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利根 (重巡洋艦)

利根(とね)は、大日本帝国海軍の重巡洋艦。利根型重巡洋艦(二等巡洋艦)の1番艦。艦名は二等巡洋艦の命名慣例に従い、関東地方を流れる利根川にちなんで名づけられた。この名を持つ帝国海軍の艦船としては2隻目。艦前部に主砲塔4基を集中し後部を飛行機発進甲板・水上偵察機待機所とした、第二次世界大戦当時としては珍しい艦型である。艦名は海上自衛隊の護衛艦に継承された。重巡洋艦であるにもかかわらず河川名が付けられた理由は最上型重巡洋艦(当初は軽巡洋艦であり、改装後も書類上は二等巡洋艦)5番艦として計画されたためである。後に再設計により重巡洋艦(書類上は二等巡洋艦)となるが艦名はそのまま使用された。最初の計画では、最上型と同じ15.5cm砲を装備するいわゆる条約型として1934年(昭和9年)12月1日に起工した。諸外国に通知した時の数値は、基準排水量8,636トン、水線全長187.21mである。しかし友鶴事件や第四艦隊事件の教訓によって計画を変更した。20.3cm主砲2連装4基8門を艦首に集中配置することによって艦尾を空け、水上偵察機搭載能力を増した独特のシルエットを持つ1万t級の重巡洋艦として就役する。艦橋が中央部にあるため、舵を取る時の感度は抜群で操艦しやすい艦だったと伝えられている。マル2計画(第二次補充計画)にもとづく利根型2隻(利根、筑摩)はいずれも三菱重工業長崎造船所にて、ほぼ同時に建造された。1934年(昭和9年)12月1日、日本海軍は三菱重工業長崎造船所で建造の巡洋艦を利根と命名。艦艇類別等級表に『利根型』が新設される。本艦は同日附で起工。1935年(昭和10年)10月1日、利根型2番艦「筑摩」が三菱長崎造船所で起工。1937年(昭和12年)3月19日、「利根」は進水した。同年11月21日、日本海軍は龍崎留吉大佐(潜水母艦「長鯨」艦長)を利根艤装員長に任命した(後任の長鯨艦長は鵜池六蔵大佐)。利根艤装員事務所を設置し、11月26日より事務を開始する。1938年(昭和13年)3月19日、三菱長崎造船所で「筑摩」が進水した。筑摩進水後の3月29日、三菱長崎造船所で大和型戦艦2番艦武蔵の建造が始まった。5月18日、利根艤装員長龍崎留吉大佐は筑摩艤装員長を命じられ、利根型2隻(利根、筑摩)艤装員長を兼務する。11月1日、龍崎留吉大佐(利根・筑摩艤装員長)は敷島型戦艦2番艦(工作艦)朝日特務艦長を命じられる。妙高型重巡洋艦4番艦羽黒艦長友成佐市郎大佐が羽黒艦長と筑摩艤装員長を兼務。利根艤装員長には軍令部課長原鼎三大佐が補職された。11月20日、「利根」は竣工した。横須賀鎮守府籍。同日附で利根艤装員事務所を撤去。原艤装員長も制式に利根艦長(初代)となる。初代主要幹部は、副長山高松次郎中佐、運用長植田松太郎少佐、砲術長根岸實少佐、航海長門田一治少佐、水雷長矢野寛二少佐、分隊長小川正夫中尉、機関長森本芳夫機関中佐。1939年(昭和14年)5月20日、利根型2番艦「筑摩」が竣工。同日附で日本海軍は最上型巡洋艦で編制されていた第七戦隊を解隊。第七戦隊司令官清水光美少将は利根型2隻(利根、筑摩)で新編された第六戦隊司令官に補職される。清水司令官は第六戦隊旗艦を「利根」に指定した。7月下旬、第六戦隊(利根、筑摩)は舞鶴港に初入港。舞鶴に帰港するときは、艦載機を栗田水上機基地に預けることになった。10月20日、西尾秀彦大佐(筑摩艦長)が呉鎮守府附となり(11月15日附で呉海軍工廠総務部長)、原大佐(利根艦長)は筑摩艦長も兼務する。11月15日、第六戦隊は古鷹型重巡洋艦と青葉型重巡洋艦で再編され、第六戦隊司令官清水光美少将は軍令部出仕(後任の第六戦隊司令官は田結穣少将)。旧第八戦隊も解散。利根型2隻(利根、筑摩)は第八戦隊を新編した。第八戦隊司令官は後藤英次少将(前職第二水雷戦隊司令官)。第八戦隊旗艦は「利根」に指定。また艦長人事も行われ、原大佐(利根艦長、筑摩艦長)は扶桑型戦艦2番艦山城艦長へ転任(後日、上海方面根拠地隊参謀長)。海軍人事局第一課長大西新蔵大佐が利根艦長に、旅順要港部参謀長橋本信太郎大佐が筑摩艦長に、それぞれ任命される。