新宿区(しんじゅくく)は、東京都の特別区のひとつで、23区西部に区分される。郵便番号(上3桁)160・161・162・163・169東京都に23存在する特別区の一つであり、23区の中央やや西側に位置する。かつての35区が22区(のち23区)に移行した1947年(昭和22年)に発足した区であり、行政機構としての歴史は比較的浅い。また、3つの区が「寄り合い所帯」となって誕生した経緯から、個性に富んだ地域が区内に点在する。1991年(平成3年)より東京都庁は同区に位置しており、自治体として見た場合は「東京都の都庁所在地」に該当する。ただし、新宿区を含む23特別区は地方自治法において他の46道府県庁所在地とは異なる「特別地方公共団体」とされており、通常の市町村(普通地方公共団体)と同格に扱われていないため、国土地理院発行地図を始め都庁所在地の地名は慣例的に「旧東京市の後裔たる東京都区部の総称」として「東京」と表記されている。古くは甲州街道の通り道として栄えた新宿駅周辺は日本有数の繁華街が形成されており、新宿駅は鉄道各路線のターミナルのため昼夜の人口増減が特に著しい。新宿駅南部は新宿御苑や明治神宮外苑があり緑が豊富である。また都心のベッドタウンとして人口が急激に増えた北部の落合地区は住宅地となっている。本来、山の手とは新宿区内を中心とした高台(武蔵野台地)を指す。甲州街道沿いの街、宿場の街として江戸時代以降から繁栄を見せた四谷地域(旧四谷区)。四谷見附から新宿東口の手前までが四谷地域に該当するため、警察署や消防署、公立学校の学区域も四谷地域の施設を利用することになる。江戸時代にかけて田園の住宅地として都市開発され、明治時代には既に成熟した住宅地として機能してきた牛込地域(旧牛込区)。牛込地域は住居表示未実施がほとんどであり、戦災被害が比較的軽かったため古くからの町並みが再開発の手から逃れているなど、様々な面で都内を代表する保守的地域であると言える。神楽坂、市谷、早稲田と呼ばれる地名は全て牛込地域内である。このほか、早稲田大学や東京理科大学など大学・学校も多い。慶應義塾大学病院や東京医科大学病院、東京女子医科大学病院などの大学病院、国立国際医療研究センター戸山病院などの大病院も集積している。また、新宿区は都内で最も外国人登録者が多い区である。外国人のなかでもとりわけ、中国人と韓国人が多数居住している。特に大久保、大久保駅、新大久保駅周辺から職安通りにはコリアタウンをはじめとする、外国人コミュニティが形成されている。新宿区の人口の1割が外国人とされる。新宿区の発展に伴い、東京都庁や防衛庁(現防衛省)などの官公庁も移転してきた。このように、商業地と住宅地、歴史ある地名と再開発地域、多国籍といった、まさに大都市の光景を縮図にした性格を新宿区はもっている。1970年(昭和45年)辺りまでは、「若者の街」、「若者文化の流行の発信地」といえば、新宿だった。しかし、1973年(昭和48年)に渋谷でPARCOの開店があり、日本における若者文化の歴史が大きく変化。その流れは「新宿から渋谷、または渋谷区全体へ」と移り変わっていく。2016年(平成28年)4月4日、甲州街道沿いのJR新宿駅新南口にバスタ新宿が開業し、外国人観光客や利用者などからの「わかりにくい」というニーズに答える形で高速バスや深夜バス、タクシーなどの発着枠を整備した。4階にはバスの乗車枠、3階にはバスの降車枠とタクシーの乗降枠を設けた。バスタとはバスターミナルの略語である。なお、バスタ新宿には一般車やバイクなどは送迎目的であっても入ることはできない。また、甲州街道沿いにあったタクシー乗り場はバスタ新宿に移管したため、甲州街道では乗降できなくなった。2005年に夜間人口(居住者)は303,808人であるが、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内残留人口の合計である昼間人口は770,094人で昼は夜の2.535倍の人口になる(東京都編集『東京都の昼間人口2005』平成20年発行122,123ページ 国勢調査では年齢不詳のものが東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳のものを含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に誤差は生じる)新宿区は東京都区部の中央やや西側に位置する。