オグリキャップ(Oguri Cap、1985年3月27日 - 2010年7月3日)は、日本の競走馬、種牡馬である。「平成三強」の一頭。第二次競馬ブーム期に、ハイセイコーに比肩するとも評される高い人気を得た。1988年度のJRA賞最優秀4歳牡馬、1990年度のJRA賞最優秀5歳以上牡馬および年度代表馬。1991年、JRA顕彰馬に選出。愛称は「オグリ」、「芦毛の怪物」など多数。1987年5月に笠松競馬場でデビュー。8連勝、重賞5勝を含む12戦10勝を記録した後、1988年1月に中央競馬へ移籍し、重賞12勝(うちGI4勝)を記録した。その活躍と人気の高さは第二次競馬ブームを巻き起こす大きな要因のひとつとなったといわれる。競走馬を引退した後は種牡馬となったが、産駒から中央競馬の重賞優勝馬を出すことはできず、2007年に種牡馬を引退した。※年齢は旧表記(数え年)オグリキャップの母のホワイトナルビーは競走馬時代に馬主の小栗孝一が所有し、笠松競馬場の調教師鷲見昌勇が管理した。ホワイトナルビーが繁殖牝馬となった後はその産駒の競走馬はいずれも小栗が所有し、鷲見が管理していた。1984年のホワイトナルビーの交配相手には笠松競馬場で優秀な種牡馬成績を収めていたダンシングキャップが選ばれた。これは小栗の意向によるもので、鷲見はダンシングキャップの産駒に気性の荒い競走馬が多かったことを理由に反対したが、最終的に提案が実現した。なお、オグリキャップは仔分けの馬(具体的には馬主の小栗と稲葉牧場の間で、小栗が管理にかかる費用と種牡馬の種付け料を負担し、生まれた産駒の所有権を半分ずつ持つ取り決めがなされていた)で、出生後に小栗が稲葉牧場に対してセリ市に出した場合の想定額を支払うことで産駒の所有権を取得する取り決めがされていた。オグリキャップについて小栗が支払った額は250万円とも500万円ともされる。オグリキャップは1985年3月27日の深夜に誕生した。誕生時には右前脚が大きく外向(脚が外側を向いていること)しており、出生直後はなかなか自力で立ち上がることができず、牧場関係者が抱きかかえて初乳を飲ませた。これは競走馬としては大きなハンデキャップであり、稲葉牧場場長の稲葉不奈男は障害を抱えた仔馬が無事に成長するよう願いを込め血統名(幼名)を「ハツラツ」と名付けた。なお、ハツラツの右前脚の外向は稲葉が削蹄(蹄を削ること)を行い矯正に努めた結果、成長するにつれて改善されていった。ホワイトナルビーは乳の出があまり良くなく、加えて仔馬に授乳することを嫌がることもあったため、出生後しばらくのハツラツは痩せこけて見栄えのしない馬体だった。しかしハツラツは雑草もかまわず食べるなど食欲が旺盛で、2歳の秋ごろには他馬に見劣りしない馬体に成長した。気性面では前にほかの馬がいると追い越そうとするなど負けん気が強かった。1986年の10月、ハツラツは岐阜県山県郡美山町(現:山県市)にあった美山育成牧場に移り、3か月間馴致を施された。当時の美山育成牧場では1人の従業員(吉田謙治)が30頭あまりの馬の管理をしていたため、すべての馬に手が行き届く状況ではなかったが、ハツラツは放牧地で一頭だけ離れて過ごすことが多かったために吉田の目を引き、調教を施されることが多かった。当時のハツラツの印象について吉田は、賢くておとなしく、また人なつっこい馬だったが、調教時には人間を振り落とそうとして跳ねるなど勝負を挑んでくることもあり、調教というよりも一緒に遊ぶ感覚だったと語っている。また、ハツラツは育成牧場にいた馬のなかでは3、4番手の地位にあり、ほかの馬とけんかをすることはなかったという。食欲については稲葉牧場にいたころと同じく旺盛で、その点にひかれた馬主が鷲見に購入の申し込みをするほどであった。1987年1月に笠松競馬場の鷲見昌勇厩舎に入厩。登録馬名は「オグリキヤツプ」。ダート800mで行われた能力試験を51.1秒で走り合格した。5月19日のデビュー戦ではマーチトウショウの2着に敗れた。その後2連勝したが、4戦目で再びマーチトウショウの2着に敗れた。5戦目でマーチトウショウを降して優勝して以降は重賞5勝を含む8連勝を達成した。前述のようにオグリキャップはデビュー戦と4戦目の2度にわたってマーチトウショウに敗れている。敗れたのはいずれもダート800mのレースで、短距離戦では大きな不利に繋がるとされる出遅れ(スタート時にゲートを出るタイミングが遅れること)をした。一方オグリキャップに勝ったレースでマーチトウショウに騎乗していた原隆男によると、オグリキャップがエンジンのかかりが遅い馬であったのに対し、マーチトウショウは「一瞬の脚が武器のような馬で、短い距離が合っていた」と述べている。また、オグリキャップの厩務員は4戦目と5戦目の間の時期に三浦裕一から川瀬友光に交替しているが、川瀬が引き継いだ当初、オグリキャップのひづめは蹄叉腐乱(ひづめの内側が腐る疾病)を起こしていた。川瀬は、引き継ぐ前のオグリキャップは蹄叉腐乱が原因で競走能力が十分に発揮できる状態ではなかったと推測している。1988年1月、馬主の小栗はオグリキャップを2000万円で佐橋五十雄に売却し、佐橋は中央競馬への移籍を決定した。オグリキャップが活躍を続けるなかで同馬を購入したいという申し込みは多数あり、とくに中京競馬場(当時は地方と中央の共同使用)の芝コースで行われた8戦目の中京盃を優勝して以降は申込みが殺到した。また、小栗に対してオグリキャップの中央移籍を勧める声も出た。しかしオグリキャップに関する小栗の意向はあくまでも笠松競馬での活躍にあり、また所有する競走馬は決して手放さないという信念を持っていたため、すべて断っていた。これに対し最も熱心に小栗と交渉を行ったのが佐橋で、中央競馬の馬主登録をしていなかった小栗に対して「このまま笠松のオグリキャップで終わらせていいんですか」「馬のためを思うなら中央競馬へ入れて走らせるべきです」と再三にわたって説得したため、小栗は「馬の名誉のためには早めに中央入りさせた方がいい」との判断に至り、「中央の芝が向いていなければ鷲見厩舎に戻す」という条件付きで同意した。また、佐橋はオグリキャップが中央競馬のレースで優勝した際にはウイナーズサークルでの記念撮影に招待し、種牡馬となった場合には優先的に種付けする権利を与えることを約束した。