原大佐は11月20日をもって退艦した。12月1日、利根型2隻(利根、筑摩)は舞鶴鎮守府に転籍する。利根型2隻(利根、筑摩)は舞鶴市民にとって親しみのある軍艦となった。『舞鶴戦艦、利根、筑摩』の俗称もあったという。同時期、高松宮宣仁親王(昭和天皇弟宮)が利根砲術長として着任する予定だったが、親王急病のため実現していない。1940年(昭和15年)9月17日、呉を出撃して21日、海南島三亜港に到着した。翌日、IC作戦が発動され、本艦は高雄型重巡洋艦3番艦「鳥海」、第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)、第一駆逐隊、第四駆逐隊、舞鶴第一特別陸戦隊、神川丸と共に北部仏印進駐の支援を行った。第八戦隊は船団護衛、上空哨戒任務に従事し、この任務が利根型2隻(利根、筑摩)最初の作戦行動となった。9月29日に帰還命令が下り、10月6日に日本へ戻った。同年10月11日の紀元二千六百年記念行事では、第七戦隊・第八戦隊各艦と共に連合艦隊主力艦が一堂に会した観艦式に参加する。10月15日、大西新蔵大佐(利根艦長)は長門型戦艦1番艦長門艦長に補職(大西は長門艦長を経て、第七潜水戦隊司令官、第八艦隊参謀長等を歴任)。第四艦隊参謀西田正雄大佐が、後任の利根艦長となる。11月28日、第八戦隊司令官は後藤英次少将から海軍省人事局長伊藤整一少将に交代。12月、航空機定数が三座水偵(零式水上偵察機)1機、二座水偵(九五式水上偵察機)3機に変更された。第八戦隊旗艦は一時筑摩になる。1941年(昭和16年)4月10日、海軍大学校長南雲忠一中将は新編の第一航空艦隊に任命。第八戦隊司令官伊藤整一少将は連合艦隊参謀長(第一艦隊参謀長兼務)へ栄転。軍令部第一部長宇垣纏少将が第八戦隊司令官に補職される。宇垣は「利根」に将旗を掲げた。わずか3ヶ月間の勤務であったが、宇垣にとって『餘が最も眞劍に且最も愉快に指揮統率せし戦隊』であり、利根型2隻(利根、筑摩)が真珠湾攻撃から帰還した際には『よくぞ偉勲を奏して目出度帰着せる子供の凱旋を迎ふる親心なるべし』と喜んでいる。8月1日、第八戦隊司令官宇垣纏少将は伊藤の後任として連合艦隊参謀長(第一艦隊参謀長兼務)へ転任。第八戦隊司令官は阿部弘毅少将に替わる。9月1日よりドック入りして補修点検を行った。9月10日、利根艦長西田正雄大佐は金剛型戦艦2番艦比叡艦長へ転任(第三次ソロモン海戦で比叡沈没後、予備役編入)。軍令部艦長岡田為次大佐が利根艦長に任命される。9月12日、利根水雷長畑野健二少佐は睦月型駆逐艦1番艦睦月艦長へ転任(同艦沈没後、駆逐艦萩風や霜月艦長等を歴任)。竹内仁司大尉が利根水雷長となる。「利根」は9月22日に舞鶴を出港。9月26日に宿毛湾へ入った。水偵隊は遠距離索敵や夜間緩降下爆撃の訓練に従事する。10月25日、第八戦隊(利根、筑摩)は第一特別行動部隊に編入され、第一航空艦隊と行動を共にすることになった。11月3日、有明湾に集合すると、司令官や艦長は南雲忠一中将が座乗する旗艦・空母赤城で頻繁に打ち合わせをおこなっている。11月10-13日、呉軍港で燃料補給、弾薬補給を行い、搭乗員は太平洋全域の地図を受け取った。11月14日、呉を出港して佐伯湾に入港すると、17日には長門艦上で山本五十六連合艦隊司令長官が機動部隊幹部将校を前に指示を行っている。18日、佐伯湾を出港。外洋航海中の11月20日午前10時、全乗組員が第一種軍装を着用して上甲板に整列する中、艦長は南雲機動部隊がハワイとアメリカ軍太平洋艦隊を奇襲する真珠湾攻撃を行うことを告げた。翌日、単冠湾に入港、乗組員はタラバガニを釣って英気を養う。11月26日、第八戦隊(利根、筑摩)は南雲機動部隊の1艦として太平洋に出撃した。日本時間1941年(昭和16年)12月8日午前0時、利根艦長は艦内神社に参拝。午前1時、利根1号機(零式水上偵察機)が本艦を発進し、淵田美津雄総飛行隊長率いる空襲部隊より一足先に真珠湾へ向かった。姉妹艦「筑摩」からも索敵機が発進しており、利根機と筑摩機は第一次攻撃隊より1時間前にハワイ上空に潜入し気象や湾内の状況を報告した。