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ザ・ベストテン

『ザ・ベストテン』(英称:"The Best Ten")は、1978年1月19日から1989年9月28日までTBS系列局で、毎週木曜日の21:00 - 21:54 (JST) に生放送されていたTBS製作の音楽番組。全603回放送。1976年から1977年にかけて放送された『トップスターショー・歌ある限り』の後番組としてスタート。最高視聴率41.9%を記録した。愛称は『ベストテン』『ベッテン』。第11回テレビ大賞優秀番組賞受賞。毎週生放送で独自の邦楽ランキング上位10曲をカウントダウン形式で発表し、ランキングされた曲を歌手が披露する音楽番組である。番組名はその趣旨からそのまま付けられた。総合週刊誌の『サンデー毎日』に本番組のランキングが掲載されていた時期がある(1978年4月〜1983年1月)。レコード売り上げ(オリコン、ミュージック・ラボ、ミュージック・リサーチの3社のランキングを使用)・有線放送リクエスト(全国有線音楽放送協会のデータを使用)、ラジオ放送のリクエストチャート(当番組のネット局25局のうち、ラジオ兼営局20局でのラジオ歌謡曲ベストテン番組の独自のチャートの総合ランキング)・番組に寄せられたはがきのリクエスト(番組冒頭で発表)を合わせたポイント制で決定。番組開始時の配点比率は「レコード30:有線10:ラジオリクエスト20:はがきリクエスト40」とはがきのポイントが高く、レコードや有線で20位以内に入らない曲がベストテンに入ることもあった。だが、1979年2月に配点比率を「レコード30:有線10:ラジオ30:はがき30」に改めることがTBSから番組の中でなく週刊誌などを通じて周知された。これは「ハガキの筆跡が明らかに同じなのに名前が異なるハガキが多数見つかり、中には他人の名義を無断で借用するなど、一部ファンの組織票が目に余る状態になった」ことが理由とされている。配点比率はその後も見直され、1981年頃から「レコード45:有線10:ラジオ21.9:リクエスト23.1」になり、1986年からは「レコード60:有線10:ラジオ10:リクエスト20」となったが、配点見直しの公式通知は無かった。TV番組の音楽ランキングにおけるレコード・CD売上重視の傾向は『ザ・ベストテン』終了以降も続き、『ミュージックステーション』のシングルランキングに至ってはランキングの内容はCD売上が100%もしくはほとんど100%となっている。得点の計算方法は、各要素のランキング上位30曲に対し1位30点、2位29点…30位1点という形で得点を振った上で、前記の配点比率に従い合計が300点満点になるように倍率をかけ、最終的にその得点を加算してランキングを決定。番組では演出上の理由で33.33倍し9999点を満点として表示。公式な発表はないものの全盛期にはTBSに全国から毎週8万枚のリクエスト葉書が届いた。ランキングは、当時世界各国の国際空港で出発・到着案内として用いられていた反転フラップ式案内表示機(正式英名ソラリーボード。通称:パタパタ、現在は撤去、後に『火曜曲!』で保管されている)をヒントに考案された「ランキングボード」を使って発表された。左側に前週の総合ベストテンの順位(オレンジ色で表示)、右側に今週の総合ベストテンの順位を表示(白色)し、10位から順番に発表する。「今週の第○位」という司会者の掛け声にあわせ、ティンパニーロールと同時に曲名と歌手名部分が回転、数秒遅れて得点部分が回転する。このランキングボードは、プロデューサー・演出の山田修爾が実際に羽田空港で見た案内表示板をヒントにして作製された。歌手が登場する際は、オーケストラの演奏(10 - 2位と1位では登場音色が多少異なる)をバックに「ミラーゲート」を通って登場。