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人権

人権(じんけん、human rights)とは、人間ゆえに享有する権利である。人権思想においてすべての人間が生まれながらに持っていると考えられている社会的権利である。「人権」には「基本的人権」や「基本権」のように関連する概念があり、これらが相互に区別して論じられることもあれば、同義的に使用されることもある。法的には(実定法を越えた)自然権としての性格が強調されて用いられている場合と、憲法が保証する権利の同義語として理解される場合がある。また、もっぱら <国家権力からの自由> について言う場合と、参政権や社会権やさまざまな新しい人権を含めて用いられることもある。人権保障には2つの考え方があるとされる。その第一は、いわゆる自然権思想に立つもので、個人には国家から与えられたのではない、およそ人として生得する権利があるのであり、憲法典における個人権の保障はそのような自然的権利を確認するものとの考え方である。広辞苑では、実定法上の権利のように剥奪されたり制限されたりしない、と記述されている。その第二は、自然的権利の確認という考え方を排し、個人の権利を憲法典が創設的に保障しているとの考え方である。18世紀の自然権思想は19世紀に入ると後退し法実証主義的ないし功利主義的な思考態度が支配的となったとされ、1814年のフランス憲法などがその例となっている。歴史的には「基本的人権」の概念は、18世紀の人権宣言にある前国家的な自然権という点を厳密に解すればそれは「自由権」を意味する(最狭義の「基本的人権」観念)。また「自由権」をいかにして現実に保障するかという点に立ち至ると「参政権」も「基本的人権」に観念されることとなる(狭義の「基本的人権」観念)。上記のような狭義の「基本的人権」観念が18世紀から19世紀にかけての支配的な人権観念であった。18世紀の人権宣言は合理的に行為する「完全な個人」を措定するものであったが、19世紀末から20世紀にかけての困難な社会経済状態の中でそのような措定を裏切るような事態が次第に明らかとなり、具体的な人間の状況に即して権利を考える傾向を生じ、いわゆる「社会権」も「基本的人権」に観念されるようになった(広義の「基本的人権」観念)。なお、最広義には憲法が掲げる権利はすべて「基本的人権」と観念されることもある(最広義の「基本的人権」観念)。しかし、自然権的発想を重視する立場からは国家によってのみ創設することができるような権利はこれに含ませることができないと解されている。日本の憲法学説でも、自然権的発想を重視する限り「基本的人権」(日本国憲法第11条)と「この憲法が国民に保障する自由及び権利」(日本国憲法第12条)が同じ内容を持つものではありえないと解されており、従来、一般には国家賠償請求権(日本国憲法第17条)や刑事補償請求権(日本国憲法第40条)については「この憲法が国民に保障する自由及び権利」(日本国憲法第12条)に含まれることはもちろんであるが基本的人権を具体化または補充する権利として「基本的人権」そのものとは区別されてきた。「この憲法が国民に保障する自由及び権利」(日本国憲法第12条)には広く憲法改正の承認権や最高裁判所裁判官の国民審査権まで含まれるとする学説もある。国によっては憲法が国民に保障する自由及び権利については「基本権」(Grundrechte)と呼んで区別されることがある。近代的な人権保障の歴史は1215年のイギリスのマグナ・カルタ(大憲章)にまで遡る。マグナ・カルタはもともと封建貴族たちの要求に屈して国王ジョンがなした譲歩の約束文書にすぎず、それ自体は近代的な意味での人権宣言ではない。しかし、エドワード・コーク卿がこれに近代的な解釈を施して「既得権の尊重」「代表なければ課税なし」「抵抗権」といった原理の根拠として援用したことから、マグナ・カルタは近代的人権宣言の古典としての意味を持つようになった。マグナ・カルタは、1628年の権利請願、1679年の人身保護法、1689年の権利章典などとともに人権保障の象徴として広く思想的な影響を有し続けている。また、16世紀の宗教改革を経て徐々に達成された信教の自由の確立はやがて近世における人間精神の解放への一里塚となった。中世ヨーロッパでは、人々は国家の公認した宗教以外のいかなる宗教の信仰も許されず、公認宗教を信仰しない者は異端者として処罰されたり、差別的な扱いを受けることが普通であった。このような恣意的な制度に対して立ち上がった人々の戦いは、単に信教の自由の確立にとどまらず、近代における人間の精神の自由への自覚を生みだす役割を果たすこととなった。市民階級の台頭を背景にグローティウス、ロック、ルソーなどにより生成発展された近代自然法論はのちの人権宣言の形成に重要な役割を果たすこととなった。例えばロックは生命、自由及び財産に対する権利を天賦の人権として主張するとともに、信教の自由についても国家は寛容であるべきことを主張している。