反ユダヤ主義(はんユダヤしゅぎ)とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する敵意、憎悪、迫害、偏見を意味する。 旧約聖書のエステル記に離散したユダヤ人(ディアスポラ)に対する反ユダヤ的態度がすでに記述されており、19世紀以降に人種説に基づく立場は反セム主義(はんセムしゅぎ、)またはアンティセミティズムとも呼ばれる。フランツ・ヨーゼフ1世(在位1848年 - 1916年)の治下でオーストリア・ハンガリー帝国が成立(1867年)。しかしプロイセン王国のドイツとサルデーニャ王国のイタリアに破れ、ドイツから締め出された形となった上にロシアとの深刻な対立を抱えていた。内には、妥協策として成立した二重帝国の複合民族国家としての苦悩があった。ここにおいてオーストリアは、多民族共生・多文化共存の方針を打ち出さざるを得なくなった皇帝フランツ・ヨーゼフは対ユダヤ人融和策をとり、1860年代の自由主義的な風潮の中で、職業・結婚・居住などについてユダヤ人に課せられていた各種制限を撤廃した。これは、前世紀のヨーゼフ2世の「寛容令」の完成であり、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言において唱えられた自由・平等の実現でもあった。土地所有が禁じられていたユダヤ人たちに居住の自由が与えられたため、それまで縛り付けられていた土地から簡単に離れることができた。1894年、フランスでドレフュス事件。これは、参謀本部に勤めるユダヤ人大尉であったアルフレド・ドレフュスに対する冤罪事件である。フランス民衆の間に反ユダヤ主義の声がことさらに高まった。ウィーンで美術を学んでいたアドルフ・ヒトラーは、当時、キリスト教社会党を指導していたカール・ルエーガーの反ユダヤ主義演説に感動し、汎ゲルマン主義と反ユダヤ主義に基づく民族主義政治運動を率いていたゲオルク・フォン・シェーネラーからも強い影響を受けていた。反ユダヤ主義的政策を実行に移したのがドイツにおける国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)であった。ナチ党はその創設当初から強い反ユダヤ主義を掲げ、ナチ党の権力掌握後はドイツの国策の一つとなった。1933年にはユダヤ人などを公職から排除する「)」が制定され、1935年にはいわゆる「ニュルンベルク法」によってユダヤ人は公民権を奪い去られた。第二次世界大戦が勃発すると、ヒトラーらはヨーロッパのユダヤ人をマダガスカル島に移送するマダガスカル計画を立てたが、中止された。代わって「ユダヤ人問題の最終的解決」の手段とされたのが絶滅収容所であった。移送された者の多くは大量虐殺の被害にあった。これは「ホロコースト」と呼ばれている。ユダヤ人の迫害についても時代と地域によって大きな差がある。セファルディムのエリアス・カネッティは、オスマン帝国領であったブルガリアからドイツ語圏に移住して初めてヨーロッパのユダヤ人差別の実態を知り、「驚いた」と述べている。イスラーム教国でもユダヤ人は二等市民として厳しく差別される存在であったが、ヨーロッパに比べれば比較的自由と権利が保障されていた。南フランスでは歴史的にユダヤ教徒追放はあったものの、フランス革命前まで南フランス文化の一部として、数々の美しいシナゴーグが建設され、数多くのラビが誕生した。ヴィシー政権下、村ぐるみでユダヤ人を匿(かくま)った歴史も知られるところである。歴史的に見て、南フランス・ラングドックはある時期までイル・ド・フランスの中央政府の政治とは無縁で、中世にアルビ派・ワルドー派が弾圧された地域でもあり、ユダヤ教徒を迫害の標的にする必要などなかった、ということが言われるが、中世には南フランスでもユダヤ人に対する迫害があった。14世紀フランスで井戸や泉に毒が入れられたという噂が流れ、多くのハンセン病者とユダヤ人が犯人とされ、火刑に処されたが、これはカルカソンヌでも発生した事件である。『シオン賢者の議定書』には多数の類書があるが、たんに相互参照を繰り返して話がふくらんでいるだけで、陰謀の直接的証拠は全くない。しかし陰謀論者たちが秘密結社フリーメイソンとユダヤ人を結びつけたことにより、両者が結託して陰謀をめぐらしているという根も葉もない俗説が広まった。実際には、ドイツのフリーメイソンリーはもとよりユダヤ人の扱いには賛否両論であり、『議定書』の独語版が出版されるとユダヤ人の加入を断るようになった。『シオン賢者の議定書』が作られた当時のロシア宮廷にはパピュスこと等のオカルティストがコネクションを有しており、後年、パピュスに『議定書』捏造の濡れ衣を着せる記事がポーランドで書かれたこともあった。『議定書』の草稿のロシアへの持ち込みに関与したとされる、ユリアナ・グリンカという女性も神智学に傾倒していた。