1位の歌手がスタジオに出演した際、くす玉割りや様々なプレゼントをスタッフが用意することもあった。くす玉割りの紐は当初は司会者が引っ張っていたが、後期は1位を獲得した歌手が直接引っ張り、大量の紙吹雪、風船、紙テープの舞う中祝福した。スタジオでの歌の演奏は、基本的にオーケストラによる生演奏であったが、末期はカラオケになることが多かった。セットは『ザ・ベストテン』ならではの独特の演出で、まれに意図がよく分からないものや歌とは全く関係のないものが登場したり、長渕剛など、歌手によってはセットは不要という歌手もいた。スタジオの構成は、『大きなスタジオの真ん中にランキングボード』(司会者とソファーが配置されたスペース)、『オーケストラセット』、『大掛かりなセット』というものであった。人気を二分した音楽番組、夜のヒットスタジオと比べて「カメラ」と「演出」の夜ヒット「オケ」と「セット」のベストテン、と呼ばれた。第4位までの発表が終わると週によりランキング外の1・2曲をピックアップして「今週のスポットライト」というコーナーで紹介した。11 - 20位の曲もVTRで紹介され、出演者が少ない時には30位や50位からの発表もあった。1980年代後半にはグループのメンバーの一部が別行動している際には、そのメンバーを他のメンバーがいる中継先の映像にビデオ合成するということも行われた。この時期になると歌手がミュージック・ビデオを作成しプロモーションに使うことが一般的になってきたが本番組では「木曜9時の放送時間に歌ってもらう」ということが番組のコンセプト(そのための追っかけ中継)であったため出演できない歌手のミュージック・ビデオを放送するという代替措置は原則としてなかったが、複数回ランキング入りした曲では欠席した際に過去の週の出演映像を流すことがあり、VTRには放送日のテロップを入れていた。番組の最後には、出演者全員で集合写真を撮影し、その写真(番組中期以降は写真をジグソーパズルにしたもの)を番組宛てにリクエストはがきを送った視聴者に毎週抽選でプレゼントしたり、番組内でリクエストはがきが採用された視聴者には無条件でプレゼントするのが恒例だった。「ハイポーズ」の掛け声は主に第1位を獲得した歌手に振る事が多かった。なお、番組終了時にこれらの集合写真を本にまとめ、国立国会図書館および各都道府県立の図書館に寄贈した。ネットした各放送局も所蔵しているが、開局記念イベント等以外は非公開となっている。番組が終了した1989年を除く毎年末に「年間ベストテン」、1981年からは6月に「上半期年間ベストテン」を発表し、1988年には「月間ベストテン」も放送。1978年から1980年までは、年間ランキングでは得点は発表されなかった。年間ランキングの回が3時間の「豪華版」となって「年間ベストテン」を発表したのは1982年からでそれ以前は通常放送と同じく1時間枠内でその週のベストテンの後で放送しており、1978年は1位のみ、1979年は3位と1位、1980年は3位・2位・1位、1981年は2位と1位がスタジオで歌われた。1986年1月には、1985年の歌手別年間ランキングが発表された。テロップと字幕での発表でランキングボードは使われなかった。なお、歌手別ランキングが発表されたのはこの年だけだった。1983年11月10日は放送300回を記念して長崎からの生放送を行った。その後も節目の50回ごとにJNN系列のある全国各地を回る公開生放送を行った。放送地では地元をあげた盛り上がりで市長が登場するなどお祭り騒ぎとなる。黒柳徹子は初回から最終回まで担当初回放送の前週に放送された『ザ・ベストテン前夜祭』(1978年1月12日)が黒柳・久米コンビの司会スタート。正式の最終回(1989年10月5日)は4代目の黒柳・渡辺・柄沢トリオが主に司会を担当した。なお、上記の放送回数はランキング紹介を行ったレギュラー放送回についての通算回数を表記しており、この前夜祭と正規最終回の回数は含まれていない(これらを含むと通算放送回数は605回)。