なお、鷲見は小栗がオグリキャップを売却したことにより自身の悲願であった東海ダービー制覇の可能性が断たれたことに怒り、笠松競馬場での最後のレースとなったゴールドジュニアのレース後、小栗が関係者による記念撮影を提案した際にこれを拒否した。オグリキャップの移籍によって笠松競馬の関係者はオグリキャップとの直接の関わりを断たれることになった。例外的に直接接点を持ち続けたのがオグリキャップの装蹄に携わった装蹄師の三輪勝で、笠松競馬場の開業装蹄師である三輪は本来は中央競馬の施設内での装蹄を行うことはできなかったが、佐橋の強い要望により特例として認められた。中央競馬移籍後のオグリキャップは栗東トレーニングセンターの調教師瀬戸口勉の厩舎で管理されることが決まり、1月28日に鷲見厩舎から瀬戸口厩舎へ移送された。オグリキャップの中央移籍後の初戦にはペガサスステークスが選ばれた。地方での快進撃は知られていたものの、単勝オッズは2番人気であった。レースでは序盤は後方に控え、第3コーナーから馬群の外を通って前方へ進出を開始。第4コーナーを過ぎてからスパートをかけて他馬を追い抜き、優勝した。出走前の時点では陣営の期待は必ずしも高いものではなく、優勝は予想を上回る結果だった。移籍2戦目には毎日杯が選ばれた。このレースでは馬場状態が追い込み馬に不利とされる重馬場と発表され、オグリキャップが馬場状態に対応できるかどうかに注目が集まった。オグリキャップは第3コーナーで最後方の位置から馬群の外を通って前方へ進出を開始し、ゴール直前で先頭に立って優勝した。オグリキャップはクラシック登録(中央競馬のクラシック競走に出走するため前年に行う予備登録)をしていなかったため、前哨戦である毎日杯を優勝して本賞金額では優位に立ったものの皐月賞に登録できず、代わりに京都4歳特別に出走した。レースではオグリ一頭だけが58キロの斤量を背負ったが第3コーナーで後方からまくりをかけ、優勝した。 なお、現在は3歳のクラシック競走開催直前で登録料を払うことにより追加登録が認められるようになった。クラシック登録をしていないオグリキャップは東京優駿(日本ダービー)にも出走することができず、代わりにニュージーランドトロフィー4歳ステークスに出走した。この時オグリキャップには疲労が蓄積し、治療のために注射が打たれるなど体調面に不安を抱えていたが、レースでは序盤は最後方に位置したが向こう正面で前方へ進出を開始すると第4コーナーを通過した直後に先頭に立ち、そのまま優勝した。このレースでのオグリキャップの走破タイムはニュージーランドトロフィー4歳ステークスのレースレコードであったにもかかわらず、騎乗していた河内はレース中に一度も本格的なゴーサインを出すことがなかった。このレースでのオグリキャップの走破タイムは、同じ東京競馬場芝1600mで行われた古馬GIの安田記念よりも速かった(レースに関する詳細については第6回ニュージーランドトロフィー4歳ステークスを参照)。 続く高松宮杯では、中央競馬移籍後初の古馬との対戦、特に重賞優勝馬でありこの年の宝塚記念で4着となったランドヒリュウとの対戦にファンの注目が集まった。レースではランドヒリュウが先頭に立って逃げたのに対してオグリキャップは序盤は4番手に位置して第3コーナーから前方への進出を開始する。第4コーナーで2番手に立つと直線でランドヒリュウをかわし、中京競馬場芝2000mのコースレコードを記録して優勝した。この勝利により、地方競馬からの移籍馬による重賞連勝記録である5連勝を達成した。高松宮杯のレース後、陣営は秋シーズンのオグリキャップのローテーションを検討し、毎日王冠を経て天皇賞(秋)でGIに初出走することを決定した。毎日王冠までは避暑(中央競馬に所属する一流の競走馬は、夏期は避暑のために北海道へ移送されることが多い)を行わず、栗東トレーニングセンターで調整を行い、8月下旬から本格的な調教を開始。9月末に東京競馬場に移送された。毎日王冠では終始後方からレースを進め、第3コーナーからまくりをかけて優勝した。この勝利により、当時の中央競馬の重賞連勝記録である6連勝を達成した(メジロラモーヌと並ぶタイ記録)。当時競馬評論家として活動していた大橋巨泉は、オグリキャップのレース内容について「毎日王冠で古馬の一線級を相手に、スローペースを後方から大外廻って、一気に差し切るなどという芸当は、今まで見たことがない」「どうやらオグリキャップは本当のホンモノの怪物らしい」と評した。毎日王冠の後、オグリキャップはそのまま東京競馬場に留まって調整を続けた(レースに関する詳細については第39回毎日王冠を参照)。続く天皇賞(秋)では、前年秋から7連勝(400万下、400万特別、重賞5勝(うちGIを2勝))中であった古馬のタマモクロスをしのいで1番人気に支持された。レースでは馬群のやや後方につけて追い込みを図り、出走馬中最も速い上がりを記録したものの、2番手を先行し直線で先頭になったタマモクロスを抜くことができず、2着に敗れた(レースに関する詳細については第98回天皇賞を参照)。天皇賞(秋)の結果を受け、馬主の佐橋がタマモクロスにリベンジを果たしたいという思いを強く抱いたことからオグリキャップの次走にはタマモクロスが出走を決めていたジャパンカップが選ばれ、オグリキャップは引き続き東京競馬場で調整された。レースでは天皇賞(秋)の騎乗について佐橋が「もう少し積極的に行ってほしかった」と不満を表したことを受けて河内は瀬戸口と相談の上で先行策をとり、序盤は3、4番手に位置した。しかし向こう正面で折り合いを欠いて後方へ下がり、第3コーナーで馬群の中に閉じ込められる形となった。第4コーナーから進路を確保しつつ前方への進出を開始したがペイザバトラーとタマモクロスを抜けず3着に敗れた。河内の騎乗に不満をもった陣営はレース後のパーティの席で岡部幸雄へ有馬記念の騎乗依頼を行った。これを岡部は「1戦限り」の条件付きで受諾した。有馬記念までの間は美浦トレーニングセンターで調整を行うこととなった。レースでは終始5、6番手の位置を進み、第4コーナーで前方への進出を開始すると直線で先頭に立ち、優勝。