孫 策(そん さく、175年 – 200年)は、中国後漢末期の武将。字は伯符(はくふ)。揚州呉郡富春県の人。若くして父の孫堅を亡くし、袁術の将軍となった。19歳のとき、袁術軍に組み込まれていた孫堅の兵1000人余りをまとめて軍を編成し、劉繇を倒して勢力を拡大。その後、袁術の元から独立し大きく躍進するが、建安5年(200年)に刺客に襲撃された際に負った傷が原因で26歳で死亡。後継を孫権に定めた。後に孫権によって長沙桓王と諡された。小説『三国志演義』では、躍進の目ざましさから「小覇王」と称される。父は孫堅。母は呉夫人(呉景の姉)。弟は孫権(呉の初代皇帝)・孫翊・孫匡。姉妹は弘咨夫人・陳某夫人・孫夫人。正妻は不明。側室に大橋がいる。子は孫紹。2人または3人の娘は顧邵(顧雍の長子)・陸遜・朱紀(朱治の次子)に嫁いでいる。容姿端麗で、人との会話を好み闊達な性格であったと言われる。少年の頃に同年の周瑜と知り合い、その友情は孫策の死まで続いた。2人の友情は「断金」の交わりと讃えられたという。192年に孫堅が劉表との戦いで死去した(襄陽の戦い)後、一時的に江都に移り住んだ。孫堅の軍は解体され、主家筋にあたる袁術の軍に吸収されていた。当時の孫策の旗下には、江都で知り合った呂範と、一族である孫河のみが付き従っていた。孫策は袁術の勧めで丹陽郡太守の呉景を頼り挙兵するも、丹陽の一揆の首領の祖郎に攻められ大敗し、袁術の元に逃げ帰った。194年、袁術に対し孫堅の軍の返還を求め、1000人強の兵を得る。数こそ少なかったが、その中には朱治、黄蓋、韓当、程普といった、孫堅軍の中核を成した武将たちが揃っていた。袁術軍の一角として異彩を放ち始めた孫策であったが、袁術からはその才覚ゆえに危険視された。九江太守、廬江太守の約束を反故にされながら、孫策は江東で自立する機会をうかがっていた。その間も孫策は人材を得るための時間を割くことは惜しまなかった。なかでも張紘、張昭、秦松、陳端といった知謀の士や、蒋欽、周泰、陳武、凌操といった武勇を誇る猛者を得たことは、ますます孫策の人材層を豊かにした。袁術と揚州刺史である劉繇は、揚州の支配をめぐって対立していた。補佐役であった朱治の勧めもあり、孫策は袁術に対し、劉繇と対峙している叔父の呉景の援軍に赴くことを申し出る。袁術は寡兵である孫策が江東で独立できるとは思っておらず、これを承諾した。歴陽で呉景の軍と合流した孫策であったが、ここで周瑜との再会を果たす。周瑜は孫策に兵力・情報を提供し、共に江東制覇に尽力した。孫策軍が歴陽に到達する前に多くの兵が孫策軍に加わり、最初1000人強しかいなかった孫策軍は5千人以上に膨れ上がっていた。195年、劉繇の部将の張英が守る当利口と于糜・樊能が守る横江津を制圧し、長江を渡り、劉繇が篭っていた牛渚の要塞も陥落させ、大量の食料や軍需物資を奪った。劉繇は曲阿に逃走した。更に孫策は劉繇を攻め、劉繇の部将の笮融・薛礼と交戦し、薛礼が守る秣陵城(後の呉の都、建業)を制圧する。その間に牛渚を樊能・于糜に奪われたが、すぐに牛渚を奪還した。再び長江を下って笮融を攻めたが、矢が太ももに当たり負傷し、後退した。孫策が死んだと思った笮融は部将の于慈に追撃させたが、孫策は伏兵を用いて于慈に大勝した。その後、孫策は堅固な笮融の軍営を避け、劉繇に服属する諸県を攻略していった。あるとき、劉繇の部将である太史慈が孫策軍を偵察していると、周囲に少数の騎兵しか従えていない孫策に出会った。太史慈は孫策に一騎討ちを挑み、孫策もこれに応じた。数合打ち合ったが勝負はつかず、引き分けに終わる。正史において一騎討ちという事象は珍しいものであり、さらに頭首がそれを受けたというのは稀有な事例である。やがて劉繇は拠点であった曲阿を捨てて逃亡する。主のいなくなった曲阿を落とした孫策は、ここを拠点として勢力の拡大を図った。また、劉繇を失った太史慈は反乱軍を糾合し、丹陽太守と自称して孫策に対抗する。