また、初代男性司会者の久米については前番組に当たる『トップスターショー・歌ある限り』のサブ司会を担当しており、それを含めたTBS木曜21時枠での通算司会期間は計9年7か月となる。当時のTBSでは、前番組である『トップスターショー・歌ある限り』の視聴率が振るわなかったことから、新しい音楽番組の制作を企画することとなった。当時TBSプロデューサーだった田中敦が当時の制作局長に「いい歌番組のアイデアがないのか」と聞かれ、その時「毎週、一番売れている人気曲を10曲並べてベストテン番組を作れば面白いかも。出来っこないですが…」と提案をし、制作局長も「そのアイデアいただき、やってよ!」と一発で快諾した。当時のスタッフ内部では、「(当時流行し始めた)ニューミュージックの歌手はテレビ出演を拒否する者が多いため、客観性を持ったデータによるランキング方式では番組が成り立たない恐れがある」との理由から、番組スタッフの主観で出演者を選ぶ「キャスティング方式」を継続すべきとの意見が主にベテランスタッフを中心に根強く、「キャスティング方式ではニューミュージックの歌手などが取り上げられない」との理由でランキング方式を支持する若手スタッフとの間で意見が真っ二つに分かれた。結局当時の制作局長の裁定でランキング方式による番組の制作が決定したが、この対立のために当初1977年10月に放送を開始する予定であった新番組は3か月スタートが遅れ、1978年1月にスタートがずれ込んだ。当時マネージャーであったプロモーターの大里洋吉は『ザ・ベストテン』のスタートは、キャンディーズの解散が密接に関係していると話している。初代司会者の決定の経緯については、資料によって内容が異なっている。山田修爾の著書『ザ・ベストテン』によれば、最初にTBSの局アナウンサーだった久米が前番組から続投することが決まり、次に相方を女性とすることとなって黒柳がキャスティングされた。制作サイドでは西田敏行を加えた3人体制での司会を予定していたが、西田がスケジュールの都合がつかず、結局2人体制で番組がスタートすることとなった。久米は当初『トップスターショー』を最後に音楽番組の司会から足を洗うつもりだったが、黒柳とのコンビが決まったことで音楽番組を担当し続ける気になったという。しかし2013年9月27日放送の『中居正広の金曜日のスマたちへ』で紹介されたものでは、先に黒柳の起用が決まり、久米が中継リポーターを務めるTBSラジオの番組にゲスト出演していた黒柳が、もう1人の司会が決まっていない状況を知り、気に入っていた久米の起用をスタッフに打診したとのものだった。なお、黒柳と久米は番組開始前の1977年暮れに同じTBSの番組「第19回日本レコード大賞」で司会を担当し共演している。初回放送の前週(1978年1月12日)に『ザ・ベストテン前夜祭』を放送。前半は、昭和43年 - 昭和51年の年間オリコン1位の楽曲を出演した歌手が持ち回りで歌唱。後半は、レコード売り上げと有線放送のデータのみに基づいた1977年の年間ランキングを発表。テーマ曲はレギュラー放送と異なるアレンジで生演奏。石川さゆりとさだまさしは欠席。8曲がスタジオで歌われた。またゲストとして山口百恵・桜田淳子・殿さまキングス・八代亜紀・郷ひろみなど合計15組が出演した。「スポットライト」のコーナーもあり、日野てる子が「夏の日の思い出」を歌った。前夜祭ということもあり、番組は会場のTBSテレビ「Gスタジオ」にいくつかのテーブル席が設けられたお披露目パーティーのようなものであった。歌のセットは作られず、バンド前に全歌手が椅子に座っていた。ランキングボードは、本放送でのパタパタパネルではなく、手書きにより左側にオレンジ色の文字で過去の年間1位曲、右側に白文字で1977年の年間ベストテンが表示され、その前に置かれたソファーには黒柳・久米の司会者コンビが時々座っていた。