「天賦の権利」について実定化した最初の人権宣言は1776年のバージニア権利章典である。アメリカ植民地の人々は印紙法に対する反対闘争以来、権利請願や権利章典などを援用することで自らの権利を主張しイギリス本国の圧制に抗していたが、アメリカ独立戦争に突入すると「イギリス人の権利」から進んで自然法思想に基づく天賦の人権を主張するに至った。アメリカで結実した自然法思想はフランスの人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言、1789年)を生み出す原動力となった。フランス人権宣言では人は生まれながらにして自由かつ平等であることを前提に、人身の自由、言論・出版の自由、財産権、抵抗権などの権利を列挙するとともに、同時に国民主権や権力分立の原則を不可分の原理と定めている。人権思想はフランス革命の進行とともにいっそう高まり、1793年憲法では抵抗権の規定が不可欠の義務にまで高められたが、財産権については公共の必要性と正当な事前補償があれば制限し得る相対的なものとなった(ただし、1793年憲法は施行されることはなかった)。18世紀の自然権思想は19世紀に入ると後退し法実証主義的ないし功利主義的な思考態度が支配的となった。フランスの1814年欽定憲法では国民の権利は法の下の平等や人身の自由など数の上でも制限されたばかりでなく、質的にも天賦の権利から国王によって与えられた恩恵的な権利へと変化した。ドイツの1850年のプロイセン憲法も多数の権利規定を置いてはいたが、保障されている権利や自由は天賦のものではなく「法律によるのでなければ侵されない」というものに過ぎなくなった。個人権の考え方を支配していたのは国家の主たる任務は国民の自由の確保にあり、国家は社会に干渉しないことが望ましいという「自由国家」の思想である。憲法による権利保障では法の適用の平等と各種の自由権の保障が中心的な位置を占めていた。自由権は1850年のプロイセン憲法に至って飽和状態となり、以後の諸憲法はほぼこれを踏襲して第一次世界大戦に至ることとなった。18世紀から19世紀にかけて資本主義は急速に発展したが、それとともに諸々の社会的矛盾が現れ始めた。自由競争は社会の進歩をもたらすが、それが正義感覚で是認されるためには競争の出発点は平等でなければならない。産業革命の進展に伴って大量生産時代が普及するとともに生産手段を持たない労働者の数が増大したが、このような無産階級の人々にとって憲法の保障する財産権や自由権の多くは空しいものに過ぎなくなり、自由主義理念に基づく自由放任経済は著しい富の偏在と無産階級の困窮化をもたらした。国家は社会的な権利を保障するため積極的に関与することを求められるようになった。そこで20世紀の憲法にはヴァイマル憲法の流れをくむ自由主義諸国の憲法とソビエト連邦の憲法などの社会主義諸国の憲法の2つの流れを生じた。1919年のヴァイマル憲法は「社会国家」思想または「福祉国家」思想に基づき生存権や労働者の権利といった社会的人権を保障した最初の憲法である。ふつう自由主義諸国においては「自由国家」と「社会国家」の共存が理想とされている。一方、社会主義諸国の憲法は本質的に自由主義諸国の憲法とは異なっていた。自由権の権利保障の場合、単に抽象的な自由を保障するのではなく、自由権の行使に必要な物質的条件の保障もあわせて定められているという特色がある。また、1936年のソビエト社会主義共和国連邦憲法は、市民の消費の対象となる物の所有及び相続は認めていたが、土地や生産手段などの私的所有は禁じていた。しかし、ブルジョア民主主義を経験しなかったロシアや東欧諸国などの社会主義諸国においては憲法そのものが十分に機能せず、そこで保障されていた権利や自由も画餅に帰していた。結局、一党独裁や硬直した官僚主義などの要因によって旧ソ連や東欧の社会主義国家は行き詰まり、これらの国々の憲法も効力を失うこととなった。ただそこでの権利保障の発想は自由主義諸国の憲法にも影響を与えたとされている。国連憲章体制のもとでは、人権の普遍的概念はアプリオリには存在せず、また、人権保障は原則として国内管轄事項であって国連機関による干渉が禁止される領域のものであった。このため、人権の国際的実施は、条約の形で具体化された国家の合意の枠内でまず発展した。条約制度の枠組みを離れた、とくに国連による人権の国際的保護活動が本格的に展開するのは、1980年代以降のことである。1948年12月10日、国際連合は世界人権宣言を採択して宣言した。1966年12月16日には、世界人権宣言に法的拘束力を与えるため、国際連合は国際人権規約(経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約及び市民的及び政治的権利に関する国際規約、市民的及び政治的権利に関する国際規約の選択議定書)を採択した。自由権規約第40条には報告制度、自由権規約第41条には国家間通報制度、選択議定書には個人通報制度が定められている。