地盤を確保した孫策であったが、袁術との関係を維持するため、袁術から借り受けた兵のうち、叔父の呉景、従弟の孫賁の軍を返す。また、周瑜も一旦叔父である丹陽太守周尚のもとに帰った。周瑜は丹陽における孫策の支配をより強固なものにしていった。196年、曲阿を始めとする丹陽郡を手中にした孫策は、呉郡、会稽郡の攻略に取り掛かる。呉郡攻略において、呉郡太守であった許貢に勝利し、会稽郡の攻略においては太守であった王朗に勝利する。戦いに敗れた許貢は抵抗勢力であった厳白虎のもとへ逃亡し、王朗は孫策に降伏した。また、独立勢力となっていた太史慈を打ち破り、自らの部下として迎えた。197年、孫策の勢力が強大化するのを怖れた袁術は、一族の袁胤を丹陽太守に任じ、孫策への備えとしようとした。これに対し、孫策は武力をもって袁胤を追放し、ついに袁術に対して独立を宣言する。孫策の独立に応じ、一時袁術の配下にいた周瑜は魯粛を連れて孫策の元へ合流する。また、呉景、孫賁も袁術を見限り、孫策に従う事となった。これに憤った袁術や陳瑀は丹陽郡の宋部一揆の首領の祖郎らを扇動して孫策を攻めさせたが、孫策は孫輔や程普らとともに祖郎と戦い、激戦の末に祖郎を生け捕りにした。祖郎は孫策の部下となり、門下賊曹に任命された。江東の支配を宣言した孫策は、自らの体制を整えるべく人材登用を積極的に行った。その中には呂蒙や、元は王朗配下であった虞翻も含まれていた。また、自ら会稽太守を称するとともに、江東の周辺郡の太守を任命した。孫策は電撃的に江東一帯を制覇したが、その苛烈な勢いがゆえに怨恨を抱かれ、各地に根強い抵抗勢力を抱えることになった。江東に抵抗勢力を抱える限り中原への進出は実現できないため、孫策は抵抗勢力の粛清に乗り出した。これにより厳白虎をはじめとして、抵抗勢力である江東各地の地元豪族、地方宗教勢力が粛清された。このとき、かつて呉郡太守であった許貢は「孫策の勢いは項羽に似る」と朝廷に上奏しようとしたが、これを知った孫策は怒り、粛清対象として許貢を殺害した。やがて袁術が皇帝を僭称し始めると、孫策は反袁術の姿勢を鮮明にするため、皇帝を擁する曹操に近づく。根強い抵抗勢力が多く存在する江東を支配するためにも朝廷の権威が必要であった。しかし両者の関係は微妙なものであり、袁術の死を契機に崩れてしまうことになる。199年、袁術が失意のうちに死去すると、旧袁術軍はこぞって袁術の勢力下にあった劉勲のもとに身を寄せることになった。滅びたとはいえ多勢の袁術残党は劉勲の南北に割拠する気鋭の孫策と曹操には魅力的であり、双方ともこの兵力を自軍に組み込むべく工作を謀った。孫策は劉勲に対して「上繚には宗教勢力が闊歩しており、それらへの対応に困っています。協力して討ち取りましょう。もし討ち取る事ができれば、宗教勢力の兵力も手にする事ができるでしょう」といった内容のへりくだった手紙を送った。それ以前、劉曄は劉勲のもとへ兵を送り、その客となっていた。劉曄は劉勲に対して孫策の手紙の意図と危険性を説明したが、劉勲は聞き入れず、孫策を信用して上綜へ攻め入った。孫策はこれを機に急行、留守となった劉勲の本拠である皖を落とし、旧袁術軍ならびに楽隊や袁術の妻妾、子女などを一挙に手中に収めることに成功した。後に自らの妾とした喬公の娘大橋や、孫権の妻となる袁夫人もこの際の捕虜の一員として手に入れている。進退極まった劉勲は西塞山に陣を敷き、夏口の黄祖に助けを求める。黄祖は息子の黄射を援軍に立てて西塞山に向かわせたが、孫策はその救援が到着する前に早々と西塞山を陥落させた。劉勲は少数の部下と共に曹操のもとへ逃げ落ち、孫策は廬江を手に入れた。大軍を手中にした孫策は、次の敵として劉表配下の黄祖に攻撃を向ける。父の仇である黄祖とはこれ以上ない因縁があり、孫策が揚州・廬江を手にしたことで目と鼻の先の勢力同士にもなった両者の対立は必至であった。黄祖は劉表に援軍を求め、劉表からは劉虎らが増援となった。黄祖ははじめこれらの増援組を押し出して自らは後方支援する形で戦ったが、孫策軍は先鋒の劉虎・韓稀をすぐに破って斬首したため、これを見た黄祖は軍を後退して夏口において専守の体勢をとった。