1990 FIFAワールドカップ()は、1990年6月8日から7月8日にかけてイタリアで開催された第14回目のFIFAワールドカップである。イタリアでの開催は1934年大会以来2回目であり、メキシコで開催された1986年大会に次いで2か国目の事例となった。1988年4月から始まった予選には116の国と地域の代表チームが参加し22チームが出場権を獲得した。これに予選を免除された開催国のイタリア代表と前回優勝のアルゼンチン代表を含めた24チームが参加した。大会の公式球はエトルスコ・ユニコ、公式マスコットはサッカーボールとイタリア国旗をあしらった「チャオ」。日本放送協会の協力によりイタリア放送協会を通じて世界各国に高精細度テレビジョン放送として配信された初の大会でもある。決勝戦は西ドイツ代表対アルゼンチン代表という2大会連続で同一カードとなったが、西ドイツ代表がアルゼンチン代表を1-0と下し3回目のワールドカップタイトルを獲得した。なお、西ドイツは1990年末に東ドイツとの再統一を控えており、西ドイツ代表としてはこれが最後の大会出場となった。チェコスロバキア代表、ユーゴスラビア代表、ソビエト連邦代表も東欧革命の影響により最後の大会出場となった。平均得点は2.21と最低記録を更新し、決勝戦における初の退場者を含め当時としては最多記録となる16枚のレッドカードが掲示されたことから、ワールドカップの歴史上において最も退屈な大会とも評されている。一方、開幕戦でカメルーン代表がアルゼンチン代表を下す番狂わせを演じ、アフリカ勢として初めて準々決勝進出を成し遂げるなど話題性には事欠くことはなかった。また、大会開催のためにトリノとバーリには新たにスタジアムが建設され、10のスタジアムが改築されるなど設備投資が行われた。この他、約266億9000万人の人々が視聴するなど、テレビ史上において最も注目されたスポーツイベントの一つでもあった。この大会の反省から国際サッカー連盟は1992年、守備側の選手の遅延行為を禁止するためのバックパス・ルールを導入、さらに1994 FIFAワールドカップからは攻撃的サッカーと勝利を追求するため、グループリーグにおいて新たな勝ち点制度を導入した。1990年大会の開催国選定は1983年7月31日にイタリア、イングランド、オーストリア、ギリシャ、ソビエト連邦、西ドイツ、フランス、ユーゴスラビアの8か国が立候補した。その1か月後、イタリア、イングランド、ギリシャ、ソ連を除くすべての国が辞退し、最終投票前の1984年初頭にイングランド、ギリシャが辞退した。1984年5月19日にスイスのチューリヒで開催されたFIFA理事会での決選投票の結果、イタリアが11票、ソ連が5票という結果となり、1986年大会のメキシコでの開催に続き、1934年大会で開催国を務め優勝をした実績を持つイタリアでの2回目のワールドカップ開催が決まった。この投票結果について、同年にアメリカ合衆国で開催されたロサンゼルスオリンピックに対するソビエト連邦をはじめとした東欧諸国のボイコットが影響を与えたものと推測されたが、FIFAのジョアン・アベランジェ会長はこれを否定した。予選には116チームが参加を表明したが、出場停止処分や棄権により103チームが参加。開催国のイタリアと前回優勝国のアルゼンチンには自動的に出場権が与えられ、残りの22の出場枠が争われた。ヨーロッパには13枠、南米とアフリカとアジアと北中米カリブ海にはそれぞれ2枠が与えられ、残りは南米とオセアニアとの間でプレーオフにより決定された。最初の試合は1988年4月17日に1989 CONCACAF選手権・トリニダード・トバゴ対ガイアナ戦として行われ、トリニダード・トバゴが4-0と勝利したが、予選最後の試合は1989年11月19日に行われたトリニダード・トバゴ対アメリカ合衆国戦だった。本予選ではメキシコとチリの2チームが国際サッカー連盟から出場停止処分を受けた。メキシコは1988年に行われたCONCACAF U-20選手権にU-20代表が出場した際に規定年齢以上の4選手を偽って出場させていた事件に対して()、チリは南米予選のブラジル戦の際にキーパーのロベルト・ロハスが観客席から投げ込まれた発煙筒により頭部を負傷したと偽り、試合をボイコットした事件(ロハス事件)に対しての処分だった。メキシコは2年間の出場停止処分、チリはロハスの永久追放のほか1994 FIFAワールドカップ・予選への出場停止処分と罰金4万ポンドが科せられた。