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オットー・フォン・ビスマルク

オットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト(侯爵)・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン(, 1815年4月1日 - 1898年7月30日)は、プロイセン及びドイツの政治家、貴族。プロイセン王国首相(在職1862年-1890年)、北ドイツ連邦首相(在職1867年-1871年)、ドイツ帝国首相(在職1871年-1890年)を歴任した。ドイツ統一の中心人物であり、「鉄血宰相()」の異名を取る。プロイセン東部の地主貴族ユンカーの出身。代議士・外交官を経て、1862年にプロイセン国王ヴィルヘルム1世からに任命され、を断行してドイツ統一戦争に乗り出した。1867年の普墺戦争の勝利で北ドイツ連邦を樹立し、ついで1871年の普仏戦争の勝利で南ドイツ諸国も取り込んだドイツ帝国を樹立した。プロイセン首相に加えてドイツ帝国首相も兼務し、1890年に失脚するまで強力にドイツを指導した。文化闘争や社会主義者鎮圧法などで反体制分子を厳しく取り締まる一方、諸制度の近代化改革を行い、また世界に先駆けて全国民強制加入の社会保険制度を創出する社会政策を行った。卓越した外交力で国際政治においても主導的人物となり、19世紀後半のヨーロッパに「ビスマルク体制」と呼ばれる国際関係を構築した。1815年にプロイセン王国東部のにユンカーの息子として生まれる。文官を目指し、 ゲッティンゲン大学やベルリン大学で法学を学ぶ。1835年に大学を卒業し、官吏試補となるも職務になじめず、1839年からユンカーとして地主の仕事をする("→政界入りまで")。1847年に身分制議会のの代議士となり、政界入り。1849年に新設されたの代議士にも当選する。代議士時代には強硬保守派として行動した。正統主義に固執し、1848年革命で高まりを見せていた自由主義やナショナリズム運動、国民主権の憲法によるドイツ統一の動きを批判した。裁判官ルートヴィヒ・フォン・ゲルラッハとその兄で国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の寵臣である侍従武官長レオポルト・フォン・ゲルラッハ将軍に近い立場をとり、革命で誕生した自由主義政府を牽制するためにゲルラッハ兄弟が宮廷内に組織した「影の政府」の「」に参加した("→代議士")。1851年にプロイセン全権公使となり外交官に転身。ドイツ連邦議長国オーストリア帝国との利害対立の最前線に立つ中でオーストリアを排除した小ドイツ主義統一の必要性を痛感するようになり、オーストリアとの連携を重視する神聖同盟などの正統主義の立場から離れるようになる。保守主義者・君主主義者の矜持は保ちつつ、正統性がないとされていたナポレオン3世のフランス帝国や小ドイツ主義統一を目指す自由主義ナショナリズム勢力との連携を模索するようになった("→連邦議会プロイセン公使、→反墺親仏派に")。1858年に皇太弟ヴィルヘルム王子(ヴィルヘルム1世)が摂政となり、自由主義的保守派貴族による「」内閣が発足すると強硬保守派と看做されていたビスマルクは駐ロシア大使に左遷されたが、クリミア戦争以来オーストリアを恨んでいたロシアの宮廷・政治家から反墺的態度を歓迎された。イタリア統一戦争の際にもプロイセンが反墺的中立をとるよう尽力した("→駐ロシア大使に左遷、→イタリア統一戦争をめぐって")。1861年に国王に即位したヴィルヘルム1世と陸軍大臣アルブレヒト・フォン・ローン中将は軍制改革をめぐり、その予算を「軍隊に対する王権強化」と看做して通そうとしない衆議院の自由主義派議員と対立を深めていった。国王側近たちが衆議院に対するクーデタ論に傾く中、ローンはクーデタによらず解決を図りたいと考え、同様の考えのビスマルクの首相就任を希望するようになった。1862年、無予算統治を決意したヴィルヘルム1世は、その覚悟がある者としてローンが推薦するビスマルクをに任命した("→自由主義勢力の台頭、→首相任命")。首相に就任するや衆議院予算委員会で鉄血演説を行い、ドイツ問題でプロイセンが優位に立つためには軍拡が必要である旨を訴え、自由主義者に軍制改革を支持させようとしたが、逆に批判を受ける。この演説で「鉄血宰相」の異名を取るようになった("→鉄血演説")。自由主義派の支持が得られそうにないと見るや無予算統治で軍制改革を断行した。これによって無予算統治を違憲とする自由主義派との間にが巻き起こった("→自由主義者との対立")。この国内的亀裂は、三度の小ドイツ主義統一に関する戦争に勝利して自由主義派の支持を獲得することで解決に向かう。その最初の戦争は1864年、デンマークに併合されそうになったシュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国をめぐって、オーストリアとともに起こした対デンマーク戦争だった。イギリスの干渉を抑えてこの戦争に勝利したことで両公国からデンマークの支配権を排除することに成功し、ドイツ・ナショナリズムからのプロイセンの評価を高めた("→対デンマーク戦争")。ついで両公国の帰属をめぐってオーストリアと対立を深めた。同時期オーストリアに保守政権が樹立されるとこれを利用してを締結し、ドイツ・ナショナリズムにおけるオーストリアの威信を低下させた。またビアリッツでナポレオン3世と密約を結び、フランスの中立の確信を得たといわれる("→深まるオーストリアとの対立、→ガスタイン協定とビアリッツの密約")。1867年に普墺戦争を開始し、短期間で勝利を収めた。フランスの領土欲を抑えながら、オーストリアに寛大な講和条件を提示して戦争を早期終結させた。これによりオーストリアをドイツ問題から排除し、プロイセン一国覇権の北ドイツ連邦を樹立することに成功した。ただしこの時点ではフランスの圧力もあり反プロイセン的な南ドイツ諸国は参加しなかった("→普墺戦争")。つづいて、北ドイツ連邦と南ドイツ諸国の統一を目指して、南ドイツ諸国のプロイセン型軍制改革を支援したり、関税同盟に議会を設置するなどしてドイツ統一機運を盛り上げようとしたが、南ドイツ諸国の反普感情を変えることはできなかった("→南ドイツとの統一を目指して")。そのためフランスとの開戦によって南ドイツ諸国のドイツ・ナショナリズムを高めることを目指すようになった。1870年、スペイン王位継承問題を巧みに利用し、フランスが理不尽な要求を突き付けて一方的にプロイセンに宣戦布告してきたという状況を作り上げることで、全ドイツ諸国の反仏感情を爆発させ、プロイセン軍のもとに一致団結させ、また他国の中立も確保して普仏戦争に持ち込んだ("→スペイン王位継承問題")。