歌手以外にも福田一郎などの音楽評論家・プロダクション関係者も出席していた。オープニングのテーマもおなじみの音楽ではなく全く違うものが使用された。視聴率は24%(21.4%とする資料もある)。1978年1月19日に放送開始。放送時間は21:00 - 21:55。ここから週間ランキングを発表。当時人気絶頂だった山口百恵の「赤い絆 (レッド・センセーション)」が惜しくも第11位・「秋桜」も第12位でのランキングにより登場出来ず、また4位にランク入りした「わかれうた」の中島みゆきはレコーディングを理由に生出演を拒否するなど、初回から順風満帆とはいかなかった。それでも視聴者からは正直なランキングの発表に評価があった。これは、黒柳が司会を引き受けるに当たり「番組の演出で順位を動かすことはしないで、正直な形で順位を発表してほしい」という条件を付けたことを守るためだったと言われている。実際黒柳は、後に対談で「ランキングが不正操作されていないかどうかを確認するため、総合ランキングの集計結果を毎週100位までチェックしていた」と語っている。初回の「今週のスポットライト」はランキングとは無関係に懐メロとしてフランク永井・松尾和子の「東京ナイトクラブ」。初回は1 - 10位は曲名と点数、11 - 20位は曲名のみの発表だったが、2003年12月31日放送の『ザ・ベストテン2003』でこの週の11 - 20位の点数、21位 - 30位の曲名と点数が初めて明らかにされた。この時期になると少ない週ではランクインした歌手の出演が3 - 4組ということが多くなっていた。初登場の週のみ出演しその後辞退する歌手も増えたためフルで歌唱し時間を延ばしたり、3位発表前の20位から11位だった発表を50位から放送したり、スポットライトの歌手が毎週出演(多いときは2組)するようになった。全盛期のスピード感ある進行や番組出演者の一体感などの面影はほとんどなくなっていた。毎年最初の放送の前にスタッフが「今年こそ迷場面集で笑いものにならないように誓います」と宣言するものの、生放送が故、うっかり裏方のスタッフが横切ったり、あるいは画面に堂々登場するといったトラブルやハプニングは多かった。下記に主なハプニングや放送事故を列記するが、「放送事故」に関してはその旨該当項目冒頭に記述する。雑誌『REBOOT』(ソニー・マガジンズ)Vol.4(2007年12月号)「ザ・ベストテンの時代。」放送30周年目前特別対談時に黒柳徹子が着用した衣装は第1回と最終回と同じだったことを明かされ、それを見た山田修爾は「不覚にも全く気付きませんでした。」と述べている。2013年7月27日に放送された「久米宏 ラジオなんですけど」の冒頭のトークで久米はこの番組を「ノンフィクションの音楽番組である」と述べている。これは番組をNHKの連続テレビ小説『あまちゃん』でパロディーにされたことに関連して述べたもので、久米をまねた司会者役で登場した糸井重里が、台本のようなものを持ち進行している様子を見て「私は台本を見て『ザ・ベストテン』をやったことが1回もない」と述べたうえで、「これまでの歌番組はあらかじめ台本が用意されており、台本通りの質問に、台本通りにゲストが答えるという体裁だった。これでは面白みがないので、スタッフや司会者(久米・黒柳)らの意見として、台本のないノンフィクションの要素を取り入れた番組にしたい」といっていた。2005年9月30日の『中居正広の金曜日のスマたちへ』の「ザ・ベストテンの真相」でのランキング。歌手が地方や海外に行っていてスタジオに来られない場合でも、“追いかけます、お出かけならばどこまでも”を売りに、当時TBSアナウンサーだった松宮一彦や生島ヒロシ、JNN各局のアナウンサーが「追っかけマン」「追っかけウーマン」として登場し、TBS系列各局の協力を得て、現地からの歌唱を中継披露するのも恒例行事であった。