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近藤昭仁

近藤 昭仁(こんどう あきひと、1938年4月1日 - )は、香川県高松市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。近所の遊び友達に4歳年上の中西太がいた。高松一高では、夏、北四国大会出場を賭けた県予選準決勝に進出するが坂出商に敗退、甲子園には届かなかった。、早稲田大学第二商学部へ進学。東京六大学リーグでは在学中2度優勝。春季リーグでは、それまで4連覇を続けてきた立大に競り勝ち、3年振りの優勝に貢献した。同年の全日本大学野球選手権大会でも決勝で再試合の末、関学を降し優勝。二塁手としてベストナインに2度選ばれている。リーグ通算75試合出場し285打数72安打、0本塁打、23打点、打率.253。大学同期に木次文夫一塁手がいた。に大洋ホエールズへ入団。背番号は1。同年には同郷の先輩でもある三原脩が新たに監督となり、大洋は球団創設以来初の優勝を果たす。近藤もルーキーながら5月には二塁手に定着、終盤戦には一番打者として奮闘し優勝に貢献。日本シリーズでは第3戦で、5-5の同点だった9回表に中西勝己投手から勝ち越し本塁打、第4戦では5回表に小野正一投手から先制適時打を放つ。チームは4連勝で初の日本一を飾った。シリーズ2勝の秋山登を抑え、日本シリーズMVPを受賞。その後もレギュラー二塁手として活躍、には自己最高の打率.285(ベストテン7位)を記録する。オールスターゲームにも2回出場した。しかし、にシピンが入団すると定位置を譲る。三塁手や外野手としても起用されるが、に選手兼任コーチとなり、同年限りで現役を引退した。引退後は大洋・横浜( - 一軍守備コーチ, 二軍守備・走塁コーチ, - 監督)、ヤクルト( - 一軍守備・走塁コーチ)、西武( - 一軍守備・走塁コーチ)、巨人( - ・ヘッドコーチ)、ロッテ( - 監督)で監督・コーチを歴任。西武コーチ時代、早稲田大学の先輩でもある監督の広岡達朗に師事。1993年から1995年まで、現役時代に所属した大洋の後身にあたる横浜ベイスターズ監督、1997年から1998年まで千葉ロッテマリーンズ監督を務める(横浜、ロッテ監督はいずれも早大の後輩、江尻亮から引き継いでいる)。中でも、ロッテ監督時代の1998年は現在も日本プロ野球記録の18連敗を喫したことがある。2006年は15年ぶりに巨人のヘッドコーチを務めるが、健康上の問題と成績不振から二年契約の一年を残して現場から退く。は統括ディレクターとしてフロント業務を務め、松本哲也の育成枠登録などを助言した。監督・コーチ業の合間を縫って、TBSテレビ・TBSラジオ解説者、スポーツ報知評論家( - 、、、 - )を務めた。現役時代の主な守備位置は二塁。攻撃面では1、2番を多く打ち、小技を得意としたいぶし銀の活躍を見せた。バントの名手として知られ、通算239犠打は球団記録として残る。1965年の41犠打はに猪子利男(南海)がマークした33犠打を23年ぶりに塗り替え、に平野謙(中日)が51犠打を達成するまで日本記録であった。近藤は小柄ながら非常に気が強く、入団時の監督であった三原はこの性格を逆に利用し、近藤を散々にけなし闘争心を煽りたてる事によって能力を引き出していった。また1という背番号に非常にこだわりを持ち、大学・プロでも「背番号は絶対1番」だと頑として譲らなかったという。1993年、大洋から球団名を改称した横浜の監督に就任。1年目の1993年は、ダブルストッパーの一人盛田幸希が自主トレ中にアキレス腱断裂の大怪我でいきなり戦力のつまづきがあったものの、野村弘樹(最多勝)、ロバート・ローズ(打点王)、石井琢朗(盗塁王)の3人のタイトルホルダーを輩出し、夏前には一時2位まで上昇するも、後半戦に入るとグレン・ブラッグスや佐々木主浩など主軸に故障者が続出。優勝したヤクルトにも大きく負け越しをして5位に終わる。1994年、今度はダブルストッパーの佐々木がキャンプ中に故障。肘を手術するトラブルで二年続けていきなりつまずく。更に先発投手陣が総崩れとなり、10月9日の最終戦で同率5位に並ぶヤクルトに敗れ、総得点が総失点を上回ったにも関わらず最下位になった初のチームとなる。1995年、盛田、佐々木のダブルストッパーが二人揃って大活躍。打線もブラックスが不調だったものの鈴木尚典の台頭等があり穴を埋めた。しかしこの年も、先発陣が不調。