セダンの戦いではナポレオン3世を捕虜にした。これによって第二帝政から第三共和政に移行したフランスだったが、ビスマルクが要求したアルザス・ロレーヌ地方割譲を拒否したため、戦争は続行された。パリ包囲戦中の1871年1月にドイツ軍の大本営がおかれていたヴェルサイユ宮殿で南ドイツ諸国と交渉にあたり、ドイツ統一国家ドイツ帝国を樹立する合意を取り付け、ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に即位させた。戦争の方も2月にはパリの困窮に耐えきれなくなったフランス政府がビスマルクの要求に応じたことで終結した("→普仏戦争、→ドイツ統一")。プロイセン首相に加えてドイツ帝国首相となったビスマルクは、国民自由党など自由主義勢力と協力して様々なドイツ近代化改革を行った("→自由主義・近代化改革")。その一環でカトリックを弾圧する文化闘争を行い、ローマ教皇ピウス9世や中央党と対立を深めた。しかし社会主義勢力の台頭や国民自由党内でら自由主義左派が反ビスマルク的姿勢をとるようになったことで中央党との関係改善を志向するようになり、文化闘争を終了させた("→文化闘争")。ついで社会主義者鎮圧法制定や保護貿易への転換などで国民自由党に揺さぶりをかけ、自由主義左派が国民自由党から離党してを結成するよう追い込み、、帝国党、国民自由党の三党に「カルテル」と呼ばれる選挙操作協定を結ばせ、これを自らの与党勢力とした。さらにドイツ社会主義労働者党や自由思想家党に「帝国の敵」というレッテルを貼って攻撃した。とりわけ社会主義労働者党には社会主義者鎮圧法によって厳しい弾圧を加えた("→保守主義へ転換、→社会主義者鎮圧法")。労働者が社会主義労働者党に流れるのを防止すべく、1883年には疾病保険法、1884年には労災保険法、1888年に障害・老齢保険法を成立させ、世界初の全国民強制加入の社会保険制度を創出した("→社会政策")。ドイツ統一後の外交は、対独復讐に燃えるフランスを孤立させることに腐心した。はじめ君主国の連帯で露墺とともに三帝同盟を結んでいたが、露土戦争に勝利したロシアがバルカン半島に支配権を確立すると英墺が強く反発し、列強間の大戦の気配が漂った。三帝同盟崩壊を恐れるビスマルクは「公正な仲介人」としてベルリン会議を主催してロシアを妥協させて戦争を回避したが、今度はロシアの不満が高まり、三帝同盟は事実上崩壊した("→三帝協定、→露土戦争をめぐって")。ビスマルクは新たなフランス封じ込め体制の構築を狙い、1882年にはオーストリアやイタリアと三国同盟を結び、1887年にはイギリスとイタリアの間に地中海協定を締結させ、ついでオーストリアもこれに参加させた。他方ロシアとの関係もできる限り維持すべく、1887年に独露再保障条約を締結した("→ビスマルク体制")。一方アフリカやアジアで過熱するヨーロッパ諸国の植民地獲得競争では、英仏の植民地獲得を支援し、両国が植民地の利権をめぐって対立するよう離間を策動し続けた。1884年にコンゴの領有権をめぐってヨーロッパ諸国の対立が深まるとベルリン・コンゴ会議を主催し、植民地獲得の原則を定めた。ドイツ自身の植民地獲得には慎重だったが、1884年から1885年にかけてはアフリカや太平洋上のドイツ人入植地をドイツ領に組み込んでいる("→植民地政策")。こうしたビスマルクの一連の巧みな外交のおかげで普仏戦争後の19世紀後半のヨーロッパではヨーロッパ諸国間の戦争は発生しなかった。この第一次世界大戦までの小康状態は「ビスマルク体制」と呼ばれる。しかしヴィルヘルム2世がドイツ皇帝・プロイセン王に即位すると社会主義者鎮圧法や労働者保護立法をめぐって新皇帝と意見がかみ合わず、1890年3月に首相を辞することとなった("→失脚")。退任後、ヴィルヘルム2世と対立を深めていたが、最終的には屈服した("→首相退任後")。1898年7月30日に死去した("→死去")。スピノザ、ヘーゲル、ランケ、マキャベリ、ゲーテなどから影響を受け、ドイツ統一の精神や統一後の自制の外交などの精神を培ったという("→影響を受けた人物")。反ユダヤ主義政治家に肩入れすることもあったが、基本的には反ユダヤ主義者ではなく、私的人事にはユダヤ人学識者を重用していた("→ユダヤ人について")。保守派や伝統的史観からの評価は高いが、彼と敵対した思想である社会主義や自由主義の立場からは強権的で排他的な政権運営が批判され、アドルフ・ヒトラーの萌芽に位置づけられることも多い。しかしこれに対しては外交のやり方、反ユダヤ主義政策の有無などビスマルクとヒトラーでは正反対だという反論も多い。『』論に立つとヒトラーに結び付けられやすかったが、現在のドイツの歴史学界は「ドイツの特殊な道」論に否定的であるためヒトラーと直接に結び付けられることは減った。政治手腕への評価としては「現実主義者」「ボナパルティスト」などとする物が多い("→評価")。妻はユンカーの娘。彼女との間に長男ヘルベルト以下2男1女を儲けている。長男ヘルベルトは父のもとで帝国外務長官(外相)を務めた("→家族")。【↑目次へ移動する】 ビスマルクは1815年4月1日、プロイセン王国に属するビスマルク家所有の土地において生まれた。父は地主貴族(ユンカー)フェルディナント・フォン・ビスマルク。母はその妻ヴィルヘルミーネ・フォン・ビスマルク(旧姓メンケン)。は14世紀に商人がブランデンブルク辺境伯ヴィッテルスバッハ家から貴族の身分との領地を与えられて以来続く由緒あるユンカーの家系であり、ホーエンツォレルン家がブランデンブルク選帝侯となった後の16世紀にシェーンハウゼンに領地を移された。父はビスマルク家の末子の生まれだが、長兄がユングリンゲンに領主屋敷を構え、他の兄二人は農場を相続せずに職業軍人の道を選んだので父がシェーンハウゼンの土地を継いでいた。母ヴィルヘルミーネの実家メンケン家は貴族ではないが、学者の家系だった。ヴィルヘルミーネの父はプロイセン王フリードリヒ大王に取り立てられ、3代のプロイセン王に内閣秘書官(Kabinettssekretär)として仕えた人物だった。父と母は1806年に結婚し、その第四子として生まれたのがビスマルクであった。ビスマルクが生まれた1815年という年はフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトが敗退し、正統主義と勢力均衡を基調とした保守体制「ウィーン体制」が構築された年だった。ウィーン体制下のドイツ地方にはオーストリア帝国やプロイセン王国、ザクセン王国、バイエルン王国、ハノーファー王国、ヴュルテンベルク王国など39か国が独立して存在し、これらの国はドイツ連邦という緩やかな国家連合を形成していた。