午前1時30分、空母6隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴)より攻撃隊183機が発進、午前2時、利根2号機が所在不明の米空母を捜索し、午前5時30分に帰投した。利根1号機は、戦艦霧島のマストを超える飛沫があがるほど荒れた海への着水に失敗し、転覆して失われた。南雲機動部隊は日本への帰路についたが、ウェーク島では島を守る少数のアメリカ軍の海兵隊によって、上陸作戦を決行した南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊艦隊司令長官)が撃退された。ウェーク島第一次攻略作戦の失敗により南雲機動部隊に支援命令があり、第八戦隊司令官阿部弘毅少将指揮下の第八戦隊(利根、筑摩)は、第二航空戦隊司令官山口多聞少将指揮下の空母2隻(蒼龍、飛龍)、第17駆逐隊第1小隊(谷風、浦風)と共にウェーク島へ向かった。12月21日から始まったウェーク島第二次攻略作戦では、利根・筑摩の水偵が周辺索敵と対潜哨戒のため発進する。日本軍は島に航空機地下格納庫があると推測し、陸戦隊により完全占領するしかないと考えていた。23日、日本軍はウェーク島の占領に成功する。任務を終えた第八戦隊は12月29日、呉に入港した。1942年(昭和17年)1月9日、南太平洋における日本軍の作戦拠点を獲得すべく南雲機動部隊(赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴)は出撃、第八戦隊(利根、筑摩)も随伴して日本を出撃した。1月15日トラック入港、17日に出港してラバウルへ向かう。1月23日、利根水上偵察機部隊がブーゲンビル島北方のブカ島を爆撃した。高橋の著作では「零式水偵1機、九五水偵3機」だが、戦闘詳報では「三座水偵2機、二座水偵1機」となっている。1月24-25日には、第八戦隊(利根、筑摩)と軽巡洋艦阿武隈が南雲機動部隊より分離し、水偵隊がアドミラルティ諸島を爆撃する。ビスマルク諸島攻略の終了によって、1月27日トラック泊地に戻った。2月1日、マーシャル諸島に空母2隻を含むアメリカ軍機動部隊出現の報告を受けて出撃するが会敵せず、南雲機動部隊は南洋艦隊に編入されて蘭印作戦の支援に向かった。2月8日、パラオ泊地に到着し、第四戦隊(愛宕、高雄、摩耶)等と合流する。2月15日、パラオを出港して南下し、オーストラリアへ向かう。2月19日、南雲機動部隊によるポート・ダーウィン空襲を支援、空襲中に利根2号機が特設巡洋艦ヘクターを発見して日本軍攻撃隊を誘導、撃沈に貢献した。2月21日、セレベス島スターリング湾に入港した。2月25日、スターリング湾を出港し、クリスマス島近海で行動する。3月1日、南雲機動部隊はアメリカ海軍駆逐艦エドサル("USS Edsall, DD-219")と遭遇、第八戦隊(利根、筑摩)は第三戦隊(比叡、霧島)と共に追跡したが「軽快艦艇に対する射撃は遠距離に於いては命中率不良にして意外に多量の弾丸を消費す」と述べるように、なかなかエドサルを撃沈できなかった。そこで日本空母から九九式艦上爆撃機が発進、爆撃で航行不能になったエドサルに砲撃で止めをさした。続いて3月3日、利根水偵搭乗員の高橋によれば、「利根」は商船を発見し、砲撃で撃沈したと述べている。なお、南雲中将司令部付の信号兵だった橋本廣(兵曹)によれば、商船「モッドヨカード」を攻撃した際に「筑摩」の砲撃が空母赤城(旗艦)の艦上を通過し、南雲中将が第八戦隊を叱責したと証言している。このエピソードも戦闘詳報によれば、駆逐艦磯風・不知火・夕暮・有明による撃沈である。3月11日、スターリング湾に戻った。3月26日、セイロン島攻撃命令を受けてスターリング湾を出港し、オンバイ海峡を通過してインド洋に進出、スンバ島南方を西進した。4月、イギリス軍東洋艦隊の進出にともなってセイロン沖海戦が発生し、南雲機動部隊は大きな戦果をあげた。4月5日午後1時、利根の九四式水上偵察機がイギリスの重巡洋艦ドーセットシャー、コーンウォールを発見した。だが九四水偵は燃料不足のため触接を断念した。午後2時55分、零式水上偵察機(利根1号機)がイギリス軍重巡洋艦を再発見し、艦爆隊を誘導した。