田中 マルクス闘莉王(たなか マルクス トゥーリオ、1981年4月24日 - )は、日本のプロサッカー選手。ブラジルのサンパウロ州出身。主なポジションはディフェンダー(センターバック)。元日本代表。父親が日系ブラジル人で母親がイタリア系ブラジル人のハーフ。2003年に日本国籍を取得。旧名はマルクス・トゥーリオ・リュージ・ムルザニ・タナカ(Marcus Túlio Lyuji Murzani Tanaka)。「サムライ闘莉王」の愛称で親しまれているほか、「闘将」の異名を持つ。父方の祖父は広島県出身、父方の祖母は富山県出身で共にブラジルに渡った日系移民である。父親は日系ブラジル人二世で、自身は日系三世 に当たる。「マルクス・トゥーリオ」という名は、紀元前のイタリアの政治家・文筆家・哲学者のマルクス・トゥッリウス・キケロ(通称「キケロ」)に由来して、父親の知人の医師によって名付けられた。「リュージ」という名は、父親に由来して名付けられたものだが、日本での戸籍名では「ユウジ」と表記されている。父親は小学校教師とレストラン経営の傍らで、40歳を過ぎてから弁護士資格を取得した努力の人である。生まれて初めて喋った言葉は、「ママイ(お母さん)」「パパイ(お父さん)」「ボーラ(ボール)」だったという。その言葉どおり、物心ついたときには既にボールを蹴っていた。1989年1月、オレステス小学校入学。当時の担任教師によれば、「優しい子で、困っている友達を見ると放っておけない性格だった」「勉強が得意で、努力家で、学業成績が良かった。水泳も得意で、学校の水泳大会ではいつも優勝していた。」という。ただし本人は、「数学は得意だったけど、国語は苦手だった。友達と喧嘩することも多かった」と回想した。サッカーを本格的に始めたのは9歳の時で、ボランティア活動で子ども達にサッカーを教えていたコーチが近所に引っ越してきたことがきっかけであった。そのサッカー教室へ通い上達していった。しだいに少年チームだけでは物足りずに父親の試合について行き、大人に混じってサッカーをすることもあった。中学時代は「自分の人生に責任を持つ人間に育ってほしい」という父親の厳しい教育方針のもと、昼間は会計事務所で働き、夜間はオレステス中学校夜間部へ通う生活を送った。中学校では体育教師の熱心な勧誘でバレーボール部に所属してエースアタッカーとして活躍し、地区大会で優勝するほどであった。また数学教師の推薦でオレステス中学校代表としてブラジル数学オリンピックに出場し、全国大会にまで進んだ経歴も持つ。中学時代に本格的にサッカーをやっていなかったプロ選手はほとんど存在せず、この時期にサッカーから離れていたトゥーリオは非常に珍しい存在である。1997年、人に勧められて受けたミラソウFC ()のセレクションに合格し、その頃からプロサッカー選手を目指すようになった。その1ヶ月後の1998年1月、留学生を探しにミラソウFCを視察していた千葉県の渋谷幕張高校サッカー部監督の宗像マルコス望に才能を見出され、日本の高校への留学を誘われた。1998年3月、カバン1つだけを持参して16歳で来日した。最も辛かったのは日本語ができなかったことで、日本に来て最初の1年間が人生で最も辛かったという。しかし日本語も英語も必死に勉強したという。サッカーに関しては、本来は攻撃的ポジションの経験しかなかったが、宗像監督の意向でセンターバックにコンバートされた。ブラジルではトップ下か攻撃的MFを担当しており、それまでヘディングの練習はしていなかった為、毎日ヘディングの練習を繰り返した。ただし幼少期の乗馬の経験が、空中戦におけるバランス感覚やポジショニングに大きく役立ち、また中学時代のバレーボールの経験が、跳躍力とタイミング判断に大きく役立つことになった、と本人は回想した。個人としては千葉県選抜チームのメンバーに選出されて国体に出場し、全国優勝を果たした。