またウィーン体制下ではロシア皇帝とオーストリア皇帝とプロイセン国王の間で「神聖同盟」という正統主義と王権神授説を基礎とする絶対君主の国際協力体制が築かれていた。これらウィーン体制はナポレオン戦争の落とし子ともいうべき思想、立憲政治の確立を目指そうとする自由主義や民主主義、民族国家(国民国家)を作ろうとするナショナリズムを抑圧して王権を守るための共同体制であった。しかしウィーン体制側の抑圧にもかかわらず、これらの思想は強まっていくばかりであり、対立は先鋭化していった。1816年にビスマルク一家はポンメルン地方に新たに得たの農場へ引っ越した。ビスマルクはここの牧歌的世界の中で幼少期を送った後、1822年1月に家族の下を離れて王都ベルリンの全寮制学校プラーマン学校に入学し、1827年秋まで在学した。プラーマン学校はが創始したペスタロッチの教育理念に根差した学校だった。しかしビスマルクはプラーマン学校にいい思い出をもっていない。後年ビスマルクはプラーマン学校について「不自然なスパルタ教育」「まるで監獄だった」「この学校時代の事は面白くないことばかりだ」と酷評した。ビスマルクはこの学校でやらされる器械体操が嫌いだった。またプラーマン学校は「万人平等」の理念を掲げていたのでビスマルクの姓に付いた貴族の称号「フォン」が煙たがられて仲間外れにされたとビスマルクは回顧している。プラーマン学校で6年間学んだあと、1827年から1830年までベルリンのにあるに在学した。ついで1830年から1832年までにあるで学んだ。両校ともヒューマニズムを理念としている名門校で多くの学者、官僚、医師を輩出していた。ビスマルクにとってギムナジウムはプラーマン学校と比べれば居心地が良かったようである。プラーマン学校の庶民的な器械体操から解放されて貴族的な乗馬に熱中することができた。また語学に才能を発揮し、とりわけラテン語、フランス語、英語が得意だった。国語(ドイツ語)も「表現力に優れる」という評価を受けている。一方で17歳の時の成績表には「勤勉」の欄に「何事も継続せず。登校も精勤を欠く」と書かれている。ビスマルクは後年の回顧録の冒頭においてギムナジウム教育を終えた時の自身の精神についてこう述べている。「私は1832年に中等教育を終えたとき、共和主義者とまではいかないまでも共和国を最も理想的な国家形態だと確信する汎神論者になっていた」、「しかし多様な影響も君主主義を旨とする生まれ持ったプロイセン的感情を消し去るほど強くは無かった。歴史において私の共感は常に権威の側にあった」。ユンカーの息子は実家の農業に奉仕しないのであればプロイセン王室に軍人か文官として仕えるのが普通であり、ビスマルクもその道を選んだ。しかしビスマルクは軍人になりたがらず、文官になる道を目指した。当時のプロイセンにおいて文官になるためには大学で法学を学ぶ必要があった。1832年4月15日にアビトゥーアを取得し、5月10日に当時イギリスと同君連合関係にあったハノーファー王国ゲッティンゲンにあるゲッティンゲン大学に法学と政治学を専攻として入学した。ここに入学したのは同大学が当時中欧で最先端の大学と言われており、母親が入学を薦めたからであった。当時のドイツの大学では学生団体としてとブルシェンシャフトの二流があった。ブルシェンシャフトは自由主義とナショナリズムの傾向があった。代議士時代にビスマルクは自由主義・ナショナリズム思想と徹底的に戦う事になるが、ビスマルクの回顧録によると学生時代の彼は「ドイツ国民意識が強かった」といい、初めはブルシェンシャフトに近づいたという。しかし所属する学生たちが決闘を拒否していることや礼儀作法に欠けていることからビスマルクの肌に合わなかったといい、結局ビスマルクはランツマンシャフトに加入し、ゲッティンゲン大学在籍の1年半の間に25回も決闘をした。法律の学業はかなり疎かになっていたようだが、政治学の方ではの歴史学の授業を気に入り、後年にもビスマルクは彼の言葉をしばしば引用した。1833年9月にゲッティンゲンを離れてベルリンに戻り、1834年5月からベルリン大学に入学した。ベルリン大学でも勉学に熱心ではなく、ベルリンの社交界で活動することに熱心だった。ビスマルクの学業怠慢を心配した母ヴィルヘルミーネは文官ではなく軍人を目指してはどうかと勧めたが、ビスマルクには軍人になる気は全く無かった。ビスマルクは体系的な学問は続かなかったが、議論好きだったので読書して教養を付けるのは好きだった。世界観の問題、特に宗教の問題をよく討議した。この場合ビスマルクは常に不信仰の側に立ち、宗教に懐疑的だったという。ドイツ観念論には興味を示さず、ヘーゲル右派にもヘーゲル左派にも近付かなかった。またロマン主義にもほとんど関心がなかったが、フリードリヒ・フォン・シラーはよく読んだという。またシェイクスピアやバイロンなどイギリス文学にも関心を示し、これらを通じて英語力を高めた。1834年夏には幼少期からの友人の叔父で当時参謀本部地図作成部に勤務していたアルブレヒト・フォン・ローンの仕事をモーリッツとともに手伝い、ローンの知遇を得た。1835年3月にベルリン大学を去り、5月に高等裁判所の第一次司法試験に合格した。ベルリンの王立裁判所で司法試補教育を受けたが、やがて司法の仕事に飽き始めた。1836年6月末に行政官になるための第2次試験を受けて合格し、アーヘンの県庁で行政官試補として勤務するようになった。ビスマルクは更に外交官に転じたがっていたが、外務省からも県知事からも認められなかった。アーヘンは有名な温泉地であり、イギリス人を中心に外国人旅行客が多く、社交界にもイギリス人が多く出入りしていた。流暢な英語をしゃべるビスマルクはイギリス人女性たちと付き合う様になり、仕事への熱意がなくなった。さらに交際費を稼ぐためルーレット賭博に手を出して借金を背負った。イングランド国教会牧師の娘との交際のためにビスマルクは独断で休暇を取り、ヴィースバーデンへ移ったが、経済的な問題から結婚することはできなかった。失恋に終わったビスマルクは適当な理由をつけて更に休暇を伸ばそうとしたが、アーヘン県知事から却下された。しかし他の県庁への転勤は許可され、1837年9月からポツダムに転勤した。ポツダムで数か月勤務した後、の1年の兵役を終わらせてしまうことに決め、1838年3月末にポツダムの近衛狙撃連隊に入隊した。ついでグライフスヴァルトのポメルン狙撃部隊に入営して兵役を終えた。ビスマルクは兵役後も県庁の仕事に興味が持てず、ユンカーとして農業経営に携わる決意を固めた。ちょうどこの頃、ビスマルク家の農場を実質的に運営していた母の癌が悪化したので(母は1839年1月1日に死去)、父は長男と四男ビスマルクに農場を任せるようになった。