新宿区の地勢を巨視的に観察すると、武蔵野台地(下末吉面・武蔵野面)と江戸低地との境界部分に位置していることがわかる。下末吉面(淀橋台)と武蔵野面(本郷台の一部と豊島台)とが折り重なるようにして高台(山手)を作っており、この折り重なりにより生まれた起伏が区内標高最高地点の箱根山(44.6メートル、戸山一丁目)として今日みとめられる。標高30メートル程度の淀橋台(新宿・西新宿地区など)と20メートル程度の豊島台(落合・大久保地区など)はおおむね連続した平坦な高台を形成しており、鉄道(現在のJR線)が敷設された近代以降急速に人口増加が進んだ。これら高台に、標高10メートル未満の江戸低地が入り組んでいる。神田川・妙正寺川はこの低地部分に沿って流れており、かつては諏訪・戸塚地区をはじめとする広範な湿地帯を形成していた。近世には人為的に作られた水流(江戸城外濠・玉川上水)が付近に加わり、今日の新宿区の西と北東 - 南東の境界はこれら水流を基準に定められている。このほか、区内の外苑東通りや靖国通りも低地に沿って建設されている。こうした高台と低地とを往来するための坂道が区内にも多く見られ、古来より風情と文化を育んだ。区内の年間平均気温は約15℃であり、東京都の気象観測所のある大手町付近と比べ約1℃ほど低い。冬は大手町よりも寒くなり、反対に夏は暑いこともある。新宿区は、東京市四谷区・牛込区、豊多摩郡内藤新宿町・淀橋町・大久保町・戸塚町・落合町(5町はいずれも東京市に編入され、内藤新宿町は四谷区域、他の4町は淀橋区となる)を前身とする自治体で、1947年(昭和22年)3月15日に発足した。新宿とは、もともとは豊多摩郡内藤新宿町のことである。1920年(大正9年)、東京市四谷区に合併編入された際に新宿一 - 三丁目(現在の新宿一 - 三丁目全体の区画とほぼ同じ)となり、新宿駅の発展とともに世界有数の繁華街・商業地区へと変貌を遂げた。その名前の由来は、1698年に甲州街道の新たな宿場町として、信州高遠藩内藤若狭守の下屋敷に「内藤新宿(四谷内藤新宿とも)」が開かれたことによる。四谷区・牛込区・淀橋区が合併する際、との理由で新区名に採用された。この新区名決定は困難をきわめた。そもそもこの合併自体が区側の発議によるものではなかったため反対の声が根強く(淀橋区は中野区や渋谷区と、牛込区・四谷区は文京区や千代田区との合併を模索するような動きさえあった)、これらの声に最大限配慮し対等な合併であることを強調するためそれぞれの区名を新区名に採用しないことが合併の条件として付け加えられた(『四谷怪談』など四谷という地名は比較的知名度があるとして当初は「四谷区」が新区名に採用される見込みだったが、これにより不採用となった)。歴史的経緯がまったく異なる地区同士の合併であったため地域の総称やシンボルが存在せず、また3区の合併であるため大田区のような合成区名をつけることも難しかった(この時期に合併して誕生した区は、港区以外はどこも2区合併。また、港区の場合、前身の3区はすべて東京府発足当初から区部だったのに対し、新宿区の場合は四谷区や牛込区といった区部と内藤新宿町や淀橋区といった元郡部にまたがっているため事情を複雑にしていた。)。最終的に新区名は新宿区とすることが決まったが、牛込区はこの名前に当初難色を示した。新宿御苑も新宿駅周辺も牛込区には何ら関係がなく、新宿という「郊外の地区」の名前では牛込地区を連想することができなくなるとの理由からである(新宿区発足時には他にも新しく9の区名が東京都内に誕生したが、区内の1地区の名称を新区名に採用したのは新宿区だけだった。多くはシンボルなどに基づく瑞祥区名を採用している。)。これが後に、牛込地区を中心に旧町名を残す運動が盛り上がる要因のひとつとなった。新区名の候補として、他になどが挙がっていた。新宿区内を地域分け(区域分け)する方法はいくつか存在するが、合併により誕生した経緯から過去の行政区域を基準としたものが比較的多くみられる。市街地化によりこの基準が細分化されたり、交通網の発達とともに駅周辺が1つの地域として新たに認知されるようになるなど、この基準は月日の経過とともに変動が見られるため、普遍的な地域分けが確立しているわけではない。代表的なものとして、新宿区の前身である東京市行政区時代の区域を基準にした3地区分類(各地区を四谷地区・牛込地区・淀橋地区などと表現する)がある。