耶馬渓線(やばけいせん)は、かつて大分県中津市の中津駅から同県下毛郡山国町(現・中津市)の守実温泉駅に至る、大分交通が運営していた鉄道路線である。地元では「耶鉄」と称される。1913年(大正2年)に耶馬渓鉄道として開業。のちに大分交通の路線となった。山国川に沿って延びるこの鉄道は、沿線に青の洞門、羅漢寺、守実温泉などの観光地を控えていた。1970年代に入り、沿線の過疎化による利用者の減少と道路整備が進んだこと、さらに国鉄中津駅の高架化(1977年(昭和52年)完成)に伴う費用の応分の負担を要求されたことから、バス転換の方針が打ち出され、1975年(昭和50年)に全線が廃止された。1971年(昭和46年)時点で1日あたり中津 - 守実温泉間下り6本、上り8本、中津 - 耶鉄柿坂間2往復、中津 - 洞門間2往復が運行されていた。その他、平日には中津 - 大貞公園までの区間運転も行われていた。開業時は軌間762mmであり国鉄との輸送に支障が出ることから1067mmに改軌することは大正末期から課題となっていたが、不況期であり延期されていた。しかし1927年(昭和2年)6月に専務から社長に就任した小畴寿が軌間拡幅工事に着手することを決定し、資金は日本興業銀行から90万円を借り入れることになった。1928年(昭和3年)5月に着工。1929年(昭和4年)8月完成した。車両は鉄道省からの払下げをうけることになり8月24日から運行開始となった。ところが昭和金融恐慌のさなかであり収入は予想に反し伸び悩む、利子は年に6万3千円もあり経営危機に陥ってしまう。このため小畴社長は社長以下俸給一割減と人員削減を打ち出した。これに対し従業員から反発をまねくことになり現場は混乱し、地元新聞は連日この騒動を報道することになる。このため中津町長らが調停に乗り出し小畴は社長から専務に降格することとなった。その後も経営不振が続き1931年(昭和6年)減資。1935年(昭和10年)に日本興業銀行より半田貢が送り込まれ社長に就任し、銀行管理下におかれた。同年ガソリンカーを導入し燃料費削減をするなど強力に合理化を推進し経費を削減していった。一方観光開発にも力を入れ耶馬渓町鴫良の温泉掘鑿、深耶馬山彦旅館の買収、鴫良梅林の造成などを手掛け、ガソリンカーに女性ガイドが乗車し沿線の観光案内をした。社員は北九州の会社、工場、役所をまわり耶馬渓を宣伝した。こうした結果1938年上期には4年ぶりの復配となった。さらにその後の戦時景気による輸送量の増加とガソリン規制による乗合自動車の衰退により業績は向上していった。1942年(昭和17年)からは軍需工場神戸製鋼中津工場の工事が本格するようになり、工場への引込線も建設された。周辺には住宅や寮が建設され、1944年(昭和19年)の乗客数は300万人に上った。1938年(昭和13年)8月に半田が社長を辞任すると10月に社長に就任したのは九州電気軌道社長の村上巧児であった。交通事業調整委員会から私鉄統合の要請を受け地元大分の耶馬渓鉄道と交渉した結果からであった。その後1941年(昭和16年)8月には門司鉄道局で九州電気軌道に対し小倉電気軌道を統合するよう慫慂した席上福博電車、博多湾鉄道汽船、筑前参宮鉄道、耶馬渓鉄道、別府大分電鉄の五社併合を至急実施するよう言い渡されていた。つまり西鉄統合の構想時では大分県鉄道も含まれていた。結果的には県別に統合されることになり1945年(昭和20年)4月大分交通が発足した。西鉄は全株式の21.4%を保有し村上は会長に就任した。廃止時点のもの中津駅 - 八幡前(はちまんまえ)駅 - 大貞公園駅 - 上ノ原駅 - 諫山駅 - 真坂駅 - 野路駅 - 洞門駅 - 羅漢寺駅 - 冠石野(かぶしの)駅 - 耶馬渓平田駅 - 津民駅 - 耶鉄柿坂駅 - 下郷駅 - 江渕駅 - 中摩駅 - 白地駅 - 宇曽駅 - 守実温泉駅1929年改軌時、全て国鉄からの払い下げ。蒸気機関車7両、客車14両、貨車36両1963年時点では蒸気機関車3両、ディーゼル機関車2両、ディーゼルカー7両、客車16両1967年時点では蒸気機関車2両、ディーゼル機関車3両、ディーゼルカー13両、客車19両、貨車16両。1965年-1966年に廃止された宇佐参宮線、国東線より車両が転入。以下の車両は解体された。中津駅付近は平成初頭まで線路跡が手付かずのまま残されていたが、その後区画整理事業が実施され跡形もなく消え去った。国道213号線交差部分 - 大貞公園駅付近も県道(大分県道675号臼木沖代線)の拡幅に飲み込まれ跡形もない。大貞公園駅 - 野路駅手前までは県道の東側の歩道部分(メイプル耶馬サイクリングロード)が耶鉄跡である。特に大貞公園駅跡付近は桜が植えられ、春には美しい桜並木となる。野路駅手前には国道212号を乗り越えていた鉄橋がサイクリングロードとして現存しており、さらに野路駅跡はホームが残り、また付近の踏切跡の道路にも「踏切あり」の道路標識が残されており、ここに鉄道が存在したことを物語っている。野路駅からの線路跡は本格的にサイクリングロードとして転用されている。ただし、樋田集落 - 青の洞門対岸の線路跡は国道212号のバイパスとして転用され、跡形もない。その先の津民 - 耶鉄柿坂間では、よく取り上げられる沿線随一の名所「第2山国川橋梁」がサイクリングロードとして転用されている。第2山国川橋梁は、2012年(平成24年)7月の九州北部豪雨でほぼ半分が橋脚も含めて破損流失したが、2014年(平成26年)6月1日に復旧した。この付近では耶鉄時代のトンネルもサイクリングロードとしてそのまま残されている。柿坂付近は再び国道212号線に飲み込まれ跡形もない。柿坂にはサイクリングターミナルがあり、自転車のレンタルや宿泊も可能である。柿坂より先も国道にも飲み込まれているが、中摩駅 - 白地駅付近は国道より離れ、線路跡の面影をよく残している。終点の守実温泉駅跡はかつての終着駅としての面影は全くなく、山国町商工会館・大交北部バスの折返場として使用されている。登録有形文化財
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。