命で江戸の蕃書調所へ入学、航海術を中心に勉強した。しかしまだ満足出来なかった弥吉は、万延元年(1860年)に船で箱館へ向かい武田斐三郎の塾を訪問、航海術と英語を取得したが、翌文久元年(1861年)に養父の希望で萩へ戻ることになった。それでも学問への意欲は尽きず、養父を説得して文久2年(1862年)に再び江戸に到着、英学修業のため横浜と江戸を往復しつつ外国留学を考えるようになっていった。文久3年(1863年)3月10日にジャーディン・マセソン商会から長州藩が購入した船・癸亥丸の船長に任命され、測量方の山尾庸三らと共に横浜から京都まで航行、23日に兵庫港へ到着した。そこに藩家老・周布政之助の工作で藩主毛利敬親から外国旅行を命じられ、5月12日に脱藩。イギリス総領事による斡旋の下、後に長州五傑(長州ファイブ)と呼ばれることとなる井上馨・山尾・遠藤謹助・伊藤とジャーディン・マセソン商会の船(チェルスウィック号)に密航し渡英、上海でホワイト・アッダー号に乗り換え長期間船旅を過ごした末に10月にロンドンへ到着、明治元年(1868年)までユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)にて鉱山技術・鉄道技術などを学ぶ。途中、元治元年(1864年)に井上と伊藤が帰国、翌慶応元年(1865年)に薩摩藩第一次英国留学生と出会い日本人同士の交流を喜んだのもつかの間、藩からの費用が少なくなり困窮、慶応2年(1866年)に遠藤も病気の悪化で帰国するなど苦境が続く中で明治元年9月に無事卒業を果たした。同年、木戸孝允の「母国で技術を役立てるように」との再三の要請により11月に山尾と共に帰国。長州藩へ戻り実家と復縁し、父の名前から1字取り井上勝と改名、長州藩から鉱山管理の仕事を任されていたが、明治2年(1869年)に木戸の呼びかけに応じ新政府に出仕、10月に大蔵省造幣頭兼民部省鉱山正となり(当時大蔵省・民部省は合併していた)、先に大蔵省へ出仕していた伊藤に仕え近代事業に携わることになる。大蔵省に勤務してからは伊藤や大隈重信といった鉄道敷設推進派らと共に1幹線3支線との構想を発表する。とはいえ、当初は鉄道技術が日本にないためイギリスのお雇い外国人に頼るしかないという現実があり、勝は明治2年11月5日に岩倉具視・澤宣嘉とイギリス公使ハリー・パークスの会見に出席して岩倉らの通訳を務めていたが、まだ鉄道に関する方針に踏み込めなかった。続いてパークスが紹介したホレーショ・ネルソン・レイと伊藤らとの交渉で、イギリスが外債および技師と建設材料を提供して鉄道敷設を進めることになった。しかしレイは日本国債をロンドン株式市場に流して自分の個人口座に利ざやが入るようにした。政府はレイとの交渉を打ち切り、外債をとりつける新しい交渉相手を決めた。1845年に香港で創立されたオリエンタル・バンクである。政府はイギリス人技師エドモンド・モレルを中心として敷設事業を展開、勝はその下で実技を習得しつつ路線を敷くことを始め、先の構想に基づき新橋駅 - 横浜駅(後に桜木町駅に改称)間の鉄道に着手、合わせて明治3年(1870年)10月19日に新設された工部省に所属を移し、山尾と共に工部権大丞となり、翌明治4年(1871年)7月23日に工部大丞に昇進、8月15日に鉱山寮鉱山頭と鉄道寮鉄道頭も兼任(後に鉄道頭を専任)、鉄道事業との関わりを本格化させていくことになる。明治3年3月17日の測量から始まった新橋 - 横浜間(29km)敷設は鉄道頭では無かったため直接関与はほとんどなかったが、鉄道建設を反対する一般国民や政治家達(黒田清隆など)の説得に当たり、海上に線路を敷くために手掛けた築堤工事に参加、明治4年9月23日に建設途中で死去したモレルの後を継ぎ工事を継続させるなど間接的に工事を推進、明治5年(1872年)9月12日に全線開通させ日本の鉄道開業に尽くした。