善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立寺院で、住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊とし、善光寺聖の勧進や出開帳などによって、江戸時代末には、「一生に一度は善光寺詣り」と言われるようになった。今日では御開帳が行われる丑年と未年に、より多くの参拝者が訪れる。山号は「定額山」(じょうがくさん)で、山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。「大勧進」の住職は「貫主」(かんす)と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。住職は「善光寺上人」(しょうにん)と呼ばれ、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている。2014年(平成26年)現在の「善光寺上人」(「大本願上人」)は鷹司家出身の121世鷹司誓玉である。古えより、「四門四額」(しもんしがく)と称して、東門を「定額山善光寺」、南門を「南命山無量寿寺」(なんみょうさんむりょうじゅじ)、北門を「北空山雲上寺」(ほくくうさんうんじょうじ)、西門を「不捨山浄土寺」(ふしゃさんじょうどじ)と称する。特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済が挙げられる。三国渡来の絶対秘仏の霊像と伝承される丈一尺五寸の本尊・一光三尊阿弥陀如来像が本堂「瑠璃壇」厨子内に安置されている。その姿は寺の住職ですら目にすることはできないとされ、朝の勤行や正午に行なわれる法要などの限られた時間に金色に彩られた瑠璃壇の戸張が上がり、瑠璃壇と厨子までを拝することが通例とされる。数えで七年に一度の御開帳には、金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)が絶対秘仏の本尊の分身として公開される。また、日本百観音(西国三十三所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所)の番外札所となっており、その結願寺の秩父三十四箇所の三十四番水潜寺で、「結願したら、長野の善光寺に参る」といわれている。かつては南大門、五重塔、中門・回廊、本堂と一直線に並んだ配置であった『一遍聖絵』。また、長野県立歴史館は、現在より南側に善光寺があったと展示・解説する。国宝重要文化財重要美術品史跡(市指定)建造物(市指定)その他開帳には、寺がある場所で開催する「居開帳」の他に、大都市に出向いて開催する「出開帳」があった。出開帳には、江戸、京、大坂で開催する「三都開帳」や諸国を回る「回国開帳」がある。何れも、境内堂社の造営修復費用を賄うための、一種の募金事業として行われた。明治時代以降から2009年まで「御開帳」と呼ばれるものは、全て居開帳であったが2013年には両国回向院にて「出開帳」が開催された。正式名は、善光寺前立本尊御開帳。7年目ごとに1度(開帳の年を1年目と数えるため、6年間隔の丑年と未年)、秘仏の本尊の代りである「前立本尊」が開帳される。前立本尊は本堂の脇にある天台宗別格寺院の大勧進に安置され、中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩の「一光三尊阿弥陀如来」となっている。開帳の始まる前に「奉行」に任命された者が、前立本尊を担いで本堂の中まで運ぶ。回向柱(えこうばしら)は、松代藩が普請支配として建立されて以来の縁により、代々松代町(藩)大回向柱寄進建立会から寄進される。2003年は赤松が使用され、2009年は小川村産の樹齢270年の杉が使用された。期間中は前立本尊と本堂の前に立てられた回向柱が「善の綱」と呼ばれる五色の紐で結ばれ、回向柱に触れると前立本尊に触れたのと同じ利益(りやく)があり、来世の幸せが約束されるとされる。また、釈迦堂前にも小さい回向柱が立てられ、堂内の釈迦涅槃像の右手と紐で結ばれ、回向柱に触れることにより釈迦如来と結縁し、現世の幸せが約束されるとされる。故に、この二つの回向柱に触れることにより、現世の仏である釈迦如来と来世の仏である阿弥陀如来と結縁し、利益・功徳が得られると言われる。居開帳は現在では丑年と未年に開催されているが、古くは一定間隔での開催ではなく、境内堂社の造営や落慶に合わせ寺の都合により開催されていた。明治以降は、居開帳がほぼ7年に一度行われている(ただし1942年は戦時中のため開帳せず)。1784年(天明4年)、第79世貫主・等順が、浅間山大噴火および 天明の大飢饉における民衆救済のため、「融通念仏血脈譜」に関するそれまでの面倒な儀式を簡略化して新たに作成、通称「お血脈」として参拝者へ配布したことにはじまる。