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工藤公康

工藤 公康(くどう きみやす、1963年5月5日 - )は、愛知県豊明市出身の元プロ野球選手(投手)。福岡ソフトバンクホークス第20代監督(現職)。プロ野球選手時代は14度の優勝、11度の日本一を経験。西武、ダイエー、巨人の3球団で日本シリーズを制覇し、優勝請負人と呼ばれた。日本シリーズ通算最多奪三振記録を保持する。2012年 - 2014年の3年間、野球解説者・野球評論家として活動し、2015年からは福岡ソフトバンクホークスの監督(第20代)として指揮を執っている。長男に俳優の工藤阿須加、長女にプロゴルファーの工藤遥加がいる。名古屋電気高等学校時代は山本幸二とバッテリーを組み、の第63回全国高等学校野球選手権大会に出場。2回戦では長崎西高校戦で史上18人目、19度目(金属バット採用後初めて)のノーヒットノーランを記録(4-0)。チームをベスト4に導いた。同年のドラフト会議では、熊谷組への就職を発表しプロ拒絶の姿勢を明確にしていたが、西武ライオンズが6位で強行指名した。その後、説得に応じ入団となった(当時のマスコミには、「6位指名ながら、1歳上で1位指名の伊東勤より高額の契約金・年俸」と推定されていた)。入団時の経緯については、管理部長の根本陸夫が主導してドラフト指名し、入団にこぎつけたとされ、俗に「根本マジック」と称される出来事のひとつであると長年伝えられていたが、ドラフト会議時の根本は工藤の指名について反対の立場で、指名を強く進言したのは当時西武監督に就任したばかりの広岡達朗だった。入団1年目のから監督の広岡達朗から“坊や”とかわいがられ、中継ぎで起用された。同年は27試合の登板で1勝1敗、防御率3.41の好成績を残した。広岡からは厳しい指導を受け大きな影響を受けた。この年のパ・リーグプレーオフに登板し、第2戦では勝利投手になっている。なお、前期後期制時代のプレーオフはこの年が最後であった。1983年は中継ぎメインでの起用だったが2試合に先発した。入団3年目のはわずか9試合の登板に終わった。広岡に命じられアメリカの1A・サンノゼ・ビーズへ留学しメジャーリーグの野球を見たことが転機となり、帰国して宮田征典の指導を受け主力投手となった。からは本格的に先発に転向した。この年は8勝3敗ながら、初タイトルとなる最優秀防御率を獲得。はプロ初となる2桁勝利となる11勝を挙げた。また完投数も10を記録した。日本シリーズでは西武が第1戦を引き分けた後3連敗で迎えた第5戦の延長12回、投手である工藤がサヨナラ安打を記録した。その後西武は息を吹き返し4連勝で日本一。1勝2Sを挙げた工藤はシリーズMVPに選ばれた。は15勝を挙げたほか、シーズン最多の23完投を記録し、2度目となる最優秀防御率、最高勝率とベストナインのタイトルも合わせて獲得。しかし、この年のMVPは優勝争いの後半戦に9勝1敗と活躍した東尾修が選出された。それでも、この年の日本シリーズでは巨人相手に1完封を含む2勝1Sで前年に続き2年連続MVPを受賞し、名実共にパリーグを代表する左投手となる。は10勝10敗1セーブだったが、11完投を記録し、これで3年連続2桁完投を記録した。は調子を落とし、4勝8敗2セーブの成績で終わり、中継ぎで登板することもあった。最終的な登板数は33だった。は故障離脱があり、9勝を挙げたものの、1984年以来となる投球回数100未満でシーズンを終了した。シーズンに自己最高の16勝を上げ復調し、最高勝率を獲得。1992年も11勝を挙げ、チームのリーグ優勝と日本一に貢献した。のシーズンは15勝3敗、最優秀防御率、最高勝率、ベストナイン、そして自身初となるパ・リーグMVPを受賞する。この年のシーズンオフから始まったFAの権利を取得するも西武に残留。も11勝を挙げ、4年連続2桁勝利を記録したが、秋の契約更改時にそれまで老朽化していた練習設備の改善を訴え続けていたものの、球団からは色よい答えが返ってこないことからFA権を行使。