1839年の復活祭にポンメルンのクニープホーフの農場に戻り、兄ベルンハルトと共に農場の管理にあたった。1841年に兄がナウガルト群長に選出されると兄弟間で仮の所有分割が行われ、クニープホーフとキュルツの農場をビスマルクが監督することとなった。ナウガルト群長である兄の代理もしばしば務めた。プロイセンの農業生産は19世紀初頭から右肩上がりに伸びており、ビスマルクの農場経営も順調だった。当時のユンカーの独立性は強く、ビスマルクも農民に対して領主警察権や裁判権を行使して絶対的領主として接した。群の委員会などに出席した時には他のユンカーと親しくし、狩猟をよく共にした。しかしこの頃のビスマルクは放埓に振舞って「気違いユンカー」の異名をとっていたという。農業経営が軌道に乗って借金返済も順調に進んだので、1842年7月から9月にかけてイギリス、フランス、スイスを歴訪した。イギリスのマンチェスターでは世界最大の機械工場とマニュファクチュアを見学し、その技術に感銘を受けたが、当時マンチェスターで盛り上がっていたチャーティズム運動などの社会問題にはほとんど関心を払わなかったという。1843年から友人モーリッツ・フォン・ブランケンブルクも司法官を辞めて父親の農場の経営にあたるようになった。ビスマルクは彼の邸宅に足繁く訪問し、モーリッツの婚約者とも親しくなった。やがて彼女を中心に形成されているポンメルンのユンカーの敬虔主義者サークルにも参加するようになった。マリーは伝道心に燃えて不信心なビスマルクを信仰の道に戻すことに熱中していた。1845年にはサークルに所属するフランクフルト・アン・デア・オーダー上級地方裁判所裁判官ルートヴィヒ・フォン・ゲルラッハ(以下「ゲルラッハ(弟)」)の知遇を得た。またその翌年には彼の兄であるレオポルト・フォン・ゲルラッハ(以下「ゲルラッハ(兄)」)の知遇も得た。ゲルラッハ(兄)は国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の近臣で国王に影響力があった。この兄弟はあらゆる革命的政策を「悪魔の業」と看做す強硬保守派であった。彼らの知遇を得たことはビスマルクの栄進に役立つことになる。1845年11月22日に父が死去すると、兄ベルンハルトと農地の所有分割が行われた。ビスマルクはクニープホーフとシェーンハウゼンの農場を相続し、1846年2月にシェーンハウゼンに移住した。ここに移住したのは、この前年の1844年にゲルラッハ(弟)がマクデブルクの上告裁判所の裁判官に転じていたので、マクデブルクに近いシェーンハウゼンに移住した方が立身出世に役立つという政治的判断からと見られる。ゲルラッハ(弟)は、この頃、台頭する自由主義を警戒し、保守勢力を結集しようと若きユンカーを集めていたので、ビスマルクともすぐ親しい関係となった。彼はビスマルクの政治と法律の師となった。1847年7月28日、マリーを通じて知り合った信仰熱心なユンカーの娘とラインフェルトで挙式した。宗教に懐疑的だったビスマルクもヨハンナの影響で信仰の道に戻り、熱心に祈祷を行うようになったという。【↑目次へ移動する】1848年革命の前夜の1845年と1847年、ヨーロッパは不作と金融危機に襲われた。ベルリンはじめ各都市では市民暴動が多発するようになった(じゃがいも革命)。折しもドイツでは自由主義者の活動が活発になっていたが、経済危機の中でそれは増幅された。こうした中、1847年2月に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は勅令を出して第一回を召集した。これは8州の議会の三身分会(騎士・都市・地方自治体の代表者)と領主会(王族、侯爵、伯爵の代表者)をベルリンへ集めた身分制議会であった。ビスマルクは1846年12月から領主裁判権問題で政治運動をしており、その影響でマクデブルクの選挙人に名を知られていた。そのため1847年5月に欠員の生じたマクデブルク身分制議会の議員に選出され、そのまま連合州議会議員になった。連合州議会におけるビスマルクは、復古主義的な貴族強硬保守派(aristocratic ultras)に属した。しかし連邦州議会議員のほとんどはブルジョワ自由主義派か、男爵率いる貴族自由主義的保守派に属しており、強硬保守派は少数派だった。しかしビスマルクは臆することなく強硬保守主義を前面に打ち出した。「神の恩寵を受けた」プロイセン王権による君主主義を擁護し、自由主義的憲法の導入を主張する反政府派の議員を罵った。「キリスト教国家」を擁護し、ユダヤ人を罵った。農民を苦しめていた地主貴族の狩猟権(野鳥獣に農作物が荒れる)を擁護し、農民の立場に立ってその撤廃を求める議員を「共産主義に導こうとしている」として批判した。当時多くの貴族議員たちさえも時代錯誤として反対していたユンカーの領主裁判権を擁護した。全体的には第一回連邦州議会におけるビスマルクの活動はこうした「信仰告白」に留まり、王権とゲルラッハ兄弟に忠誠心を示しただけだった。時にはゲルラッハ(兄)が指示した通りに演説するだけという場合もあったという。1848年2月にフランス王国で革命が発生しルイ・フィリップの王政が打倒され、共和政が樹立された。革命はドイツ連邦諸邦にも飛び火した。プロイセン首都ベルリンでは連日のように民権拡大を求める自由主義者・民主主義者・ナショナリストたちの民衆集会が開かれたが、3月18日に国王軍が市民に向かって発砲したことで市民軍と国王軍が衝突した(3月革命)。国王は王権の延命のために革命勢力と手を結ぶ道を選び、3月19日に市内から国王軍を撤収させて自ら市民軍の管理下に入り、宮殿中庭に安置された革命の死者の前で脱帽し、自由主義者による内閣を構成すると約束し、革命を示す黒赤金の腕章をつけて市内を行進した。ビスマルクはこの革命が発生した時シェーンハウゼンの自邸にいた。後のビスマルク自身の報告によると3月20日にからの使者がシェーンハウゼンにやって来て黒赤金の革命旗を掲げるよう命じたという。これに対してビスマルクはシェーンハウゼンの教会の旗にプロイセン王権を示す黒十字を掲げさせて返事とし、村民たちに村中の猟銃をかき集めさせ、窮地の国王を革命勢力から救いだすべくベルリン進軍の準備を開始させたという。その後単身ポツダムやベルリンへ赴き、自らの勤王の志を伝えるとともに農民軍を率いて参じる用意がある事を政府に告げたが、すでに国王は軍隊を撤収させているとして政府から止められた。ビスマルクは王弟カール王子の名前を使って王位継承権者である皇太弟ヴィルヘルム王子(後の第7代プロイセン王・初代ドイツ皇帝)の妃アウグスタと会見して皇太弟の名で国王の決定を取り消す許可を得ようとしたが、アウグスタに拒否されたという。