釈迦牟尼仏から発し、阿弥陀如来から良忍により確立された、融通念仏の継承者を表にしたもので、歴代大勧進貫主が連なる系図。授与された者は最新の弟子として阿弥陀如来と結縁することを意味する。等順大僧正は人々の心の平安を取り戻すため、全国各地で行われた回国開帳などでお血脈を約180万枚を授与。民衆は善光寺へ『お血脈』を求めて参拝者が集まり、善光寺信仰の全国的普及に大きな役割を果たし、落語『お血脈』(『骨寄せ』)の題材ともなった。白雉5年(654年)より絶対秘仏とされている善光寺の本尊、「善光寺式阿弥陀三尊」は、天竺の月蓋長者が鋳写したものとされ、百済の聖王(聖明王)を経て、献呈されたか、難波の津に漂着されたものとされる。日本に来るも廃仏派の物部氏によって捨てられる(一説に和光寺)が、本田善光に拾われ、小山善光寺から信濃の元善光寺に、次いで現在地に遷座したと伝えられる。創建時期は不明だが、近江国周辺で見られる湖東式軒丸瓦が発掘されている。通説(公式HP)では、善光寺の由来は本田善光であり、本田善光が善光寺如来を信濃国に持ってきたとされているが、扶桑略記では或記(引用した)として、「秦巨勢大夫」とあり、伊呂波字類抄では「信濃国人若麻續東人」と相違がある。また、『四天王寺秘訣』には光坐寺や本善寺、『古今目録抄(太子伝)』には阿弥陀院、百済寺と多くある。また、天武天皇時に日本全国で造られた郡寺(郡家隣接寺院、水内郡は金刺舎人)の1つという指摘がある。天平勝宝8年(756年)唐の玄宗皇帝は楊貴妃の菩提を弔うため日本に使節を送り、信濃の善光寺に自筆の大般若経を奉納させたという伝承が残る。善光寺縁起は、扶桑略記で記されているのを始めに、時代を経るごとに追記や改変がされていった。院政期に書かれたとされる『伊呂波字類抄』にその引用があり、その記述には日本の仏教公伝の旧説とされる552年から丁度50年後の602年(推古天皇10年)に若麻績東人(本田善光)が仏像を入手して信濃に持ち帰り、更に166年を経た768年(神護景雲2年)に至ったことが記されている。『伊呂波字類抄』が参照した原典は、768年に書かれた善光寺の「古縁起」であったと見られている。田島公は推古天皇の時代、信濃国の大部分はヤマト王権(大和朝廷)の支配下にあって他の東国諸国とともに貢納を行っていたと推定されること(「東国の調」)、768年前後には称徳天皇・道鏡の下で仏教振興政策が取られており、既存寺院の把握も行われていたことから、本田善光の説話は全くの創作ではなく、768年に作成された善光寺の「古縁起」のモデルとなった伝承が存在したと唱えている。善光寺のものと確証が得られている訳ではないが境内の遺跡から古代寺院の古瓦が出土しており9世紀の物と鑑定されている。治承・寿永の乱(源平合戦)が本格化する直前の治承3年(1179年)3月24日、善光寺は大火災が発生している(『吾妻鏡』文治3年7月27日条)。この火災は『平家物語』(巻第二)でも取り上げられており、当時の緊迫した情勢に関わる(園城寺系の善光寺と延暦寺系の顕光寺の対立や、親平氏政権派と反平氏政権派の対立など)「事件」とも言われているが、火災の原因については不明である。その後、信濃国が関東御分国になったのをきっかけとして文治3年(1187年)に源頼朝が信濃国守護兼目代を務める比企能員を通じて同国の御家人に対し善光寺の再建を命じ、建久8年(1197年)には頼朝自らが善光寺に参詣した。頼朝参詣のことは、当該年の記述を欠いた『吾妻鏡』には載せられていないものの、九州の御家人であった相良四郎も随兵として従ったことが相良氏に伝わる善光寺参拝の随兵交名から知ることができる(『大日本古文書』相良家文書1-1号)。その後も鎌倉幕府及び北条氏による再建・造営事業は継続され、特に熱心であったのは北条氏庶流の名越氏一族であった。名越朝時は善光寺の再建事業を支援しただけでなく、自らも鎌倉に新善光寺(現在は葉山に移転)を創建して、その遺言に従って寛元4年(1246年)3月14日に名越氏一族主催による落慶供養が実施された。同年に発生した宮騒動の影響で名越氏一族は没落するが、続いて同じ北条氏庶流の金沢氏が善光寺・新善光寺の保護に努めた。善光寺の再建事業は北条氏以外の御家人の間にも善光寺への関心を高め、念仏や禅と同様に武士の間に善光寺信仰が受け入れられるきっかけとなっていった。中世以降の善光寺信仰の広まりから鎌倉時代以降、信仰者が夢で見たとされる善光寺本尊を模した像が多く作られ、日本の各地に「善光寺」や「新善光寺」を名乗る寺も建てられた。さらに、全国に広めたのは熊野聖などの勧進聖たちによってである。後深草院二条の「とはずがたり」には半年余にわたり市内の有力者であった和田氏の館(長野運動公園のあたりと考えられている)に滞在して参詣した旨の記述がある。