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松平忠輝

松平 忠輝(まつだいら ただてる)は、安土桃山時代から江戸時代中期にかけての大名。天正20年(1592年)1月4日、徳川家康の六男として江戸城で誕生した。幼名は辰千代(たつちよ)という。生年が辰年だったのがその由来と言われる。生母・茶阿局の身分が低かったため、家康は誕生したばかりの辰千代を素直に喜ばず、捨て子のしきたり(当時は捨て子の方が強く丈夫に育つとされ、安育祈願として一度寺の門前に子供を捨て、通りがかった家臣に拾わせて自分に届けさせて育てるという風習があった)の際に家康の側近・本多正信に拾わせ、養育先を探させて、下野栃木(皆川)城主で3万5,000石の大名である皆川広照に預けられて養育されることとなった。家康が忠輝と面会したのは、慶長3年(1598年)のことであるが、そのときも家康は忠輝を嫌ったと言われている(後述)。慶長4年(1599年)1月、家康の七男で同母弟の松千代が早世したため、弟の名跡を継ぐ形で長沢松平氏の家督を相続し、武蔵国深谷1万石を与えられた。慶長7年(1602年)に下総国佐倉5万石に加増移封され、元服して上総介忠輝を名乗る。慶長8年(1603年)2月、信濃国川中島藩12万石に加増移封され、待城(松代城)主となる(佐倉移封が前年12月であったため、わずか40日で2度の転封となる)。家康の腹心で幕閣の大物である大久保長安が附家老として補佐することとなった。慶長10年(1605年)、秀忠の将軍・秀頼の右大臣就任の際に、家康の命令で大坂の豊臣秀頼と面会している。慶長11年(1606年)、大久保長安の仲介により、伊達政宗の長女・五郎八姫と結婚した。慶長13年(1608年)、同母姉(異父姉)の婿の花井吉成が附家老とされた。(花井の娘と長安の息子は夫婦)慶長14年(1609年)、幼き日の忠輝を養育し、この頃は幕府からの附家老であった皆川広照ら古くからの家臣が、忠輝の素行の改まらないことを幕府に訴えたが、幕府側からは逆に家老に不適格であるとされて広照らは失脚している。慶長15年(1610年)、越後高田藩主(福島城主・後述)に任じられ、このとき川中島12万石と併合して合計75万石の太守に任じられた。旧領の川中島領は花井吉成が待城代となって支配した。越後領有当初の忠輝は、堀氏が築いた福島城の城主であったが、慶長19年(1614年)に高田城を築城し、これに移った。高田城は幕命(天下普請)により、忠輝の義父である伊達政宗をはじめとした13家の大名の助役で築造された。しかし父・家康との距離は縮められずじまいのまま、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では留守居役を命じられる。剛毅な忠輝には不満が残る命令であったが、結局これに従った。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で大坂に出陣した。元和2年(1616年)4月、家康が死去した。家康は今際の際に秀忠・義直・頼宣・頼房らを枕元に呼びながら、忠輝だけは呼ばなかった。拝謁を望む忠輝は駿府まで自ら馳せ参じたが、家康は最後まで面会を許さなかった。『徳川実紀』は「忠輝、いそぎ発途して駿府へ参られ、宿老もて御気しき伺はれしに。家康は以の外の御いかりにて。城中へも入るべからざる旨仰下され。御対面も叶はざれば。少将(忠輝)せんかたなく御城下の禅寺に寓居して。御気のひまを伺ひて。謝し奉られんとする内に薨去……」と伝えている。元和2年(1616年)7月6日、忠輝は兄・秀忠から改易を命じられ、伊勢国朝熊に流罪とされた。生母・茶阿局は、家康の側室の阿茶局や高台院等にも取り成しを依頼したが、聞き入れられなかった。元和4年(1618年)には飛騨国高山に、寛永3年(1626年)には信濃国諏訪に流された。そして天和3年(1683年)7月3日、幽閉先である諏訪高島城(南の丸)にて死去した。92歳。息子である徳松(母は竹の局)は放免の際に同行が許されず、更には岩槻藩主・阿部重次の預かりとなったもののそこで冷遇され、寛永9年(1632年)に住居に火をつけて自殺している(享年18)。家康との仲は実は埋まっていたという説もある。それが野風の笛の逸話である。この笛は、織田信長→豊臣秀吉→家康と渡り歩いた物とされており、その天下人の象徴である笛を、家康は茶阿局を通して忠輝に渡したと言われている。現在、長野県諏訪市の貞松院に保存されている。徳川宗家より赦免されたのは、死去から300年後の昭和59年(1984年)になってからであった。忠輝の菩提寺である貞松院の住職・山田和雄が300回忌での赦免を思い立ち、徳川宗家18代目当主の徳川恒孝に願い出て実現した。7月3日、恒孝によって赦免され、仏前への奉告は貞松院の檀信徒の都合などで3年後の昭和62年(1987年)10月24日に行われた。10月24日の法要には、仙台伊達家当主の妹や諏訪家当主、当時の家臣の子孫など約400名が参列し、恒孝が赦免状を読み上げた。なお、恒孝はその後、児玉幸多に「歴史を後から変えるべきではない」旨の批判を受けている。忠輝は次兄の結城秀康と同じように、父親から生涯を通じて嫌われた。その理由は、忠輝同様に母親の身分が低かった秀康とほぼ重なるが、とりわけ忠輝については、その容貌を嫌ったという記録が多い。「藩翰譜」は「世に伝ふるは介殿(忠輝)生れ給ひし時、徳川殿(家康)御覧じけるに色きわめて黒く、まなじりさかさまに裂けて恐しげなれば憎ませ給ひて捨てよと仰せあり」、と伝える。つまり、家康は生まれたばかりの新生児である忠輝の顔が醜いという理由だけで、捨て子扱いしたのである。藩翰譜は慶長3年、忠輝が7歳の時、忠輝と面会した家康が、「恐ろしき面魂かな、三郎(松平信康)が幼かりし時に違ふところなかりけり」と語ったとも伝える。さらに「野史」の同年の記事には、家康が忠輝を見て「面貌怪異、三郎(松平信康)ノ稚顔ニ似タリ」と言ったという記述がある。家康は、長男・信康の面影を忠輝に見いだしていたようである。甥で同じく改易された松平忠直などと同様、忠輝は粗暴な一面があったとも伝えられている。忠輝は順調に出世して最終的に75万石の太守となったことから、家康は忠輝に報いたとされることが多い。しかし慶長11年(1606年)の川中島12万石の太守であった時点で、弟の義直(7歳)は甲斐府中25万石、頼宣(5歳)は常陸水戸藩25万石、頼房(4歳)には常陸下妻藩10万石を与えている。しかも家康が忠輝に所領を与えたのは、政宗や茶阿局らの運動があったためとも言われている。また、同母弟の松千代も幼くして長沢松平氏を継ぐ形で武蔵深谷藩を与えられていたのに対し、同時期の忠輝には特に何も与えられていなかった。弟の松千代の夭折によって兄の忠輝がその跡を継ぐという、逆の形になっている。家康没後の元和2年(1616年)7月6日、兄の秀忠は忠輝に改易を命じた。以上が、秀忠が改易を命じた表向きの理由である。しかし実際は、以下の理由もあったのではないかとされている。

出典:wikipedia

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