また、明治3年7月30日に開始された神戸駅 - 大阪駅間(32.7km)に続く明治4年6月15日の大阪駅 - 京都駅(43.4km)の測量に加わり、お雇い外国人が見積もった金額より安い算出で工事変更を工部省に願い出て許可され、鉄道知識と手腕は外国人にも引けを取らない物になった。だが、工部少輔となり上司になっていた山尾と対立、明治6年(1873年)7月22日に辞任した。関東の鉄道事業が一段落付き、次の仕事に大阪へ出張させて現場指揮を執らせ、鉄道寮も大阪へ移転してくれるよう提案したが、山尾に却下されたことに怒ったこと、山尾の干渉に耐えられなかったのが理由だったといわれる。この問題は岩倉使節団に加わりヨーロッパを外遊していた伊藤が勝の辞任をしたためた手紙を受け取り、帰国し工部卿として山尾の上司になった伊藤の説得で勝が明治7年(1874年)1月に鉄道頭に復帰、2月に鉄道寮移転も認められたことで解決した。以後しばらく関西方面の鉄道敷設に集中していくことになる。明治7年5月11日に神戸 - 大阪間がお雇い外国人の手で開通、明治10年(1877年)2月5日に大阪 - 京都間も開通。ひとまず関西方面も開拓されたが、この間に士族反乱が相次ぎ(佐賀の乱、萩の乱、西南戦争など)政府は財政難と治安悪化に直面した。勝は事態打開のため明治9年(1876年)に伊藤に更なる鉄道網の延長を迫り、計画は京都から大津へ東の延伸が決定されたが、西南戦争で工事どころではなくなり明治10年中に敷設は行われなかった。代わりに日本人の鉄道技術者育成は認められ、明治10年1月に鉄道寮が鉄道局に改称し勝が鉄道局長に就任、5月に大阪駅構内で工技生養成所を設立し飯田俊徳とトーマス・シャービントンの2人と協力して技師を養成、長谷川謹介・国沢能長らを輩出した。やがて工部省が創設した工部大学校からも技術者が養成されると、目標を達成したとして明治15年(1882年)に閉鎖したが、明治10年からお雇い外国人を順次解雇して養成所卒業生と入れ替え、彼らと力を合わせ鉄道工事に傾注していく。明治11年(1878年)4月に政府の国債発行で資金調達の当てが出来ると8月21日に京都 - 大津駅間(後に浜大津駅に改称、18.2km)の工事に取り掛かり、逢坂山トンネルを着工。作業は全体を4区に振り分け、飯田俊徳を総監督に長谷川・国沢・武者満歌・千島九一・佐武正章・三村周・南清ら養成所の第1回入学生に実習を兼ねた工事作業をやらせ、自らも草鞋・脚絆を履いて現場を指揮、鶴嘴を振るい開拓した。外国人を排除しての作業は逢坂山を掘り進める区間が難航、明治12年(1879年)8月20日に落盤事故が発生して4人が死亡することもあったが、明治13年(1880年)7月15日に完成、日本人のみの手によって施工された初のトンネルとなる。更なる延伸も検討されたが、京都 - 東京間のルートが決まっていない財政難の状況で、琵琶湖南岸の大津から直接東へ進出するのは無理があったため、大津からの工事は中断、代案として京都 - 大津間は途中の馬場駅(現在の膳所駅)でスイッチバックして大津駅へ到着、琵琶湖を鉄道連絡船の太湖汽船で渡り湖東の長浜駅まで航行する手段が採用され、明治15年5月から藤田伝三郎の企画で太湖汽船会社が創業、連絡船巡航が始められた。これに先立ち、明治12年に琵琶湖から敦賀港に接続する路線測量を実行、明治13年4月に着工され4年後の明治17年(1884年)4月16日に長浜駅 - 金ヶ崎駅(現在の敦賀港駅)間が開通した。工事は京都 - 大津間の時と同じく飯田が総監督を請け負い、長谷川ら養成所出身の技師が工事を手掛けて着工、逢坂山トンネル以上に距離が長い柳ヶ瀬トンネルを開いたことは確実に日本人技師が自立していることを示していた。京都から東京へ繋ぐ線路の道筋は中山道か東海道どちらを選ぶか当初から保留したまま、両所の端から敷設作業を進める方針で着工していた。