根本が球団社長、王貞治が監督に就任した福岡ダイエーホークスに移籍した。西武の黄金時代を支えた秋山幸二と再びチームメイトになり、チームの再建を託された。、自身初のBクラスを味わった。は29試合に先発し、9完投を記録し8勝を挙げたが15敗を喫して負け越したものの、初の最多奪三振のタイトルを獲得。は2年ぶり2桁勝利となる11勝を挙げた。は故障離脱があり、7勝に留まったが、チームはダイエー譲渡後初となるAクラス入りを果たし、オリックス・ブルーウェーブと同率の3位に入り、工藤自身西武時代の1994年以来4年ぶりにAクラスを経験した。は、工藤はエースとして11勝を挙げ4度目となる最優秀防御率と、2度目となる最多奪三振のタイトルを獲得。ダイエーの福岡移転後初のリーグ制覇に大きく貢献し、MVPに選ばれた。中日ドラゴンズと対戦した日本シリーズでも第1戦に先発し、シリーズ新記録となる13個の三振を奪って完封した(この試合で稲尾和久(西鉄)の持っていた日本シリーズ通算奪三振数の日本記録を塗り替えた)。中日監督の星野仙一は「敵を褒めるのは嫌だが、工藤はウチを0点に抑えたわけで、たいしたモンだ」と悔しさを露にしてコメントした。工藤自身はこの試合のピッチングは「生涯最高の出来だった」と評し、三振を奪うのもゴロを打たせるのも自分の思い通りにいったと後に自著で語っている。「圧倒的中日有利」との下馬評の中、工藤の完封で勢いに乗ったダイエーは4勝1敗で日本一に輝き、工藤もシリーズ優秀選手に選ばれた。オフにFA宣言し、一時は中日ドラゴンズかメジャー移籍に絞られたとも報道されたが、最終的に読売ジャイアンツへの移籍が決定。4年契約を辞退し、単年契約を結んだ。FAにあたっては「もっと(ダイエーで)やりたかった」とも語った。2008年に『週刊ベースボール』のインタビューで、オークランド・アスレチックスからもオファーがあったことを明らかにした。移籍に際し、福岡では工藤の残留を願う17万3000人もの署名が集まった。工藤は移籍後、約7年かけて署名に参加したファン全員に住所と宛名を自筆した感謝の手紙を送った。移籍1年目のは「優勝請負人」として投手陣を引っ張りシーズン序盤から快調に勝ち星を重ね、前半戦だけで10勝を挙げる活躍を見せる。シーズン終盤に右ふくらはぎを痛め一時離脱したものの、12勝を挙げてリーグ優勝に貢献し、最優秀投手賞を受賞。日本シリーズでは故障をおして第1戦に先発し、前年まで所属していたダイエーを退け、2年連続の日本一に輝いた。しかし、翌年は左肩の故障に苦しみ、5試合の登板に終わった。は9勝を挙げ、チームのリーグ優勝と日本一に貢献する。日本シリーズでは古巣の西武と対戦。第3戦に先発し、8回2失点8奪三振の好投。チームはそのまま勝ち、自身も勝利投手となり、自身の持つシリーズ奪三振日本記録を102まで伸ばした。は故障で戦列を離れたこともあり、7勝6敗、防御率4.23の成績で終わった。8月17日、対ヤクルト戦で2失点完投勝利で通算200勝を達成、日本プロ野球史上23人目、41歳3か月での200勝は当時の史上最年長記録。また、この試合でプロ入り初本塁打を記録、41歳、プロ入り23年目での初本塁打は日本プロ野球史上最年長記録。ただ、打者としては、2000年から2002年にかけて84打席連続無安打というセ・リーグ記録を残している(日本記録は嵯峨健四郎の90打席)。自著の中で「昔日本シリーズで打ったイメージがあるらしく、巨人に入った時は『バッティングも期待してるぞ』と声をかけてもらったが途中から『バッティングはもういい。バントだけしっかりやってくれ』と言われるようになった」と述べている。同年は防御率4点台ながらも4年ぶりの2桁勝利を挙げた。5月19日の対ソフトバンク戦でセ・リーグ最年長完投勝利記録(当時)を更新。2005年8月26日の対阪神戦では最年長2桁勝利記録(当時)を更新した。2015年現在では、最年長200勝を含め、いずれも山本昌が記録を更新している。この年の工藤は11勝を挙げたが、規定投球回には到達できなかった。