堺屋 太一(さかいや たいち、1935年7月13日 - )は、日本の作家・評論家・元通産官僚・経済企画庁長官(第55〜57代)・元内閣特別顧問。株式会社堺屋太一事務所および株式会社堺屋太一研究所の代表取締役社長。内閣官房参与。様々な博覧会のプロデューサーとしても活動している。本名は池口 小太郎(いけぐち こたろう)であり、ペンネームの由来は、先祖の商人が安土桃山時代に堺から谷町に移住した際の名前である「堺屋太一」から採ったものである(堺屋は屋号にあたる)。大阪市生まれ。本籍地は奈良県。父は弁護士。追手門学院小学校(小学校59期)卒業、大阪府立住吉高等学校入学、高校在学中はボクシング部に所属し、モスキート級の大阪チャンピオンになった。奈良県下の実家から大阪の高校へ長い通学時間をかけて通学した。毎日弁当を作る母に配慮して、ある時から炊いた白米のみを持たせてもらい、毎日学食でそれにカレールーをかけてもらいカレーライスを食べていた。これが青春の味であるという。東京大学工学部建築学科に進学後、東京大学経済学部へ転入し卒業。建築学科在学時代には、学内コンペでの受賞経験もある。1960年4月に通商産業省入省。入省同期に、熊野英昭(元事務次官)、松田岩夫、初代経済産業研究所所長の岡松壮三郎らがいる。通産省時代は部下が家まで起こしに行くなど個性派であった。1962年の通商白書では世界に先駆けて「水平分業論」を展開。また、日本での万博開催を提案、1970年の「大阪万博」の企画・実施に携わり、成功を収めた。その後、沖縄開発庁に出向、1975年-1976年の「沖縄海洋博」も担当する。工業技術院研究開発官として3年ほど自然エネルギーに関わるサンシャイン計画に携わった後、通産省を退官した。1975年の通産省在職中に、近未来の社会を描いた小説『油断!』で作家としてデビューした。1976年に発表した小説『団塊の世代』は、1940年代後半に日本で生まれた第一次ベビーブーム世代を「団塊の世代」と位置づけ、多方面に影響を与えた。また、大河ドラマの原作となった『峠の群像』、『秀吉』をはじめとする歴史小説も数多く執筆した。小説のみならず、工業社会の終焉と「知価社会」(情報化社会)の到来を予言した経済理論『知価革命 工業社会が終わる・知価社会が始まる』等の社会評論や、首都機能移転に関する『「新都」建設 これしかない日本の未来』をはじめとした公共政策分野における政策提言に関する著作も多数執筆した。1978年に通商産業省を退官した後も、イベント・プロデューサーとして数々の博覧会を手掛けた。1990年に開催された花の万博では『ダイコク電機「名画の庭」』パビリオン総合プロデューサーを務め、世界の名画を転写して焼成した陶版画を展示紹介した。後にこれらの陶版画は、「京都府立陶板名画の庭」に移築された。1992年のセビリア万博では日本館総合プロデューサーを務め、日本館内で安土城天守閣の最上部(5-6階)の原寸復元をメイン展示として紹介した。後にこちらは「安土城天主信長の館」内に移築された。2005年の愛知万博では当初最高顧問であったが、お祭り色の強い博覧会を考えた堺屋と長期的計画を望んだ地域の意図が合わず、2001年6月28日に辞任した。ただし、最高顧問辞職後も、顧問として愛知万博協会に関与した。2010年に開催された上海国際博覧会の準備室高級顧問に就任。さらに上海万国博日本産業館出展合同会社代表も務めた。2014年には、2025年万国博覧会の大阪招致構想を提唱した。1978年から日本テレビのドキュメンタリー番組『あすの世界と日本』でナビゲーターを務めたり、BSフジのビジネス対談番組『堺屋太一のビジネスリーダー』で司会を担当したり、テレビ朝日のドラマ『聖徳太子の超改革』の原案を手がけるなど、テレビメディアに幅広く携わっている。ラジオではニッポン放送で1980年10月から1982年4月まで放送された『堺屋太一のホットジャーナル』を、芸能レポーターの東海林のり子とともに担当した。1998年、小渕内閣に民間人閣僚として経済企画庁長官に就任。第2次森内閣まで務め、同時に総合交通対策担当大臣、新千年紀記念行事担当大臣、情報通信技術担当大臣なども兼任した。長官在任中には、従来の政府の景気判断よりも景況感の変化を迅速かつ的確に把握しやすくする為、タクシードライバーや居酒屋の店主など「街角の人」に直接話を聞く「景気ウォッチャー調査」を開始。また、インターネット博覧会(通称インパク)の発案者でもある。2002年、東京大学先端科学技術研究センター客員教授に就任。2004年、早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授、同大学日本橋キャンパスインテンダント(学督)に就任。2008年には関西学院大学大学院経営戦略研究科客員教授に就任。2008年大阪府知事選挙の際に、国定浩一らとともに橋下徹を支援する団体として「橋下氏を知事にする勝手連」の設立に関わった。2009年にはみんなの党の母体となり、後にサポーター組織となった「国民運動体 日本の夜明け」のナビゲーターに就任した。2010年には大阪維新の会の支援団体である「経済人・大阪維新の会」の最高顧問に就任した。また、2012年には大阪維新の会が政治家の育成を目的に設立した維新政治塾の名誉塾長に就任した。こうした観点から、堺屋は橋下徹及び大阪維新の会のブレーンとされている。大蔵官僚で北陸財務局長を務めた池口金太郎は実兄。日本芸術院会員で洋画家の池口史子(ちかこ)は妻。「もう一人の愛する家族」はシーズーの“悟空”。高度経済成長期の流行語である「巨人・大鵬・卵焼き」は、通商産業省の官僚だった1961年頃、経済報告の会見で口にしたものだと語っている。趣味は女子プロレス観戦で、草創期からの熱心なファン、特に尾崎魔弓のファンとして有名である。またプロレス会場にも使われたライブハウス「新宿リキッドルーム」閉鎖後のイベントホール「新宿FACE」の開設に尽力し、尾崎が代表を務めるOZアカデミー女子プロレスが、定期的に興行開催している。奈良県御所市名柄にある池口邸は堺屋の実家である。旧大蔵省(現:財務省)と日本銀行及び銀行業界の護送船団方式に多くの例を見る、日本型の官僚主導による業界協調体制が、社会構造の変革を妨げ、「知価社会」(情報化社会)に対応できていないとし、日本の富と知恵を生かすには、道州制などの地方分権、小さな政府、規制緩和、官僚主義の排除を推進すべきだと主張している。また代表的な首都機能移転の論客でもある。2006年から社会問題化、表面化してきた飲酒運転の厳罰化に対しては、厳罰過ぎる故の経済的損失を論じ、寛容にすべしとの主張をしている。「文芸春秋」2011年9月号の「民主応援団長が見た『日本中枢の崩壊』」の中で、「平時のように四角四面に法律を適用していては、ことは迅速に進みません。正直なところ、裏社会の人に協力を要請しないと突破できない局面も出てきます」と言い、各方面から非難を浴びた。堺屋の発言に対し、日本弁護士連合会の民事介入暴力対策委員会の有志は暴力団容認発言と文書で抗議、これに対し、「『裏社会』とは極めて広義の意味で使った」「反社会的勢力の範囲がわかりかねる」などとお茶を濁した。1 絶対現在、2 変化の胎動、3 勝つ仕組み、4 天尽地果
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。