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東郷平八郎

東郷 平八郎(とうごう へいはちろう、弘化4年12月22日(1848年1月27日) - 昭和9年(1934年)5月30日)は、日本の幕末から明治時代の薩摩藩士、軍人。階級は元帥海軍大将。日清戦争では「浪速」艦長として高陞号事件に対処。日露戦争では連合艦隊司令長官として旗艦「三笠」で指揮を執り、「陸の乃木 海の東郷」「アドミラル・トーゴー」「東洋のネルソン」と英雄視された。各地の東郷神社に名を残す。位階は従一位、勲位は大勲位、功級は功一級、爵位は侯爵。明治時代の日本海軍の指揮官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた一人である。日露戦争においては、連合艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてその名を広く知られることとなった。当時、日本の同盟国であったイギリスのジャーナリストらは東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。日本では、大胆な敵前回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、東郷と同藩出身者であり同じく日露戦争における英雄である満州軍総司令官・大山巌と並び、「陸の大山 海の東郷」(旅順攻囲戦における第3軍司令官乃木希典陸軍大将と絡め「陸の乃木 海の東郷」とも)と称され国民の尊敬を集めた。弘化4年12月22日(1848年1月27日)、薩摩国鹿児島城下の加冶屋町二本松馬場(下加治屋町方限、現・県立鹿児島中央高校化学講義室付近)に、薩摩藩士・東郷実友と堀与三左衛門の三女・益子の四男として生まれる。幼名は仲五郎。14歳の時、元服して平八郎実良と名乗る。文久3年(1862年)、薩摩藩士として薩英戦争に従軍し初陣、慶応3年(1867年)6月に分家して一家を興す。戊辰戦争では春日丸に乗り組み、新潟・箱館に転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦う。体型は小柄ではあるが下の写真でも分かるように美男子であり、壮年期においては料亭「小松」においては芸者より随分もてたとされる。明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学する。東郷は当初鉄道技師になることを希望していた。イギリスに官費留学する際、最初は大久保利通に「留学をさせてください」と頼み込んだが色よい返事はもらえなかった。後で東郷は大久保が自分に対して「平八郎はおしゃべりだから駄目だ」とする感想を他者に漏らしたことを伝え聞いて、自省してその後は寡黙に努めた。それが長じて、後年は「沈黙の提督」との評価を得るまでになった。大久保の次に西郷隆盛に頼み込んだところ、「任せなさい」と快諾、ほどなく東郷のイギリス留学が決定した。当初ダートマスの王立海軍兵学校への留学を希望したがイギリス側の事情で許されず、ゴスポートにある海軍予備校で学び、その後に商船学校ので学ぶことになる。留学先では「To go, China(=「支那に行け」の意)」とからかわれるなど苦労が多く、おしゃべりだった性格はすっかり無口になってしまったと言われている。しかし宮古湾海戦に参戦していたことを告げると、一躍英雄として扱われることとなった。この留学の間に国際法を学んだことによって、日清戦争時に防護巡洋艦「浪速」の艦長として、停船の警告に応じないイギリスの商船「高陞号」を撃沈する(高陞号撃沈事件)にあたって、このことは国際法に違反しない行為であると正しく判断できたのだとされている。さらに、このときの沈着な判断力が、のちに連合艦隊司令長官に人選される要素となった。帰国途上、西郷隆盛が西南戦争を起こして自害したと現地で知った東郷は、「もし私が日本に残っていたら西郷さんの下に馳せ参じていただろう」と言って、西郷の死を悼んだという。実際、東郷の実兄である小倉壮九郎は、薩軍三番大隊九番小隊長として西南戦争に従軍し、城山攻防戦の際に自決している。明治26年(1893年)、ハワイ王国のリリウオカラニ女王が米国との不平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発したアメリカ人農場主らが海兵隊160名の支援を得てクーデターを起こし、王政を打倒して「臨時政府」を樹立した。この時、日本は邦人保護を理由に東郷率いる巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇した。女王を支持する先住民らは涙を流して歓喜したといわれる。また、ハワイ在留日本人も女王支持派に同情的であった。しかしアメリカによるハワイ併合は明治31年(1898年)に実現される。明治27年(1894年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(高陞号事件)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍する。