孫策は一時退却し、まずは豫章を平定することを先決とした。黄祖への攻撃はこの後も年単位で執拗に続けられ、208年、ついに孫権によって父の悔恨が雪がれることになる。孫策はまず虞翻を豫章太守華歆の元に送って投降させた。豫章南部の盧陵の太守を名乗っていた僮芝には新たな太守を派遣して対立させ、僮芝が病にかかった報を聞くと周瑜を送ってこれを壊滅させた。また、韓当・蒋欽・周泰らを県令に任命して抵抗勢力鎮圧に回らせ、呂範を鄱陽、周瑜を巴丘に派遣して抵抗勢力を鎮圧した。劉表の抑えとしては太史慈を豫章郡西部の都尉につけた。孫策はここに江東、江南の大部分をその支配下に治めた。200年、孫策は曹操の主力が袁紹に向かっている隙を狙い、曹操の本拠である許都攻略を計画する。しかしその矢先、許貢の客人3人が復讐として孫策を長江のほとりで殺そうとする。孫策は自ら3人とも斬り殺したが、3人の内の誰かが放った矢の一本が頬を貫いた。『三国志』討逆伝によれば、一族の陳瑀の件で以前より孫策と対立していた陳登が報復として厳白虎や許貢の残党を扇動し孫策の背後を突かせようとした。孫策はそれに怒り陳登討伐に向かったが、その途上で狩りの最中に許貢の残党に襲われたとある。重傷で死期を迎えた孫策は後継に実子の孫紹ではなく弟の孫権を指名し、その補佐役として張昭と周瑜を指名して26歳で死亡。死に際して、張昭ら幕臣には孫権の補佐を頼み、孫権には「兵を率いて戦場に駆け、天下の争いに与するような事は、お前は俺のようにはできぬが、才能ある者を用い、江東を保っていく事については、お前の方が上だ」と、臣下の言を重んじ江東を固く保つことに意を注ぐよう言い残したとされる。後年、皇帝となった孫権により、長沙桓王と諡された。孫権は建業にある朱雀橋の南に孫策の廟を建てた。郭嘉は「孫策は新たに江東を併呑したばかりですが、誅殺されたのはみな英雄豪傑であり、人の死力を得られる者たちでありました。しかし孫策は軽率で備えも無く、百万の軍兵があろうとも原野を独りで歩いているのと異なりません。もし刺客を潜ませていたならば、ただ一人を敵とするだけであります。こうしたことから私が観るに、必ずや匹夫の手で死ぬことでしょう」と評している。陳寿は「孫策は傑出した英気を具え、その勇猛さと鋭敏さは並ぶ者がないほどであり、優れた人物を登用して用い、志は中国全土を圧倒するほどだった。しかし、孫策は軽はずみでせっかちな性格だったので、身を滅ぼしてしまった。また孫策が呉の国の基盤を作ったのに、孫権の孫策に対する尊敬が足りず、孫策の息子は列侯にしかなれなかった。」と評している。一方、孫盛は「それゆえ名義を正して根本を定め、貴き者と賎しき者とを切り離したのである。そうして初めて国家は権力濫用の譴責を受けることなく、嗣子も猜忌の嫌疑を向けられることなく、世情は異端の議論を断ち切り、不逞は僭上の野心を閉ざすのだ。心情として負い目があり、処理として不足があるとはいえ、遠大な雄図を心に秘め、末永く城塁を保つためには、まだ現れないうちに手を打ち、まだ乱れないうちに治めたと言うべきであろう。陳寿の評は充分通達したものではない」と反論する。小説『三国志演義』では、その躍進のめざましさから「小覇王」と呼ばれている。最期については『捜神記』の記述をもとに、呉に現れた道士・于吉の霊により呪い殺されるという設定になっている。于吉に民の人望が集まることを憎み、妬んだ孫策は、于吉に難題を押しつけるが、于吉はそれをことごとくこなしていったため、言いがかりをつけて彼を殺害してしまう。その後、孫策は厳白虎の残党に襲われ負傷するが、たいした傷ではなかった。しかし、死んだはずの于吉がその傷を悪化させるように毎晩孫策の前に現れて、ついにその傷が深くなり危篤になったとしている。
出典:wikipedia
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