GI競走初制覇を達成し、同年のJRA賞最優秀4歳牡馬に選出された(レースに関する詳細については第33回有馬記念を参照)。タマモクロスを担当した調教助手の井高淳一と、オグリキャップの調教助手であった辻本は仲が良く、麻雀仲間でもあったが、天皇賞後に井高はオグリキャップの飼い葉桶を覗き「こんなもんを食わせていたんじゃ、オグリはずっとタマモに勝てへんで。」と声を掛けた。当時オグリキャップに与えられていた飼い葉の中に、体を太らせるためレースを使っている馬には必要のない成分が含まれていたためであり、指摘を受けた辻本はすぐにその配合を取り止めた。有馬記念終了後に、井高は「俺は結果的に、敵に塩を送る事になったんだな。」と苦笑した(狩野洋一著 『ターフの伝説 オグリキャップ』より)。前述のように、オグリキャップはクラシック登録をしていなかったため、中央競馬クラシック三冠競走には出走できなかった。オグリキャップが優勝した毎日杯で4着だったヤエノムテキが皐月賞を優勝した後は、大橋巨泉が「追加登録料を支払えば出られるようにして欲しい」と提言するなど、中央競馬を主催する日本中央競馬会(JRA)に対してオグリキャップのクラシック出走を可能にする措置を求める声が起こったが、実現しなかった。このことからクラシックに出走できなかったオグリキャップはマルゼンスキー以来となる「幻のダービー馬」と呼ばれた。調教師の瀬戸口は後に「ダービーに出ていれば勝っていたと思いませんか」という問いに対し「そうやろね」と答え、また「もしクラシックに出られたら、中央競馬クラシック三冠を獲っていただろう」とも述べている。一方、毎日杯の結果を根拠にヤエノムテキをはじめとする同世代のクラシック優勝馬の実力が低く評価されることもあった。なお1992年から、中央競馬はクラシックの追加登録制度(事前のクラシック登録がされていなくても、後で追加登録料200万円を払えばクラシック競走に出走登録できる制度)を導入した。1999年にはテイエムオペラオーがこの制度を生かして皐月賞に出走し、優勝している。陣営は1989年前半のローテーションとして、大阪杯、天皇賞(春)、安田記念、宝塚記念に出走するプランを発表したが、2月に右前脚の球節(人のかかとにあたる部分)を捻挫して大阪杯の出走回避を余儀なくされた。さらに4月には右前脚に繋靭帯炎を発症。前半シーズンは全て休養に当てることとし、同月末から競走馬総合研究所常磐支所にある温泉療養施設(馬の温泉)において治療を行った。療養施設へは厩務員の池江敏郎が同行し温泉での療養のほかプールでの運動、超音波治療機による治療が行われた。オグリキャップは7月中旬に栗東トレーニングセンターへ戻り、主にプール施設を使った調教が行われた。オグリキャップは当初毎日王冠でレースに復帰する予定であったが、調教が順調に進んだことを受けて予定を変更し、9月のオールカマーで復帰した。鞍上には4歳時の京都4歳特別に騎乗した南井克巳が選ばれ、以後1989年の全レースに騎乗した。同レースでは5番手を進み第4コーナーから前方への進出を開始し、直線で先頭に立って優勝した。ここから、4か月の間に重賞6戦という、オグリキャップの「"怪物伝説"を決定的にする過酷なローテーション」が始まった。その後オグリキャップは毎日王冠を経て天皇賞(秋)に出走することとなり、東京競馬場へ移送された。移送後脚部に不安が発生したが厩務員の池江が患部を冷却した結果状態は改善し、毎日王冠当日は池江が手を焼くほどの気合を出した。レースでは序盤は後方を進み、第4コーナーで馬群の外を通って前方へ進出を開始した。残り100mの地点でイナリワンとの競り合いとなり、ほぼ同時にゴールした。写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、史上初の毎日王冠連覇を達成した。このレースは「オグリキャップのベストバトル」、また「1989年のベストマッチ」ともいわれる(レースに関する詳細については第40回毎日王冠を参照)。天皇賞(秋)では6番手からレースを進めたが、直線で前方へ進出するための進路を確保することができなかったために加速するのが遅れ、先に抜け出したスーパークリークを交わすことができず2着に敗れた。南井は、自身がオグリキャップ騎乗した中で「勝てたのに負けたレース」であるこのレースが最も印象に残っていると述べている(レースに関する詳細については第100回天皇賞を参照)。続くマイルチャンピオンシップでは第3コーナーで5番手から馬群の外を通って前方への進出を試みたが進出のペースが遅く、さらに第4コーナーでは進路を確保できない状況に陥り、オグリキャップの前方でレースを進めていたバンブーメモリーとの間に「届かない」、「届くはずがない」と思わせる差が生まれた。しかし直線で進路を確保してから猛烈な勢いで加速し、ほぼ同時にゴール。写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、優勝が決定した。南井は天皇賞(秋)を自らの騎乗ミスで負けたという自覚から「次は勝たないといけない」という決意でレースに臨んでいた。勝利によって「オグリキャップに救われた」と感じた南井は勝利騎手インタビューで涙を流した(レースに関する詳細については第6回マイルチャンピオンシップを参照)。一方バンブーメモリー鞍上の武豊はこの後サダムパテックで同レースを制するまで一度もこのレースで優勝することはなかった。連闘で臨んだ翌週のジャパンカップでは、非常に早いペース(逃げたイブンベイの1800mの通過タイムが当時の芝1800mの日本レコードを上回る1分45秒8)でレースが推移する中で終始4番手を追走し、当時の芝2400mの世界レコードである2分22秒2で走破したもののホーリックスの2着に敗れた(レースに関する詳細については第9回ジャパンカップを参照)。陣営はジャパンカップの後、有馬記念に出走することを決定したが、レース前に美浦トレーニングセンターで行われた調教で顎を上げる仕草を見せたことから、連闘の影響による体調面の不安が指摘された。レースでは終始2番手を進み、第4コーナーで先頭に立ったがそこから伸びを欠き、5着に敗れた。