『ののちゃん』は、いしいひさいちの4コマ漫画。サトウサンペイの『フジ三太郎』に代わる『朝日新聞』朝刊の4コマ漫画作品として、1991年10月10日から『となりのやまだ君』の題で連載が開始された。同作者の『おじゃまんが山田くん』を意識して付けた名前だったが、主人公であるのぼるくんよりも妹のののちゃんの人気が高かったため、1997年に題と主人公が変更された。いしいの病気療養にともない、2009年11月22日から2010年2月28日まで休載していた。2011年8月13日に連載5000回を達成した。マンガの内容にはそれに関する話題はなかったが、同日夕刊の「素粒子」欄にその旨が掲載されていた。いしいにとって初めての(毎日掲載を前提とした)全国新聞連載作品である。しかし、それまでの雑誌などでの作風を大きく変えることなく作品を執筆しているため、全国紙の新聞連載4コママンガとしては珍しい特徴が見られる(特に『となりの山田くん』初期)。その一つとして、主要キャラクターに関西弁を話す人物を複数設定したことが挙げられる。新聞連載4コママンガとしては、オチが難解なエピソードも散見されるが、それが独特の味を生んでいる。また、有名人に対するあからさまな揶揄や、隠語に近い言葉を登場人物に喋らせるといった点もある(例として、以下のようなものがあった)。日常漫画でありながら、SFやファンタジー的な要素も折り込まれている。兵庫県南部地震発生直後には、被災地の住民の安否を気遣う山田一家の様子が描かれた。その後も約5日間にわたり同地震関連の作品を立て続けに掲載している。一つの時事ネタをこれほど連続して描いたのは後にも先にもこの時のみであった。『ののちゃん』となってからは、有名人の揶揄も含め、時事ネタは減少している。初期は振り仮名はついていなかったが、現在はカタカナで振り仮名がついている。2010年の連載再開後は、のの子のクラスの学級新聞に載った4コマ漫画という体裁で別の漫画が描かれるケースが出ている。内容としては、初期のような実在人物を揶揄したものや、いしいの他の作品(「忍者無芸帖」「嗚呼!栄冠は君には輝かない」「B型平次捕物帳」「仁も義もなき戦い」)と同一もしくは類似したものがある。2011年5月11日掲載の第4908回では、10年前に紫雲出山丸が沈没し、犠牲者が出たことを思わせる内容の作品が掲載された。全集第8巻の人物紹介では一部登場人物の家族が海難事故で死亡したことが書かれている。改題の際、設定と登場人物の大部分、世界観は同じであるが、配役が一部変更された。このほか、連載中にしばしば設定が変更されることがある。『サザエさん』などの作品の同様に、登場人物は年を取らない形式となっている。テレビ朝日で2001年7月7日から2002年9月28日まで放送された。東映アニメーション共同製作。全61回。35話までは1話につきA、Bパートで2本放送されたが、36話よりCパートが追加され3本放送となった。当番組終了後、同年11月から『釣りバカ日誌』がアニメ番組としての後番組になる(なお、『釣りバカ日誌』は全国放送である)。青森朝日放送・秋田朝日放送(23話と49話から59話までは未放送)でも放送。山形テレビとメ〜テレでも、穴埋め的に数回放送された。放送時間は、テレビ朝日は土曜9時55分から10時25分、青森朝日放送でははじめ土曜6時、のち水曜16時、秋田朝日放送では火曜16時に放送。高畑勲監督によるスタジオジブリの長編アニメ映画である。英題は「My Neighbors The Yamadas」。1999年7月17日日本公開。スタジオジブリではこの作品から、セル画を用いないデジタルで制作されることになる。東宝による配給が続いたスタジオジブリ製作作品において唯一、松竹によって配給され、ジブリの事業提携先であるウォルト・ディズニー・ジャパン(後にジブリ社長となる星野康二が代表者)が製作委員会に正式参加し、『もののけ姫』を上回る出資を行った作品である。本作が松竹配給となった理由について、プロデューサーの鈴木敏夫は、ジブリの親会社である徳間書店社長だった徳間康快が東宝側と「ケンカ」してしまったため、松竹でやらざるを得なくなったと記している。作品内容は原作の4コマエピソードを繋ぎ合わせたオリジナルストーリーである。「家族」を描いたテーマの作品を模索していた高畑監督の目に留まり、長編作品として企画が動き始めた。まつ子たかし夫婦を軸に家族の物語が展開していき、のの子は前半の進行役として話が進めていく。前々作の『おもひでぽろぽろ』のように劇中さまざまな歌が挿入され、矢野顕子が主題歌を担当した。また、同年逝去したミヤコ蝶々の最後の映画出演作となった。現実にある作品や商標類(クロネコヤマト、月光仮面、ホンダ・ジョルノなど)が劇中にいくつか登場する。