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カツラギエース

カツラギエースは、日本の競走馬。日本調教馬として初めてジャパンカップに優勝した。主戦騎手は崎山博樹→西浦勝一。1984年優駿賞最優秀5歳以上牡馬。※本項では、馬齢は旧表記(数え年)にて表記を統一する。栗東の土門一美調教師に預けられたカツラギエースだったが、ダート調教での走りは良くなかったが、デビューの芝レースで一変、9月19日の阪神競馬場の芝1200mを8馬身差で勝利した。1983年のクラシック候補として歩むこととなった。新馬からの鞍上は崎山博樹が務めた。デビュー戦から皐月賞まで6戦3勝で、その間メジロモンスニーなどと好勝負を演じ、関西馬のエース格であった。そしてクラシック初戦、中山競馬場で施行された皐月賞は7番人気に支持されるが、不得手の不良馬場が祟りミスターシービーの11着に敗退した。次走に選んだのは東京競馬場の東京優駿トライアルNHK杯で、9番人気の低人気だったが、これを勝利した。そして東京優駿(日本ダービー)では3番人気に支持されるが、またしてもミスターシービーの6着に敗れた。その後は6月の中京4歳特別はニホンピロウイナー(ちなみに皐月賞では最下位負けを喫している)の2着で春シーズンを終えた。夏を越した秋にようやく本格化し、初戦の神戸新聞杯こそスズカコバンとは僅差の2着に敗れたが、続く菊花賞トライアル京都新聞杯より鞍上に西浦勝一を迎えた。そしてレースでは、逃げるリードホーユーを直線で捕まえると6馬身差を付けて勝利、ミスターシービーを4着に破った。しかし本番の菊花賞では2番人気に支持されるものの、距離不適だったのは否めず21頭中20着のブービーに惨敗、三冠レースでは全てミスターシービーの後塵を拝した。尚、当馬のデビュー以来神戸新聞杯まで主戦だった崎山はこの年調教師試験に合格、翌1984年2月で引退し調教師に転向した。翌1984年は初戦の鳴尾記念こそ4着に敗れるが、次走の産経大阪杯、京阪杯と共に距離2000mで2馬身差以上の差で勝利。続く宝塚記念は1番人気に支持され、先行2番手から直線スズカコバンに1 1/4身差付けて勝利した。勝ちタイムも前年のハギノカムイオーのレコード2:12.1秒からコンマ3秒の2:12.4秒と好タイムで勝ち、「中距離のカツラギエース」の印象を強くした。宝塚記念後に出走した高松宮杯は重馬場と、直線スズカコバンに大外に振られたこともあり5着に敗れ、春シーズンを終えた。秋初戦の毎日王冠では菊花賞以来出走となるミスターシービー、南関東三冠馬サンオーイが出走し、三強対決と報道された。先行するカツラギエースは、直線追い込むミスターシービーをアタマ差押さえ勝利した。だが、ミスターシービーの3度目の対抗人気に支持された天皇賞・秋は折り合いを欠き5着と敗退。ファンから「前哨戦では勝つが本番ではシービーに負ける(1983年京都新聞杯と菊花賞、1984年毎日王冠と天皇賞(秋))」、「宝塚記念もシービー不在だから勝てた」と揶揄されていた。ジャパンカップでは三冠馬対決となるミスターシービーとシンボリルドルフに注目が集まり、カツラギエースは10番人気だった。ここで陣営は長距離レースでカツラギエースを落ち着かせるために初めてメンコ(覆面)をつけ、初めてスタートから先頭に立つ逃げを選択。さらに騎手の西浦は手綱を通常より長めのもの(いわゆる「長手綱」と呼ばれる)を用意した。レースでは馬の行く気まま進め、後続に10馬身以上差を付けた大逃げに打って出た。直線では後続に捕まりそうで捕まらず最後まで踏ん張り2着ベットタイムに1 1/2身差で優勝。遂にミスターシービーを相手にGIで勝利、同時に日本馬初のジャパンカップ制覇を果たした。同年の三冠馬シンボリルドルフは3着と初黒星をつけた。カツラギエースが先頭でゴールした直後、場内は騒然となるどころか、むしろ唖然として静まり返っていた。ジャパンカップ後に有馬記念での引退が発表され、シンボリルドルフ、カツラギエース、ミスターシービーによる三強対決と大きく報道された。この競走でも逃げるが、シンボリルドルフの執拗なマークに屈し2着に終わったものの、3着のミスターシービーには先着した。このレースを最後に引退となった。※1984年、グレード制導入有馬記念を最後に引退したカツラギエースは、種牡馬として供用された。産駒には地方・大井競馬の東京ダービーを勝ったアポロピンクや、サンスポ賞4歳牝馬特別を勝ったヤマニンマリーンなど、牝馬の活躍馬が多かった。2000年7月3日に、心不全のため死亡。墓は北海道日高郡新ひだか町の冬沢牧場に建立されている。全体的にはダートに向く産駒が多かった。また、牡馬産駒の成績が牝馬に比べて劣る傾向があった。抜群のスタートセンスと優れたスピードを活かした先行力を武器に活躍し、ミスターシービーの最高のライバルと評された。ジャパンカップや有馬記念で見せた戦法から逃げ馬というイメージが強いが、ほとんどのレースは道中3 - 4番手追走からの好位差しである。ハミに対して非常に敏感な馬であり、少し間違えるとすぐに前へ行きたがってしまう癖があることから「騎手泣かせの馬」だったと当時の厩務員は回顧している。同じ1980年生まれには三冠馬ミスターシービーを筆頭に、安田記念・マイルチャンピオンシップを制したニホンピロウイナー、1985年宝塚記念優勝馬のスズカコバン、1983年有馬記念優勝馬のリードホーユー、1985年天皇賞(秋)・1986年安田記念優勝のギャロップダイナ、皐月賞・ダービー2着のメジロモンスニー、大井(南関東公営)三冠馬のサンオーイ等と粒揃いで、世代のレベルは1歳下のシンボリルドルフ世代より上と評価する者が少なくない。父ボイズィーボーイはオーストラリアで供用され、ヴィクトリアダービー馬ガレナボーイなどを輩出した後、1978年から日本で供用されたが、2年分の産駒を残して1980年に死亡している。カツラギエース以外の活躍馬はクイーンカップ3着のアサヒエンジェル(府中3歳ステークス馬アサヒパシィオンの母)位しかいない。尚、ボイズィーボーイの母はかつて日本でリーディングサイアーとなったライジングフレームの全妹である。母系はプリティーポリー系。弟にセリで当時の最高額記録となる2億6500万円で落札されたことで知られるモガミショーウン、妹に中山牝馬ステークスを制したラビットボールがいる。

出典:wikipedia

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