初登場の松田聖子は羽田空港に到着後すぐランプエリアで歌い、その後甲子園から梅田へ向けて走る阪神電車の車内で歌ったり、『スチュワーデス物語』撮影中の堀ちえみが、日本航空のスチュワーデスの服装で(すなわち、撮影用の衣装のまま)成田空港のハンガー内に駐機しているボーイング747の機内で歌ったり、郷ひろみが熊本駅に停車中で出発間際の特急おおよど(肥薩線経由、宮崎行きで現在廃止)に乗車し乗降デッキで歌っている途中でドアが閉まり発車した事、近藤真彦と田原俊彦が原宿・表参道のど真ん中を走るオープンカーの上から中継したり(これは後日、「ひょうきんベストテン」において片岡鶴太郎や松本竜介によって真似されることになる)、斉藤由貴がNHK連続テレビ小説『はね駒』出演中、収録の合間を縫ってNHKの駐車場に簡易セットを組み立てて歌ってもらうなど、変わったシチュエーションでの中継も多かった。新幹線での移動途中の中継は番組でよく行われ、静岡駅や名古屋駅、新大阪駅での停車時間帯を狙った中継も多かった。特に静岡駅や名古屋駅では停車時間が短いこともあり、歌の途中でドアが閉まり、そのまま発車してしまうことも幾度かあった。移動途中での中継は「新幹線から下車してホームで歌う」「停車時間に合わせてデッキから歌う」というパターンが多かったが、「駅周辺のビルから新幹線の車中で歌う歌手を撮影」という今では考えられないような中継もあった。田原俊彦(「ピエロ」1983年3月31日放送、名古屋駅停車中)や小泉今日子(「迷宮のアンドローラ」1984年8月16日放送、静岡駅停車中)、中森明菜(「十戒-1984-」1984年8月23日放送、姫路駅停車中)などがこのパターンだったが、田原のケースでは唄っている途中に列車が出発してしまい、小泉のケースでは本人はどこから撮影しているか最後まで分からないようであった。コンサートで地方に行っている歌手が、終了後に近くの名所から中継することも多く、沢田研二はグラバー園から、松田聖子は松本城などからの中継もあった。名所だけでなく、渥美二郎は営業先である山形のキャバレーのステージから、また欧陽菲菲や中山美穂は郵便局の中といった、変わった場所からの中継もあった。国内中継での珍しいパターンとしては、東名高速道路を車で西に移動中だった田原俊彦と中森明菜が、いったん高速を降り、静岡インターチェンジ至近にあったSBS本社から中継で歌うというものもあった。しかし田原の方は番組放送時間中にSBS本社へ到着できず、放送終了後何とか到着したところで、SBS本社に見物に来たファンへのサービスおよび翌週放送分の素材として収録を始めたが、マイクロ回線の使用予約時間を過ぎてしまい、曲の1番を歌い終えたところで回線は途絶えてしまうというハプニングもあった。田原の中継では温泉の男湯から行ったものもあった。これは直前にジャニーズ系タレントのイベントで将棋倒し事故が起こったことから、「女の子のいないところから中継しよう」と言う判断に基づいたものであった。海外からの中継も多く、杏里のホノルルのレコーディングスタジオからの中継、近藤真彦のハワイ沖の豪華客船からの中継、徳永英明のニューヨークからの中継、一風堂のロンドンやリヴァプールからの中継(イギリスのロックバンド・JAPANとの共演)、灼熱のアリゾナ州の砂漠の真ん中でパラシュートを背負った沢田研二が「TOKIO」を熱唱した一件などがある。当時政情が不安定だったカンボジアでロケ中だった南野陽子を追いかけてソ連の支援で建てられたプノンペンの放送局から中継したこともある。司会の黒柳が夏休みを取り海外に行っている場合は音声や映像でスタジオと繋いで司会をした。出演歌手がスタジオに来れない場合はスタジオ、黒柳、歌手と3次元中継も行われた。1984年8月23日の放送では黒柳と久米が休暇でドイツに行っていたため、二人がミュンヘンから衛星中継で司会を行った。