高畑監督の意向で、この映画はデジタル彩色でありながら、水彩画のような手描き調の画面となっている。これを実現するために、実に通常の3倍もの作画(1コマにつき、実線、塗り、マスク処理用の線の合計3枚が必要となる)17万枚が動員され、製作途中の画風模索もあり制作費が膨れ上がったとされる。実はジブリ作品の中で一番枚数を使っているのは、同じ高畑監督の『かぐや姫の物語』が製作・公開されるまではこの作品であった。音響面においては、映画用デジタル音響システムである、DTSデジタルサウンドを、ジブリ作品としては初めて採用した。もちろん、ドルビーデジタルも併用し、その後の劇場版のジブリ作品においては、2つの音響フォーマットが常に採用されている。ジブリがいっぱいCOLLECTIONシリーズで、初めてDVD版が発売された作品でもある。後述の通り興行収入はふるわなかったが、日本テレビ会長だった氏家齊一郎は本作を非常に気に入り、大きな赤字を出しても高畑の監督作品をもう一度見たいとジブリの関係者に要請したことで、『かぐや姫の物語』が誕生することになった。テレビ放送は、日本テレビの「金曜ロードショー」枠で2000年10月13日に放送された1回のみ(視聴率9.9%)。他の長編ジブリ映画が何度もテレビ放送される中で、公開から17年(2016年10月現在)が経過している当作が1度しか放送されていない理由は不明であるが、以上の説明から興業不振が原因であると考えられる。およそ20億円の制作費用をかけ、鳴り物入りで封切られたが、配給収入は目標の60億円を大きく下回る8.2億円に留まった。これは『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ/火垂るの墓』の配収5億円台は上回るものの、『魔女の宅急便』以降の平成期のスタジオジブリ作品では最も興行収入が低く、本作と同じ徳間書店・日本テレビ・博報堂が製作に参加して同年3月に封切られた。配給元の松竹もシネマジャパネスク戦略の迷走や、度重なる興行収入の不振から2000年2月期決算において21億円の特別損失を計上した。鈴木敏夫は興行収入(15.6億円)は「ふつうでいえばまあまあ」だが、「事前の期待値が高かったためによくない印象が残る」と記している。また、当時の松竹は弱体の上に営業担当が初心者で、西日本には封切り映画館がほとんどないといった「とんでもない状況で勝負」しなければならず、「やる前から負け」だったとも述べている。また、松竹は劇場公開に客席数の多い大型の劇場を用意し、それがかえって「ガラガラ」を印象づける結果となった(逆に東宝は、中小の劇場で公開し、行列を作り出すことによって「繁盛している」とアピールする戦術を取っている)。ゴシップ誌『噂の眞相』での映画会社社員による覆面座談会形式の取材を基にするとした記事によれば、松竹は劇場の客数不入りを隠蔽するため、公開初日に社員約300人を丸の内ピカデリーに招集しサクラとして客席を埋めた。動員された社員には、前日に「劇場に顔見知りがいても、けっして挨拶しないように」との通達が出された。松竹は、スポーツ紙や週刊誌の記者に歌舞伎のチケット、スカーフなどを配布するなど、マスコミ対策を実施した。サンケイスポーツは「『となりの山田くん』も15億円の大ヒット、社内が明るくなってきたし、社員が活発になってきた」との大谷信義社長のコメントを掲載した。上記の通り、興行収入では15.6億円である(興行収入と配給収入の関係についてはそれぞれの記事を参照のこと)。この興行不振について、「となりの山田君より、うちの山田君(山田洋次監督)を使えば良かったのに」と週刊誌に揶揄されたほどだった(ただし、公開された1999年時点において山田洋次監督はアニメ作品の監督をしたことはなく、実写作品のみ手がけていた。それ以降でも2010年に一度舞台演出を行った以外は実写作品にのみ関わっており、実際にアニメ作品を監督したとしても結果は未知数である)。また、2002年にスタジオジブリが徳間書店から刊行した『ナウシカの「新聞広告」って見たことありますか?』の本作の章での宣伝担当者による対談文章においては、作品の出来とは別に興行成績が奮わなかった点について「もののけ姫」のヒットと絡めて言及している。たかし・まつ子の結婚から、のぼる・のの子の誕生と成長、山田家とそれを取り巻く人々の日常茶飯事やよしなしごとが、折々に松尾芭蕉や与謝蕪村、種田山頭火の俳句を挟んで歳時記としつつ、暖かく緩やかに描かれる。いしいの出身地である岡山県玉野市では、いしいの協力を得て、2010年7月より原動機付自転車向けにののちゃんをあしらったナンバープレートの交付を開始した。
出典:wikipedia
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