はシーズン前半に3勝を挙げ、7月には大野豊を上回り、プロ野球史上初の43歳2か月以上の現役左腕投手となった。しかし、6月 - 7月の2試合で計20失点を喫し、更に肩痛も発症し、登録抹消。最終的に3勝2敗、防御率4.50の成績でシーズンを終えた。12月の契約更改では限度幅を超える年俸ダウンの提示を受け保留。年越し、トレーニング地へ渡米していた。オフには、巨人の若手の成長株3人(会田有志、山口鉄也、木村正太)をアリゾナ自主トレに帯同させ、プロとしての私生活やトレーニングの大切さを一から指導を行い、才能を開花させた。この自主トレ期間中に門倉健がFA移籍したことに伴う人的補償で横浜ベイスターズへの移籍が決まった。1月7日、横浜から巨人にFA移籍した門倉健の人的補償のプロテクト枠28人に入らなかったことが判明したこと、また、それに対して横浜は215勝左腕の経験を評価して獲得候補の一人と考えていることなどが先行して報道された。なお、巨人フロント側は本来秘密裏に行われるはずの交渉が報道先行になったことに対し「遺憾の意」を表明した。1月9日、横浜への移籍が正式に決定した。自身がFA移籍をし、なおかつFAの人的補償となったのは2006年の江藤智に続き2例目。江藤は工藤と同じ2000年に巨人へFA移籍している。横浜へ移籍後も背番号は47。マスコミからは、トレードで同じく横浜に移籍した仁志敏久と共に巨人との「因縁の対決」が期待されていたようではあるが、1月11日放送の報道ステーションのインタビューで「自分がフロントだったら43歳の選手をプロテクト枠には入れない」と在籍した球団のチーム事情へ理解を示し、「自分を欲しいと言ってくれる球団があることに感謝している」と明るく語った。横浜球団には「明るいイメージの球団。ただ投げる以外でも貢献したい」とメッセージを送り、「もうトレーニング先でクルーンに会った」と早くもチームメイトへのメッセージを飛ばしている。2007年1月19日の正式入団の記者会見ではTBSアナウンサー・青木裕子の「ハマの何と呼ばれたいですか?」の質問に対し「じゃ、ハマのおじさんでいいです。」と、茶目っ気たっぷりに答えた。年俸は前年の2億9000万円から2億円減の9000万円(他に最高5000万円の出来高払い)と、プロ野球史上最大の減俸額(当時)となった(金額は推定)。2007年4月1日、対巨人戦に登板し一軍での実働年数が26年になり、野村克也の持つプロ野球最長記録に並んだ。5月23日、対西武戦に登板し勝利投手になったことで、米田哲也と並んでいた22年連続勝利記録を更新し23年連続勝利を達成した。また、44歳以上での勝利投手は史上2人目の記録。2007年7月12日の対中日戦で、6回裏に中田賢一から中前打を放ち44歳2か月というセ・リーグ最年長安打記録を樹立、さらに9月26日の阪神戦では5回裏に橋本健太郎から左前打を放ち44歳4か月と自身の記録を更新した。2007年7月24日の対巨人戦に先発し、勝利投手となったことで史上初の近鉄を含めた全13球団から勝ち星を挙げた投手になった。開幕当初は打ち込まれ二軍落ちも経験したが、再昇格以降は安定した投球を続けた。同年オフの契約更改では、2000万円増の年俸1億1000万円で更改した。、4月1日の対ヤクルト戦で先発して実働27年となり、野村と並んでいた実働26年を更新し歴代単独1位となるも、肘を故障しこの1試合のみで二軍に降格した。9月9日の日本ハム対湘南戦(鎌ヶ谷)16回戦に先発して5イニングを投げ、イ・リーグ最年長勝利投手となった。しかし、一軍では1勝も出来ず、1984年以来24年ぶりの一軍未勝利に終わる。同年オフの契約更改では、野球協約で定められている減額制限を超える約55%減の年俸5000万円プラス出来高払いで更改した。には、代名詞となった背番号47の着年数が26年に達し、プロ野球新記録となった。4月8日には古巣の対巨人戦に先発し、自らの持つ実働年数記録を28年に更新した。この試合に8失点でKOされると、その後の二軍での調整を経て、チームの方針からリリーフに転向。