威海衛海戦後に少将に進級し同時に常備艦隊司令官となるが、戦時編成のため実際には連合艦隊第一遊撃隊司令官として澎湖島攻略戦に参加。日清戦争後一時病床に伏すも、明治32年(1899年)に佐世保鎮守府司令長官となり、同34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任した。これは後の対米戦備での位置づけから閑職であったと見なされがちであるが、来る対露戦を想定してロシアのウラジオストク軍港に対峙する形で設置された重要ポストであり、決して閑職ではなかった。但し、東郷自身は中央への異動を希望していたようである。しかし、日露開戦前の緊迫時期に海軍大臣・山本権兵衛に呼び戻され、明治33年(1902年)12月に第一艦隊兼連合艦隊司令長官に就任する。本来は常備艦隊司令長官である日高壮之丞がそのまま就任するのが筋であったが、山本が我の強い日高を嫌って命令に忠実な東郷を据えたのだといわれる。しかし実際には、日高が健康問題を抱えており指揮が難しい状態であり、当時の将官の中で実戦経験豊富な東郷が至極順当に選ばれたというのが真相であった。明治天皇に理由を聞かれた山本は「東郷は運のいい男ですから」と奏したと言われているが、内田一臣によれば「この人が、ちょっといいんです」だったという。明治37年(1904年)2月10日からの日露戦争では、旗艦「三笠」に座乗してロシア海軍太平洋艦隊(後に第一太平洋艦隊へ改称)の基地である旅順港の攻撃(旅順口攻撃・旅順港閉塞作戦)や黄海海戦をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。6月6日には大将に昇進する。そして明治38年(1905年)5月27日に、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきたロジェストヴェンスキー提督率いるロシアのバルチック艦隊(ロシア第二・第三太平洋艦隊、旗艦「クニャージ・スォーロフ」)を迎撃する。この日本海海戦に際し、「敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し」との一報を大本営に打電した。また、艦隊に対し、「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」とZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞した("#東郷の肉声も参照")。東郷は丁字戦法、その後「トウゴウ・ターン」と呼ばれる戦法を使って海戦に勝利を納めた。この海戦における勝利は、当時ロシアの圧力に苦しんでいたオスマン帝国においても自国の勝利のように喜ばれ、東郷は同国の国民的英雄となった。その年に同国で生まれた子供たちの中には、トーゴーと名づけられる者もおり、また「トーゴー通り」と名付けられた通りもあった。ただし、「トーゴー通り」の名称は、「Toygar sokagi」で、「Toygar」はヒバリを意味する単語なので、東郷とは何の関係もない可能性もある。日露戦争終了直後、訪問艦にて同盟国のイギリスに渡洋、他の将校や乗組員とともにサッカー(フットボールリーグ、ニューカッスル・ユナイテッドのホームゲーム)を観戦。明治38年(1905年)から明治42年(1909年)まで海軍軍令部長、東宮御学問所総裁を歴任。明治39年(1906年)、日露戦争の功により大勲位菊花大綬章と功一級金鵄勲章を授与される。明治40年(1907年)には伯爵を授爵。大正2年(1913年)4月には元帥府に列せられ、天皇の御前での杖の使用を許される。大正15年(1926年)に大勲位菊花章頸飾を受章。当時の頸飾受章者は皇太子・裕仁親王と閑院宮載仁親王だけだった。また、タイム誌の同年11月8日号において、日本人としては初のカバーパーソンとなった。末次信正、加藤寛治らのいわゆる艦隊派の提督が東郷を利用し軍政に干渉した。昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮会議に際して反対の立場を取ったロンドン軍縮問題はその典型であるが、その他に明治以来の懸案であった、兵科と機関科の処遇格差の是正(海軍機関科問題。兵科は機関科に対し処遇・人事・指揮権等全てに優越していた)についても改善案について相談を受けた東郷は「罐焚きどもが、まだそんなことを言っているか!」と反発し、結局、この問題は第二次世界大戦の終戦直前に改正されるまで部内対立の火種として残された。壮年時代はよく遊び、料亭に数日間も居続けたり、鉄砲打ちに出かけたりしたが、晩年は質素倹約を旨とし、趣味といえば盆栽と碁を嗜む程度であった。自ら七輪を用いて、料理をすることもあったという。しかし新聞記者に対し妻が、新婚時代内職して家計を支えたエピソードを話すと、家族に経済的心配を掛けたことはないと激怒した。昭和9年(1934年)5月30日、喉頭癌、膀胱結石、神経痛、気管支炎の悪化のため満86歳で死去。死去の前日に侯爵に陞爵した。死去に際しては全国から膨大な数の見舞い状が届けられたが、ある小学生が書いた「トウゴウゲンスイデモシヌノ?」という文面が新聞に掲載され大きな反響をよんだ。6月5日に国葬が執り行われた。