雍正帝(ようせいてい)は、清の第5代皇帝。諱は胤禛(いんしん(禛の字は示眞))、廟号は世宗、謚号は憲皇帝(temgetulehe hūwangdi)。在世時の元号を取って雍正帝と呼ばれる。 康熙帝の第4子として生まれる。母は徳妃のウヤ(烏雅)氏(孝恭仁皇后)。康熙帝は次男で皇后の子の胤礽を寵愛し、2歳で皇太子とした。しかし、皇太子はその地位に安住し修養を怠って遊び歩くだけではなく、賄賂を取って政治を歪め、さらには康熙帝を亡きものにするクーデターにまで手を染めた。そこで康熙帝はやむを得ず皇太子を廃太子とし、以後新たに皇太子を置くことはなかった。康熙61年(1722年)、康熙帝が病を得て崩御すると、遺詔によって胤禛が指名され皇帝に即位した()。この時45歳であった。しかし、即位時の経緯には不明な点が多い。康熙帝の遺詔は病床のそばにいたロンコド(孝懿仁皇后の弟)が聞いて、それを胤禛に伝えたということになっていたが、実は遺詔には「十四子」と書いてあったのをロンコドと胤禛が「十」を取ってねじ曲げたのだ、という噂が絶えなかった(「伝位十四子(皇帝の位を十四皇子に伝えること)」の「十」の字に加筆して「伝位于四子(皇帝の位を四皇子に伝えること)」に書き換えたともいう)。皇位継承には母親の出自の貴賤が重要であった清において、母親の出自が悪い上、即位までの経緯から政治的基盤は脆弱であったため、雍正帝は皇帝直属の八旗である上三旗(正黄・鑲黄・正白)の者が就くような役職に鑲白旗の旗王時代の部下(「藩邸旧人」と呼ばれる)を就かせたり、見所のある下五旗の者を上三旗に異動させるなど上三旗の掌握に腐心し、前述の噂に対しても恐怖政治で臨んだ。ロンコドを早々に誅殺し、相続を争いそうな皇弟廉親王(康熙帝八男)をアキナ(akina、阿其那、犬)、(康熙帝九男)をサスヘ(seshe、塞思黒、豚)と改名させて監禁し、至る所に密偵を潜り込ませた。さらに独裁権確立を狙い、1732年に内閣を飛び越えて決裁を行う軍機処を創設し、閣臣たちに口出しさせず政治に当たった。その他、皇帝の諱を忌避する風習から、雍正帝に忠誠を尽くした胤祥(康熙帝十三男)を除く兄弟の字を胤から允に改称させた。皇位継承の暗闘を経験したことから、雍正帝は皇太子を擁立しない方針を決めた。代わりの後継者指名法として、皇位継承者の名前を書いた勅書を印で封印した後、紫禁城乾清宮の玉座の後ろにある「正大光明」と書かれた扁額の裏に隠し、崩御後に一定人数が立ち会った上で勅書を開く、という方法を考案した。これを「密勅立太子法」(太子密建)と言う。それまでは皇太子の周りに次代の権力の座を狙って集まって来る者が追従を繰り返すことによって皇太子の性格が歪んだり、皇帝派と皇太子派の派閥争いが起きる弊害があったが、こういった事態を封じ、皇帝の専制君主の座が確立した。この方法により、清代には暗愚な皇帝が比較的出なかったと言われる。雍正帝は単なる恐怖政治家ではなく、史上まれに見る勤勉な皇帝であった。毎日夜遅くまで政務に当たり、大量の上奏文にいちいち目を通し、全て自分で(皇帝自身による朱墨による諾否、その他の書き込み)を満洲語で書かれた上奏文なら満洲語で、漢文で書かれた上奏文なら漢文で書き込み、一日の睡眠時間は4時間に満たなかったという。前述の密偵も、ただ監視をするだけではなく、地方官に業績の優れた者がいればこれを褒賞した。また、民衆の手本として自ら倹約に努めている。書き物をする時に重要なものでなければ紙を裏返して使い、地方官が手紙を皇帝に送るときに綾絹を用いると「なぜこんな無駄なことをするのか」と言って紙を使わせた。政治の最高機関である軍機処の建物も、みすぼらしいバラックのようなものであった。父の康熙帝が行った文人弾圧を雍正帝も強く行い、何冊もの本が禁書となった。清朝を批判する者には厳罰で臨んだ。雍正4年(1726年)、江西省で行われた科挙の初期段階の試験である郷試において、内閣学士で礼部侍郎(文部次官に相当)であった査嗣庭という試験官が、『詩経』の一節である「維民所止」という部分を出題した。この一節は清朝を批判するものだとされ、査嗣庭は投獄され病死、死体はさらし者とされた。さらにその息子も死刑、一族も投獄されたり、流罪に処されるという非常に厳しい処分を受けた。この事件は実のところ、ロンコド派閥に属していた査嗣庭らの排除が目的であったとされる。また、華夷思想により満州族の支配を良しとせず明の復活を唱える思想家に対しては自ら論破し、討論の経緯を『大義覚迷録』という書物にまとめた。雍正6年(1728年)に、呂留良の『時文評選』「華夷の弁」を読破してそのそれに感化されたという学者が、上記にある雍正帝の著作である『大義覚迷録』を批判し、四川総督岳鍾琪を唆して漢民族の復興をはかったために、岳鍾琪は彼を捕らえて雍正帝の目前に曳きだした。