レース後、関係者の多くは疲れがあったことを認めた(レースに関する詳細については第34回有馬記念を参照)。夕刊フジの記者伊藤元彦は、このレースにおけるオグリキャップについて、次のように回顧した。1988年9月、オグリキャップの2代目の馬主であった佐橋五十雄が将来馬主登録を抹消される可能性が出た。それを受けて多くの馬主から購入の申し込みがあり、最終的に佐橋は1989年2月までに近藤俊典へオグリキャップを売却した。売却額については当初、1年あたり3億であったとされたが、後に近藤は2年間の総額が5億5000万円であったと明かしている。ただしこの契約には、オグリキャップが競走馬を引退した後には所有権を佐橋に戻すという条件が付けられており、実態は名義貸しであり、実質的な権限は佐橋に残されているのではないかという指摘がなされた。また、売却価格の高さも指摘された。オグリキャップ売却と同時に佐橋の馬主登録は抹消されたが、近藤は自らの勝負服の色と柄を、佐橋が用いていたものと全く同じものに変更した。3ヵ月半の間に6つのレースに出走した1989年のオグリキャップのローテーション、とくに前述の連闘については、多くの競馬ファンおよびマスコミ、競馬関係者は否定的ないし批判的であった。この年の秋に多くのレースに出走するローテーションが組まれた背景については、「オグリ獲得のために動いた高額なトレードマネーを回収するためには、とにかくレースで稼いでもらう」よりほかはなく「馬を酷使してでも賞金を稼がせようとしているのでは」という推測がなされた。調教師の瀬戸口は連闘に加えオールカマーに出走させたことについても「無理は少しあったと思います」と述べた。また連闘が決定した経緯について調教助手の辻本光雄は、「オグリキャップは途中から入ってきた馬やし、どうしてもオーナーの考えは優先するんちゃうかな」と、馬主の近藤の意向を受けてのものであったことを示唆している。一方、近藤は連闘について、「馬には、調子のいいとき、というのが必ずあるんです。実際に馬を見て判断して、調教師とも相談して決めたことです。無理使いとか、酷使とかいわれるのは非常に心外」としている。また稲葉牧場の稲葉裕治は、「あくまで馬の体調を見て、判断すればいいことじゃないでしょうか」と近藤に同調した。一時は1989年一杯で競走馬を引退すると報道されたオグリキャップであったが、1990年も現役を続行することになった。これは、日本中央競馬会がオーナー側に現役続行を働きかけたためともいわれている。有馬記念出走後、オグリキャップはその日のうちに、休養のために競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設へ移送された。オグリキャップのローテーションについては前半シーズンは天皇賞(春)もしくは安田記念に出走し、9月にアメリカで行われるGI競走アーリントンミリオンステークスに出走すると発表された。その背後には、アメリカのレースに出走経験がある馬のみが掲載されるアメリカの獲得賞金ランキングに、オグリキャップを登場させようとする馬主サイドの意向があった。オグリキャップは2月中旬に栗東トレーニングへ戻されて調整が続けられた。当初初戦には大阪杯が予定されていたが、故障は見当たらないものの調子は思わしくなく、安田記念に変更された。この競走では、武豊が初めて騎乗した。レースでは2、3番手を追走して残り400mの地点で先頭に立ち、コースレコードの1分32秒4を記録して優勝した。なお出走後、オグリキャップの通算獲得賞金額が当時の日本歴代1位となった(レースに関する詳細については第40回安田記念を参照)。続く宝塚記念では武がスーパークリークへの騎乗を選択したため、岡潤一郎が騎乗することとなった。終始3、4番手に位置したが直線で伸びを欠き、オサイチジョージをかわすことができず2着に敗れた(レースに関する詳細については第31回宝塚記念を参照)。オグリキャップはレース直後に両前脚に骨膜炎を発症し、さらにその後右の後ろ脚に飛節軟腫(脚の関節に柔らかい腫れが出る疾病)を発症、アーリントンミリオンステークスへの出走を取りやめて7月中旬から競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設で療養に入った。陣営はかねてからの目標であった天皇賞(秋)出走を目指し、8月末にオグリキャップを栗東トレーニングセンターへ移送したが、10月上旬にかけて次々と脚部に故障を発症して調整は遅れ、「天皇賞回避濃厚」という報道もなされた。最終的に出走が決定したが、レースでは序盤から折り合いを欠き、直線で伸びを欠いて6着に敗れた。続くジャパンカップに向けた調教では一緒に走行した条件馬を相手に遅れをとり、体調が不安視された。レースでは最後方から追走し、第3コーナーから前方への進出を開始したが直線で伸びを欠き、11着に敗れた。ジャパンカップの結果を受けてオグリキャップはこのまま引退すべきとの声が多く上がり、馬主の近藤に宛てた脅迫状(出走を取りやめなければ近藤の自宅および競馬場に爆弾を仕掛けるという内容)が日本中央競馬会に届く事態にまで発展したが、陣営は引退レースとして有馬記念への出走を決定した。また、鞍上は安田記念以来となる武に依頼した。レースでは序盤は6番手につけて第3コーナーから馬群の外を通って前方への進出を開始し、最終直線残り2ハロンで先頭に立ち、追い上げるメジロライアンとホワイトストーンを抑えて1着でゴールイン、2年ぶりとなる有馬記念制覇を飾った。限界説が有力に唱えられていたオグリキャップの優勝は「奇跡の復活」「感動のラストラン」と呼ばれ、レース後、スタンド前でウイニングランを行った際には中山競馬場にいた観衆から「オグリコール」が起こった。なお、この競走でオグリキャップはファン投票では第1位に選出されたものの、単勝馬券のオッズでは4番人気であった。この現象について阿部珠樹は、「『心とお金は別のもの』というバブル時代の心情が、よく現れていた」と評している(レースに関する詳細については第35回有馬記念を参照)。1990年後半において、天皇賞(秋)とジャパンカップで大敗を喫し、その後第35回有馬記念を優勝した要因については様々な分析がなされている。