渋谷幕張高校サッカー部の一員としては、本人のフリーキックからのゴールが決勝点となり、サッカー部を初の全国大会出場へ導くという実績を残した。2001年に高校を卒業し、広島出身の祖父の勧めでサンフレッチェ広島に入団した。2002年シーズンにサンフレッチェがJ2に降格し、1年での昇格を目指すためクラブはベテランの外国籍選手を獲得することとなり、1チームにA登録選手が3人までと規定されていた外国籍選手の保有枠に入れず、翌2003年からJ2の水戸ホーリーホックにレンタル移籍で加入した。その水戸で、個性を大事にした前田秀樹監督のもと、ディフェンダーでありながら10得点を挙げるなどの活躍をし、守備も攻撃もできる選手としての才能が開花することとなった。同年10月には日本へ帰化し、登録名も「トゥーリオ」から「田中マルクス闘莉王」に変更した。2004年に広島からJ1の浦和レッズに完全移籍。レギュラーで活躍し、ステージ優勝を果たした。2006年にはリーグ初優勝を果たし、Jリーグ最優秀選手賞 (MVP)および日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)を受賞した。2007年にはAFCチャンピオンズリーグ優勝、FIFAクラブワールドカップ 3位に貢献し、浦和の黄金時代を築いた。2008年にはDFながらチーム得点王となる11得点を挙げるなど、以降も攻守にわたって浦和の軸として活躍した。Jリーグベストイレブンには、浦和に在籍した6シーズンすべて選出された。2008年7月にはハットトリックを達成した。一方で浦和に誘ってくれたギド・ブッフバルト監督の退任以降に就任したホルガー・オジェック、フォルカー・フィンケら後任監督と相次いで衝突するなどマスコミを騒がせた。オジェックの後任に当たるゲルト・エンゲルス監督とは良好な関係を築いており、解任に際して惜しむコメントを残している。2009年8月にはベテラン選手をクラブから去らせるなどの方針を採った浦和のフロントとフィンケ監督の方針に苦言を呈したが、状況は変わらなかった。2009年シーズン終了後に浦和との契約延長交渉が合意に至らず、契約満了により浦和を退団し名古屋グランパスへの完全移籍が決定した。欧州からもオファーが来ていたが、移籍先を国内の名古屋に決めた理由はストイコビッチ監督から「来年はワールドカップがあるから、日本でプレーするべきだ」と言われたことが最大の決め手となった。2010年に移籍した名古屋グランパスでは、入団会見で「リーグ優勝できなければ名古屋に来た意味はない」と語った言葉通り、名古屋を初優勝へ導いた。最終ラインを巧みに統率して守備を安定させ、空中戦でも圧倒的な強さを発揮。さらに高精度のフィードを前線に配給して攻撃の起点になりながら、機を見て攻め上がりゴールにからむ決定的な仕事もこなした。その貢献度は大きく、「初優勝の最大の立役者」との評価を受けた。チームメイトの楢崎正剛は、MVPは闘莉王である と評価し(実際に受賞したのは楢崎)、名波浩は「勝ち点10以上を一人で持っている」と語った。しかし、「サッカー人生で一番重視していたワールドカップイヤーで、しかも名古屋に移籍して優勝すると公言したから100%以上の気持ちでやった」ことによる代償として、終盤戦には右膝と太腿裏を負傷し、リーグ優勝の瞬間にはピッチに立つことができなかった。2011年は、シーズン前半は自身の怪我やAFCチャンピオンズリーグとの過密日程等によりチームの順位は低迷したが、故障から復帰すると順位を上げ、終盤は6連勝で最終節まで優勝争いをして2位となった。攻撃参加は自重して守備を引き締め、若手育成にも尽力した。12月にオズワルド・オリヴェイラ監督が指揮するブラジルのボタフォゴからオファーを受けたが、名古屋側が絶対慰留の方針だったために、交渉は進まなかった。家族はブラジルへの移籍を希望したが、本人は名古屋の大黒柱としての責任感を理由に日本に残ることを決意した。2012年6月に再びボタフォゴから好条件のオファーを受けたが、これを再び辞退して名古屋に残留した。