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福井英一

福井 英一(ふくい えいいち、1921年(大正10年)3月3日 - 1954年(昭和29年)6月26日)は、日本の漫画家、アニメーター。東京都出身。1921年(大正10年)3月3日、東京の下町に生まれる。旧制郁文館中学校(開成中学校卒業との記述もあり)卒業後、日本映画社で動画スタッフとなり、「線画」(アニメーション)を担当。1945年(昭和20年)、日本敗戦後、東宝資本下で創設された日本動画に入社。木下としお、大工原章、大工原の夫人、福井の妻らと線画スタッフとなる。1949年(昭和24年)、日本漫画映画社で瀬尾光世のもと、33分の長編動画映画『王様のしっぽ』の制作に関わる。製作費600万円(当時)を投入した大作だったが、配給元の東宝・渡辺銕蔵社長から「内容が赤がかっている」と評されて公開されず、日本漫画映画社は倒産。瀬尾は失意のうち出版界へ転身、チーフアニメーターだった福井も小幡俊治、古沢日出夫らとともに児童漫画家に転向する。この年、急死した井上一雄の『バット君』(『漫画少年』)の終了が惜しまれ、読者からの応募原稿から作品を継続する企画が立てられた。その代役として同じ『漫画少年』誌で『ドンマイくん』を連載開始、漫画家デビューを果たす。1951年(昭和26年)、『冒険王』(秋田書店)の鈴木ひろし副編集長から「佐藤紅緑の少年小説の立身出世物語をそのまま漫画にしたような、たとえば黒澤明の『姿三四郎』の漫画版を描いてほしい」との依頼を受けた。1952年(昭和27年)、鈴木副編集長と担当編集者の平田昌兵とともに福井は企画案を練り上げ、『冒険王』1月号から柔道漫画の『イガグリくん』の連載を開始する。『イガグリくん』は爆発的な人気を博し、『冒険王』は瞬く間に発行部数30万部を突破し、返本率5%という怪物誌となった。1953年(昭和28年)、『イガグリくん』の大人気を見て、各漫画誌は次々と追随、柔道漫画のブームが巻き起こった。しかしこの時期、手塚治虫との対抗心が激化し、翌年「イガグリくん事件」が起こった。この時期に激化する月刊漫画誌の売上競争の中、秋田書店が単行本型の「別冊付録」をつけたところ大当たりとなる。別冊競争が始まり、29誌あわせて別冊付録が毎月50点から80点に及ぶに到り、別冊をこなせる漫画家の獲得戦が始まった。このなか福井も各社から別冊注文が殺到し、寝る暇もない超多忙な制作状況となった。1954年(昭和29年)、『銀の鈴』(銀の鈴社)に連載していた『よわむし鈴之助』を基に『少年画報』(少年画報社)に『赤胴鈴之助』の連載を開始した。6月26日、福井は前夜カンヅメ仕事を終えた後、編集者と朝まで飲み明かし一度帰宅してから再びカンヅメ仕事に入った。だがこのとき福井は激しい頭痛に見舞われ、医者を呼ぶこととなった。「過労と、朝まで酒を飲んだせいでしょう」との診断を受け、医師が帰ったその直後に容体が急変し死去した。死因は過労による狭心症だったという。享年34(満33歳没)。絶大な人気で日本漫画史に足跡を残したが、職業漫画家としては実働僅か5年に終わった。こうして福井の『赤胴鈴之助』は第1回目を描いたところで絶筆となったが、「そのまま打ち切りにしてしまうのはあまりにも勿体ない」という少年画報社編集部の判断で、新人漫画家の武内つなよしによって連載が引き継がれた。父親は名人級の木工細工物師。身長175cm、体重80kgを超す巨漢で、酒豪だった。「東京児童漫画会」(児漫長屋)会員であり、高野よしてるや山根一二三は年上の福井を「兄貴」と呼ぶ親しい間柄で、「児漫長屋の3人組」と言われた。月刊誌は月末の1週間が「漫閑期」と言われ、この時期に3人で「充電」と称し、盛大に遊び歩いたという。漫画評論家の夏目房之介は、福井の勧善懲悪タイプのスポーツ漫画が手塚治虫作品とは違う独自の世界を築いていた点を指摘しており、福井の作劇手法の影響下にある後年の漫画家の多さを示唆している(水島新司など)。さらに福井の作品世界と、後の梶原一騎作品の共通点にも言及。手塚が神格化される一方で、福井が忘れ去られそうな現状に疑義を唱えている。福井が過労死する少し前に顔を合わせたうしおそうじは、その土気色の顔色に驚いたという。福井の死から10日ほどたって、馬場のぼる宅で「東京児童漫画会」の集会が開かれ、太田じろう、山根一二三、高野よしてる、木村一郎、古沢日出夫、手塚治虫、馬場のぼる、うしおそうじらが集まり、黙祷をささげた。この席で太田と木村は、福井の死は過剰労働によるもので、そもそも漫画の原稿料の安さによる過剰な執筆作業に問題があるとして、各出版社に対して原稿料の値上げ要求を提案した。