国葬の際には参列のために各国海軍の儀礼艦が訪日し、イギリス海軍支那艦隊の重巡洋艦「サフォーク」(司令長官大将、艦長大佐)、アメリカ海軍の重巡洋艦「オーガスタ」(司令長官大将、艦長ニミッツ大佐)、フランス海軍極東艦隊の軽巡洋艦「プリモゲ」(司令長官リシャール少将、艦隊参謀長兼艦長ルルー大佐)は儀仗隊を葬列に参加させ、日本艦隊と共に横浜港で半旗を掲げ、弔砲を発射した。イタリア海軍東洋艦隊の巡洋艦「クアルト」(艦長兼極東イタリア海軍首席指揮官ブリヴォネジ大佐)の横浜入港は夕刻となった。中華民国練習艦隊の巡洋艦「寧海」(司令・王壽廷中将、艦長・高憲申大佐)は国葬時刻に間に合わぬと判断し、儀仗隊を下関から列車で東京に向かわせて弔意を示し、寧海の横浜入港は翌6日となった。葬儀委員長には有馬良橘海軍大将、副委員長には内閣書記官長・堀切善次郎が5月30日に任命された。しかし、有馬が明治神宮宮司を務めていたため、神官が葬儀に関わることを禁止した通達(神官葬儀ニ関スヘカラサル事 明治十五年一月二十四日内務省達 乙第七号)に抵触するのではないかとの議論が持ち上がり6月8日には辞任となった。16日、葬儀委員長に副委員長から堀切善次郎、副委員長に委員から長谷川清が昇格した。更に、内閣交代により7月10日に葬儀委員長は河田烈に交代した。当時のイギリスでは「東洋のネルソン提督が亡くなった。」、ドイツは「東洋のティルピッツが逝去した。」と自国の海軍の父的人物に準えて、哀悼した。死後東京都渋谷区と福岡県宗像郡津屋崎町(現福津市)に「東郷神社」が建立され神として祭られた。ただし東郷自身は生前乃木神社建立の時、(陸軍に対抗するために)将来自身を祭る神社の設立される計画を聞いて驚き、「やめてほしい」と強く懇願したが、願いは聞き入れられず結局神社は建立されている。墓所も生前、母親の益子の眠る青山墓地への埋葬を希望したがこれも聞き入れられず多磨霊園に埋葬されることとなった。また銅像が長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園と鹿児島県鹿児島市の多賀山公園にある。東京都府中市には別荘地に建立された東郷寺があり、桜の名所である。晩年において海軍における東郷の権威は絶大で、官制上の権限は無いにもかかわらず軍令・軍政上の大事は東郷にお伺いを立てることが慣例化していた。海軍省内では軍令部総長・伏見宮博恭王と共に「殿下と神様」と呼ばれ、しばしば軍政上の障害とみなされた。そして伏見宮すら「自分と東郷の意見が分かれるようなことがあってはならん」と気にしていた。井上成美は「東郷さんが平時に口出しすると、いつもよくないことが起きた」と述懐したうえで、「人間を神様にしてはいけません。神様は批判できませんからね」と語っている。また岡田啓介・米内光政・山本五十六なども、東郷の神格化については否定的な態度をとっている。昭和期の海軍内の抗争において、東郷・伏見宮は艦隊派を後援し、岡田らは条約派に属した。東郷に関する著作物中、重要なものは「東郷の私設副官」といわれた小笠原長生によるが、日本海海戦時に「三笠」艦上にあった今村信次郎は東郷の前で事実と異なる点を指摘し、東郷は「証人がいては仕方ない」と小笠原に訂正を指示している。山路一善は小笠原に対し「閣下の東郷元帥に関する著書や講演のなかには、潤色が度に過ぎて誇大に失するものがあり、日本の歴史を誤るのではないかと憂える」と述べたとされる。第二次世界大戦後、GHQによって日本の軍事的モニュメントの撤去作業が行われたが、米国海軍は東郷に関するものには手を触れさせなかった。戦後、戦艦「三笠」は荒れ果て、アメリカ軍人のため娯楽施設「キャバレー・トーゴー」や水族館が設置されたり、上部構造物はおろか取り外せそうな金属類は機関部に至るまで全て盗まれ、チーク材の甲板までも薪や建材にするために剥がされるなど荒廃していた。チェスター・ニミッツはその姿を憂い本を著して売り上げを寄付するなどして、東郷と若い頃への思いを込めて三笠の復興と保存に協力した。レイモンド・スプルーアンスとウィリアム・ハルゼーも、東郷への尊敬の念が強かった。逓信省(現在の日本郵便)が昭和12年(1937年)に発行した普通切手のうち、当時の封書基本料金用の4銭切手に東郷の肖像が使われている。その後、郵便料金の改定に伴い5銭と7銭の額面の切手が発行されている。「陸の乃木 海の東郷」ともにその肉声を残しているが、乃木の肉声が「私は乃木希典であります」の一言しか残っていないのに対し、東郷は最晩年の昭和6年(1931年)に日本ビクターに、昭和8年(1933年)に日本コロムビアにそれぞれ肉声を録音し、2枚ずつ計4枚8面分の肉声が残されている。内容は以下のとおりである。その他、明治38年(1905年)10月29日に青山霊園で挙行された海軍弔慰祭でも、東郷の朗読する祭詞の録音が小笠原長生の発案で行われる事になっていたが、朗読する東郷の写真を撮ろうとした写真屋に対して東郷が「お下げなさい」と一喝、驚いた写真屋はあわてて逃げ出し、ついでに幕の後ろで待機していた録音技師までもが逃げ出したため、録音は行われなかった。

出典:wikipedia

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