彼女は自由主義的な思想の持ち主で生涯を通してビスマルクと敵対することになる。ドイツ各邦国の自由主義ナショナリストたちはドイツ統一の道を模索するため、国民主権のドイツ憲法とそれを制定するためのドイツ国民議会の設置を要求した。帝国自由都市フランクフルト・アム・マインに設置されているドイツ連邦議会も3月革命によって各邦国の代表の顔ぶれが変わったことでこれを認めた。プロイセンではとを中心とする自由主義政府が誕生したが、これに対抗してゲルラッハ兄弟は「」という「影の政府」を結成し、宮廷から政府に対して反革命運動を開始した。自由主義政府は国王から統帥権を奪えなかったので、このカマリラが徐々に支配的な地位を確立していく。ビスマルクもこのカマリラに参加していた。自由主義政府はドイツ国民議会とは別にプロイセンにも独自のを設置することを決め、その招集までの過渡期的議会として1848年4月2日から10日にかけて第二回プロイセン連合州議会を召集した。召集された連合州議会でビスマルクは現在の自由主義内閣を「秩序を保った合法的状態を維持できる唯一の政府」と認めつつ、「過去は葬り去られてしまった。国王自らが過去の棺に土をかけた今、過去を復古させることはもはや誰にもできまい。私はこの事を他のどの議員よりも悲しく思っている」と演説した。しかしゲルラッハ兄弟は彼の演説を「酷く無気力」「退却だ」と批判している。1848年5月はじめ、プロイセンでドイツ国民議会とプロイセン国民議会の選挙(普通選挙・間接選挙)が行われ、ビスマルクもその議員になることを希望していたが、当選の見込みがなく諦めた。この直後から全ヨーロッパで保守主義者の反転攻勢がはじまった。6月にはパリで発生した労働者の蜂起がルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック将軍率いるフランス軍により鎮圧された。オーストリア軍も北イタリアやチェコの民族主義運動の鎮圧に成功し、またサルデーニャ王国国王カルロ・アルベルトがイタリア民族主義思想のもとに開始した北イタリア侵攻も退けた。5月18日からフランクフルトにおいて開催されたドイツ国民議会(フランクフルト国民議会)もロシアやイギリスから激しい反革命干渉を受けた。プロイセンでもカマリラが勢いづいた。カマリラは7月から保守世論の喚起を狙って『新プロイセン新聞(Neue Preußische Zeitung)』(鉄十字章を紙面に使っていたことから『』と呼ばれた)の発行を開始した。ビスマルクもこの新聞に協力し、しばしば記事を投稿している。10月にはウィーンで革命派が蜂起するもオーストリア皇帝軍に鎮圧された。保守派のフェリックス・シュヴァルツェンベルク侯爵がオーストリア首相に就任し、自由主義的な約束を負っていた皇帝フェルディナント1世が皇位を追われ、フランツ・ヨーゼフ1世が新皇帝に即位した。11月にはプロイセンでも保守派のフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク伯爵が首相に就任し、革命弾圧が本格化した。ベルリンは再び軍によって占領され、プロイセン国民議会は休会させられた。一方で国王は自由主義者の反発を抑えるためのガス抜きで12月5日に自由主義的なプロイセン欽定憲法を制定した。この憲法はドイツ国民議会が決議した基本的人権のいくつかを盛り込んでいた。またとの二院制の議会を創設して原則として衆議院選挙を普通選挙・間接選挙で行うと定めていた。他方、国王の統帥権や官吏任免権は温存し、これによって絶対主義の本質を守る内容になっていた。ビスマルクは1849年2月5日にブランデンブルクの選挙区から出馬して衆議院議員に当選する。選挙全体の結果は左右両派がほぼ拮抗し、右派も大多数は中道立憲主義者というカマリラにとっては芳しくないものだったが、その分カマリラの数少ない当選者であるビスマルクの重要性は増し、ゲルラッハ(兄)も日記の中でビスマルクに多大な期待を寄せている。一方ドイツ国民議会の自由主義派は、オーストリア首相シュヴァルツェンベルクがハプスブルク帝国の領土を単一不可分な物とする欽定憲法を採択し、ドイツ民族以外の他民族を大量に抱えているオーストリアの現状を変える気がない事を示したのに失望し、大ドイツ主義から小ドイツ主義に転じた。3月27日にドイツ国民議会は連邦制と議院内閣制を定めたドイツ帝国憲法(フランクフルト憲法)を決議し、その翌日にはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世をドイツ皇帝に選出した。4月3日にはその旨を伝える国民議会の使節がプロイセンにやってきたが、国王は他のドイツ諸邦が納得するのであればとの条件を付け、回答を引き延ばした。プロイセン衆議院ではフィンケ男爵ら自由主義派が帝国憲法と帝冠を受け入れるべきと主張したが、ビスマルクはそれに反対した。彼は国民主権を基礎とする帝国憲法は国王から主権をだまし取っており、そのような憲法の下にドイツ統一すべきではなく、プロイセン人はプロイセン人に留まるべきであると主張した。加えてこの憲法が普通選挙と議会の年次予算承認権を認めている点にも反対した。普通選挙は「各階級の政治的教養の低下と反比例して影響力を増大させる」として、議会の年次予算承認権は「普通選挙という博打で選ばれた多数派がいつでも国家機能を停止できてしまう」としてそれぞれ批判した。また議会から帝冠が与えられることについても「王がこれまで自由に我が物としてきた王冠をフランクフルト議会からの封土として受領させようとするもの」と批判した。国王も国民主権を嫌って帝国憲法と帝冠を拒否する考えだったが、4月21日に立憲主義者が多数を占める衆議院が帝国憲法を合法とする決議を行ったため、これに対抗して同日中に衆議院を解散した。この解散総選挙にあたって国王はプロイセン憲法を改正して普通選挙を廃し、納税額に応じたを導入した。これにより保守派の議席は53議席から約三分の一を占める114議席に躍進し、ビスマルクも再選を果たした。国王は4月28日にドイツ帝国憲法と帝冠を正式に拒否したが、これに反発する革命派がドイツ各国で蜂起した。国王は皇太弟ヴィルヘルム王子を司令官とする鎮圧軍を派遣しつつ、自由主義右派の中将の構想を採用して、5月26日にザクセン王、ハノーファー王とともにを結んで、小ドイツ主義の「ドイツ連合憲法」と「ドイツ連合」を創設した。連合憲法は帝国憲法と比べると非民主的な内容ながら、自由主義右派を革命運動から引き離す意図で帝国憲法に依拠した自由主義的な部分も入れていたので「ゴータ派」と呼ばれる自由主義右派が支持していた。しかしこの路線は既存のドイツ連邦議長国であり、「七千万人帝国」構想を推進するオーストリア首相シュヴァルツェンベルクとの対立を深めた。