工藤の本格的なリリーフは1989年以来20年ぶりのこととなった。5月5日の対巨人戦では、自身初のホールドを記録。同5月25日の対楽天戦で4番手で9回表に登板し無失点で抑えると、チームが逆転サヨナラ勝ちしたことにより、自身が持っていた44歳4か月のセ・リーグ最年長勝利記録を46歳20日に更新した。この勝利で通算223勝とし、村山実を上回り単独13位。また40歳以降37勝目となり、36勝で並んでいた大毎の若林忠志を上回り単独1位となった。7月1日の対ヤクルト戦で1-2とリードされていた6回表二死から登板し打者1人をわずか4球で抑え、その裏チームが逆転しそのまま9-5で勝利したため通算224勝目を挙げた。この試合は地方である山梨・小瀬球場で開催されたためファンサービスも兼ねての登板であったが、結果としてこれがプロ野球生活最後の勝利となった。9月15日、選手の若返りを図りたい球団本部から、戦力外通告とシーズン終了をもって自由契約となる旨の通知を受ける。現役続行の意思を示し、古巣の西武が獲得の意向を示した。2009年11月14日、工藤が「家族会議の結果、西武にお世話になる事に決めた」と明言、16年ぶりに古巣に復帰することになった。デビュー以来、ほぼ毎年つけ続けてきた背番号47は主軸左腕投手の帆足和幸が着用。帆足は「(背番号47は)元々、工藤さんの番号」と返還の意向を見せたが、工藤本人が「若くて旬な選手に気を遣わせたくない」と固辞。11月16日、背番号は「55」と発表された。7月18日、前半戦終了間際に復帰後初めて一軍登録された。7月20日の対ソフトバンク戦(ヤフードーム)で、7回裏に先発・野上亮磨の後を受けて2番手で登板し、自身が持つ実動年数の記録を29年に更新した。しかし、以後は10試合で0勝2敗、防御率10.50。8月25日の対ロッテ戦では同点の場面で登板したものの勝ち越しの一発を浴び、28日に登録抹消となった。9月27日に球団から戦力外通告を受け、10月1日に退団。西武退団後も現役続行の意思を表明していたが、シーズンは獲得に名乗りを上げる球団が現れず、トレーニングを続けながらメジャーリーグへの挑戦も視野に入れて1年間浪人した。現役続行に向けてトレーニングを積む傍ら、文化放送のゲスト解説者も務めた。7月、秋にメジャーリーグのトライアウトを受験するつもりである旨表明したが、後述の通り肩の傷が癒えなかったことから受験には至らなかった。2011年11月22日のスポーツ報知の取材で、肩関節唇に炎症を抱えるなど肩の調子が上がらないことで、本人の口から引退を示唆する発言が出た。最終的な進退判断は、家族と話し合って決めるとしていた。その後、横浜ベイスターズを買収したDeNAに新監督就任を要請されたが、12月5日に交渉が合意に至らず破談したことが明らかになった。12月9日、自身のブログで肩の故障が治癒しないことから現役引退を決意したことを表明した。工藤の引退後は、中日の山本昌が日本プロ野球で最年長の選手となった(満50歳の2015年のシーズンで引退)。1988年限りで球団売却された阪急ブレーブス・南海ホークスから勝利した経験のある最後の現役選手でもあった。4月7日、西武ドームでの西武対ソフトバンク戦の試合前に工藤による始球式と引退セレモニーが行われ、工藤と共に西武黄金時代を支えた西武監督の渡辺久信がキャッチャー、ソフトバンクの監督の秋山幸二が打席に立ち、工藤の投じたゆるい大きなカーブはワンバウンドし、工藤は「マウンドから届かなかったのは初めて」とコメントしている。2012年からは、日刊スポーツ評論家や文化放送『ライオンズナイター』の解説者として活動。テレビ朝日の『報道ステーション』にも、日本ハムの監督に就任した栗山英樹の後任扱いで、プロ野球担当キャスターとして定期的に出演している。また、まで栗山が務めていた朝日放送の「熱闘!高校野球ナビゲーター」を継承。全国高等学校野球選手権大会の予選・本大会期間中には、プロ野球の解説・評論活動と並行しながら、同局が制作する大会関連番組(『速報!