調教師の瀬戸口は、この年の秋のオグリキャップは骨膜炎に苦しんでいたと述べている。また、厩舎関係者以外からも体調の悪さを指摘する声が挙がっていた。天皇賞(秋)出走時の体調について瀬戸口は急仕上げ(急いで臨戦態勢を整えること)による影響もあったことを示唆している。厩務員の池江は、馬体の回復を考えれば競走馬総合研究所常磐支所の温泉療養施設にもう少し滞在したかったと述べている。精神面に関しては、瀬戸口と池江はともに気迫・気合いの不足を指摘していた。さらに池江は、天皇賞(秋)の臨戦過程においてテレビ番組の撮影スタッフが密着取材を行ったことによりオグリキャップにストレスが生じたと証言している。池江は、撮影スタッフの振る舞いについて次のように証言している。体調に関しては、第35回有馬記念に優勝した時ですらよくなかったという証言が複数ある。オグリキャップと調教を行ったオースミシャダイの厩務員出口光雄や同じレースに出走したヤエノムテキの担当厩務員(持ち乗り調教助手)の荻野功がレース前の時点で体調の悪化を指摘していたほか、騎乗した武豊もレース後に「ピークは過ぎていたでしょうね。春と違うのは確かでした」と回顧している。レース前のパドックでオグリキャップを見た作家の木村幸治は、その時の印象について「レース前だというのに、ほとんどの力を使い果たして、枯れ切ったように見えた」、「ほかの15頭のサラブレッドが、クビを激しく左右に振り、前足を宙に浮かせて飛び跳ね、これから始まる闘いへ向けての興奮を剥き出しにしているのに比べれば、その姿は、誰の目にも精彩がないと映った」、「あふれる活気や、みなぎる闘争心は、その姿態から感じられなかった。人に引かれて、仕方がなく歩いているという雰囲気があった」と振り返っている。しかし厩務員の池江によるとこの時、オグリキャップの手綱を引いていた池江と辻本は、天皇賞(秋)の時の倍以上の力で引っ張られるのを感じ、「おい、こら、もしかするとひょっとするかもしれんぞ……」と囁きあったという。中央競馬時代のオグリキャップの診察を担当していた獣医師の吉村秀之は、オグリキャップが中央競馬へ移籍した当初の時点で既に備えていたが大敗を続けた時期にはなくなっていたスポーツ心臓を有馬記念の前に取り戻したことから体調の上昇を察知し、家族に対し「今度は勝つ」と予言していた。ライターの渡瀬夏彦は天皇賞(秋)とジャパンカップで騎乗した増沢末夫について、スタート直後から馬に気合を入れる増沢の騎乗スタイルと、岡部幸雄が「真面目すぎるくらいの馬だから、前半いかに馬をリラックスさせられるかが勝負のポイントになる」と評したオグリキャップとの相性があまりよいものではなかったと分析している。笠松時代のオグリキャップに騎乗した青木達彦と安藤勝己も同様の見解を示した。一方、武豊とオグリキャップとの相性について馬主の近藤は、オグリキャップには「いいときと比べたら、80パーセントの力しかなかったんじゃないかな」としつつ「しかし、その80パーセントをすべて引き出したのが豊くん」とし、「オグリには豊くんが合ってた」と評した。武によると有馬記念では第3-4コーナーを右手前で走らせた後直線で左手前に替えて走らせる必要があったが、左手前に替えさせるためには左側から鞭を入れて合図する必要があった。しかしオグリキャップにはコーナーを回る際に内側にもたれる癖があり、その修正に鞭を用いる場合、右側から入れる必要があった。そこで武は最後の直線の入り口でオグリキャップの顔をわざと外に向けることで内にもたれることを防ぎつつ、左側から鞭を入れることでうまく手前を替えさせることに成功した。大川慶次郎は、有馬記念はレースの流れが非常に遅く推移し、優勝タイムが同じ日に同じ条件(芝2500m)で行われた条件戦(グッドラックハンデ)よりも遅い「お粗末な内容」であったとし、多くの出走馬が折り合いを欠く中、オグリキャップはキャリアが豊富であったためにどんな展開でもこなせたことをオグリキャップの勝因に挙げている。またライターの関口隆哉も、「レース展開、出走馬たちのレベル、当日の状態など、すべてのファクターがオグリキャップ有利に働いた」としている。岡部幸雄は「極端なスローペースが良かった」としつつ、「スローに耐えて折り合うのは大変」「ある意味で有馬記念は過酷なペースだった」とし、「ピタッと折り合える忍耐強さを最も備えていたのがオグリキャップだった」と評した。なお、野平祐二はレース前の段階で有馬記念がゆったりした流れになれば本質的にマイラーであるオグリキャップの雪辱は可能と予測していた。1991年1月、オグリキャップの引退式が京都競馬場(13日)、笠松競馬場(小栗と佐橋との間には「オグリキャップが引退した時には笠松競馬場に里帰りさせる」との取り決めがあった)(15日)、東京競馬場(27日)の3箇所で行われた。引退式当日は多くの観客が競馬場に入場し、笠松競馬場での引退式には競馬場内だけで笠松町(笠松競馬場の所在地)の当時の人口(2万3000人)を上回る2万5000人、入場制限により場外から見物した人数を合わせると約4万人が詰めかけたとされる。笠松競馬場での引退式に参加した安藤勝己は、競馬場内が「普通ではない」と感じるほど盛り上がる中でもオグリキャップが動じる様子を見せることはなかったと振り返っている。安藤はオグリキャップに騎乗して競馬場のコースを2周走行し、岐阜県がオグリキャップを、笠松町が小栗と鷲見を表彰した。通算:32戦22勝(地方12戦10勝/中央20戦12勝)引退後は北海道新冠町の優駿スタリオンステーションで種牡馬となった。種牡馬となったのちのオグリキャップは2代目の馬主であった佐橋が所有し、種付権利株を持つ者にリースする形態がとられた。これは実質的にはシンジケートに等しく(種牡馬の所有権が佐橋1人にある点が、権利株の所有者が種牡馬を共有するシンジケートと異なる)、その規模は総額18億円(1株3000万円(1年あたり600万円×5年)×60株)であった。1991年のゴールデンウィーク(5月5日)にはオグリキャップを見学するために、当時の新冠町の人口に匹敵する6000人が優駿スタリオンステーションを訪れた。