世界人権宣言の具体的な実現のため、国際連合は国際人権規約以外に人権に関する諸条約を制定している。また欧州評議会は「人権と基本的自由の保護のための条約」を、米州機構は「米州人権条約」を、アフリカ連合は「人及び人民の権利に関するアフリカ憲章」を制定し、人権の国際法上の保障のためそれぞれ人権裁判所を設置している。ゲオルグ・イェリネックの公権論からは国家に対する国民の地位によって「積極的地位」(受益権)や「消極的地位」(自由権)といった分類が行われた。宮沢俊義は「消極的な受益関係」での国民の地位を「自由権」、「積極的な受益関係」での国民の地位を「社会権」とし、請願権や裁判を受ける権利などは「能動的関係における権利」に分類した。佐藤幸治は「包括的基本権」、「消極的権利」(自由権)、「積極的権利」(受益権・社会国家的基本権)、「能動的権利」(参政権・請願権)に分類する。人権の分類は法学者によっても異なるほか、多面的な権利と考えられているものもある。我妻栄は『新憲法と基本的人権』(1948年)などで、基本的人権を「自由権的基本権」と「生存権的基本権」に大別し、人権の内容について前者は「自由」という色調を持つのに対して後者は「生存」という色調をもつものであること、また保障の方法も前者は「国家権力の消極的な規整・制限」であるのに対して後者は「国家権力の積極的な関与・配慮」にあるとして特徴づけ通説的見解の基礎となった。しかし、社会権と自由権は截然と二分される異質な権利なのかといった問題や社会権において国家の積極的な関与が当然の前提となるのかといった問題も指摘されている。教育を受ける権利と教育の自由や労働基本権と団結の自由など自由権的側面の問題が認識されるようになり、時代の要請から強く主張される新しい人権(学習権、環境権等)も自由権と社会権の双方にまたがった特色を持っていることが背景にある。現代では「積極的権利」や「福祉的権利」の比重が著しく増大し、国際人権規約でもまず社会権的なA規約があり、然る後に自由権的なB規約があるなど、具体的人間に即して人権の問題を考えようとする傾向がみられ、「自由権」と「社会権」あるいは「消極的権利」と「積極的権利」という区別はあまり意識されなくなっている(市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)には法の下の平等や生存権なども保障されている)。社会権と自由権の区別そのものを放棄する学説もあるが、社会権と自由権の区別の有用性を認めた上で両者の区別は相対的であり相互関連性を有するとする学説が一般的となっている。1919年のドイツのヴァイマル憲法は社会国家思想を強く打ち出したものであったが、憲法起草時までドイツでは憲法典は政治上の宣言にすぎないと考えられ、憲法典では社会体制や経済的基盤から遊離した政治理想が奔放に述べられた。そのため、憲法典の実施に当たっては裁判所が直接有効な法としての効果を与えるために、「法たる規定」と「プログラム規定」に区分する以外になかった。第二次世界大戦後の各国の憲法典では次のような3つの類型が出現することとなった。日本国憲法では憲法第25条、憲法第26条、憲法第27条などについてプログラム規定と解する説(プログラム規定説)があるが、安易にプログラム規定と性格づけることは疑問とされている。また、例えば日本の憲法25条におけるプログラム規定説は、自由権的側面については国に対してのみならず私人間においても裁判規範としての法的効力を認めており、請求権的側面についても憲法第25条が下位にある法律の解釈上の基準となることは認めている。したがって、文字通りのプログラム規定ではないことから、このような用語を使用することは議論を混乱させ問題点を不明瞭にさせるもので適当でないという指摘がある。請求権的性格を有する基本的人権をめぐっては抽象的権利と具体的権利の区別の問題を生じる。例えば、日本国憲法第25条の権利を、抽象的権利と解する説では、憲法第25条を具体化する法律が存在しているときにはその法律に基づく訴訟において憲法第25条違反を主張することができるとしつつ、立法または行政権の不作為の違憲性を憲法第25条を根拠に争うことまでは認められないとする。一方、具体的権利と解する説では、憲法第25条を具体化する法律が存在しない場合でも、国の不作為に対しては違憲確認訴訟を提起できるとする。ただ、立法不作為の確認訴訟にとどまるものに「具体的」、憲法第25条違反として裁判で争う可能性まで残されているものに「抽象的」といった名称を用いることには疑問の余地があるとする指摘もある。制度的保障とは、一般には、議会が憲法の定める制度を創設し維持することを義務づけられ、その制度の本質的内容を侵害することが禁じられているものをいう。制度的保障では直接の保障対象は制度それ自体であるから個人の基本的人権そのものではないが、制度的保障は基本的人権の保障を強化する意味を有する。制度的保障として捉えられることがある制度には次のようなものがある。