甲子園への道』『熱闘甲子園』など)で司会や取材を担当する。7月19日、自身のブログで筑波大学大学院に合格したことを発表。翌年4月、同大学院人間総合科学研究科に仁志敏久・吉井理人とともに入学した。11月1日、西武、ダイエーの先輩でもあり、前任監督であった秋山幸二の勇退を受け、その後を引き継いで福岡ソフトバンクホークス監督に就任することが決定し、王貞治球団会長同席の下に就任記者会見を行った。投手出身のホークスの監督は杉浦忠以来26年ぶりである。なお、監督就任にあたり、工藤の背番号は当初、王貞治がダイエー/ソフトバンク監督在任時代に着用していた「89」をつけるという報道もされていたが、前任者の秋山が着用していた「81」を引き継ぐことになった。交流戦は12勝6敗、首位・日本ハムと0.5ゲーム差の2位で終えるも、6月16日の阪神対日本ハム戦で日本ハムが敗れたことで、ソフトバンクの交流戦勝率1位が確定。チーム打率・287、チーム本塁打・23本、90得点はいずれも12球団トップ。福岡移転後最速でマジック38が点灯し、9月6日の対楽天戦に5-3で勝利し3位以内が確定、両リーグ一番乗りでのクライマックスシリーズ進出を決めた。9月17日、本拠地での対西武戦に勝利し、パ・リーグ最速でリーグ優勝を決める。クライマックスシリーズファイナルステージでは、ファーストステージ勝者のロッテと対戦。3連勝でアドバンテージの1勝を含めて4勝0敗で日本シリーズへ進むこととなった。10月29日の日本シリーズ第5戦では、5-0で迎えた最終回を守護神のデニス・サファテが締めくくり、就任1年目にしてレギュラーシーズン、クライマックスシリーズ、日本シリーズの3部門において完全優勝を成し遂げた。2016年1月18日、野球殿堂入りを果たした。2006年までに在籍した3球団で優勝と日本一を経験しており、このことから「優勝請負人」と呼ばれ、日本シリーズでも数々の記録を保持している。最年長記録を次々と更新したことから「鉄腕」と呼ばれることもある。江川卓を以てして「小学生が真似るべきは工藤投手のフォーム。まさにお手本。」と形容されるなど、多くの関係者に賞賛される投球フォームを持つ。持ち球は主にストレートとカーブの二種類と少なかったが、工藤は「ストレートとカーブだけではプロのバッターは抑えられませんが、それぞれを何種類か持っていればいいのです。要は緩急をつけることです。」と語っており、130キロ後半と140キロ後半のストレート、カーブに至っては100キロを割るスピードから120キロ代までを投げ分けていた。(ダイエー移籍後頃にスライダー、フォークを習得した。)現役時代、栄養値の高い食事をしたり青汁を飲んだりするなど体調管理には気を遣っていたことで有名だが、そうなったのは結婚してからで、それ以前は毎日のように朝まで飲み歩いては二日酔いのまま登板するという不摂生な生活を繰り返していた。それが蓄積され1988年シーズン途中から不調に陥り、89年には肝機能障害を発症。医師から「選手生命以前に死ぬよ」と告げられるほどの状態になり、1989年シーズンは何度も二軍落ちを繰り返し4勝8敗・防御率4.96という散々な成績で、戦力外通告を覚悟したという。同年オフに結婚した際のプロポーズは「(野球を辞めて)山にこもって暮らそうよ」だったが、妻が「夫をもう一度野球を出来る身体にして、野球で喜ぶ顔が見たい」と、引退を考えていた工藤を説得し、夫婦二人三脚での体質改善に取り組むようになった。工藤はその後約1年間のリハビリを経て復活、以降体調管理には非常に気を遣うようになった。1987年の日本シリーズで巨人に勝利する直前、一塁を守っていた清原が号泣していたというのはよく知られるエピソードだが、この試合に先発し9回まで投げていたのが工藤であった。清原を見て「打者は左バッターの篠塚さん、清原は涙でボールが見えないからインコースを引っ張られ一塁に打球が飛ぶと危ない」と判断し、ファーストに打たせない投球を心がけアウトコースで勝負することを選択、篠塚を外角へのスライダーでセンターフライに打ち取り胴上げ投手となっている。