少年隊はオーストラリアのアデレードから生中継を行ったが「ABC」(1988年1月28日放送・同年1月月間ベストテン4位、週間10位)を歌唱中に、現地のテレビ局の電波と中継用の衛星回線が混線したのが原因で、突然現地のドラマの映像が流れ出す、といったハプニングがあった。この時の司会の松下は、少年隊が歌っていた時にソファーで横になっていたが、すぐさまオーストラリアのドラマの映像(中年の男性が映っていた)に対して「この方はオーストラリアの大変有名な俳優さんでございまして、日本の森繁久彌さんのような非常に重厚な演技で知られております」とアドリブで解説を入れた。追っかけの対象は歌手だけでなく司会である黒柳にも及んだ。これは番組開始時に、黒柳が司会に就任する条件の一つとして「毎年海外旅行に行くので2 - 3週間の夏季休暇が取れること」を挙げ、番組側がこれを受諾したことが遠因。しかし番組制作側としては要の一人である黒柳を3週間も欠くことは大きな痛手であると考えたため、結局黒柳の旅行先である海外までスタッフを派遣し衛星生中継で黒柳を出演させた。黒柳を追いかけての衛星生中継は1978年のニューヨークに始まりオスロ、パリなど毎年夏の恒例となり、1984年には久米も一緒に海外に飛び出してミュンヘンからの生中継を行った。当番組が始まる以前には、『TBS歌のグランプリ』でも不定期に全国各地からの中継を行っていた。代役司会として多くのタレント・文化人が様々な形で登板した。特に1985年の久米降板から小西博之決定までの間は、黒柳のパートナー不在のため代打司会を多く起用している。久米宏は、2代目の司会に番組初期からいた松宮一彦の起用を望んでいたが、久米の後釜というプレッシャーから松宮が辞退したため、1985年5月から9月までなかなか正式な司会が決まらなかった。松下賢次はTBSの労働組合のストライキのため番組を欠席したことがあるが、このときは代理司会を置かず、スタジオには頭に鉢巻、肩に襷をかけ、右手にマイクを持ったタキシード姿の松下の等身大の人形が置かれた(1987年4月23日放送)。一貫して司会を務めた黒柳も、1984年にユニセフ国際親善大使に任命されてから会議や視察のため年に1 - 2回ほど番組を欠席しており、その際は男性司会者が単独で司会をすることが多かったが、特別に代理司会を立てることもあった。1989年からは、柄沢晃弘が欠席の時には、ベストテン特派員の吉本多江が代理出席する程度。1月5日放送のみ歴代の司会者の一部が登場した以外は通常の司会者が務めた。最終回直前になると、黒柳・渡辺・柄沢・吉本の4人で司会進行する回がしばしばあった。オーケストラのセットは開始から中心が「10」の文字となっておりその「0」の中にギターとピアノ演奏者の2名を配置していたが、1981年3月26日の放送からステレオ放送対応とともに円形になり4名に増員された。この時にランクイン曲の多様な伴奏に対応するためシンセサイザーが導入された。この「0」と同じデザインが歌手の足元にも配置されておりソロ歌手はその中心で歌っていたが、オケ前でもセットや多彩な照明演出が行われるようになったため、使用は番組開始すぐの司会者のトーク時のみで1987年ごろから歌唱シーンには使用しないようになった。夜のヒットスタジオ(1985年4月のリニューアルから管楽器7名削減)、ミュージックステーション(1987年10月から廃止)など1980年代後半になるとオーケストラの生演奏を必要としない歌手が増えたことを理由にオーケストラの人数を縮小、または廃止したにもかかわらず、本番組では設置されない週が増えたものの縮小や廃止されることはなかった。これは、音楽監督の判断で削減という処置は一切とられなかった。基本は35名編成(管楽器13名、弦楽器14名、ピアノ1名、ドラム1名、シンセサイザー1名、ベース1名、パーカッション1名、コーラス女性3名)オーケストラメンバーは基本的に白のジャケット、黒のパンツで女性は白のドレス姿だった。