鎌倉幕府の崩壊後は新政権側と反対勢力に地元豪族達が中先代の乱、観応の擾乱などの戦乱において、南北朝に二分して対立し、大塔合戦では地元豪族が結束して守護を追い出し、漆田原の戦いでは守護家が後継を争うなどの争いが続く戦乱に善光寺も巻き込まれる。特に戦国時代の、善光寺平は信濃侵攻を行う甲斐国の武田晴信(信玄)と北信国衆を庇護する越後国の上杉謙信の争いの舞台となり、寺は兵火を被り荒廃した。この後、善光寺仏は寺地を地方に流転することになるが、行く先については諸説ある。通説では、善光寺の焼失を懸念した信玄により本尊は善光寺別当の栗田氏と共に武田氏居館のある甲府へ移され、この時に建てられたのが今日の甲府市にある甲斐善光寺であるという。別の説では、善光寺を保護したのは上杉謙信であり、本尊や仏具は高梨氏によって越後国の十念寺(浜善光寺)に移された後、国替えによって現在は法音寺 (米沢市)と熊野神社 (南陽市)にあるとされる。本尊は武田氏が織田信長に滅ぼされると、その嫡男・織田信忠によって伊奈波(善光寺 (岐阜市))へ、本能寺の変の後には織田信雄により尾張国甚目寺へ、譲り受けた徳川家康の手で遠江国鴨江寺、後に甲斐善光寺へと転々とし、1597年(慶長2年)には豊臣秀吉の命令で甲斐から京都の方広寺へと移されたが、1598年(慶長3年)に秀吉の病は本尊の祟りであるという噂から、死の前日に信濃へ帰された。この間大本願の鏡空(智淨)や智誓(誓観)、智慶という三代の尼上人らが本尊に付き従って移動したとされ、大勧進の僧集団は残って本尊不在の荒れ果てた寺地を守っていたとされる。江戸時代には、「お伊勢参り」の帰りに「善光寺参り」を行う場合もあった。鎌倉時代から本尊が秘仏であることは知られていたが、繰り返された火災に土に埋められて難を逃れたこともあったが首を残して損傷し再鋳造されたとも伝えられる。また江戸時代に偽仏が出回ったとの事から幕府仲介により、元禄5年、天台座主を務めた敬たんによって、実測記録された。現在の長野市は、善光寺の門前町を起源として発展した都市で、古くから長野盆地を「善光寺平」とも称していた。元来、善光寺参道付近から現在の信州大学教育学部付近にかけての緩傾斜地が長野と呼ばれていたらしい。中世末には水内郡長野村という村名が現れ、善光寺境内から門前町も含め、おおよそ現在の長野市大字長野に相当する区域を領域としていた。長野村は1601年(慶長6年)に周辺の箱清水村、平柴村、七瀬村とともに、徳川家康の寺領寄進による善光寺領(1000石)とされた。善光寺門前の参道は北国街道のルートともされ、門前町は同時に宿場町としての役割も兼ねた都市として発展し、善光寺町(または善光寺宿)と呼ばれるようになった。しかし、検地帳上の公的な村名は長野村であり、「善光寺町」とは同村内の町場を総称する地名であった。その一方で長野村内だけでなく、同村に隣接する松代藩領または幕府領である妻科村(現長野市大字南長野)、権堂村(現長野市大字鶴賀の一部)のうちで町場化した区域も含めて「善光寺町」と呼ぶこともあった。善光寺町は、北国街道のルートとされた善光寺南側参道を中心に形成された門前町・宿場町であり、町年寄の支配下にあった八町およびその枝町と、大勧進および大本願の支配下にあった両御所前の2町、さらに善光寺本堂南側堂庭から成り立っていた。八町とその枝町、および両御所前に属していた町は次の通りである。さらに、隣接する松代藩および幕府領の各村のうち町場化した次の区域も善光寺町の一部とされた。前述の通り、善光寺町(善光寺宿)とは門前町・宿場町を構成する各町の総称であり、検地帳上の公的な村名は長野村(または妻科村、権堂村)であった。それは明治維新後の水内郡長野村あるいは妻科村、権堂村を経て現在の長野市につながっている。言い換えると、「善光寺町」とは本来「長野村の一部」を総称する地名であり、「長野」の旧称が「善光寺」であったわけではない。善光寺町内の各町は、明治以降に改称されたり(桜小路→桜枝町、天神宮町→長門町、堂庭→元善町、長野村後町→東後町、妻科村後町→西後町など)、新たに起立したもの(旭町、県町、南県町など)を含めて、1878年(明治11年)の郡区町村編制法による上水内郡長野町または同郡妻科村(1881年{明治14年}に南長野町)、鶴賀村(1885年{明治18年}に鶴賀町)内の通称地名として、さらに1889年(明治22年)の町村制施行による上水内郡長野町(1897年{明治30年}に長野市)の大字長野、大字南長野、大字鶴賀内の通称地名として現在も使用されている。長野駅を出ると善光寺表参道(中央通り)という一本道が通っており、緩やかな坂道となっている。
出典:wikipedia
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