きっかけは明治3年に小野友五郎・佐藤政養の2人が東海道を測量調査し、報告書に「陸・海どちらからでも運行可能な東海道より、険峻で村々の交通が不便な中山道に鉄道を通して流通を発達させた方が経済発展に繋がる」と提言、モレルの後任として来日していたリチャード・ボイルも明治7年から翌8年(1875年)の中山道調査および明治9年の報告書で同様の主張をしたため、政府も態度を決めかねていたのである。この頃士族反乱が頻発、財政難であったことも躊躇の理由に入っていた。勝は中山道に沿って進める目的で明治14年(1881年)6月に政府に企画書を提出、長浜から東へ進み関ヶ原までの敷設を主張したが却下されたため、明治15年2月に工部卿佐々木高行に宛てて建白書を提出、前年に発足した私鉄の日本鉄道会社が東京 - 青森駅間の敷設を企画している点に触れ、鉄道推進に繋がることを歓迎しながら途方も無い計画を批判、途中の高崎までのルートが中山道を通るためその重要性を指摘、長浜 - 関ヶ原間と東京 - 高崎間両方の敷設工事を自分に任せ、合わせて敦賀方面の工事を作業していた従業員の失業を避けるための必要性も取り上げた。佐々木の認可は3月に下り、6月から翌16年(1883年)5月1日にかけて長浜 - 関ヶ原駅間を開通させた。一方、東京から高崎までの計画は停滞、明治16年5月に工部省代理山縣有朋に宛てて関ヶ原から東側の大垣 - 加納までの延長を希望したが、実現までの見通しは立たなかった。同年8月、政府から路線の内定を求められ、ボイルの報告書を元に中山道ルートが最適と具申、高崎 - 大垣間の両端から漸次測量・着工すべきと方針を固めた。9月に政府の中山道ルート決定が下りて国債も募集され、勝は同年7月に工部大輔兼工部技監になったため東京へ戻り、東京と中部地方を行き来することになる。明治15年6月5日から明治17年8月20日まで日本鉄道会社に代わり上野駅 - 高崎駅間の工事を進め(日本鉄道会社に鉄道のノウハウが無いため、資金を提供する代わりに鉄道局に工事を委託した)、明治18年(1885年)3月1日に上野から南は赤羽駅 - 品川駅まで延長、10月15日に高崎から西へ横川駅を開通させ、大垣から四日市(四日市港)までの敷設にも取り組んでいる。中山道路線着工は神戸港から資材を船で運び、四日市で水揚げして名古屋経由で現場へ届ける目的から、明治17年5月に四日市から大垣まで資材運搬路線を敷く所から始まったが(同月に関ヶ原 - 大垣駅が開通)、四日市からの路線が揖斐川・長良川・木曽川など川を渡る場所が多く、橋の建設が難しくなることが予想され断念、計画を修正して翌明治18年3月に四日市から東の半田港を選択した上で大垣 - 名古屋駅 - 半田駅路線に変更して工事を推し進め、明治19年(1886年)3月に半田線(後の武豊線)を開通させた。だが、この頃から中山道路線に疑問を感じるようになり、明治17年5月から2ヶ月かけて高崎から中山道を辿り神戸まで往復して実地調査、中山道の険しい道のりで工事の進み辛さを実感、明治18年2月には部下の原口要に密かに東海道調査を命じて変更の可能性を探らせた。やがて懸念は現実の物になり、横川から先は標高552mにおよぶ碓氷峠の急勾配が建設上の難問になり、機関車が登りにくい峠にこだわり、長い期間をかけて多くのトンネルや橋を作るか、長距離迂回して線路を通すかの選択に悩まされた勝は、一旦碓氷峠を後回しにして向こう側の軽井沢駅から上田駅を繋げ、上田から北の直江津港(直江津駅)も繋げた直江津線の構想を先に計画した。5月から直江津線の測量に取り組んだが、難工事で一向に進展しない状況はこちらも変わらず、原口が持ち帰った東海道の調査報告を読んで路線の変更を決断した。明治19年3月に第1次伊藤内閣に提出した変更の書類は却下されたため、部下の南清らを中山道に派遣して工事困難の理由を纏め、首相となっていた伊藤と山縣の了解を取り付けた上で7月に内閣へ再提出、変更許可を貰った上で東海道路線敷設に取り掛かった。放棄された直江津 - 上田 - 軽井沢間は明治21年(1888年)12月に全通している。