曲のイメージによって中森明菜が「SAND BEIGE -砂漠へ-」でランクインした際は全員がアラビア風のクーフィーヤをつけたり、南野陽子が「話しかけたかった」でランクインした際は詰襟学生服を着て演奏したりと、番組に花を添えていた。300回目(IN長崎)・350回目(IN岡山)・400回目(IN静岡)・450回目(IN松本)・500回目(IN仙台)・1988年4月21日・1988年6月23日・1988年7月28日・1988年8月4日・1988年8月18日・552回目(IN鹿児島)・1989年1月5日・1989年2月23日・1989年4月20日・5月4日・5月18日・6月8日・6月15日・7月20日・1989年8月3日・1989年8月10日・1989年8月17日・1989年9月14日同週2曲以上のランクインの場合1曲=1週とカウント(公式本:別冊ザ・テレビジョン ザ・ベストテンの「ランクイン総週数ランキング」データに準拠)レベッカ、山下久美子は『夜のヒットスタジオ』には1度も出演しなかったが、この番組には数度出演した。番組初期によく出演したが、後半になると出演拒否に近かった歌手。1980年代後半になると出演拒否が目立つようになる。この番組だけに限らず、同じランキング形式の番組である『ザ・トップテン』やその他歌番組などでも似た現象が見られた。スポットライトでの披露は除く。いずれもジャニーズ事務所所属タレントで、レコードデビューはしていないが、ビデオという形で楽曲が発表されていたため、「スポットライト」として出演。『ザ・ベストテン』ではレコードデビューしていなくてもランクインできたため、少年隊が出演した翌週、少年隊の楽曲がはがきのランキングで10位になったことがある。「10位から1位まで発表し、ランク入りした出演歌手はすべて歌を披露」という大前提があったため、フルコーラスを披露させるという措置はなかなか行われなかった(歌唱時間は原則2分30秒 - 3分であった)。1982年3月11日(これ以前に複数回あり)・1982年6月10日・1982年6月17日・1982年7月1日・1982年7月22日・1982年12月9日・1983年1月6日・1983年1月13日・1983年3月24日・1983年4月21日・1983年7月7日・1983年9月15日・1983年9月29日・1983年10月6日・1983年12月15日・1983年12月22日・1984年3月15日・1986年2月20日・1987年2月26日・1987年4月9日・1987年4月23日・1987年10月8日(これ以後はなし)※系列は放送当時のもの当時の人気やゴシップなどの影響から、松田聖子と田原俊彦の関係には非常に注意が払われ、番組セットの待機席でも二人が隣り合わないように席を決めたほか、新聞でも二人の名前を並べて掲載しないよう配慮が行われていた。ランキング形式のため、演歌や年配の歌手はランクインすることが少ない傾向があったが、スポットライトのコーナーには淡谷のり子、美空ひばり、島倉千代子、北島三郎などの大御所も出演していた。番組制作費は年間で約1億円の赤字だった。番組自体は非常に高視聴率であり、スタッフの間では社長賞を期待する意見も多かったが、当時の社長から「年間いくら赤字を出しているのか考えてから言え」と一喝されてしまったという。結局社長賞は番組10周年の際に「10年間お疲れ様」の名目で出されたのみであったとのこと。黒柳が1980年 - 1983年までNHK『NHK紅白歌合戦』の紅組司会に起用されたのは、本番組の影響も大きかったとされる。2013年、スタッフとして番組を支えてきた山田修爾が8月28日に、弟子丸千一郎が10月27日に相次いで他界した。書籍CD(ザ・ベストテン (コンピレーションCD)も参照のこと)DVD

出典:wikipedia

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