1991年7月28日、オグリキャップが馬房の隅でぐったりとしているのが発見され、発熱、咳、鼻水などの症状がみられるようになった。はじめは風邪と診断されたが回復がみられなかったため精密検査を受け、その結果喉嚢炎(馬の後頭部にある袋状の器官の炎症)による咽頭麻痺と診断された。8月下旬から3人の獣医師によって治療が施されたが、9月11日には炎症の進行が原因で喉嚢に接する頸動脈が破れて大量の出血を起こし、生命が危ぶまれる重篤な状態に至った。合計18リットルの輸血を行うなどの治療が施された結果、10月上旬には放牧が可能な程度に病状が改善した。1992年、笠松競馬場でオグリキャップを記念した「オグリキャップ記念」が創設された。一時はダートグレード競走として行なわれていたが、現在は地方全国交流競走として行われている。また、2004年11月21日にはJRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」として「オグリキャップメモリアル」が施行された。産駒は1994年にデビューし、初年度産駒のオグリワン、アラマサキャップが中央競馬の重賞で2着し期待されたが、その後目立った活躍馬を出すことはなく、競走馬時代のライバルであったタマモクロスには種牡馬としては大差を付けられた。中央競馬の重賞優勝馬を出すことはできず、リーディングサイアーでは105位(中央競馬と地方競馬の総合)が最高成績であった。2007年をもって種牡馬を事実上引退し、引き続き功労馬として優駿スタリオンステーションに繋養された。2007年5月1日にはグレイスクインがオグリキャップのラストクロップとなる産駒、ミンナノアイドルを出産した。2012年7月1日の金沢競馬の競走でアンドレアシェニエが予後不良となったのを最後に、日本国内の競馬場からオグリキャップ産駒は姿を消した。ただし、唯一の後継種牡馬ノーザンキャップの産駒であるクレイドルサイアーが2013年に種牡馬登録されており、父系としてはかろうじて存続している。競走馬を引退した後、オグリキャップは2002年に優駿スタリオンステーションが移転するまでの間、同スタリオンで一般公開され、観光名物となっていた。また、同スタリオン以外の場所でも一般公開された。1998年9月によみうりランドで行われた「JRAフェスティバル」、2005年4月29日と30日に笠松競馬場で行われた一般公開、2008年11月9日の「アジア競馬会議記念デー」に東京競馬場で行われた一般公開である。2010年5月1日より優駿スタリオンステーションでの一般公開が再開された。2010年7月3日午後2時頃、優駿スタリオンステーション内の一般公開用のパドックから馬房に戻すためにスタッフが向かったところ、オグリキャップが倒れて起き上がれないでいるのを発見する。ぬかるんだ地面に足をとられて転倒したとみられ、その際に右後肢脛骨を骨折していた。直ちに三石家畜診療センターに運び込まれるが、複雑骨折で手の施しようがなく、安楽死の処置が執られた。その死は日本のみならず、共同通信を通じてイギリスのレーシングポストなどでも報じられた。オグリキャップの死を受けて、同馬がデビューした笠松競馬場では場内に献花台と記帳台を設け、7月19日にお別れ会を催した。JRAでも献花台・記帳台を設置するなど追悼行事を営み、感謝状を贈呈した。引退後に同馬が繋養されていた優駿スタリオンステーションにも献花台が設置された。さらに、中央競馬とホッカイドウ競馬ではそれぞれ7月に追悼競走が施行された。7月29日には新冠町にあるレ・コード館でお別れ会が開催され、700人が出席。全国で集められた1万3957人分の記帳が供えられた。第55回有馬記念が行われる2010年12月26日をオグリキャップメモリアルデーとし、同日の中山競馬第11競走「ハッピーエンドプレミアム」にオグリキャップメモリアルを付与して実施された。死から1年となる2011年7月3日には、種牡馬時代を過ごした優駿SSに接する「優駿メモリアルパーク」に新たな銅像が設置された。ダンシングキャップ産駒の多くは気性が荒かったが、オグリキャップは現3歳時に調教のために騎乗した河内洋と岡部幸雄がともに古馬のように落ち着いていると評するなど、落ち着いた性格の持ち主であった。オグリキャップの落ち着きは競馬場でも発揮され、パドックで観客の歓声を浴びても動じることがなく、ゲートでは落ち着き過ぎてスタートが遅れることがあるほどであった。オグリキャップと対戦した競走馬の関係者からも、オグリキャップの精神面を評価する声が多く挙がっている。オグリキャップに携わった者からは学習能力の高さなど、賢さ・利口さを指摘する声も多い。オグリキャップは走行時に馬場をかき込む力が強かった。その強さは調教中に馬場の地面にかかとをこすり、出血したり、蹄鉄の磨滅が激しく頻繁に打ち替えたために爪が穴だらけになったことがあったほどであった。なお、栗東トレーニングセンター競走馬診療所の獣医師松本実は、5歳時に発症した右前脚の繋靭帯炎の原因を、生まれつき外向していた右脚で強く地面を掻き込むことを繰り返したことにあると分析している。オグリキャップはパドックで人を引く力も強く、中央競馬時代は全レースで厩務員の池江と調教助手の辻本が2人で手綱を持って周回していた。なお、力が強いだけでなく柔軟性も備えており、「普通の馬なら絶対に届かない場所」で尻尾の毛をブラッシングしていた厩務員の池江に噛みついたことがある。南井克巳と武豊はともに、オグリキャップの特徴として柔軟性を挙げている。笠松競馬場の厩務員塚本勝男は3歳時のオグリキャップを初めて見たとき、腿の内側に力があり下半身が馬車馬のようにガッシリしているという印象を受けたと述べている。もっとも河内洋によると、中央移籍当初のオグリキャップは後脚がしっかりとしていなかった。河内はその点を考慮して後脚に負担をかけることを避けるためにゆっくりとスタートする方針をもって騎乗したため、後方からレースを進めることが多かった。河内は「小さな競馬場でしか走ることを知らなかったオグリに、中央の広いコースで走ることを教え込んだのはワシや」と述べている。