ただし、旧淀橋区域は範囲が広いことや、淀橋区が存在したのはわずか15年間であり1地域としての実態に乏しいこと、新宿(旧内藤新宿町域)を四谷に分類するのは今日の実態とかけ離れていることなどから、四谷・淀橋地区を前身1区5町域に細分化した7地区分類を基準に地域分けすることが多い。この基準に住居表示による町名町域変更の影響が加わり、各地区の名称や範囲は変化。戸塚地区は高田馬場・早稲田、旧淀橋町域(角筈・淀橋・柏木)は西新宿・北新宿という名称が定着した。また、相対的に範囲の広い旧牛込区域(牛込地区)において、南部(市谷を冠する町名が集まる地区)は市谷地区、北西部(早稲田大学周辺)は早稲田と呼ばれているが(いずれも牛込区の前身の市谷村域・早稲田村域に由来)、このほか地下鉄東西線沿線地区を早稲田・神楽坂と表現する機会も多くなっている。新宿区内の地域名として使われる機会があるもののうち、主なものを以下に挙げる。周辺自治体と同様、新宿区も1965年(昭和40年)に住居表示の実施に着手。区内の西側から徐々に町域統合と住居表示を進めた。この結果、1970年代には戦後の若者文化の発信地とも言われていた新宿駅周辺の町名(柏木・角筈・淀橋など)が軒並み「新宿」「西新宿」「北新宿」で統一され、古い町名を頼りに昔の記憶を辿ることもままならなくなった。これを昔の情緒・伝統・文化の破壊と受け止めた文化人や旧牛込区・四谷区域の住民が中心となり、古い町名を残す運動が盛り上がりをみせた。新宿区は当初、町域を統合した上で東新宿・東早稲田といった方角町名を採用して区内の住居表示完全実施を目指していたが、1980年代には町名保存の声に配慮し、未実施地区に関しては古い町名町域を出来る限り維持した上で住居表示を実施していく方針に転換することを区長が表明した。これにより町名は存続することで決着をみたが、住居表示自体はその後もあまり進んでおらず、旧牛込区・四谷区域は、千代田区(神田を冠する町・番町・麹町)と同様、住居表示未実施地区を多く残して現在に至っている。住居表示実施率は2009年(平成21年)現在約75パーセントであり、新宿区政の今後の課題のひとつとなっている。なお、2002年(平成14年)に市谷台町を、2003年(平成15年)には霞ヶ丘町の住居表示を実施したことにより、実施率が千代田区を上回った。新宿区の特徴のひとつに、町名の数が多いことが挙げられる。新宿区に隣接する付近の自治体が(千代田区を除いて)おおむね20 - 30程度にまで町名を減らしたのに対し、新宿区には現在94(霞岳町と霞ヶ丘町を別個の町名とするならば95)の町名が存在する(この数字は東京都の特別区のうち最多)。江戸時代の武家屋敷や門前町屋に由来する町名が旧牛込区・四谷区域を中心に多くみられる(2009年(平成21年)7月末時点における住居表示未実施の町名は太字で示した。なお、白銀町と市谷台町には未実施の箇所がごくわずかながら存在する)。新宿区の発足以降に消滅した町名は21ある。大部分が住居表示実施に伴う町名変更による。上記のほか、区画整備や町域統合を目的としない町名変更が戦災復興時に行われた。いずれも商業的な理由による。新宿区は、練馬ナンバー(東京運輸支局)を割り当てられている。新宿区は以下の6特別区に隣接している。隣接距離が最も長いのは中野区。なお、練馬区とは隣接していないが、新宿区西落合四丁目と練馬区旭丘一丁目とは、100メートル程度しか離れていない。新宿区に隣接する特別区とその町域を以下に挙げる。(最北端から時計回り順に記載。)新宿区の発足以降、何度か境界変更がなされている。区は、1950年(昭和25年)以来10か所の特別出張所と区役所本庁地区の計11か所に対応する行政区域を設けている。名称は以下の通り。調印年月日の順。新宿区は、2010年(平成22年)に犯罪発生件数10537件を記録し、東京都内で最も犯罪発生件数が多い自治体となってしまった。そのため、繁華街だけでなく住宅地においても、条例の拡充や防犯パトロールなどの取り組みが行われている。※2014年10月21日、吉住健一が新宿区長選挙に出馬するために辞職した。新宿区選挙区は現在「欠員1」である。 東日本旅客鉄道(JR東日本)このほか、駅の名称が新宿区に関係している(していた)駅がいくつか存在する。現在の東京都心部における市街地電車の機能は、かつて路面電車(いわゆる都電)が担っていた。利用者数がピークを迎える1950年代当時の規模は路線数(系統数)41、路線総延長は213キロメートル。山手線の駅同士を結ぶような系統も多く、系統間の乗り換えも手軽で、都心部の拠点と拠点を網の目状に結んでいた。