ドーセットシャーとコーンウォールの2隻は攻撃開始からわずか17分で沈没したという。4月9日、南雲機動部隊はイギリスの空母ハーミーズを撃沈するなどの戦果をあげたが、利根・赤城はウェリントン爆撃機(戦闘詳報や著作によってはブリストル ブレニム)の奇襲を受けている。第八戦隊は南方作戦の終了にともなって日本本土に戻り、4月23日に舞鶴着。舞鶴海軍工廠で各部の修理を行う。5月16日、舞鶴出港。翌日、柱島泊地に集合する。1942年(昭和17年)6月上旬、第八戦隊は第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将の指揮下、南雲機動部隊(第一航空戦隊《赤城、加賀》、第二航空戦隊《飛龍、蒼龍》、第三戦隊第2小隊《榛名、霧島》、第八戦隊《利根、筑摩》、第十戦隊《長良、谷風、浦風、浜風、磯風、風雲、夕雲、巻雲、秋雲〔燃料補給部隊護衛〕 、嵐、野分、萩風、舞風》)としてミッドウェー海戦に参加する。この時、利根(利根飛行長、武田春生大尉)のカタパルトが故障し利根4号機(甘利一飛曹、大熊一等飛行兵)の発進が30分遅れ日本海軍敗北の一因となったとする文献がある。後年の研究では、筑摩1号機(黒田信大尉《旧姓都間。海兵66期》搭乗)は米軍機動部隊の上空を飛んでいたが、雲量のため発見できなかった(第一次攻撃隊隊長友永丈市大尉が「第二攻撃の要ありと認む」を発信する前)。また利根4号機の発進が遅れたからこそアメリカ艦隊を発見できたのであり、定時に発進していたらかえって発見できなかった可能性が高いと言われている。また土井美二中佐(当時の第八戦隊参謀。利根座乗)は利根4号機のコンパスが狂っており、このためアメリカ艦隊を発見できた可能性を指摘している。後日、甘粕少尉は夜間索敵に出撃して戦死した(1945年5月13日)。ミッドウェー海戦後にアリューシャン作戦を支援した。6月24日、内地(大湊)に帰投した。7月14日、南雲中将は第三艦隊司令長官に補職。第八戦隊司令官阿部弘毅少将は金剛型戦艦2隻(比叡《艦長西田正雄大佐》、霧島《艦長岩淵三次大佐》)で新編された第十一戦隊司令官に任命。解隊された第五航空戦隊の司令官原忠一少将が、阿部少将の後任として第八戦隊司令官となる。利根艦長も岡田為次大佐から装甲巡洋艦八雲艦長兄部勇次大佐に交代する(岡田は7月20日より空母隼鷹艦長。翌年2月、空母翔鶴艦長等を歴任)。また利根二代目艦長大西新蔵少将は第八艦隊参謀長に補職された。北方作戦支援を終えた第八戦隊(利根、筑摩)は桂島泊地を経て舞鶴に回航され、7月16日帰港。同地では軽巡那珂(クリスマス島攻略戦で大破)や駆逐艦複数隻(大潮、薄雲)等と共に、修理と整備に従事する。この時利根の右舷前機タービンに故障が見つかり、応急措置を行った結果、合計出力は152000馬力から148500馬力に減少した。8月6日、第八戦隊(利根、筑摩)は舞鶴を出発。その後、ガダルカナル島の戦い生起にともないソロモン諸島方面へ進出。第二次ソロモン海戦や南太平洋海戦に参加した。第二次ソロモン海戦では、分遣隊(空母《龍驤》、第八戦隊《利根》、第16駆逐隊《天津風、時津風》)として参加、利根甲板の水上偵察機より偽電を発信した。その後、8月24日の対空戦闘に参加、「龍驤」沈没に遭遇した。南太平洋海戦では第十一戦隊司令官阿部弘毅少将が指揮する機動部隊前衛部隊(戦艦《比叡、霧島》、重巡《筑摩、利根、鈴谷》、軽巡《長良》、駆逐艦《谷風、浦風、磯風、秋雲、風雲、巻雲、夕雲》)として行動。本海戦で筑摩(艦長古村啓蔵大佐)が大破、内地に回航され、修理と整備に従事する。1943年(昭和18年)2月15日、第三戦隊司令官栗田健男中将が指揮する内地回航部隊は、第三戦隊(金剛、榛名)、空母2隻(隼鷹、冲鷹)、水上機母艦日進、重巡2隻(鳥海、利根)、駆逐艦5隻(時雨、大波、黒潮、陽炎、嵐)という編制でトラック泊地を出港し内地へ向かう。だが悪天候のため航空隊を収容できなかった3隻(隼鷹、陽炎、黒潮)のみトラックへ引き返した。2隻(利根、日進)は舞鶴に帰投(利根は21日着、日進は24日着)。同地で入渠各艦(那珂、龍田、霞、不知火、初春、日進、太刀風、刈萱)等と共に修理と整備に従事する。