シュヴァルツェンベルクは8月にもドイツ連合はドイツ連邦規約に反するとの見解を表明してバイエルンやヴュルテンベルクから支持を得た。三王同盟はオーストリア以外のドイツ諸邦が全て参加するならという条件になっていたため、10月にはザクセンとハノーファーもドイツ連合から離脱してオーストリア側に付いた。残ったドイツ連合参加国も憲法蜂起の鎮圧にプロイセン軍の助力を得たいがために参加しているだけなのでプロイセン軍が革命勢力を一掃すると結束力を失っていった。プロイセン国内でも正統主義・神聖同盟の立場に立つ強硬保守はオーストリアとの関係を悪化させるラドウィッツのドイツ連合構想に否定的だった。ビスマルクも9月6日の衆議院演説で自由主義者がフランクフルトでの失敗に懲りずに再びドイツ憲法によって君主から主権を奪おうとしていると批判し、ドイツ憲法に対してプロイセン議会が修正・否決する権利を留保すべきと主張した。1850年3月20日から4月29日にかけてドイツ連合参加国によるが召集され、ビスマルクもその議員となったが、ここでもビスマルクはドイツ連合に反対する意思を表明した。普墺の睨みあいは続いたが、ヘッセン選帝侯国で起きた革命の鎮圧をめぐる普墺の対立でロシアがオーストリアを支持する介入をしたことで、国王はドイツ連合構想を諦め、11月2日にラドウィッツを外相から罷免した。後任の新首相・外相オットー・テオドール・フォン・マントイフェルはオーストリアとオルミュッツ協定を結んだ。これは一般にオーストリアへの完全屈服とされ、「オルミュッツの屈辱」と呼ばれた。プロイセンがオルミュッツ協定に抵抗しようとするならば自由主義・民主主義・ナショナリズムを味方につけてブルジョワ議会主義小ドイツ統一を目指していく路線しかなかった。保守派はそれを何よりも嫌ったため、屈辱的であろうともオルミュッツ協定に賛成する立場を取った。ビスマルクも12月3日の衆議院演説で「オルミュッツ協定はプロイセンの地位を貶めたり、その威光や名誉を失墜させるような性格のものではない」、「私はオーストリアとの戦いを恐れているわけではないが、大国の唯一の健全な基礎 ―これによって大国は自らを小国と本質的に区分できる― は、国家的利己心であり、ロマン主義ではない。自国の利害に関係のないところで戦うのは大国にあるまじき行いである」、「君主の助言役は敵(オーストリア・ロシア)よりも危険な同盟者(自由主義者・民主主義者)から君主を守らねばならない。プロイセンの旗がプロイセンの意に反してヨーロッパが追放した者の集合場所にならぬよう監視せねばならない。」と演説した。【↑目次へ移動する】オルミュッツ協定で開催が取りきめられた普墺の会議がドレスデンで開催され、ドイツ連邦機構改革が話し合われたが、オーストリアは対等のドイツ連邦指導権をプロイセンに認めず、プロイセン側もオーストリア全領土をドイツに加えることに反対した(中小邦国や露仏もこの件ではプロイセンを支持)。結局会議は1848年革命で停止されていたドイツ連邦議会を革命以前の状態のまま再開することのみを決定して終わった。連邦議会に派遣するプロイセン全権公使にはプロイセンの利害をしっかり主張しつつ、反革命を共通項にオーストリアと連携できる人物がよいと考えられた。そこで国王はゲルラッハ(兄)中将(当時「国王高級副官」。首相マントイフェルとともに実質的な二頭政治を敷いていた)の推挙でオルミュッツ協定の擁護者であり、熱狂的な君主主義者のビスマルクを連邦議会全権公使にすることを決めた。ビスマルクは1851年5月8日に国王に召集されてその旨を告げられ、さしあたって枢密参事官(Geheimer Legationsrat)に任命された。この抜擢によりこれまで地味な政治家だったビスマルクに本格的にスポットライトが当たるようになった。しかし反発も多く、皇太弟ヴィルヘルム王子は「ラントヴェーア少尉が連邦議会公使になるというのか」と不満を漏らした。首相マントイフェルやゲルラッハ(弟)も官吏試補の公務員経験しかないビスマルクに重要な外交官ポストを宛がうことに疑問を感じていたという。5月11日に過渡期的な公使中将の補佐役としてフランクフルトに着任し、7月半ばにロッヒョウから受け継いで正式に公使となった。しかしオーストリアと保守的連帯をとることは困難だった。オーストリアは革命以上にプロイセンのドイツ連邦破壊の傾向を危険視していた。また中小邦国も強権的な政治体制のプロイセンより多民族国家で不安定なオーストリアがドイツの頂点にある方が干渉される恐れが少ないと考えて親墺反普的な立場をとることが多いので(このためオーストリアはドイツ連邦を維持したがっていた)、プロイセン公使にとって連邦議会は苦しい議場だった。ビスマルクは連邦議会議長を務めるオーストリア公使とドイツ艦隊資金拠出問題、ドイツ連邦出版法制定問題、ドイツ関税同盟問題などをめぐって鋭く対立した。特に関税同盟の問題は保護貿易を推進したいオーストリアと自由貿易を推進したいプロイセンで対立が深まった。フランクフルト時代を通じてビスマルクは神聖同盟などの正統主義から離れ、プロイセン強化のためにはオーストリアと対決することも辞さない立場へ変更していった。またかつてあれほど憎んだブルジョワ自由主義者の小ドイツ主義ナショナリズムや経済思想が反オーストリアやプロイセン大国化に役立つと評価するようにもなった(特に関税問題ではブルジョワと連携したので)。フランクフルトというヨーロッパ金融の一大拠点で生活するようになって自分のような土地貴族とブルジョワの間には共通する利害も多いと感じるようになっていった。この時代、オスマン=トルコ帝国は「死にかけの病人」と呼ばれるほど衰退していた。かつての繁栄の残滓で中近東・北アフリカ・バルカン半島にまたがる広大な領土を領有していたものの、その内情はヨーロッパ列強の半植民地だった。とりわけバルカン半島と中近東への支配権拡大を狙うロシアは、通商上の特権を強要したり、バルカン半島諸国の独立や自治化を支援したりと様々な手段でトルコを浸食した。フランス皇帝ナポレオン3世がトルコからエルサレムのカトリック教徒保護権を獲得したのに対抗し、1853年5月 ロシア皇帝ニコライ1世は自分にもエルサレムのギリシャ正教徒保護権を認めるようトルコに要求したが、拒否された。これを不服としたロシアは7月にトルコ宗主権下のドナウ川周辺国ワラキア公国とモルダビア公国に進軍し、11月に露土間でクリミア戦争が勃発した。ロシアのバルカン半島獲得と地中海進出を恐れた英仏も1854年3月にロシアに宣戦布告した。このクリミア戦争についてプロイセンでは意見が分かれた。自由主義的保守派の貴族や官僚で構成された「」は親英仏政策を取るべきであり、その見返りに英仏からドイツ問題での支持を獲得し、オーストリアに対して優位に立つべしと主張していた。