FWとして起用された2012年8月4日は、DF登録選手として歴代初となる4得点を記録した。2014年は、西野朗監督から主将に任命された。ディフェンスながら7得点を挙げ、永井謙佑に次いでシーズンチーム得点数2位となった。2015年シーズンも主将を2年連続で務め、シーズン後半にはFWとして6試合に出場した。シーズン通してレギュラーとして出場したが、翌年1月9日に名古屋グランパスを退団することが発表された。名古屋退団後はブラジルに帰り、無所属の期間が続いたが、2016年8月23日、小倉隆史が事実上の監督解任となり、降格圏内にいる名古屋グランパスへ復帰する事をボシュコ・ジュロヴスキ監督代行が明言した。同月26日に正式に発表された。9月10日に行われたJ1・2ndステージ第11節 新潟アルビレックス戦で公式戦293日ぶりのピッチに立った。試合は1-0で勝利し、クラブワースト記録の18戦勝ちなしだったチームを勝利へ導いた。クラブでの活躍が認められ、2003年10月に日本国籍を取得するとすぐに山本昌邦監督率いるU-23日本代表に選出された。2004年3月3日のアテネオリンピックアジア地区最終予選のアウェーでのレバノン戦では4-0のスコアで勝利し、続く3月5日のアウェーでのUAE戦も2-0のスコアで勝利した。しかし3月14日のバーレーン戦で左太腿裏肉離れを発症して途中交代となり、その後に日本はセットプレーから失点して敗れた。全治3 - 4週間と診断されたが本人の願いにより松葉杖をついて残り2試合に同行した。本大会のメンバーにも選出され、アテネオリンピックには3試合すべてに出場した。ジーコ監督には一度も招集されず、2006FIFAワールドカップには出場することができなかった。2006年8月にイビチャ・オシム監督の指揮するA代表に初選出。以降は負傷を繰り返しながらも、日本代表の中心選手として定着した。2008年からの2010 FIFAワールドカップ・アジア最終予選では8試合に全試合フル出場して本大会出場に貢献し、本大会への代表にも選出された。本大会直前に行われた強化試合である2010年5月30日のイングランド戦では前半に得点を決めたものの、後半にはクリアミスによるオウンゴールを献上した。さらに6月4日に行われたコートジボワール戦では2戦連続となるオウンゴールを献上。直後のプレーでディディエ・ドログバと交錯、ドログバは右腕を骨折した。コートジボワール代表のエリクソン監督はこの件を全く非難せずに、「不運だったのです。あれは悪いプレーではなかったし、愚かなプレーでもなかった。故意ではなかった。」と擁護した。その後のドログバの右腕の回復は良好で、本大会に間に合わせることができた。なお闘莉王は本大会後に、著書の中でエリクソン監督へ深い感謝を述べた。故意ではなかったものの、ドログバには日本サッカー協会を通して謝罪文を送付し、誠意を尽くした。2010 FIFAワールドカップ本大会では、守備の大黒柱として全4試合にフルタイムで先発出場し、自国開催以外で初となる日本代表の決勝トーナメント進出に大きく貢献した。冷静な読みとカバーリング、空中戦でゴールにカギをかけた。攻撃面でも精度の高いフィードを繰り出してカウンターの起点となり、チームが不調の時期にも熱い言葉をかけ続けてチームを鼓舞した。これらの活躍により、本大会直前に挙がっていた周囲からの不満の声をも消し去った。日本史上最高のセンターバックとして名をとどろかせた闘莉王と中澤のコンビは、アーセン・ベンゲルから「日本代表の最高の武器だった」と絶賛された。アルベルト・ザッケローニ監督の指揮するAFCアジアカップ2011のメンバーには、怪我のために 予備登録メンバーからも外れた。2011年3月29日に行われた慈善試合「東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!」