3月15日、第八戦隊司令官は原忠一中将から岸福治少将(前職第九戦隊司令官)に交代。翌日、「利根」は舞鶴を出発、修理を終えた「筑摩」と合流する。3月22日、第二航空戦隊司令官角田覚治少将指揮のもと、空母2隻(隼鷹、飛鷹)、第八戦隊(利根、筑摩)、駆逐艦4隻(夕暮、陽炎、初月、涼月)は内地を出発、3月27日にトラックへ到着した。4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、宇垣纏連合艦隊参謀長(元第八戦隊司令官)が負傷する海軍甲事件が起きた。後任の連合艦隊長官古賀峯一大将の指揮下、山本の遺骨を乗せた大和型戦艦2番艦武蔵(連合艦隊旗艦)が内地に帰投する。5月17日、戦艦3隻(武蔵、金剛、榛名)、空母飛鷹、重巡2隻(利根、筑摩)、駆逐艦5隻(第24駆逐隊《海風》、第27駆逐隊《有明、時雨》、第61駆逐隊《初月、涼月》)はトラック泊地を出発。5月22日、横須賀帰着(武蔵のみ木更津冲入泊)。各艦はアッツ島の戦いにより北方作戦に備えたが、同島守備隊は5月29日に玉砕した。6月30日、アメリカ軍はニュージョージア諸島のレンドバ島に上陸を開始、つづいてニュージョージア島にも上陸を敢行し、ニュージョージア島の戦いが始まった。7月8日、第三艦隊司令長官小沢治三郎中将指揮下の空母4隻(瑞鶴、翔鶴、瑞鳳、冲鷹)、水上機母艦日進、重巡3隻(利根、筑摩、最上)、軽巡洋艦2隻(大淀、阿賀野)、駆逐艦部隊(第4駆逐隊《嵐、萩風》、第17駆逐隊《磯風》、第61駆逐隊《涼月、初月》、夕雲型《玉波》)は内地を出撃。7月15日、トラック泊地に到着。続いて第八戦隊司令官岸福治少将指揮下の巡洋艦部隊(利根、筑摩、最上、大淀)及び第十戦隊(阿賀野、磯風、嵐、萩風、初月、涼月)はラバウルに進出、利根は嵐、筑摩は萩風、大淀は磯風に接舷しそれぞれ補給を実施した。準備完了後、第十戦隊司令官大杉守一少将(萩風座乗)指揮下の4隻(水上機母艦《日進》、不知火型3隻《萩風、嵐、磯風》)はラバウルを出撃、ブーゲンビル島のブインへと向かうが、ブイン直前でアメリカ軍機70機以上の攻撃を受け「日進」は沈没した。このあと、第4駆逐隊(萩風、嵐)のみソロモン諸島に残ることになった。他艦(利根、筑摩、最上、阿賀野、大淀、磯風、涼月、初月)はトラックへ帰投した。以後は主に中部太平洋で行動した。10月16日、本艦の機関室タービンに故障が見つかり、第八戦隊旗艦を「筑摩」に移した。トラック泊地で応急修理をおこなったものの、10月28日に再調査したところ別の機械にも破損を発見した。ここに至り前線での修理は不可能と判断され、第十一水雷戦隊司令官木村進少将指揮のもと、10月31日に日本・呉工廠へ向け出発した。戦艦2隻(伊勢、山城)、空母2隻(隼鷹、雲鷹)、巡洋艦2隻(利根、龍田)、護衛駆逐艦(第24駆逐隊《海風、涼風》、第17駆逐隊《谷風》、第7駆逐隊《曙》)という編制である。しかし11月5日朝、「隼鷹」が日本近海でアメリカの潜水艦ハリバットから雷撃され、魚雷1本を艦尾に被雷して直進不能となった。このため、「利根」は「隼鷹」を曳航、11月6日呉に到着した。12月1日、利根艦長兄部勇次大佐は第一艦隊附となり退艦(12月15日より戦艦長門艦長)。重巡古鷹副長、戦艦大和副長、水上機母艦秋津洲艦長等を歴任した黛治夫大佐(当時、海軍砲術学校教頭)が、兄部の後任として利根艦長に任命される(着任12月4日)。利根修理は12月14日に完了した。12月23日-24日、陸軍部隊を輸送するため、第五戦隊司令官橋本信太郎少将の指揮下で呉を出港。戊二号輸送部隊の編制は5隻(重巡3隻《妙高、羽黒、利根》、駆逐艦2隻《時雨、白露》)だったが、時雨(第27駆逐隊司令原為一大佐)が漁船と衝突し、修理のため引き返した。12月29日、夕雲型駆逐艦11番艦「藤波」を加えた戊二号輸送部隊はトラック泊地に到着する。1944年(昭和19年)1月1日、第八戦隊は解隊(八戦隊司令官岸福治中将は軍令部出仕)。この再編により利根型重巡2隻(利根、筑摩)は第七戦隊に編入される。当時の第七戦隊司令官は西村祥治中将。隊番号は、1番艦熊野、2番艦鈴谷、3番艦利根、4番艦筑摩。