1918年、日本はシベリア出兵を行うが、日本軍と接触した白軍兵士には全員『シオン賢者の議定書』が配布されていたことにより、日本軍は反ユダヤ主義の存在を知ることになる。シベリアから帰った久保田栄吉は1919年に初めて日本にこの本を紹介した。最初に一冊の本で『シオン賢者の議定書』を紹介したのが北上梅石(樋口艶之助)の『猶太禍』(1923年)であった。樋口艶之助はロシア語通訳としてシベリア出兵に参加しており、直接白軍将校と接触している。樋口の翻訳を読み酒井勝軍は1924年に『猶太人の世界征略運動』など3冊を相次いで出版した。陸軍の将軍であった四王天延孝も『シオン賢者の議定書』を翻訳し、また反ユダヤ協会の会長を務めた。後の大連特務機関長になる安江仙弘はシベリア出兵で武勲を上げたが、日本に帰ってくると1924年に包荒子のペンネームで『世界革命之裏面』という本を著し、その中で初めて全文を日本に紹介した。また、独自に訳本を出版した海軍の犬塚惟重とも接触し、陸海軍のみならず外務省をも巻き込んだ「ユダヤの陰謀」の研究が行われた。しかし、陰謀の発見等の具体的成果を挙げられなかった。安江仙弘や犬塚惟重は、満州国経営の困難さを訴えていた人らと接触するうちに、ナチス・ドイツによって迫害されているユダヤ人を助けることによってユダヤ資本を導入し、満州国経営の困難さを打開しようと考えるようになった。これが河豚計画である。安江仙弘や犬塚惟重は反ユダヤ主義とは全く正反対の日ユ同祖論を展開、書籍を出版することなどによって一般大衆や軍にユダヤ人受け入れの素地を作ろうとした。結局河豚計画は失敗するが、数千人のユダヤ人が命を救われたりと成果も残すこととなった。ゲーム会社のタイトー創業者であるロシア系ユダヤ人ミハエル・コーガンも安江らの影響で日本で活躍の場を求めるようになった。『シオン賢者の議定書』が日本に持ち込まれる際に、シベリアから『マッソン結社の陰謀』というわら半紙に謄写版刷りの50枚ばかりの小冊子が持ち込まれた。これが日本では、フリーメイソン陰謀論がユダヤ陰謀論と同時に語られるきっかけになった。『マッソン結社の陰謀』は1923年に「中学教育の資料として適当なものと認む」という推薦文とともに全国の中学校校長会の会員に配布された。1924年には「日本民族会」、1936年には「国際政経学会」という組織が結成され、『国際秘密力の研究』や『月刊猶太(ゆだや)研究』という雑誌が発行された。これらの組織の主要メンバーであった赤池濃は貴族院議員であった。1928年9月に、誕生したばかりの思想検事の講習会が司法省主催で開催された。その中で四王天により『ユダヤ人の世界赤化運動』が正科目として講座が開かれた。ナチス・ドイツの成立以前の新聞報道では、反ユダヤ主義はほとんど積極に取り扱われていなかった。ナチ党の権力掌握から間もない頃には、東京朝日新聞などでもナチスのユダヤ人迫害に対して批判的な論調が見られた。ナチスに対する支持が増幅するについて、反ユダヤ主義的な見解が広がり、黒正巌は大阪毎日新聞の紙上でナチスの経済政策を激賞し、労働精神を有しないユダヤ人はドイツ国民と断じて相容れず、「国民を利子の奴隷より解放しようとするならば、当然にユダヤ人を排斥せざるを得ないのである」と論じている。1938年のアンシュルス後には大阪朝日新聞ではオーストリアのドイツへの統合問題を述べた「ユダヤ人を清掃すればよい程度」という表現が用いられ、大阪毎日新聞も水晶の夜後にユダヤ人に対して課せられた賠償問題についても「ドイツ人がユダヤ人を煮て食はうが焼いて食はうが米国の口を出すべき問題ではない」と論じている。1944年1月26日の第84回帝国議会で四王天はユダヤ人問題について政府要人たちに質問をするが、回答した安藤紀三郎内相、岡部長景文相、天羽英二(内閣情報局総裁)いずれも四王天の意を迎え、反ユダヤ主義的回答を行った。大阪毎日新聞は四王天を講師として迎えた企画展「国際思想戦とユダヤ問題講演会」などの、類似の反ユダヤ主義勉強会やイベントをたびたび開催し、主筆の上原虎重も講師として加わっていた。大阪毎日新聞はこのほか、連合軍によるローマ空襲でバチカンが被害を受けたことも「ユダヤ人とユダヤ思想を基礎とするフリー・メーソンリの計画」であると社説に掲載したほか、連合国の指導者を「ユダヤ民族の総帥」であるとするなど、たびたび反ユダヤ主義・陰謀論的な論説を掲載している。このほか白鳥敏夫、大串兎代夫、大場彌平、長谷川泰造といった執筆陣によってこの見解を敷衍する連載も行われている。吉野作造は1921年に『所謂世界的秘密結社の正体』という文章を書き、フリーメイソンの弁護を行った。吉野はユダヤ陰謀論者が用いている「マッソン結社」という呼称をまず批判したが、これは逆に酒井勝軍らに再批判されている。また、吉野は『シオン賢者の議定書』に種本があることを指摘した。