久遠寺(くおんじ)は、山梨県南巨摩郡身延町にある、日蓮宗の総本山(祖山)。山号は身延山。文永11年(1274年)、甲斐国波木井郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)が、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招き西谷の地に草庵を構え、法華経の読誦・広宣流布及び弟子信徒の教化育成、更には日本に迫る蒙古軍の退散、国土安穏を祈念した。弘安4年(1281年)に十間四面の大坊が整備され、日蓮によって「身延山妙法華院久遠寺」と名付けられたという。日蓮は弘安5年(1282年)9月に湯治療養のため常陸(加倉井)の温泉と小湊の両親の墓参りに向かうため身延山を下ったが、途中、信徒であった武蔵国の池上宗仲邸(現在の東京都大田区本行寺)にて病状が悪化したため逗留し、6人の弟子「六老僧」を定めて、同地において同年10月13日に死去した。「いづくにて死に候とも墓をば身延の沢にせさせ候べく候」との日蓮の遺言に従い、遺骨は身延山に祀られた。当地では足かけ9ヵ年の生活であった。日蓮の身延山での生活は日蓮遺文に記されており、「人は無きときは四十人、ある時は六十人」とあるように、大人数で生活をしていたと考えられている。各地の信徒より生活必需品が多く届けられ、日蓮はこの身延山をインドの霊鷲山に見立て、信仰の山として位置づけている。遺文の3分の2は身延山での生活する中で執筆されており、日蓮真筆の曼荼羅もほとんどがここ身延山で手がけられている。身延山は日蓮教団における最高の聖地であると位置づけられており、日蓮の遺骨は歴代の法主(住職)により、日蓮の遺言通り今日まで護られている。室町時代の文明7年(1475年)には、11世法主日朝により、手狭になった西谷から現在地に伽藍が移転され、戦国時代には甲斐国守護武田氏や河内領主の穴山氏の庇護を受け、門前町が形成された。江戸時代には日蓮宗が徳川氏はじめ諸大名の帰依を受け発展し、宗門中興三師と賞される日重・日乾・日遠のころ、身池対論を経て対立する不受不施派を排斥して確固たる地位を確立した。その後、日脱・日省・日亨の三師で壮大な伽藍を整えて盛期を迎える。文政4年(1821年)には火災で諸堂を焼失。その後復興されるも、明治8年(1875年)1月に西谷本種坊からの出火により再び伽藍や寺宝を焼き尽くしたが、74世日鑑の尽力とその後の法主等の力により現在に至る。久遠寺には数多くの経典や典籍・書籍、聖教や古文書類(身延山文書)が所蔵されており、「身延文庫」として一括され身延山宝物館に所蔵されている。身延文庫には「諸宗部」に分類されている他山・他衆により筆記・書写された典籍類も含まれている。現法主は92世内野日總法主(台東区瑞輪寺より晋山、潮師法縁)伽藍は前述のとおり明治8年の大火で焼失し、現在立ち並ぶ堂宇は再建されたものが多い。東谷塔中西谷塔中中谷塔中久遠寺山内には芭蕉をはじめいくつかの句碑がある。奥之院思親閣参道七面山参道南谷塔頭東谷塔頭中谷塔頭西谷塔頭上ノ山塔頭 七面山道日蓮宗総本山として山梨県及びその周辺地域を代表する観光地ではあるが、極端に観光地化されているということはなく、「信仰の山」という雰囲気を湛えている。伽藍内のトイレなどの清掃は若い修行僧達が担当している。廊下等で参拝者と擦れ違う際に、僧侶の挨拶が徹底されている点は特筆される。自家用車なら登山口まで乗りつけ麓に駐車して上る、電車では身延駅からバスかタクシーで七面山登山口下車。登山口からは全行程を徒歩で登る。登山道は険しく急坂ではある。冬場の参拝参籠は寒さが厳しく参道が雪道であるため要注意。宿坊での食事は精進料理のみで、肉魚等の持ち込みも禁止されている。
出典:wikipedia
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