ただし、利根・筑摩は臨時に第五戦隊司令官橋本信太郎少将の指揮下に入り、カビエン(ニューアイルランド島)への輸送任務をおこなう。1月2日、戊号二号輸送部隊(重巡《妙高、羽黒、利根》、駆逐艦《白露、藤波》)はトラック泊地を出撃。4日にカビエンに到着。同部隊は第22駆逐隊(文月、皐月)の支援を受けていた。米軍機動部隊艦載機約80機は利根以下戊二号輸送部隊を発見できず、第22駆逐隊(皐月、文月)を襲撃。両艦とも損傷、皐月艦長の飯野忠男少佐も戦死した。1月5日、戊二号輸送部隊は被害なくトラック泊地に戻った。1月25日附で「利根」は『敷島部隊』に編入される。2月1日、トラック泊地出撃。2月3日(4日とも)、パラオ入港。16日、パラオを出発。シンガポールに向け移動し、21日にリンガ泊地到着。利根型2隻(利根、筑摩)は南西方面艦隊(司令長官高須四郎中将)の指揮下に入り、27日にリンガ泊地を出撃。スマトラ島南東方のバンカ泊地へ移動、第十六戦隊旗艦の青葉型重巡洋艦1番艦青葉で『サ作戦』の打ち合わせを行う。1944年 (昭和19年) 3月2日、第七戦隊(利根、筑摩)は南西方面艦隊麾下の第十六戦隊司令官左近允尚正少将(青葉座乗)指揮下でバンカ泊地を出撃。重巡3隻(青葉、利根、筑摩)、軽巡2隻(大井、鬼怒)、駆逐艦数隻(敷波、浦波、天霧)等でインド洋方面通商破壊作戦(サ号作戦)に従事する。日本軍の船舶不足を補うため、連合国軍の商船を拿捕することを作戦目標としていた。中央が青葉、右が利根、左が筑摩という横一列陣形で索敵中、3月9日午前11時30分にイギリスの武装商船ビハール号(ベハー号)と遭遇した。拿捕を試みた「利根」はアメリカ巡洋艦に偽装して接近。ビハール号武装射程圏外の距離9000mで軍艦旗を掲げ停船命令を発したが、ビハール号は救難信号を発信しつつ逃走を試みた。拿捕を諦めた「利根」は同船を砲撃により撃沈する。沈没現場で生存者115名を救助した。戦闘詳報によると104名または129名。3月15日、「利根」はバタビアに入港。サ号作戦部隊における戦果はビハール号の撃沈のみであった。サ号作戦を指揮した南西方面艦隊は捕虜処刑命令を出しており、黛治夫大佐(利根艦長)は捕虜35名をバタビアへ送ったものの、サ号作戦終了と部隊解散により残80名の処遇が宙に浮いてしまった。第十六戦隊の指揮下を離れ、3月18日にジャワ島バタビア(ジャカルタ)を出港してシンガポールへ回航。当時利根乗組員(黛艦長、天野軍医長、小勝上等兵曹)によれば、後部甲板に応急の木甲板を設置。捕虜を「涼しい場所へ移す」という名目で艦内から後甲板へ一人ずつ連れ出し、選抜した利根武芸部員(有段者含む)が捕虜80名の処刑を実行した。当身と木刀で気絶させたのち斬首・とどめに刺殺という方法で、3月19日午前零時から約3時間かかったという。戦後、黛治夫(当時利根艦長)は「利根としては彼らにたいしては正当な待遇をして来たつもりだ。別に誇るわけではない。国際法の規定する範囲で訊問し、ある程度の情報を得たことはもちろんである。(中略)利根は戦闘において重巡第一の真価を示したばかりでなく、はからずも日本の海軍は国際法を尊重し、俘虜は人道的にあつかう精神であったことを、世界の記録にとどめることとなった。」と回想している。3月25日、第七戦隊司令官は西村祥治中将から白石萬隆少将に交代(西村少将は9月10日より第二戦隊司令官)。白石は黛治夫(利根艦長)が古鷹副長時代の古鷹艦長であった。「利根」は3月のインド洋における通商破壊戦に従事した後(前述)、リンガ泊地およびタウイタウイ泊地で待機。機動部隊に所属しマリアナ沖海戦(1944年6月)に参加した。本海戦で前衛部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官)所属の各艦(第四戦隊《愛宕、高雄、鳥海、摩耶》、第一戦隊《司令官宇垣纏中将:大和、武蔵》、第三航空戦隊《千歳、千代田、瑞鳳》、第七戦隊、第二水雷戦隊等)が小沢機動部隊本隊の攻撃隊を誤射、「利根」も誤射した。6月24日、内地帰投。射出された利根偵察機は各地を転々とし、7月中旬になって母艦に戻ってきたという。7月8日、陸軍部隊輸送を兼ねて内地を出撃。