大映株式会社(だいえい)は、1.と2.は登記上は別会社であるが、本項では、便宜上、1.と2.の映画事業を大映の歴史として詳述する。なお、1.と2.による映画事業を譲渡され、設立当初は株式会社角川大映映画と称していた角川映画株式会社も新たに設立された会社であり、1.と2.が法人として前身にあたるわけではない。1.の法人としての設立は大手の中では後発だが、戦前の日活の製作機構を主に引き継いでいるため、伝統ある老舗として語られることがある。また、発足時に合併で得た新興=帝キネの製作部門は戦後に分離し、東映の母体となる。第二次世界大戦がはじまると、戦時統制の一環として小規模企業を整理・統合する戦時企業統合が始まり、内閣情報局の指示によってこれがさまざまな分野で進められていった。映画業界でも1942年(昭和17年)、新興キネマ・大都映画・日活製作部門を軸とした合併が行われ、永田雅一(専務)、河合龍齋(専務)、真鍋八千代(監査役)、波多野敬三(常務)、六車脩(常務)、薦野直実(常務)、吉岡重三郎、鶴田孫兵衛、林弘高(東京吉本)の9氏が発起人となり、1942年1月27日大日本映画製作株式会社(大映)が誕生、松竹、東宝との3社体制が成立した。情報局の当初案では、映画業界を松竹と東宝の2社体制に再編することになっていたが、これを知った新興キネマ京都撮影所所長の永田雅一が、政府寄りの第三勢力として「統制会社」の可能性をアピールする形で同局に掛け合い、最終案ではこれにもう1社加えた3社体制とすることを認めさせた。そもそも新興キネマは松竹系列であり、事実上松竹の子会社であった。にもかかわらず、この企業統合が結果的に同社の主導する形で行われたことは世間を驚かせ、そこから「新興キネマから情報局第五部にカネが動いたのではないか」という噂が広まった。真相は今もって闇の中だが、大映の社史もこの一件については包み隠さず事実を掲載している。そして同年、阪東妻三郎・片岡千恵蔵・嵐寛寿郎・市川右太衛門の四大スターの共演を掲げた第一回作品『維新の曲』(監督・牛原虚彦)を発表。映画製作の第一歩を歩み出す。映画業界が3社体制となったことで、大映の傘下には6つの撮影所が入ることになった。ただし、配給系統は「紅系」と「白系」の2系統とすることになったため、大映は配給枠を松竹と東宝と分け合うことになった。このため製作本数は減さざるを得ず、大映は京都の大映京都と大映第二、そして東京第二撮影所を残して他の3社を閉鎖(スタッフと俳優は引き継ぐ)した。社名変更後の表記は、星空の後に動く雲をバックに大映マークが映り、それにかぶさるように「作製社會式株映大」の文字がズーム→停止→落下するという演出であった。1950年(昭和25年)頃まで使用された。予告編などでは、「映画は大映」という☆のマークが付いたキャッチフレーズが多用された。数社を統合してオーナーとなった永田雅一は、社員をすべて縁故採用で固める会社組織を行った。これは自身のカリスマ性を高め、また組織を強固にする反面、組織内において近親憎悪的な軋轢を数多く生んだ 。社風としては日活の伝統を受け継ぎ、尾上松之助が保守的な京都の土壌に持ち込んだ自由な気風が、ハイカラな伝統を生んだ。一方で他社間だけでなく、東西撮影所同士でもライバル視する排他的な気風も残していた。企画会議では、京都作品であっても必ず東京本社4階会議室に永田社長を筆頭に40人からのプロデューサーらが集められ、最終決断は必ず永田が下す体制だった。東京と京都の撮影所では、撮影設備も機材も、永田の独断ひとつであっさりと最新鋭のものが揃えられた。一方で、倒産の最後まで、自社の現像所を持たなかった。この体制下で大映は一時期大きな成功を収めたが、直営の興行館が東宝や松竹に比べ数の面ではるかに劣り、これは興行収入に大きく影響していた。また映画産業の近代化・斜陽化が進むにつれて、永田の前時代的な「カツドウヤ」の体質を残したままの丼勘定と、公私混同した典型的なワンマン経営は様々な弊害を生み、最終的には大映を破綻させるに至る。専属スターの大量流出によってできた穴を埋めるべく、ベテラン長谷川一夫を重役に迎え、彼を大黒柱にプログラムを組むようになる。ニューフェイスや他所からの人材を惜しげもなく投入し、後に三大女優といわれる京マチ子・山本富士子・若尾文子、そして市川雷蔵を日本映画史に残るスターに伸し上げた。さらに他社専属やフリーの高峰秀子、鶴田浩二、岸惠子らも出演し、名作を多数送り出す。この頃、台湾など海外との合作による大作や、70ミリ特撮映画『釈迦』『秦・始皇帝』を製作、これらの成功をきっかけに以後の「大作路線」が始まった。また、ウォルト・ディズニー作品の日本における配給権を握っていた。倒産時点で大映が行なっていた数少ない仕事の一つとして、当時収録が始まったばかりのテレビ時代劇『木枯し紋次郎』の京都撮影所による下請け作業があった(序盤2話で製作協力としてクレジットされている)。同作の制作中断を防ぐため、1972年初頭に大映京都撮影所所属の俳優とスタッフが中心となり、大映とは別資本で映像京都が設立されている。戦後、大映作品の予告篇を公開した短編フィルムで、1962年まで製作された。本数は900本以上に及ぶ。
出典:wikipedia
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