国民が人権の享有主体であることは説明を必要としない。国籍の要件は憲法や法律で定められる。国民の要件は憲法で定めている場合もあれば法律に委ねている場合もある。日本の場合、日本国憲法第10条が「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」と定めており、国籍の取得と喪失について国籍法(昭和25年法律第147号)が定めている。日本では、天皇及び皇族について、ともに憲法10条の「国民」に含まれるが世襲制や天皇の象徴たる地位から一定の異なる扱いを受けるとする説(宮沢俊義)、天皇については象徴たる地位から憲法10条の「国民」には含まれないが、皇族は憲法10条の「国民」に含まれ皇位継承に関係のある限りで一定の変容を受けるとする説(伊藤正己)、皇位の世襲制を重視し天皇・皇族ともに憲法10条の「国民」には含まれないとする説(佐藤幸治)など、学説は分かれていて一様ではない。2004年、皇太子徳仁親王が記者会見で皇太子妃雅子に関して述べたいわゆる人格否定発言に関して議論が起きた際、評論家の西尾幹二らは皇族に一般に言われる人権はないとする論陣をはった。その論旨は 天皇および皇族は「一般国民」ではなく、その日常生活にはすべて公的な意味があり、プライバシーや自由が制限されるのは当然とするものである。また、「人権」という言葉は「抑圧されている側が求める概念の革命用語」であり、天皇や皇族が「抑圧」されているのはあってはならない(ありえない)とする。これについて自然権としての人権ということが理解されていないという批判があるが、西尾は人権そのものを否定したのではなく、その適用の対象または範囲に限定して論じたと応答している。この論については竹田恒泰が「人格否定発言について、『皇太子殿下の強い抗議は、ヨーロッパの王族の自由度の広い生活を比較、視野に入れてのことであろう』というが、これも一体どのような取材をした結果だというのか」などと反論し、雑誌記事にコメントする立場にない皇族に対して妄想のいりまじった、無根拠な非難は「卑怯」とした。人権の前国家性からは外国人にも人権の保障は及ぶと解されている。日本では、法理的には日本国憲法第三章の規定はその表題にあるように「国民の権利及び義務」であるとした上で憲法前文の政治道徳の尊重から外国人にも基本的人権の保障が及ぶものと解する学説と、人権の前国家性や憲法の国際協調主義及び日本国憲法第13条前段の趣旨の帰結として外国人にも基本的人権の保障が及ぶものと解する学説がある。ただし、外国人の人権享有主体性を認める場合でも、その法的地位は国民と全く同一というわけではない。たとえば、外交、国防、幣制などを担う国政選挙の参政権は伝統的な国民主権原理のもとでは自国民に限られると解されている。法人についてはドイツ連邦共和国基本法のように憲法典で法人にも人権保障が及ぶことを明文で規定している場合がある。日本国憲法には明文の規定がないが性質上可能な限り内国の法人にも権利の保障は及ぶとするのが確立された法理となっている(八幡製鉄事件判例最大判昭和45・6・24民集24巻6号625頁)。なお、男女同権、良心の自由、婚姻に関する保障などは、その性質上法人には保障が及ばない。国民は一般的には国(または地方自治体)の権力的支配に服しているが、これとは別に法律上の特別の原因に基づいて特別の権力的な支配関係に入ることがある。このような特別の権力的な支配関係としては、公務員や国公立学校の学生や生徒のように本人の同意に基づく場合と、刑事収容施設の被勾留者や受刑者のような場合がある。かつての公法理論である「特別権力関係論」では、このような関係においては法治主義の原則が排除され、特別権力主体には包括的な支配権が認められ、それに服する者に対しては法律の根拠なく権利や自由を制限でき、特別権力関係の内部行為についても司法審査が及ばないとされていた。しかし、現代では、このような人権の制約も、その特殊な法律関係の設定や存続のために内在する必要最小限度で合理的なものでなければならず、権利や自由の侵害に対しては司法審査が及ばなければならないと解されている。外部から隔離された刑務所などの刑事施設の処遇をみればその国の人権意識のレベルがわかるといわれている。日本においては、国際人権規約の下で設置された国連人権委員会において代用監獄の問題を指摘された。人権委員会は1998年の第4回日本政府報告の審査において代用監獄の廃止を勧告している。元来、憲法による基本的人権の保障は国家と国民との関係で国家による侵害から国民の自由を保全しようとするものである。私人相互間の問題は原則として私的自治の原則に委ねられ、問題があれば立法措置で対処すべきと考えられていた。憲法には私人間の適用を明示しているものや明示がなくても性質上私人間での妥当性が措定されているものがある。日本国憲法の場合、第15条第4項、第16条、第18条、第27条第3項、第28条などには私人間の適用があると解されている。そのような規定でない場合の私人間効力については問題となる。