原口と南に任せた東海道測量が11月に仕上がると直ちに着工、原口・南・国沢・飯田・長谷川など腹心達を揃えて工事を進め、明治20年(1887年)7月に横浜 - 国府津駅が開通、そこから西の山北駅 - 御殿場駅間を阻む箱根峠越えは苦戦したが、トンネル掘りの玄人・南一郎平が箱根のトンネル開通に尽力したおかげで、山北 - 御殿場 - 沼津駅 - 静岡駅まで線路が繋がった。以後も西へ工事を延長、同年5月から翌明治21年9月まで豊橋駅 - 大府駅が開通、富士川・大井川・天竜川にも鉄橋を架け、明治22年(1889年)2月1日に静岡駅で開業式が行われ、4月16日に横浜 - 大府間が開通した。そして7月1日に大津 - 長浜間も開通し東海道本線(397.4km)が全線開通した。16日に勝は伊藤に代わり首相になった黒田清隆に東海道線開通を報告、19年前の事業開始からの苦心談や開通の喜び、部下達の功労を称えた内容を送った。また、外務大臣になっていた大隈重信にも書簡を送り、鉄道敷設を決定した大隈と伊藤を褒め称えた。東海道線開通で勝は勲一等に叙せられ瑞宝章を授けられ、明治20年に子爵に叙せられていた関係で明治23年(1890年)7月に貴族院議員となり、9月6日に鉄道局が鉄道庁と改称され内務省に移管されると共に鉄道庁長官となった。この後も鉄道敷設に意欲を燃やし、1度挫折した横川 - 軽井沢間に線路を通すため仙石貢・松本荘一郎・本間英一郎やシャービンドンらの力を借り明治24年(1891年)に着工、翌明治25年(1892年)12月に完了した。東海道線完成後は日本鉄道会社の監督・指揮を行い東京 - 青森間の開通に尽力、第1区線(東京 - 高崎)から延伸する大宮駅 - 白河駅の第2区線を明治18年1月5日から明治20年7月16日の2年で完了、白河 - 仙台駅に伸びる第3区線も明治19年8月から明治20年12月15日に完成させた。その後も北進を続け第4区線の仙台 - 盛岡駅は明治23年11月1日に、最後の第5区線(盛岡 - 青森)は明治24年9月1日に繋がり、現在の東北本線も全線開通させ、鉄道庁長官として鉄道事業の発展に尽力した。この間、明治24年に小野義眞や岩崎弥之助らと共に小岩井農場を設立している。それは鉄道敷設と共に美田を潰した償いからだと後に語っているが、華族として授かった名誉を維持するため、大農場を元手に財産を築き、経済基盤を固める必要性に迫られたからともされる。経営は同年から始まったが、雪や冷害が酷い上に土地も生産力が弱いため作物が実る可能性は低かった。おまけに勝も農業知識が無いまま桑や牛馬を投入しては数を減らし、多忙のため管理を任せた人間も農業が不得意で、牧畜の飼料が高くかかり売却しても割に合わない赤字経営に陥った。完全に経営に行き詰った勝は藤波言忠と新山荘輔に相談の上で明治31年(1898年)1月30日に牧場を岩崎弥之助の甥久弥に譲り経営から手を引き、小岩井農場は彼らに委ねられることになる。鉄道経営が国営か私営かについて初めはそれほどこだわっておらず、明治3年に大隈から東京 - 大阪間の予算見積もりを命じられた前島密が著した『鉄道臆測』で、予算調達を株式発行して私鉄経営を提案した時は予算編成を称賛、経営方針に対してはそれほど注意していなかった。また、明治15年2月の佐々木宛の建白書でも日本鉄道会社の長大な予定線を批判しつつも、設立自体は民間初の壮挙と歓迎している。この見方が批判に変わり鉄道国有化の必要を唱えるのは明治16年3月、中山道ルート敷設主張の5ヶ月前に当たる時期に佐々木に提出した「私設鉄道に対する鉄道局長論旨」で、8項目に渡る私鉄の弊害を挙げた時である。民営鉄道の利益優先主義と競合は、他の会社との競争に熱中するあまり無駄な路線敷設が増加し国家の鉄道敷設の邪魔になる、予算膨張を恐れたり利益が赤字になる可能性があれば交通の便に必要な建設計画を実行せず、せっかく作った施設も放置して改良しない、会社の鉄道独占が国家の介入を阻む恐れがあるなど、新しい線路鉄道発展にマイナスとなるとする。