オグリキャップの体力面について、競馬関係者からは故障しにくい点や故障から立ち直るタフさを評価する声が挙がっている。輸送時に体重が減りにくい体質でもあり、通常の競走馬が二時間程度の輸送で6キロから8キロ体重が減少するのに対し、3歳の有馬記念の前に美浦トレーニングセンターと中山競馬場を往復した上に同競馬場で調教を行った際に2キロしか体重が減少しなかった。安藤勝己は、オグリキャップのタフさは心臓の強さからくるものだと述べている。獣医師の吉村秀之は、オグリキャップは中央競馬へ移籍してきた当初からスポーツ心臓を持っていたと証言している。笠松在籍時の調教師鷲見昌勇は、調教のためにオグリキャップに騎乗した経験がある。その時の印象について鷲見は「筋肉が非常に柔らかく、フットワークにも無駄がなかった。車に例えるなら、スピードを上げれば重心が低くなる高級外車みたいな感じ」と感想を述べている。鷲見は、オグリキャップが3歳の時点で「五十年に一頭」「もうあんなにすごい馬は笠松からは出ないかもしれない」と述べている。一方で入厩当初は右前脚に骨膜炎を発症しており「馬場に出ると怖くてよう乗れん」という声もあった。笠松時代のオグリキャップに騎乗した騎手のうち青木達彦は、「オグリキャップが走った四脚の足跡は一直線だった。軽いキャンターからスピードに乗るとき、ギアチェンジする瞬間の衝撃がすごかった」と述べている。安藤勝己は初めて調教のためにオグリキャップに騎乗したとき、厩務員の川瀬に「どえらい馬だね。来年は間違いなく東海ダービーを取れる」と言った。また秋風ジュニアのレース後、「重心が低く、前への推進力がケタ違い。あんな走り方をする馬に巡り会ったのは、初めて」と思ったという。安藤のオグリキャップに対する評価は高く、3歳の時点で既に「オグリキャップを負かすとすればフェートノーザンかワカオライデンのどちらか」と考えていた。中央移籍後初めに主戦騎手を務めた河内洋は、オグリキャップのレースぶりについて、スピードタイプとは対照的な「グイッグイッと伸びる力タイプ」と評した。また「一生懸命さがヒシヒシ伝わってくる馬」「伸びきったかな、と思って追うと、そこからまた伸びてきよる」、「底力がある」とする一方、走る気を出し過ぎるところもあったとしている。河内の次に主戦騎手を務めた南井克巳は、オグリキャップを「力そのもの、パワーそのものを感じさせる馬」、「どんなレースでもできる馬」、「レースを知っている」と評した。同じく主戦騎手を務めたタマモクロスとの比較については「馬の強さではタマモクロスのほうが上だったんじゃないか」とする一方、「オグリキャップのほうが素直で非常に乗りやすい」と述べている。オグリキャップの距離適性について、河内は本来はマイラーであるとし、同じく主戦騎手を務めていたサッカーボーイとの比較において、「1600mならオグリキャップ、2000mならサッカーボーイ」としている。また岡部幸雄はベストは1600mで2500mがギリギリとし、さらに中央時代の管理調教師であった瀬戸口もベストの条件は1600mと述べている。競馬評論家の大川慶次郎は一見マイラーだが頭がよく、先天的なセンスに長けていたため長距離もこなせたと分析している。シンボリルドルフの管理調教師であった野平祐二はオグリキャップの走り方について、「弾力性があり、追ってクックッと伸びる動き」がシンボリルドルフとそっくりであると評した。オグリキャップは休養明けのレースで好成績を挙げている。南井克巳はその理由として、レース時には正直で手抜きを知らない性格であったことを挙げており、「間隔をあけてレースを使うとすごい瞬発力を発揮する」と述べている。南井は、レース間隔が詰まると逆に瞬発力が鈍るとも述べている。武豊によると、オグリキャップには右手前で走るのが好きで、左回りよりも右回りのコースのほうがスムーズに走れた。また左回り右回りを問わず、内側にもたれる癖があった。大川慶次郎は、フジテレビによる第35回有馬記念のレース実況中にメジロライアンの競走馬名を連呼したことから、競馬ファンからオグリキャップが嫌いだったのかと思われることもあったが、本人はそれを否定し、同馬を「顕彰馬の中でもトップクラスの馬」、「戦後、5本の指に入るほど、魅力的な馬」と評した。また競馬評論家の合田直弘は総合的な評価として、日本国外においてアイドル的人気を博した競走馬との比較において「底辺から這い上がった馬である」、「力量抜群ではあったが、一敗地にまみれることも少なくなかった」、「最後の最後に極上のクライマックスが用意されていた」点で、オグリキャップに匹敵するのはシービスケットただ1頭であると述べている。第33回有馬記念で騎乗した岡部幸雄は、オグリキャップとシンボリルドルフとを比較し、力を出す必要のない時に手を抜いて走ることができるかどうかの点でシンボリルドルフには及ばないという評価を下した。また、2000mから2200mがベスト距離のシンボリルドルフがオグリキャップのベスト距離である1600mで戦った場合についても、調教を通して短距離のペースに慣れさせることで勝つだろうと述べた。ただし岡部幸雄はオグリキャップの能力や環境の変化にすぐになじめるタフな精神力を高く評価しており、アメリカでも必ず通用するとしてアメリカ遠征を強く勧めた。競走馬時代のオグリキャップの人気の高さについて、ライターの関口隆哉は「シンボリルドルフを軽く凌駕し」、「ハイセイコーとも肩を並べるほど」と評している。また岡部幸雄は「ハイセイコーを超えるほど」であったとしている。オグリキャップが人気を得た要因についてライターの市丸博司は、「地方出身の三流血統馬が中央のエリートたちをナデ斬りにし、トラブルや過酷なローテーションの中で名勝負を数々演じ、二度の挫折を克服」したことにあるとし、オグリキャップは「ファンの記憶の中でだけ、本当の姿で生き続けている」、「競馬ファンにもたらした感動は、恐らく同時代を過ごした者にしか理解できないものだろう」と述べている。山河拓也も市丸と同趣旨の見解を示している。斎藤修は、日本人が好む「田舎から裸一貫で出てきて都会で名をあげる」という立身出世物語に当てはまったことに加え、クラシックに出走することができないという挫折や、タマモクロス、イナリワン、スーパークリークというライバルとの対決がファンの共感を得たのだと分析している。