これについて、工藤を兄と慕っていた清原は自著の中で「泣き虫の弟にどこまでも優しい兄だった」「ゲームセットの瞬間、工藤さんに抱きついて思いっきり泣いた」と感謝を述べているが、工藤自身は試合後のインタビューで「(あと1アウトで胴上げ投手だったため)どんなガッツポーズにしようかマウンド上で考えていたのに、アイツ(清原)が泣きやがってそれどころじゃなくなった」と答えつつ、「あの涙は、本当に美しかった」と語っている。ダイエーでは投手陣の柱として活躍すると共に、武田一浩と共に、城島健司を日本を代表する捕手に育てあげた。特にリード面に関しては、試合中にベンチ前でリードの意図について城島に問い詰める場面が度々見られたり、打たれるとわかっていても敢えて城島のサイン通りに投げて打たれ、何故打たれたのかをマウンド上で言って聞かせるなど徹底したものであった。これについて工藤は「試合の中が一番いいんです。試合が終わった後であの球はああだったこうだったと言っても、もう遅いんですよ。」と語っており、こうした体当たりの指導で城島を育てていった。城島自身も、試合後に工藤の宿泊しているホテルの部屋まで出向き、その日の配球について教えを請うなど貪欲な向上心を見せ、そうした甲斐あり城島は正捕手に定着、1999年シーズン開幕時には、工藤は城島に対して「今年一年お前の出すサインには首を振らないから、自信を持ってサインを出せ」と述べていた。その年チームは球団初のリーグ優勝・日本一に輝き、日本一決定後のマウンド付近で工藤は泣きじゃくる城島と抱擁した。工藤・城島のバッテリーはシーズン終了後に最優秀バッテリー賞を受賞。巨人移籍1年目の2000年7月14日の対ヤクルト戦では、6回まで無四球被安打1で投げ終え、唯一ピンチを迎えた7回1死ランナー1,2塁ではペタジーニ・古田敦也に対し、打席内でのわずかな目線の動きと素振りの軌道、前の打席までの結果から内角狙いと見抜き、外角低めのストレート3球勝負に出て3球三振に獲った。当時の監督であった長嶋茂雄はこのピッチングに感動し、次の試合もあるのでとこの回での交代を希望した工藤に「工藤、次の試合はいいから、この試合だけ最後まで投げてくれ。これだけのピッチングを見せられて、こんなところで俺は代えられない。ファンの方々に申し訳ない。」と目を爛々とさせて工藤を説得、意気に感じた工藤は9回を投げ切り1-0で完封勝利を挙げ、長嶋からは「2000年ペナントレースのベストゲーム」と称された。プロ入り後はノーヒットノーランを達成することはなかった。惜しくも逃した試合として1986年7月13日、1999年9月11日のいずれも近鉄戦で前者は9回1死まで完全試合、後者は8回までノーヒットノーランに抑えながら、2試合とも鈴木貴久に本塁打を打たれた。1980年代当時の野球選手の普段着は、大き目の襟のゴルフシャツ、ベスト、スラックス、エナメル靴、ヘアスタイルも角刈り、パンチパーマが当たり前であったが、DCブランド、ジーンズ、スニーカーを着こなし、ヒーローインタビューで笑いをとったり、優勝決定時の胴上げに加わらず、カメラに向かってはしゃぐ等のパフォーマンスをよく行っていた。そのため、先輩等に酷評されることもあったが、1986年の新語・流行語大賞では、その年の流行語「新人類」を象徴して清原和博、渡辺久信と共に表彰され、球界に新風を吹かした先駆者であった。また渡辺とは翌1987年ので春季キャンプの頃、テレビ朝日『ニュースステーション』で「クドちゃんナベちゃんのキャンプフライデー」というコーナーを持ったことがある。読売ジャイアンツ球団公式サイト内に『僕の野球塾』という少年野球指導コーナーを長きにわたって掲載しており、野球少年に「正しいトレーニング」の重要性を伝えていた。全国の野球少年からの質問が殺到する人気コーナーのため、データの蓄積は膨大な量となった。工藤は2006年に同タイトルの書籍を講談社から刊行している。横浜移籍後は横浜球団ウェブサイトへデータ・権利が引き継がれていた。