加えて、国家の保護を受けない会社の将来性に期待出来ないため、鉄道国有化と私鉄批判を主張しだした。明治19年から一種の投機熱が工業界で流行、私鉄が続々と設立される状況になると工事進捗と利益増が見込めるとして歓迎する一方、「鉄道工事は多額の資金が必要で事前の入念な準備も欠かせず、審査を経て確実な収入を見込んだ上で計画が実行されるべき」「にも関わらず、私鉄設立を考える者には簡単に稼げると思い込んだ安易な投資が多い」と無計画な設立と投資家の楽観を批判、万一私鉄が失敗して鉄道業界全体に世間の印象が悪化した場合を懸念している。また、小鉄道会社乱立により短い路線が増加しても利益が上がらず、長い路線を敷設して大鉄道会社の少数経営とし、貨物やお客を運んだ方が効率が良いと主張、独占事業だと非難する事業家達との溝が生じていった。ただ、勝が批判していることは見切り発車で動く事業計画についてであり、私鉄全体を否定しているわけではない。地方からも敷設の声が相次ぎ、明治16年7月に福岡県令岸良俊介から佐々木へ宛てて、福岡の鉄道敷設のため下調べに工部省から官僚を派遣してほしい出願書が提出された際、勝は地方利益誘導のため必要とする岸良の請願に応じ、私鉄が設立された時は許可しつつも、鉄道敷設と営業は政府が、資金提供は私鉄が分担する方針を上申した。これは日本鉄道会社との関わりと同じで、岸良に代わり福岡県令となった安場保和が伊藤宛ての明治19年6月の手紙で門司駅 - 熊本駅間の私鉄敷設を上申した時、勝の伊藤宛て意見書に同様の主張で役割分担した上で許可を出すべきと提案した(しかし、当時中山道事業に追われたため九州まで行く余裕がなかった)。私鉄認可の方針がこのように固まると、明治20年3月22日に伊藤に私設鉄道条例を上申、これが容れられ同年5月18日に公布され、日本鉄道会社と福岡県の例を参考に私鉄会社設立の条件および鉄道局長官の材料監査・工事監督が明文化され、無闇な私鉄計画停止ではなく、将来における利益が見込めるなら許可を与えることを重視した。この方針に従い勝は続々出願された私鉄路線の許可を下し、明治19年に水戸鉄道(小山駅 - 水戸駅)、両毛鉄道(小山 - 前橋駅)、甲武鉄道(新宿駅 - 八王子駅)、日光鉄道(宇都宮駅 - 今市駅 - 鹿沼駅)の区間を認可、山陽鉄道と九州鉄道の政府保護も受け入れている。一方、安易な地方利益誘導しか考えていない路線は却下している。鉄道敷設に多大の功績を残した勝だったが、開通後の鉄道経営と明治23年11月から開設された帝国議会の討論では精彩を欠くようになる。勝は東海道線全通前の明治22年4月に鉄道網の拡張を提案、第1次松方内閣政権の明治24年7月に鉄道庁長官としてこの構想を纏めた「鉄道政略に関する議」を松方正義首相に提出する。内容は今までの持論を纏めて私鉄の買収と国有化だけでなく、それに立脚したこれからの路線拡大と予算を計算した書類であり、短い単線の否定と補助のため幹線鉄道と接続、そのために国有化すべきとし、日本鉄道会社を除く私鉄の作業が進展していない事実を上げ、事業進展と東海道線・東北本線などの幹線と接続するために買収すべきとした。また、幹線との繋がりと各会社が担当する線路の進捗具合を考慮して、対象を日本鉄道会社を除く8社に限定、国鉄の敷設事業も継続する主張は閣議にかけられ、翌明治25年6月21日に鉄道敷設法を生んだ。しかし、成立に至るまですんなり決まった訳ではなく、閣議で勝と尾崎三良・品川弥二郎ら閣僚との考えが食い違い、勝の主張が買収対象を限定していたのに対し、品川らは全ての私鉄を対象にすることを提案、後者が通ったことに勝は憤慨している。議会でも多数の議員が鉄道各社の株主との理由もあってか法案成立に抵抗し、政府が盛り込んだ私鉄買収案は議会で否決、田口卯吉(両毛鉄道社長)は、民営鉄道こそが鉄道発展を促すとして勝と対立した。