八太徳三は『想と国と人』誌に『猶太本国の建設』という文書を著し、ここで『シオン賢者の議定書』の捏造状況を記述した。厨川白村は『改造』誌1923年5月号の『猶太人研究』に「何故の侮蔑ぞや」という文書を著し、ここで「個人主義傾向のユダヤ人に大きな団体的な破壊活動などが出来る筈がない」と主張した。新見吉次は1927年5月に『猶太人問題』を刊行した。その中でユダヤ人の陰謀説が日本に相当根を張っている状況を憂い、歴史的事実を通してその批判を行っている。最も積極的にユダヤ陰謀論を批判したのが、満川亀太郎であった。1919年の『雄叫び』誌に載せた文章をはじめ、継続的にユダヤ陰謀論を批判している。1929年に満川は『[ ユダヤ禍の迷妄]』を、1932年に『[ 猶太禍問題の検討]』を著しユダヤ陰謀論を批判している。その他、ユダヤ人陰謀説を批判している人もいるが、妄説を相手にしているのは大人げなく黙殺するという態度を取る人が多く、結果的に陰謀説の方が優勢を示すこととなった。オトポール事件や河豚計画にも関わった樋口季一郎は、第1回極東ユダヤ人大会に招かれてナチスの反ユダヤ主義政策を批判する演説を行っているが、日本の新聞では大会の存在すら報道されなかった。作家山中峯太郎は少年向け雑誌『少年倶楽部』に1932年から1年半『大東の鉄人』という小説を連載する。この小説では、ヒーローが戦う相手は日本滅亡を画策するユダヤ人秘密結社シオン同盟とされた。山中は安江の陸軍士官学校における2年先輩であった。また、海野十三や北村小松らもユダヤ人を敵の首領とする子供向け冒険小説を書いている。太宰治もユダヤ陰謀論的に自著が扱われた事実を戦後書いており(『文化展望』誌に1946年6月に書いた文章「十五年間」)、戦前ユダヤ人の否定的イメージが子供達でさえ了承することを自明視していたほど反ユダヤ主義的言説が日常的に流通していた。1938年10月7日、外務省から在外公館長へ『猶太避難民ノ入國ニ關スル件』(猶太避難民ノ入国ニ関スル件)という極秘の訓令が近衛文麿外務大臣の名で発せられた。戦後は1986年宇野正美によって『ユダヤが解ると世界が見えてくる』(徳間書店)が出版され、一大ベストセラーとなった。1987年1月17日付の読売新聞は、宇野の説を好意的に取り上げた。自民党保守派は憲法記念日の大会に宇野を招待した。ユダヤ陰謀論は一部のマニアックな言説としてだけではなく、日本のメインストリームにも受け入れられていた。1981年に五島勉によって出版された『ノストラダムスの大予言III-1999年の破滅を決定する「最後の秘史」』でもユダヤ陰謀説は展開された。内田樹は英語であれば "Jew" や "Jewish" の一語で表せるが、日本語ではたんに「ユダヤ」とは呼ばず、その後に「〜人」、「〜民族」、「〜教徒」とつけて呼び習わしているが、「教徒」では宗教的な意味合いだけで考慮されることが多く、「〜人」「〜民族」という表現から(民族と人種の概念を混同して)「ユダヤ人」がひとつの「人種」であるという誤った印象を受けてしまう人もいる(実際にはユダヤ人と他の民族集団とを区別しうる有意な人種的特徴はない)。イスラエルへの批判が反ユダヤ主義へと直結している事例をここでは述べる。パレスチナ問題をめぐり、学校なども攻撃対象にして、市民を巻き込む作戦も実行するイスラエルに対し、この軍事活動を批判するデモが世界各地で発生しているが、この内の一部に反ユダヤ的言動を唱えるデモがあるとされる。2014年のイスラエル軍によるガザ侵攻では欧米でイスラエルを批判するデモなどが発生した。この行動は、反ユダヤ主義を煽ることに繋がるとする主張がある。例えば、イスラエルの侵攻について、ペネロペ・クルスやハビエル・バルデムなどの俳優や映画監督など数十人は、イスラエル軍のパレスチナ人大量虐殺を批判、停戦を求める書簡に署名した。この時、ジョン・ヴォイトはハリウッド・リポーターのコラムに「今回のような行動は、世界中で反ユダヤ主義をあおりかねません」とコメントを寄せ、中東問題に関して行動を慎むよう警告した。このヴォイトの発言に、署名したハビエル・バルデムは「私たちは悲惨で痛ましい戦争を心から憎むと同じように、反ユダヤ主義を嫌悪しています」と反論している。フランスでは7月13日のデモでイスラエル支持派と反イスラエル派が衝突しており、7月20日のデモではパリのユダヤ人地区で反ユダヤ主義的な主張が起こっている。ドイツでは7月後半にユダヤ人へ軽蔑やシナゴーク批判が発生し、火炎瓶の投げ込みも起こっており、7月末のオランダでも反ユダヤ主義を煽るデモが起こっている。2015年1月9日にはISILに感化された男によるユダヤ食品店人質事件が起きている。犯人は犯行の際に店の客らに向かって「お前たちはユダヤ人だから全て殺す」と発言していた。
出典:wikipedia
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