コスタリカ、アイルランド、アラブ首長国連邦の3チームが初出場を果たし、長らく大会から遠ざかっていたエジプト(1934年大会以来)、アメリカ合衆国(1950年大会以来)、コロンビア(1962年大会以来)、ルーマニア(1970年大会以来)が本大会出場を果たした。その一方で前回大会において決勝トーナメントに進出したフランス、デンマーク、ポーランド、モロッコなどは予選で敗退した。この大会における1チームあたりの登録選手は前回大会と同様に22人と定められた。大会期間中に負傷した際の登録選手の入れ替えは国際サッカー連盟の裁量の下で許可され、アルゼンチンのがネリー・プンピードに、イングランドのがデイヴィッド・シーマンに代わって登録された。34の国と地域から41人の審判員が選出され、大会を通じて主審と副審を兼任するように割り当てられた。下記の斜体字の審判員は第4審判としてのみ運用された。また、この大会は審判員が伝統的な黒色のユニフォームを着用し出場した最後の大会となったが、紺色のユニフォームを着用するスコットランドの出場した2試合においては赤色のユニフォームを着用した。大会シードの6チームは1989年12月7日に発表された。各シードは1986 FIFAワールドカップの成績を考慮して決定され、残りの18チームも併せて6チームごと4つのグループに振り分けられた。第1シードには開催国のイタリアが選ばれ開催都市としてローマが割り当てられた。第2シードには前回優勝のアルゼンチンが選ばれ開催都市としてナポリが割り当てられた。第3シードにはブラジルが選ばれ、開催都市としてはミラノを希望していたがトリノが割り当てられた。第4シードには西ドイツが選ばれ、開催都市としてはドイツ人観光客の多いヴェローナを希望していたが代わりにミラノが割り当てられた。第5シードのベルギーはヴェローナでの開催が割り当てられた。第6シードにはイングランドが選ばれたが、多くの専門家からはスペインが第6シードに値するチームと考えられており意外な結果として受け止められた。イングランドがシードに選ばれた理由としては、フーリガン対策のためにサルデーニャ島のカリャリにチームと暴力的サポーターごと隔離するためだと推測されたが、スペインのルイス・スアレス監督は「イングランドをカリャリに隔離することを望む者の計略のために、我々は欺かれたと感じている」と主張した。組み合わせ抽選会は1989年12月9日、ローマのにおいて、あらかじめ定められた4つのグループからの抽選が行われた。従来の抽選会は質素で簡潔な催しだったが、国際サッカー連盟事務総長のゼップ・ブラッター、女優のソフィア・ローレン、オペラ歌手のルチアーノ・パバロッティ、サッカー選手のペレ、ボビー・ムーア、カール=ハインツ・ルンメニゲがドロワーとして参加し、大会公式テーマソング「」を手掛けたとジャンナ・ナンニーニがライブ演奏を行うなど、大掛かりなイベントとして催された。大会は1986 FIFAワールドカップと同じ競技方式で行われた。24チームが参加し、4チームごとに6つのグループに分けられた。各グループの1位と2位の12チームと3位チームの中から成績が優秀な順に4チームの合計16チームが決勝トーナメントに進出した。カメルーンは開幕戦で前回優勝国のアルゼンチンを下す番狂わせを演じ、アフリカ勢として初めて準々決勝に進出を成し遂げた。カメルーンの快進撃は将来的なアフリカ勢の台頭を想起させるものであり、一部の専門家からは「20世紀のうちにアフリカ勢が優勝するだろう」と評された。また、コスタリカについては前回優勝国を下したカメルーンほどのインパクトは残せなかったものの、グループリーグ初戦においてスコットランドを下した試合は驚きをもって迎えられた。この他、決勝トーナメント1回戦の西ドイツ対オランダ戦は好試合と評されているが、専門家のブライアン・グランヴィルは「おそらくワールドカップ史上に残る試合であり、後に我々を悩ませることになるあの凡戦よりも遥かに決勝戦に相応しい」と評した。この大会では「大会の肥大化」に伴う競技レベルの低下のみならず多くの問題が浮き彫りとなったことから、英国放送協会は「守備的サッカーが横行したワールドカップ史上最悪の大会」と評している。一方、守備的な風潮を食い止めるための大掛かりなルール改正への分岐点となり、国際サッカー連盟 (FIFA) により対策が講じられることになった。※くじ引きによりアイルランドがグループ2位、オランダがグループ3位となった。大会終了後、FIFAはワールド・カップ本大会に出場した全チームの競技結果、勝敗や得失点などの統計に基づく最終順位を発表した。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。