その結果、鉄道敷設法は「私鉄買収には議会が設置した鉄道会議の同意も必要」「私鉄も幹線道路を敷設出来る」と民営鉄道促進の余地を広げる物として修正され、それまで政府の信任の下で思うがまま活動出来た勝に対する議会の拘束にも繋がった。ただし、成立後は勝が主張していた小鉄道会社乱立による効率低下が進行したため、改善策として明治39年(1906年)の鉄道国有法成立につながる。議会が開設してからは慣れない環境に適応出来ず、衆議院予算委員会で鉄道予算を議員に質問された時は何も答えられず、以後出席しなかった。また、明治25年7月21日に鉄道庁が内務省から逓信省へ移管されたことは権限低下に繋がり、安価な官邸建築や官庁へ出ないで自宅で仕事をしていたこと、些細なことで部下の仙石貢を罵倒したことなどは政府や部下達の信頼を失い、在野の新聞からは左遷を噂されるようになっていった。松方は勝を庇ったが内部からの突き上げに抗し切れなくなっていった。そして鉄道庁は勝と松本荘一郎を擁立する派閥に分かれ、前者は飯田と野田益晴、後者は仙石、原口、増田礼作らが属し、松本派に説得された伊藤、黒田、後藤象二郎らにより第2次伊藤内閣では勝の辞職が望まれるようになった。明治26年(1893年)3月17日、勝は松方が既に首相を辞任したこともあり、伊藤の説得に折れて鉄道庁長官を退官した。飯田・野田も辞職、後任の長官は松本が就任し、仙石らも飯田・野田の後釜に座り鉄道庁は松本派が独占した。退官に当たり、勝は部下達から自分が工事した琵琶湖湖東の風景と碓氷峠を描いた屏風を送られ、返礼にロンドン留学中に鉱山で撮影した工夫姿の写真を配り、合わせて感謝を込めた手紙を贈った。明治天皇からも馬具を送られ、枢密院入りを断り官界から身を引いた。同年10月14日に父が亡くなったため東海寺(現在の東京都品川区)に両親の墓を建立、自身もここに眠ることになる。勝は鉄道庁長官を退官後も鉄道発展の道を探り、明治29年(1896年)に汽車製造合資会社(後に汽車製造株式会社)を大阪で設立。機関車製造の材料を外国から輸入する手間を省くことを企図、機関車においても日本で賄える国産化を軌道に乗せ、外国輸入を抑える目的で工業化の促進を図った。経営は順調でなく同業の平岡工場に押されたため、明治32年(1899年)に社長でかつての部下でもあった平岡凞を汽車製造に副社長として迎え入れ、7月5日に改めて開業式を挙げた。汽車製造は明治34年(1901年)に平岡工場と合併、日露戦争を除いて成績は伸び悩んでいたが以後は順調に発展、昭和47年(1972年)に川崎重工株式会社によって吸収合併されるまでの約70年間、延べ7900両を超える機関車や客貨車を製造した。また、明治28年(1895年)に鉄道職員の養成を目的に、元部下の南清らの提案で学術研究機関・帝国鉄道員会が発足、翌29年(1896年)に帝国鉄道協会と改称され明治32年に発足すると名誉会員に選ばれ、明治42年(1909年)に帝国鉄道協会の第3代会長に就任した。更に明治34年9月から12月まで清へ渡り鉄道を視察、明治39年5月20日に行われた鉄道五千哩祝賀会は欠席したが、会場に祝詞を送り鉄道の更なる発展の決意を表明している。明治43年(1910年)5月、日英博覧会の参加とヨーロッパの鉄道視察を目的に渡欧、イギリスを中心にヨーロッパ各地を調査してロンドンへ戻ったが、持病の腎臓病が悪化して8月2日に亡くなった。享年66。遺体はロンドンで荼毘に付された後に日本へ運ばれ、東海寺へ埋葬された。爵位は次女千八重子の夫で婿養子に迎えた井上勝純が継ぎ、同年8月11日に2人の間に外孫正子(鈴木竹雄夫人)が誕生、翌明治44年(1911年)12月26日に生まれた勝英は勝純の爵位を相続していった。鉄道事業は後に、原敬や後藤新平に引き継がれた。井上勝彦の養女宇佐子(1855年 - 1907年)と結婚、1男3女を儲けた。

出典:wikipedia

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