日本では、三菱樹脂事件で最高裁が憲法第19条及び憲法第14条について「他の自由権的基本権の保障規定と同じく、国または公共団体の統治行動に対して個人の基本的な自由と平等を保障する目的に出たもので、もっぱら国または公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互の関係を直接規律することを予定するものではない」としつつ「場合によっては、私的自治に対する一般的制限規定である民法一条、九〇条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によって、一面で私的自治の原則を尊重しながら、他面で社会的許容性の限度を超える侵害に対し基本的な自由や平等の利益を保護し、その間の適切な調整を図る方途も存する」と判示した(最大判昭和48・12・12民集27巻11号1536頁)。この判例は間接適用説とみられている。しかし実質的に無適用説的発想であるという見解もある。人権には不可侵性が認められるが、少なくとも人権相互の調整という観点から一定の規制は免れ難い。近代立憲主義では「法律」によって人権の限界が認定されるが、「法律」による人権侵害の可能性をどう考えるかが問題となる。かつては議会に最終判断権が委ねられ、憲法は「法律の範囲内において」権利を保障するという形式が一般的にとられていた。しかし、この方法では議会のあり方によっては人権保障は実のないものとなる。一方、アメリカ合衆国憲法のほか、第二次世界大戦後に制定された日本国憲法やドイツ連邦共和国基本法では、立法部といえども侵害できない部分をも含む形での保障を採用している。この場合でも私的権利の行使や私的活動が絶対的で無制約というわけではなく、立法による制約の対象となりうるが、ただそれが一定の限度を超える場合には違憲という判断を受けることとなる大日本帝国憲法(明治憲法)は日本で最初の立憲主義憲法である。1850年のプロイセン憲法をモデルとしているが、その権利は恩恵的性格が強いもので、その保障も法律の範囲内で認められるものにすぎなかった。したがって、これらの権利は立法権によりほとんど自由に制限しうるものであった。日本国憲法第11条は「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」とし、また日本国憲法第97条は「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」と定めており、これらの規定は自然権の考え方に立脚したものと考えられている。当初、アメリカ合衆国憲法は権利章典の規定を欠いていた。それは合衆国政府は列挙された権限のみを有する「制限された政府」であり、権利章典を付する必要がないだけでなく、それを付することは「制限された政府」の理念に反すると考えられたためであった。人権保障は各州の憲法や権利章典によって確保すればよいという基本的な考え方がとられていた。しかし、急進派から連邦憲法にも権利章典を追加すべきとの主張が出され、各州の批准手続を経て1791年に修正10カ条が付け加えられることとなった。アメリカで結実した自然法思想はフランスの人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言、1789年)を生み出す原動力となった。人権思想は一層の高まりをみせ1793年憲法に至った。しかし、1795年憲法では権利規定が減少するとともに義務規定が増加して人権思想は顕著に後退し始めることとなる。1799年憲法では人権宣言そのものが憲法に置かれなかった。1814年欽定憲法では国民の権利は法の下の平等や人身の自由などに限られ、質的にも天賦のものから国王によって与えられた恩恵的な権利へと変化した。1830年憲法でも天賦人権思想が復活することはなかった。フランスでこのような思想が復活するのは第二次世界大戦後の第四共和国憲法(1946年)であり、前文で1789年の人権宣言にある権利や自由の保障を再確認している。第五共和国憲法(1958年)も前文で1789年の人権宣言によって保障された諸権利の尊重を宣言している。フランスの二月革命はドイツにも波及し、フランクフルト憲法は多くの権利や自由を「ドイツ人の基本権」として保障した画期的な憲法であったが、18世紀にみられたような前国家的人権という性質はみられない(フランクフルト憲法は未発効に終わった)。1850年のプロイセン憲法も多数の権利規定を盛り込んでいたが、それらの権利や自由は天賦のものではなく法律の範囲内で認められるものにすぎず、それはヴァイマル憲法でも変わることはなかった。ドイツで法律によっても制限することのできない保障として天賦人権思想が登場するのは1949年のドイツ連邦共和国基本法(ボン基本法)においてである。

出典:wikipedia

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