調教師の瀬戸口勉は後に、「自分の厩舎の馬だけではなく、日本中の競馬ファンの馬でもあった」と回顧している。オグリキャップの人気は、ほぼ同時期にデビューした騎手の武豊の人気、およびバブル景気との相乗効果によって、競馬ブームを巻き起こしたとされる。このブームは「第二次競馬ブーム」と呼ばれ、競馬の世界を通り越した社会現象と評されている。第二次競馬ブームとオグリキャップの関係について、大川慶次郎は「競馬ブームを最終的に構築したのはオグリキャップだ」と評価している。またライターの瀬戸慎一郎は、第二次競馬ブームの主役がオグリキャップであったのはいうまでもない、としている。オグリキャップが中央競馬移籍後に出走したレースにおける馬券の売上額は、20レース中17レースで前年よりも増加し、単勝式の売上額はすべてのレースで増加した。また、オグリキャップが出走した当日の競馬場への入場者数は、16レース中15レースで前年よりも増加した。中央競馬全体の年間の馬券売上額をみると、オグリキャップが笠松から移籍した1988年に2兆円に、引退した1990年に3兆円に、それぞれ初めて到達している。なお、1988年の高松宮杯では馬券全体の売り上げは減少したものの、オグリキャップとランドヒリュウの枠連は中京競馬場の電光掲示板に売上票数が表示できないほどの売上額を記録した。オグリキャップ自身は出走した32レースのうち27レースで単勝式馬券の1番人気に支持された。なお、中央競馬時代には12回単枠指定制度の適用を受けている。朝日新聞のコラム『天声人語』はオグリキャップを「女性を競馬場に呼び込んだ立役者」と評している。パドックで女性ファンから厩務員の池江に声援が飛ぶこともあった。オグリキャップのファンの女性は「オグリギャル」と呼ばれた。第二次競馬ブーム期を中心にオグリキャップの人気に便乗する形で、様々な関連グッズが発売された。代表的なものはぬいぐるみで、オグリキャップの2代目の馬主であった佐橋が経営する会社が製造および販売を行い、大ヒット商品となった。売り上げは1989年10月の発売開始以降の1年間で160万個を数え、最終的には300万個、クレーンゲーム用のものを含めると1100万個に及んだ。その後、競走馬のぬいぐるみは代表的な競馬グッズのひとつとなった(日本の競馬を参照)。ライターの山本徹美は、ぬいぐるみのブームが従来馬券愛好家が構成していた競馬ファンに騎手や競走馬を応援するために競馬場を訪れる層や女性ファンを取り込んだとしている。第35回有馬記念優勝後のオグリキャップは「日ごろ競馬とは縁がないアイドルタレントたちも、その走りを賛美するコメントをテレビ番組で口にし」「競馬に興味を持たない主婦たちでさえその名を知る」存在となった。当時の状況について競馬評論家の石川ワタルは、「あの頃が日本の競馬全盛時代だったのではないか。今後二度と訪れることのないような至福の競馬黄金時代だったのではないか」と回顧している。一方、競馬ライターの須田鷹雄は、優勝後の騒ぎが「オグリキャップの起こした奇跡を台なしに」してしまい「それから後に残ったのは、虚像としてのオグリキャップだけではないか」としている。また競馬ライターの山河拓也は「『オグリ=最後の有馬記念』みたいな語り方をされると、ちょっと待ってくれと言いたくなる」と述べている。競馬ファンによる評価をみると、2000年にJRAが行った「20世紀の名馬大投票」において2万7866票を獲得し、第3位となっている。また、1989年の第34回有馬記念のファン投票でオグリキャップが獲得した19万7682票は有馬記念史上最多得票である。競馬関係者による評価をみると、雑誌『Number』1999年10月号が競馬関係者を対象に行った「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬」では第12位であった(第1位はシンザン)。ちなみにその時代に輝いた四大スーパーホースの1頭にも選ばれている。競馬関係者に競馬ファンの著名人を加えた評価では、雑誌『優駿増刊号 TURF』が1991年に行ったアンケートでは「マイラー部門」で第1位、「最強馬部門」で第5位(第1位はシンボリルドルフ)、「思い出の馬部門」で第2位(第1位はテンポイント)に選ばれている。また、日本馬主協会連合会が史誌『日本馬主協会連合会40年史』(2001年)の中で、登録馬主を対象に行ったアンケートでは、「一番印象に残る競走馬」の部門で第1位を獲得、「一番印象に残っているレース」の部門でも、ラストランの第35回有馬記念が第38回有馬記念(トウカイテイオー優勝)と同率での第1位(504票中19票)に選ばれた。「一番の名馬」部門では第5位(第1位はシンザン)、「一番好きな競走馬」部門では第9位(第1位はハイセイコー)だった。競走馬名「オグリキャップ」の由来は、馬主の小栗が使用していた冠名「オグリ」に父ダンシングキャップの馬名の一部「キャップ」を加えたものである。同馬の愛称としては「オグリ」が一般的だが、女性ファンの中には「オグリン」と呼ぶ者もいた。その他、「怪物」「新怪物」「白い怪物」「芦毛の怪物」と呼ばれた。またオグリキャップは前述のように生来食欲が旺盛で、「食べる競走馬」とも呼ばれた。オグリキャップの騎手は何度も交替した。以下、オグリキャップに騎乗した主な騎手と騎乗した経緯について記述する。父ダンシングキャップの種牡馬成績はさほど優れていなかったため、オグリキャップは突然変異で生まれた、もしくはダンシングキャップの父であるネイティヴダンサー(アメリカの名競走馬)の隔世遺伝で生まれた競走馬であると主張する者もいた。母であるホワイトナルビーの産駒はすべて全兄弟無しで競馬の競走で勝利を収めている(ただしほとんどの産駒は地方競馬を主戦場としていた)。5代母のクインナルビー(父:クモハタ)は1953年の天皇賞(秋)を制している。クインナルビーの子孫には他にアンドレアモン、キョウエイマーチなどの重賞勝ち馬がいる。
出典:wikipedia
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