新宿区内においては、新宿駅前・四谷三丁目・早稲田・飯田橋をターミナルとする10路線が敷設され、山手線各駅・丸の内・銀座などへの往来に頻繁に利用されていた。しかし高度経済成長とともに一般車両をはじめとする交通量は年々増加し、路面電車の平均運行速度は低下。これにより利用者数は減少をたどり、東京都交通局の収益は悪化した。このため代替の地下鉄建設計画が具体化し、路面電車は1960年代後半から徐々に撤去されることになった。都電27系統の一部と32系統のみ恒久存続が決定し、今日荒川線という名称で運行しているが、そのほかの路線は1972年(昭和47年)11月までにすべて廃止された。新宿区内を運行していた10路線のうち、32系統以外は1963年(昭和38年)から1970年(昭和45年)にかけて廃止。今日、当時の路線の沿線地区にはおおむね代替の地下鉄路線が建設されている。新宿区内の主な道路には次のものがある。カッコ内の名称は、一般的な地図や道路上の標識に記載してある名称(一般名称)。新宿区の都市計画道路に基づき、主に以下の路線が建設・計画中である。新宿区の区道(一部例外あり)のうち愛称がついている路線がある。これらはいずれも1988年(昭和63年)12月に新宿区が愛称を募集して命名。地域の利便性を考慮して選考したため、周辺他区に関係の深い名称のものもある。(哲学堂は中野区内の建造物、江戸川橋は文京区内の橋。)1965年(昭和40年)に淀橋浄水場(角筈三丁目、現在の西新宿二丁目)の機能が東村山市に移転したため、跡地および周辺(角筈二丁目・三丁目・十二社・淀橋)の整備計画が進められた。この一環として1969年(昭和44年)、新宿中央公園と新宿駅に挟まれた地区一帯に格子状の道路(いずれも東京都道)が完成。これらの一般名称を決めるために東京都と周辺住民が新宿副都心地区街路ネーミング委員会を立ち上げ、名称を選考。「平凡でも親しみの持てる名称を」との方針のもと、東京都庁舎(現庁舎)の移転開庁を目前にひかえた1990年(平成2年)9月に以下の8路線の名称を決定。(東西に延びる道路を北側から、南北に伸びる道路を東側から順に記載。)新宿駅周辺は国内最大の商業地となっている。2008年(平成20年)7月現在の新宿区内の郵便局は56局、ATM出張所は17箇所。簡易郵便局は存在しない(以前は小田急百貨店内に簡易郵便局が存在した)。集配郵便局は3局。区内一部地域は中野区にある落合郵便局が集配を担当している。ゆうちょ銀行直営店舗は2店舗。かんぽ生命保険直営店舗は1店舗。郵便局ATM出張所すべてゆうちょ銀行本店の所属新宿区には病院(病床数20以上の入院可能な医療施設)が18あり、病床数の合計は6750。東京都内では板橋区・八王子市に次いで3番目に病床数を多く抱える自治体である。また、1病院あたりの病床数は375(東京都内では文京区・狛江市に次いで3番目に大きい)であり、大病院が集積していることを窺わせる(数字はいずれも2003年(平成15年)10月現在)。新宿区内の以下の6病院は(2009年(平成21年)10月時点で)東京都の災害拠点病院に指定されており、広域災害時の救急医療拠点としての機能を備えている。その他の主な病院を以下に掲げる。新宿区内の図書館および類似施設のうち、一般利用が可能な公立の施設は17ある。防衛省図書館と総務省統計図書館は組織上国立国会図書館の支部となっているが、実態として維持管理は防衛省・総務省統計局によってなされており、来庁者のための情報公開施設として機能している。新宿区立の図書館には、教育委員会の組織下のものと、それ以外のものに分類される。最も古い図書館は1951年(昭和26年)3月開館の新宿図書館(現四谷図書館、四谷区民センター内に併設)、最も新しい図書館は2006年(平成18年)4月設置のこども図書館(中央図書館内に併設)である。新宿区立の図書館はすべて、新宿区発足以降に新宿区によって新設された図書館であるため、周辺他区の図書館と比較してその歴史はあまり古くない。教育委員会組織下の図書館の蔵書総数はおよそ82万点(雑誌の数は含まず)、視聴覚資料はおよそ4万5000点。上記17施設のほか、利用に条件のある図書館もいくつかある。"旧四谷区、旧牛込区、旧淀橋区の著名な出身者については四谷区、牛込区、淀橋区を参照"『決闘! 高田馬場』:三谷幸喜作・演出による歌舞伎作品。2006年3月
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。