雍正帝は曾静の言い分を聴いて、その処置を考えていた。しかし曾静は臆することなく、毅然として「満洲族は大したことなく、漢民族がいかにすぐれているか」とする持論を唱えたため、雍正帝は特例として彼を赦した(曾静は乾隆帝が即位すると処刑された)。雍正帝は、山西の楽戸、浙江の九姓漁戸、安徽の世僕を、それまでの奴隷階級から解放した。これは彼の仏教思想に由来するとする説がある。なぜなら、自ら円明居士と称し、『御選宝筏精華』という仏教関係の著作まであるからである。なお、制度としての奴隷階級は消滅したものの、奴隷に対する蔑視や生活環境の劣悪さはこれ以後も根強く残った。明朝期以前においては、南京の音にもとづく南京官話が規範とされていた。清朝期になると、官話の中心は徐々に南京官話から北京音をもとにした北京官話へと移っていった。そのような中で、雍正帝は中央統制体制を強化するために北京官話の普及をはかり、官話政策を提議した。福建省に「正音書院」と呼ばれる官話の音を学ぶ書院を建て、また広東省の民間の粤秀書院などを支援して官話教育を担わせた。これらの教育機関では、教科書として『正音摂要』『正音咀華』などが用いられた。18世紀初頭以来のチベットの混乱に対し、康熙帝は危機に陥った朝貢国を救援するという立場から介入、ジュンガルの占領軍を撤退に追い込み、ダライ・ラマ位をめぐる混乱を整理、グシ・ハン一族には、ハン位継承の候補者を選出するよう促した。しかし、グシ・ハン一族の内紛は深刻で、ハン位の継承候補者について合意に達することができず、康熙帝はの死によって空位となったチベットのハン位を埋めることができないまま没した。雍正帝は、グシ・ハン一族の定見のなさ、ジュンガルと結びつく可能性(グシ・ハン一族がジュンガルと組んで清朝と敵対した場合、アルタイ山脈から甘粛・四川・雲南にいたる長大なラインが前線と化す)などについて強い不信感を有しており、父帝の方針を一転し、即位後ただちにグシ・ハン一族の本拠であった青海地方に出兵、グシ・ハン一族を制圧した。雍正帝はグシ・ハン一族がカム地方の諸侯や七十九族と呼ばれたチベット系・モンゴル系の遊牧民たちに対して有していた支配権を接収、チベットをタンラ山脈からディチュ河の線で二分し、この線の北部は青海地方と甘粛・四川・雲南の諸省の間で分割、この線の南に位置する三十九族やカム地方西部は「ダライ・ラマに賞給」し、その支配をガンデンポタンに委ねた。外モンゴルにまで勢力を拡大したことで、オイラトや、ロシア帝国との国境を画定する必要が生じた。ロシアとはキャフタ条約を締結して外モンゴルの国境を定めるとともに、両国間での交易に関する協定が結ばれた。かつて康煕帝が結んだネルチンスク条約と同様、国境を画定させるという姿勢は、当時における中国の一般的な対外関係とは違いがみられるものの、対ロシア関係も理藩院において処理されたように、従来の朝貢秩序を揺るがすようなものではなかった。またオイラトとは、ガルダンの後継者ツェワンアラブタンとの間で国境交渉を持ち、1730年にアルタイ山脈を境界とする取り決めが成立した。1735年、働き続けた雍正帝は崩御した。伝説によれば、かつて処罰した呂留良の娘・あるいは反乱を企てた罪で処刑された盧某の妻に殺害され首を奪われ、ゆえに清西陵泰陵に埋葬された雍正帝の首は黄金製の作り物である、とする創作もある。先に挙げた仕事中毒とも言えるような働きぶりによる過労死とする説を支持する者も日本には多い。また、ナポレオン・ボナパルトと同様、重い責務でストレスを溜め、夜遅くまで酒を飲み、脂っこい飯を食べ、昼に眠るという生活が死期を早めたと思われる。現代の中国では、「故宮當案」の研究結果から、道家の神仙思想に凝った結果、不老長寿のために服用した丹薬による中毒死ではないか、と推測される。なお、雍正帝のお抱え道士たちは、後の乾隆帝によって追放処分を受けた。清皇室の離宮・円明園は、雍正帝が親王時代に康熙帝から拝領した庭園をもとに造営されたものである。雍正帝の生涯を描いたものとして、全44回の連続テレビドラマ『雍正王朝』がある。出演:唐国強・・・。他に関連した作品として、雍正帝の“三大模範”(、、)の一人を扱った作品『李衛當官』(全30回)でも冷徹な人物として登場している。『雍正王朝』と同様、雍正帝を唐国強、十三皇子を王輝が演じた。テレビドラマ『宮廷の諍い女』にも登場している。また、雍正帝によって造られたと言われている諜報・暗殺などの秘密工作を請け負う秘密組織「」は、武侠小説や香港映画の題材としてたびたび使われている。
出典:wikipedia
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