チームとして16年ぶりのシーズン勝ち越しと12年ぶりの勝率5割越えを記録したが、任期満了を理由に球団から契約延長はされなかった。1993年は、石井琢朗、畠山準をレギュラーに抜擢し、オフにはFAとなった駒田徳広の獲得を進め、生え抜きベテラン選手が大量解雇された翌1994年からは佐伯貴弘、波留敏夫、鈴木尚典といった、後のマシンガン打線の中心となる若手野手を積極的に起用した。一方投手では斎藤隆、有働克也、三浦大輔、島田直也、五十嵐英樹など若手の台頭はあったものの、盛田、佐々木といったリーグ屈指のリリーフ投手が後ろに控えていた為か、小刻みな継投を好む傾向があり、好機であれば責任投球回数未満であっても先発投手の打順に代打を送ることが多かった。そのことから、好調だった1993年の野村弘樹や1994年の斎藤隆を除き、先発投手に完投をさせることは少なかった。さらにこの作戦結果リリーフに勝ちが転がりやすくなり主に二番手に投げる島田は94年9勝(9敗)、95年10勝(4敗)とリリーフ投手で同じ選手が二年続けてチーム最多勝になる珍事が起きた(94年の先発最多勝は斎藤隆の9勝12敗、95年の先発最多は斎藤隆が8勝9敗、三浦が8勝8敗)。作戦面では、自らの現役時代の得意技であったバントやエンドラン、スクイズを多用する「緻密な野球」を標榜したが、特にスクイズは相手バッテリーに見破られることも多かった。先述の、投手への代打起用以外に捕手に対しても代打を起用することが多く、ベンチ入りの捕手を使いきった状況で代打を送ってしまったこともある。また、巨人戦によく野村弘樹や斎藤隆などの主戦級投手をぶつけた。この時期の横浜は巨人に対して互角、もしくはそれ以上の成績を残したが、一方で1993年は優勝したヤクルトに対し4勝22敗、翌1994年は4位の阪神に対し7勝19敗と特定の球団に大きく負け越し、チーム順位を大きく下げる要因となった。開幕投手は相手がエース級だから勝てる確率が低いとみて、ローテーションの3番手4番手を開幕投手にする傾向がある(しかしロッテ時代は二年間とも開幕戦はエース格の小宮山悟が投げている)。1993年・1994年は二年連続で有働が投げ、95年は野村が投げたが野村は前年絶不調だった。2年続けて開幕投手を努め前年先発で唯一勝ち越し規定投球回数もクリアし飛躍した有働は次のカードに投げた。1997年からはロッテの指揮を執る。当時のロッテは前年の低迷に加え、小宮山悟に並ぶエース格であった伊良部秀輝とエリック・ヒルマンが退団しており、戦力的にはかなり厳しい状態であったが、その中で小坂誠、福浦和也といった新戦力が近藤に見出されて台頭した。しかし、1年目はチームの防御率3点台に対して打線が振るわず最下位、2年目も現在でも日本プロ野球記録である一軍公式戦18連敗を記録し、横浜監督時代に続き再び「チーム総得点が総失点を上回ったにも関わらず最下位」を経験する。これにより契約期間を1年残しての引責辞任となったが、その辞任会見の席で「もっと強いチームで監督をやりたかった」という発言をし、ロッテファンの批判を浴びた。また、ダブルストッパーであった成本年秀や河本育之が故障で離脱するなどリリーフ投手が揃わず、さらにパ・リーグが指名打者制であったこともあってか、先発投手を早々と交代させることが多かった横浜監督時とは違い、先発投手陣を軒並み引っ張る傾向が強かった。特に、伊良部、ヒルマンが抜け、1997年以降小宮山と共にチームのエースとなった黒木知宏は1997年にはリーグ最多となる240イニング、翌1998年も197イニング投げるなど(小宮山も1998年はリーグ最多となる201イニングを投げた)、明らかな負担を強いた。そのため、2001年の黒木の故障はこの頃の酷使が原因である意見も存在する。2004年に9年ぶりに監督に復帰したボビー・バレンタインは、当時長期離脱中であった黒木について「自分がいたらこんな無用な怪我はさせていない」と語っている。これはバレンタイン解任後の1997年以降、黒木が敗戦試合にも意味なく長いイニングを投げたことを意味すると思われる。横浜、ロッテで監督として最下位を経験しており飯田徳治、別当薫、根本陸夫に次いで史上4人目の両リーグ最下位監督になっている。1962年11月13日に女優の北沢典子と結婚。次女は同じく女優の近藤典子。プロレスラーの中西学は元娘婿。

出典:wikipedia

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