一方ビスマルクの所属するカマリラは神聖同盟擁護の立場から親露を主張した。ビスマルクの政治的立場からいって週報党を支持するわけにはいかなかったが、内心では週報党の考えに共感を寄せていたという。とはいえ公的にはカマリラの一員として行動した。ゲルラッハの召集でベルリンに呼び戻されたビスマルクは、週報党の意見を一蹴するのに貢献し、結果、週報党の面々は罷免され、プロイセンは中立の立場を取ることになった。一方オーストリアも中立を宣言していたが、同国は「ドナウ君主国」とも呼ばれるほどドナウ川の通商で栄える帝国なのでロシアのドナウ川への前進を阻止したがっていた。オーストリアはクリミア戦争参戦を睨んで、1854年4月にプロイセン王に強要して普墺攻守同盟を締結させたが、ビスマルクはこの同盟を「我が国の美しく精強なフリゲート艦を虫食いだらけのオーストリアの軍船に繋ぎとめる物」と批判した。この同盟の締結後オーストリアはバルカン半島への野心を強め、6月にはロシアに対してワラキアとモルダビアからの撤退を要求し、ロシアがオーストリア参戦を防ぐために渋々応じると、9月に代わって同地を占領した。さらに12月には英仏と攻守同盟を結んだ。とはいえオーストリアは財政難だったため、単独での参戦は困難であり、ドイツ連邦軍の動員を狙っていた。1855年1月のドイツ連邦議会でオーストリアは中小邦国を威圧してドイツ連邦軍の兵力の半分をクリミア戦争に動員することを求めたが、ビスマルクは連邦軍が戦時体制をとることを認めつつ、その目的は「あらゆる方向から迫っている危険に対処するため」に変更することを提案した。この提案は対ロシア参戦したくない中小邦国から圧倒的な支持を受け、オーストリアも連邦議会内で明白な敗北を喫して議長国の威信が傷つくのを避けるためにこの提案を受け入れる羽目となった。これによってドイツ連邦軍を対ロシア戦争に引きずり込もうというオーストリアの野望は一蹴された。ビスマルクはクリミア戦争がいまだ終結していない1855年8月にパリ万国博覧会に出席し、そこでフランス皇帝ナポレオン3世の引見を受けた。正統主義者のゲルラッハ(兄)はナポレオン3世を初代ナポレオンと同様にフランス革命の流れを汲む人物と看做して嫌っていたので、ビスマルクの訪仏を快く思わなかった。ビスマルクはゲルラッハ(兄)にナポレオン3世やボナパルティズムに共感など持っていない旨の申し開きをしている。しかし内心ではこの1855年の時点でナポレオン3世が将来プロイセンの同盟者になりうると考えていたという。クリミア戦争はロシアの敗北に終わり、1856年2月3日のパリ講和会議の結果、ロシアは黒海に軍艦を置くことを禁じられ、ドナウ川自由航行も認めることを余儀なくされた。これによりロシアは弱体化し、逆にフランスが影響力を増大させた。またロシアはオーストリアの「裏切り」を恨むようになり、露墺対立が深刻化し、神聖同盟も事実上崩壊した。かといって戦闘に参加していないオーストリアは英仏と関係強化できたわけでもなく、国際的に孤立した。4月26日にビスマルクは首相マントイフェルへの私信の中で、神聖同盟が崩壊した今、ロシア・イギリス・オーストリア・ドイツ中邦国とすべての勢力がフランスと結び付きを強めることを志向しており、したがってナポレオン3世は国際社会で最も枢要な地位を手に入れたこと、そういう中でフランスは対立要素が最も少ないロシアに接近する可能性が高く、それに対抗してオーストリアはドイツ連邦を固めようとするだろうが、神聖同盟の庇護を失ったドイツ連邦に中小邦国が従い続けるかは不透明であること、中小邦国は基本的にフランス庇護下で再びライン同盟になることにもそれほど抵抗感を持っておらず、利益があるならドイツ連邦など簡単に捨てるであろうこと、普墺は根本的利害対立が多すぎて、その間に長期的な同盟関係は成立し得ないことなどを指摘し、今後ますますドイツ連邦の内的弱さが露呈し、普墺対立が深まることを示唆した。1年後の1857年5月のマントイフェルへの意見書の中でビスマルクは、フランスがイギリスと疎遠にならないため、ロシアとの同盟を保留にしている今、フランスにとって間をとる良い方法がプロイセンとの接近であり、普仏の接近が実現すれば中小邦国もライン同盟の望みを絶たれるので、オーストリアがロシアとの関係を改善できない限り、オーストリアだけに従っていても安全が保障されないと感じてプロイセンに接近してくるようになるだろうと主張し、フランスとの接近を推奨した。また同月、ゲルラッハ(兄)にもフランスへの接近を訴える書簡を送り、彼と論争になった。正統主義の原理原則が長期的同盟の基盤と考えるゲルラッハには「正統性のない革命者」ナポレオン3世との同盟など考えられなかった。これに対してビスマルクは疑いなく正統性のあるルイ14世も反普的だったのであり、それは正統性のないナポレオン1世の反普政策と何が違うのかと問いかけ、プロイセンの国益を正統主義のみで判断すべきではないと主張した。ゲルラッハとの意見統一は見ず、二人の距離感は広がった。このゲルラッハとの論争をもってビスマルクは理念的保守主義から「現実政治(Realpolitik)」へ転換したとする評価もある。1858年10月7日、精神疾患の国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に代わって皇太弟ヴィルヘルムが摂政に就任した。皇太弟は憲法蜂起の際に鎮圧軍の指揮をとった人物だが、妃アウグスタの影響で自由主義に理解を示すようになり、マントイフェル首相の親露外交や官僚政治を批判していた。皇太弟は摂政に就任するやただちにマントイフェル内閣を更迭し、ホーエンツォレルン家の分家ジグマリンゲン家のカール・アントン侯を首相、を副首相とする自由主義的保守派貴族による内閣を誕生させた。カマリラの宿敵である週報党もこの内閣に閣僚を出した(この体制は「)」と呼ばれた)。一方カマリラたちは追放され、ゲルラッハ(兄)も当時付いていた役職の侍従武官長を更迭された。ビスマルクも新政権に嫌われて1859年1月29日に駐ロシア全権大使に左遷された。ビスマルクはフランクフルトを去るにあたって後任者がオーストリアに追従するのではと不安だったという。3月にロシア帝国首都サンクト・ペテルブルクに着任した。ロシアで高まる反墺の機運の中、ビスマルクは自分の反墺的立場がロシア皇帝アレクサンドル2世やロシア外相アレクサンドル・ゴルチャコフなどから歓迎されていると感じた。とりわけ親仏反墺の立場を明確にしていたゴルチャコフとは親しくなり、二人は毎日のように会談した。この頃ゴルチャコフはビスマルクとの関係について「手と手袋のよう」と表現している。