陸軍輸送物資を積載した戦艦部隊(大和、武蔵、長門、金剛)、重巡熊野等を護衛してリンガ泊地へ向かった。14日午前3時頃、白露型駆逐艦6番艦「五月雨」(第27駆逐隊)が悪天候の中で落伍、行方不明となる。五月雨は捜索に出た利根に発見されて艦隊に戻り、事なきを得た。第一戦隊司令官宇垣纏中将(1941年時の第八戦隊司令官)は、『五月雨にスコール続く輸送かな』『スコールの後に五月雨忘れけり』と俳句を詠んでいる。10月、第七戦隊は捷一号作戦に参加。出撃前、「利根」が「武蔵」に横付けして給油した際、黛(利根艦長)は猪口敏平少将(武蔵艦長)と寺岡正雄大佐(鈴谷艦長)と歓談、黛は手紙や私物を安全と思われた「武蔵」に預けている。10月22日、ブルネイを出港した。10月23日朝、栗田艦隊はパラワン島沖でアメリカの潜水艦2隻(ダーター、デイス)から襲撃され、重巡2隻(愛宕《第二艦隊旗艦》、摩耶)が沈没、重巡1隻(高雄)が大破して駆逐艦2隻(朝霜、長波)に護衛されて離脱という被害を出した。愛宕沈没後の第一遊撃部隊指揮官栗田健男中将は、第一戦隊司令官宇垣纏中将が座乗する戦艦大和(第一戦隊旗艦)に将旗を掲げた。10月24日、シブヤン海にて栗田艦隊はアメリカ軍機動部隊(第38任務部隊)艦載機の空襲を受け、第一遊撃部隊・第二部隊(第三戦隊《金剛、榛名》、第七戦隊《熊野、鈴谷、筑摩、利根》、第十戦隊《矢矧、浦風、浜風、磯風、雪風、野分、清霜》)は旗艦(指揮官鈴木義尾第三戦隊司令官、金剛座乗)を中心とする輪形陣を形成。「利根」は中心(金剛)の斜め右前方3kmに配置された。一連の戦闘により、大和型戦艦2番艦「武蔵」(艦長猪口敏平少将《黛が海軍砲術学校時代の同校教頭》、副長加藤憲吉大佐《黛とは海軍兵学校同期》、砲術長越野公威大佐《黛が古鷹副長時代、同艦砲術長》)が沈没。損傷を受けた3隻(妙高、浜風、清霜)が艦隊から離脱した。戦闘中、黛(利根艦長)は第二部隊(第三戦隊)司令部に「武蔵を掩護する必要ありと認む」と意見具申した結果、武蔵掩護を命じられる。「利根」では武蔵掩護中に爆弾1発が命中したが不発、小型爆弾の被害も限定的だった。「利根」と共に武蔵掩護中の「清霜」」にも爆弾が命中して速力低下をきたした。日没後、黛(利根艦長)は原隊復帰を幾度か意見具申、栗田長官より下令があり第二部隊に復帰した。その際、艦首から沈みつつあった武蔵(猪口艦長)に対し『(ユトランド沖海戦における)ザイドリッツの戦例にかんがみ、艦首浮力の保持に努められよ』と信号、武蔵(猪口)からは了解の返信を貰っている。「武蔵」は便乗していた摩耶生存者を駆逐艦「島風」に移乗させたあと、駆逐艦2隻(浜風、清霜)の支援を受けたが19時35分に沈没。猪口艦長も戦死した。10月25日、「利根」はサマール沖海戦に参加。護衛空母から発進した戦闘機や雷撃機の妨害に悩まされ、機銃掃射により黛も負傷した。408発の主砲弾を発射、うち7発を敵艦に命中させた(黛はさらに命中していたと主張)。本艦はカサブランカ級航空母艦19番艦「ガンビア・ベイ」の至近距離まで進出し、砲撃で同艦を撃沈した。沈没地点。「利根」は漂流するガンビア・ベイ生存者達の至近距離を通過したが、機銃掃射することなく、利根乗組員は敬礼して米兵を見送った。戦後、黛治夫(利根艦長)はガンビアベイ生存者会に、同艦の奮戦を称える手紙を送っている。一方、米艦隊の反撃により、第七戦隊では重巡3隻(熊野、鈴谷、筑摩)が落伍。第二艦隊長官栗田健男中将から反転命令がでると、黛(利根艦長)は第五戦隊司令官橋本信太郎少将(重巡羽黒座乗)に「現状、砲撃中の敵空母を追撃すべき」を意見具申しようとしたが、最終的に断念した。つづいて酸素魚雷の誘爆により大火災となった「鈴谷」より白石第七戦隊司令官を受け入れる。「利根」は鈴谷救援のためカッターボートを派遣。利根短艇乗組員11名(艇指揮、田中春雄中尉)は夕雲型駆逐艦14番艦「沖波」に救助されたが、同艦における対空戦闘で4名が戦死した。一方、第七戦隊旗艦となった「利根」では午後1時40分頃、爆弾1発が後部に命中し、一時舵故障となるが復旧に成功した。本海戦における戦死者は19名(愛宕乗員2名を含む)、負傷者81名(黛艦長を含む)と記録されている。レイテ沖海戦後、栗田艦隊はブルネイに退避していた。