当時の「別冊付録は」本誌連載原稿のページ数を超えることもあったほどで、その福井の死を招いた「別冊付録」の原稿料を一律12万円とするように出版各社と交渉を行った結果これを承諾させた。結果的に福井の死は、漫画家たちの過酷な労働条件の改善に生かされた。手塚治虫とはライバルであり、同時に対立関係にあったが、手塚が書いた作品は全て所有していた。手塚自身も自伝『ぼくはマンガ家』(1969年、毎日新聞社)で「福井氏の筆勢を嫉んでいた」と書いている。当時少年画報社の編集者であった福元一義によると、福井は鉛筆で下絵を描いてから丸ペンで丁寧に仕上げる「昔気質の律儀な漫画家」である上に、徹夜ができなかった。一方の手塚は鉛筆で人物などを丸や三角の絵で当たりをとったあと、事務ペン一本のみを使用して直にペンを入れ、一睡もせずに猛烈な速度で原稿を仕上げていく対照的なタイプであった。福井は一度手塚と同室で執筆した際、普段はやらない徹夜ができたことを喜んだものの、ペースを乱されたためか「もう君とは二度と一緒に仕事しない」と手塚に話したという。福井の手塚に対するライバル心も並々ならぬもので、『イガグリくん』の人気ぶりは手塚の牙城を揺るがす勢いだった。「児漫長屋」の漫画家たちも、関西出身の手塚に対するやっかみが強かった。一度「児漫長屋」の仲間たちで、池袋で飲み会を開いていたところ、酔いのまわった福井が手塚に「やい、この大阪人、あんまり儲けるなよ!」とふっかけて口論となった。福井は手塚に「稼ぐばかりが能じゃねえ、ちっとは子供たちのことを考えろ、その態度がおれには腹が立ってならねえ、この贅六め!」と罵倒したという。この福井の手塚に対するライバル心は、1954年(昭和29年)に手塚が『漫画少年』2月号で『ジャングル大帝』と同時連載していた『漫画教室』の133ページの一コマをきっかけに、「イガグリくん事件」として、決定的な衝突を生むこととなった。手塚は持論として「ストーリー漫画家はページ数を稼ぐために無駄なコマや不必要な絵を描く」と批判し、福井の勢いに対する幾分の妬み心から、「悪い例」として「イガグリくん」の絵を描いたのである。これを見た福井は「手塚は俺の『イガグリくん』を悪書漫画の代表として天下にさらしこきおろした」と激怒。親友であり手塚とも縁の深かった馬場のぼるの家に押しかけて、彼を立会人に指名し、馬場とともに少年画報社の編集室に乗り込んで、打ち合わせ中の手塚の胸倉をつかんで、激しく謝罪を要求した。馬場のとりなしで抗議の場を行きつけの居酒屋に変えても福井の怒りは収まらず、手塚に「俺の漫画のどこが無意味でどこがページ稼ぎなのか言ってみろ!」と迫った。対する手塚はしどろもどろで、「あれはイガグリというより架空の絵なんだ」との答えがさらに福井の怒りを買い、「ストーリー漫画にはムードが必要なんだ、たとえ雲ひとつでもストーリーが引き立つなら決して無駄じゃねえんだ、そんなこたあ俺よりてめえのほうが合点承知の助だろうが!」と正論で迫った。ここに至って手塚はついに叩頭して謝罪し、ようやく福井の怒りを解いたが、以後手塚は強烈な自己嫌悪に陥ったという。両者のライバル心がいかにすさまじかったかを示すエピソードである。手塚は翌月の『漫画教室』に、漫画の先生が福井と馬場らしきシルエットの人物にやり込められている様子を描き謝罪の意を表した。その1か月後に福井は過労で急逝しており、手塚は死去の報を受けて競争相手がいなくなったことに「ああ、ホッとした」という感情を覚え、そのことでも自己嫌悪に陥ったと記している。福井の死の直後、手塚はアシスタントを頼んでいた当時高校生の石ノ森章太郎にハガキを出している。内容は以下の通り。その手紙を受け取った石ノ森は手塚の悲しみが行間からにじみ出てるようだったと語っている。その後手塚は漫画「世界を滅ぼす男」で空に浮かぶ雲を福井の形にして自身の追悼の気持ちを漫画の中であらわした。その雲は穏やかな生前の福井の顔の形をしており頭の上部には天使の輪の形をした雲も付いていた。上記の内容だけでは生前常に対立関係だった印象が強いが、手塚の漫画「38度線上の怪物」には福井が、福井の漫画「イガグリくん」には手塚が登場するなど、微笑ましい付き合いもあった。また、馬場のぼると手塚と福井の三人で旅館に泊まった際には朝まで映画「第三の男」のモノマネで盛り上がるなどの深い親交もあった。なお、(日本国の)現行著作権法に基づいて単純に計算するなら、2005年以降、福井の著作権の一切は消滅している。

出典:wikipedia

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