では、Jリーグ選抜チームとしてフル出場し、後半の82分には攻め上がって三浦知良のゴールをアシストした。試合後には、「サッカー選手としてじゃなく、一人の人間としてなにかの力になりたかった」「日本はまた、素晴らしい国になると思う」とコメントした。確かな守備力に加え、高い得点力も備える超攻撃的リベロ。空中戦で圧倒的な強さを持ち、正確なフィードで攻撃の起点にもなる。自陣ゴール前での絶大なる存在感はもちろんのこと、コーチングを含めた統率力も高い。ビルドアップも的確で、高精度のロングフィードは数々のチャンスを創出する。ボールを足で扱う技術も優れ、決定力もあるため、しばしばボランチ、トップ下、果てはワントップに至るまで、センターラインのあらゆるポジションで起用されることもある。一方でスピードには優れないが、それをカバーできる頭の良さを持っている。優れた守備力と同時に攻撃力も兼ね備える選手として、Bleacher Report () の「得点力の高いディフェンダー世界トップ20」の特集で世界一に選出された。国際サッカー連盟 (FIFA) からカリスマ性を持つ選手であると評されている。サッカーというチームワークにおける協調性について、ドラガン・ストイコビッチ監督は、「チームにモチベーションを与えることができる選手だ。彼はリーダーだ。」と語る。絶妙な「間合い」を持っている とされており、前田秀樹監督は特に一対一の対応について、「闘莉王には一流の間合いがあった」と高く評価した。「これからも日本人の心をサッカーに生かしたい。まわりをサポートする。まわりを大切にする。みんなで気持ちをひとつにする。」というサッカー観を持つ。敬虔なクリスチャン(カトリック) で、プレー中にはしばしば十字を切るシーンが見られる。サッカー選手以外になりたかった職業は獣医。プロ入り二年目にはウサギを飼っていた という一面も持つ。家族を一生大切にしていこうと誓っている。最も尊敬する人物は父親。日本出身の祖父母に子供の頃よく言われた言葉は「実るほど、頭を垂れる稲穂かな」。(これは、イネは成長して実をつけると頭が垂れ下がっていく。人間も、人格が高い人であればあるほど謙虚になっていくという教えであり、成功するほど背負うものは重くなっていくという意味である)。流暢な日本語を話す。その他、母国ブラジルの公用語であるポルトガル語は当然として、学生時代に英語の成績も良かった為にドラガン・ストイコビッチ監督とも直接英語でコンタクトする事も多かった。スペイン語圏のダニルソン・コルドバの練習中の通訳も受け持っていたという日本に帰化した理由について、闘莉王はと語った。日本国籍取得の話を最初に持ち掛けた当時のGMの今西和男は、「闘志を持ちながらも、礼を重んじる。このような選手が入ったら、日本代表はきっとうまくいくと思った」という。「闘莉王の体には、浦和レッズのユニフォームと同じ真っ赤な血が流れていた」と言われたように、試合での強さ以外にも、その姿は見ている者の心を揺さぶる、と評されることがある。一生懸命で熱くなりすぎてしまい、時にはサポーターとも口論になってしまうこともあったが、それはいつでも、誰に対しても、本音で真剣に向き合っていた証拠である とも言われている。一方で、浦和時代には選手起用を始めとする、強化方針に注文をつけ、移籍後も古巣に対する批判を行っている。388||75||51||13||13||5||452||9342||10||colspan="2"|-||3||0||45||10430||85||51||13||16||5||497||103その他の公式戦|2007||rowspan="2"|浦和||rowspan="4"|4||8||0||2||0!通算!!colspan="2"|AFCその他の国際公式戦|2006||5||1!通算※その他多数
出典:wikipedia
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