「利根」は駆逐艦「島風」(第二水雷戦隊所属)に便乗中だった摩耶生存者を受け入れ、内地に戻ることになった。損傷のため、速力は20ノットに制限されていたという。本艦は輸送任務のためマニラへ向かう空母隼鷹、軽巡木曾、第30駆逐隊(夕月、卯月)と合流。11月10日、隼鷹輸送隊はマニラで「木曾」(木曾は11月13日のマニラ空襲で大破着底)と、スリガオ海峡夜戦から生還した白露型駆逐艦2番艦「時雨」を入れ替え、内地へむかった。11月15日、隼鷹隊はアメリカの潜水艦バーブから雷撃されたが、命中しなかった(木俣滋郎はアメリカの潜水艦ジャラオとする。)。隼鷹隊と別れた「利根」は11月17日に舞鶴へ戻った。舞鶴海軍工廠で損傷箇所の修理と機銃の増設を行う。残存重巡2隻(利根、熊野)となった第七戦隊は11月21日附で解隊された(白石萬隆中将は軍令部出仕)。1945年(昭和20年)1月1日附で、「利根」は練習艦に指定される。同日附で本艦は呉練習戦隊(司令官堀江義一郎少将)に編入、香取型練習巡洋艦2番艦「鹿島」が同隊から除かれた(同艦は第102戦隊に編入)。呉練習戦隊は4隻(利根、磐手、出雲、八雲)となる。1月6日、利根艦長は黛治夫大佐から岡田有作大佐(出雲型装甲巡洋艦2番艦「磐手」艦長)に交代。2月18日、舞鶴港を出港し、20日に呉到着。呉練習戦隊は5隻(利根、大淀《2月15日編入》、八雲、出雲、磐手)となった。3月19日、「利根」は海軍兵学校練習艦として呉にて停泊中、アメリカ第58任務部隊による空襲で至近弾1発を受け、三番砲塔が使用不能となった。江田島湾の津久井茂沖合に錨泊したのち、大破着底した場合に備えて能美島の海岸付近に移動する。松や小枝などで偽装を施した。7月24日、第38任務部隊によって再度空襲を受け、左舷中央部に直撃弾を受ける(呉軍港空襲)。7月28日にも再度空襲を受け、アメリカ軍艦載機の空襲により左舷後部に直撃弾2発と至近弾6発を受けた。左舷後部の直撃弾は1000ポンド爆弾で、地上施設破壊用の瞬発信管であり、利根水平装甲板を貫通せずに爆発したが被害は甚大であり、至近弾もあいまって大浸水をきたした。一時は左舷に20度以上傾斜したが、対岸の海軍兵学校などからも応援を呼んでダメージコントロールに努め、転覆を防ぐため注水作業を実施。7月29日に着底。終戦を迎えた。8月15日、岡田(利根艦長)は呉鎮守府附となり、利根艦長の任務を解かれた。アメリカ軍による調査実施後、「利根」は同年11月20日に除籍された。1947年(昭和22年)4月7日から播磨造船所呉船渠により解体に着手。1948年(昭和23年)5月4日、浮揚に成功。同年9月30日、解体完了。利根の解体をもって呉地区沈没艦の解体は完了した。ビハール号事件に関する戦争裁判により、捕虜の処刑を命令した左近允尚正中将(サ号作戦時指揮官《当時少将、第十六戦隊司令官》は死刑(1948年1月21日、執行)。黛治夫(利根六代目艦長)は捕虜の処刑を実施したものの、捕虜助命に努力していたことや秋津洲艦長時代の行動を考慮され懲役(重労働)7年(服役4年)の判決を受けた。また原鼎三中将(利根初代艦長)はミャンマーにおける民間人殺害の責任を問われ、BC級戦犯として処刑された。大西新蔵中将(利根二代目艦長)は、第八艦隊参謀長時代に発生した峯風型駆逐艦9番艦秋風での民間人虐殺容疑でB級戦犯に指定されるが、起訴却下に終わった。岡田為次少将(利根四代目艦長)は戦犯としてラバウルにて処刑された。現在、能美島(江田島湾)の「利根」着底場所付近には、慰霊碑が建てられている。また、慰霊碑に隣接して「軍艦利根資料館」があり、利根の舵輪、副碇、信号燈、コンパスなどの遺品(装備品)や精密なミニチュア模型などが展示されている。利根型重巡洋艦は開戦の時点で最新鋭巡洋艦であり戦没まで大規模な改装はなかった。しかしながら戦時中には戦訓によりレーダー(電探)の装備と対空機銃の増備を実施している。以下にその変遷を記述するが、いずれも推定であることに注意。最終時の機銃とレーダーは、とされている。

出典:wikipedia

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