ビスマルクがロシアに着任した頃、すでにイタリア問題をめぐってフランス・サルデーニャ王国とオーストリアの戦争が不可避になっていた。当時、北イタリアはオーストリア皇帝ハプスブルク家がロンバルド=ヴェネト王国国王として支配していたが、これに対抗してサルデーニャ首相カミッロ・カヴールとフランス皇帝ナポレオン3世はプロンビエールの密約を結び、「異民族の支配からイタリア民族を解放する戦い」を起こすことで同地と教皇領をサルデーニャが併合し、フランスはニースとサヴォワの割譲を受けることを約定した。これに基づきサルデーニャは1859年4月29日にオーストリアと開戦し、フランスもサルデーニャ側で参戦した。この戦争についてドイツ世論は、ナポレオン3世に対する予防戦争を求める声が強かった。ナポレオン3世が次なる狙いをラインラントに定めると一般に考えられていたためである。プロイセン摂政ヴィルヘルムや新時代内閣外相伯爵も態度を不明瞭にしながらも対仏開戦の可能性を示唆した。ゲルラッハ派も正統主義の立場から反ナポレオン3世とハプスブルク家支持を表明した。一方ビスマルクは世論の大勢にもゲルラッハ派にも背いて、来る対墺戦争に備えてフランスから好意を得ておかねばらないとして中立を主張した。ビスマルクはゴルチャコフと連携してロシアがフランス側で参戦するかもしれないという印象をベルリンに送ることで政府に反墺的中立の立場をとらせることに尽力した。結局、プロイセン政府はプロイセンの介入をオーストリアに高く売りつけようという政策、すなわちドイツ連邦軍指揮権を要求する政策を追求した。しかしビスマルクはドイツ連邦軍指揮権など手に入れてもオーストリアに傾きがちなドイツ連邦という鎖に自らを縛り付けてしまうだけと考えてこれに否定的だった。あくまでプロイセン単独の軍事的優位が必要と認識するビスマルクは、中立を維持しつつオーストリア国境に軍隊を派遣して小邦国を脅しつけることで連邦改革の準備を進めるべきと主張した。1859年5月12日付けのシュライニッツ外相宛ての書簡の中で「私の見る限りドイツ連邦の現状がプロイセンの欠陥であり、早急に治療できなければ我々は遅かれ早かれ鉄と火によって治療せねばならなくなるだろう」と書いた事はそれを象徴していた。戦況はオーストリアの敗北が続き、さらにハンガリーで革命が発生したため、オーストリアは早急に講和する必要に迫られた。一方ナポレオン3世もイタリア政策が統制できなくなりつつあり、またプロイセンやドイツ連邦の介入の可能性が捨てきれなかったので早期講和を望んでいた。こうして1859年7月10日には休戦協定が締結され、オーストリアはヴェネト領有権を維持しつつ、ロンバルディアについてはフランスを介してサルデーニャに譲渡するということで戦争は終結した。この戦争はドイツ諸邦の自由主義派・民主主義派・ナショナリストに影響を与えた。1859年にはを模したが組織された。この組織は小ドイツ主義的であり、ビスマルクもこの組織の幹部と接触して、オーストリアとの決戦路線は自由主義派から支援を期待できるという感触を得た。同時に自由と統一を求める声が以前より強くなっており、国民に自由を与えすぎてプロイセン王権を縮小しないためにはどうすればいいのか模索していく必要も感じた。1861年1月2日に国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が崩御し、その弟である摂政ヴィルヘルムがヴィルヘルム1世として新しいプロイセン王に即位した。同年12月のプロイセン衆議院総選挙は自由主義左派政党が109議席、が95議席、カトリック派が54議席、自由主義中央左派が52議席、ポーランド人派が23議席を獲得したが、はわずか15議席しか取れなかった。衆議院の最大勢力となった進歩党は旧派自由主義や中央左派と異なり妥協的でなく、新時代内閣の掲げた公約を彼らが理解している意味で実施するよう要求した。すなわち自由主義的法治国家の樹立、立憲政治の確立、小ドイツ主義に基づくドイツ連邦改革である。保守派はこれらの要求に怒り心頭だったが、ビスマルクは小ドイツ主義連邦改革論に着目し、これを利用すれば進歩党を味方に引き入れられると考えていた。進歩党は1862年3月に軍事費を含めた予算の公表を求める決議案を衆議院に可決させた。これは国王や軍部が推し進めようとしていた軍制改革を牽制するものだった。反発した国王は衆議院を解散するとともに新時代内閣を更迭し、反自由主義者の貴族院議長アドルフ・ツー・ホーエンローエ=インゲルフィンゲンを新たな首相に任命した(実質的な内閣の指導者は蔵相男爵)。しかし1862年5月の解散総選挙の結果は政府にとってさらに壊滅的だった。保守党の議席は11議席になり、閣僚も全て落選した。政府に協力的な態度をとった旧派自由主義とカトリック派も大きく議席を落とした。一方で進歩党が135議席、中央左派が96議席を獲得して躍進した。政府と衆議院の協調は一層難しくなった。プロイセン王権の支柱は陸軍のみとなり、当時陸軍大臣になっていたローン中将が政府の中心になった。軍部の中には衆議院に対する軍事クーデタを計画する者もいたが、ローンは露骨な軍事クーデタには慎重であり、クーデタ無しの政治危機解決と小ドイツ主義とプロイセン王権維持を同時に遂行することを目指す者としてビスマルクを首相にしたいと考えていた。しかし宮廷自由主義者の中心人物である王妃アウグスタがビスマルクを「何の原則もない男」と評して嫌っていたため、国王もビスマルクに不信感を持っていた。ビスマルクは5月10日に国王の招集を受けてベルリンに到着し、国王から長時間に及ぶ引見を受けた。この引見で国王のビスマルクを首相に登用することへの不安はだいぶ解消された。しかしさしあたって衆議院の自由主義派の出方を見る必要があり、また普仏通商条約が普墺協定に違反するとしてオーストリアと外交問題になっていた時期だったので現時点での首相交代は時期尚早として、ひとまずビスマルクは駐フランス全権大使に任命された。フランス皇帝ナポレオン3世は新任の大使が近いうちにプロイセン首相になる可能性が高いと知っていたので、6月26日と27日にビスマルクを引見した。ビスマルクはナポレオン3世との謁見について国王や外相に報告書を送ったが、それを自らの意見表明に利用した。その中で彼はナポレオン3世が民族自決の新潮を理解できないオーストリアに不信感を持っていること、またナポレオン3世はプロイセンとの連携を望んでおり、自分にそれを提案してきたことを指摘したうえで、「フランスと同盟を結ぶべきとは言わないが、フランスと敵対してオーストリアを頼らざるを得ない状況をつ

出典:wikipedia

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