子供たちに夢を与える活動「夢の課外授業」の発起人として、2000年より全国の小学校を訪問している。毎年オフに神宮の室内球技場で行っているチャリティキッズベースボールスクールも2009年までに15回開催(主催二十一世紀倶楽部)。巨人移籍後に、ダイエー時代の同僚であり公私共に親交の深かった藤井将雄が亡くなったが、シーズン中にもかかわらずスーツ姿で葬儀に参列。ダイエーのユニフォームを着た選手と共に棺を担いだ。当時藤井の本当の病状については関係者でもごく一部にしか知らされておらず、工藤は後に「本当の病状を知っていたらFA移籍はなかったかも知れない」と語っている。横浜時代のチームメイトだった加藤康介は、工藤の姿を見て大いに勉強させられ、横浜を戦力外通告後に阪神に移籍した際の活躍の原動力になったと語っている。工藤自身も『報道ステーション』2013年7月12日放送分にて加藤の奮闘ぶりを讃える発言をしている。21をつけたダイエー時代の1995年と1996年以外は2009年まで47を背負い続けたことから、47は工藤、あるいは左腕投手の代名詞と言える背番号となっている。2010年は背番号を55にした。プロ入り時に西武が最初に用意した背番号は17だった。ところが熊谷組の入社試験まで受けていたので、他のスカウトから絶対プロ入りはない、と考えられていた工藤が、「プロ入り拒否・熊谷組入社」から「西武入団」へと方向転換したため、西武との密約が噂されたが、これについては球団側・工藤側ともにそれを否定できなかったため、47に「降格」となった。1995年ダイエー移籍時、西武時代と同じ背番号47を希望したが、1994年途中よりケビン・ライマーに与えられていたためやむなく21をつけた。その後、1995年限りでライマーが解雇されたが、1996年はスコット・ライディが47を引き継いだため、移籍3年目のに希望通り47が与えられた。21は西武時代の先輩でプロ選手の心構えを教えてもらった東尾修の現役時代と同じ番号で、西武在籍時のチームメイトでもある渡辺久信が1998年にヤクルトに移籍した時も工藤同様、背番号21をつけている。21をつけていた2年間はかなりの違和感を覚えていたといい、1999年シーズン終了後に巨人に移籍する際も47を希望。当時47を付けていた小野仁は13に変更した。横浜に移籍する際も背番号47をつけ、前年まで47を付けていた堤内健は36に変更した。背番号47が左腕投手に与えられる例として、ダイエーは工藤の退団後に入団した左腕の杉内俊哉に、工藤の背番号であった47を与えたが、二人には左腕という他に、夏の甲子園でノーヒットノーランを記録しながら優勝できなかった、カーブが得意、隔年で調子を崩す傾向があるなどといった共通点がある。また、杉内は入団時、工藤について尊敬していると語り、目標にしている選手であると語った。なお、杉内は2012年に巨人に移籍した際に背番号18を与えられた(47をつけていたのは左腕投手の山口鉄也)。西武での後輩にあたる左腕の帆足和幸は、2001年の入団以来何度も47への変更を訴え、2006年にようやく認められている。その後、帆足はオフに工藤が西武復帰を決めた際、背番号47を工藤に返還する意向を見せたが、工藤はそれを固辞し、55を選んだ。なお、帆足は2012年にソフトバンクへ移籍し、背番号を11としたが、2013年から背番号を47としている。2009年11月16日に埼玉西武ライオンズの入団会見を行った際に、背番号55を選んだ理由として、ダイエー時代のチームメイトであり、現役中の2000年に31歳の若さで急逝した藤井将雄が生前に着用していた背番号15を意識し、「彼の5番が入るのでいいと思う。彼の分も野球を続けていこう、と心に決めていた」と語った。また「子供たちから『イケイケゴーゴー』だと言われたし、自分の誕生日も5月5日なので」とも語った。

出典:wikipedia

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