国際花と緑の博覧会(こくさいはなとみどりのはくらんかい、英:The International Garden and Greenery Exposition,Osaka,Japan,1990)は、大阪府大阪市鶴見区と守口市に跨る鶴見緑地で、183日間の会期(1990年4月1日 - 9月30日)で行われた博覧会国際事務局 (BIE) 認定の国際博覧会であり、またアジアで初めて開催された国際園芸家協会(AIPH)の国際園芸博覧会でもある。会場面積は約140haで、略称は「花の万博」「EXPO'90」。「花と緑と人間生活のかかわりをとらえ 21世紀へ向けて潤いのある豊かな社会の創造をめざす」をテーマとし、日本を含む83カ国と55の国際機関、212企業・団体が参加した。総来場者数は2312万6934名で、特別博覧会史上最高を記録した。当初は、1989年の大阪市市制100周年事業として、国内博覧会として開催する方向で準備が進められていた。鶴見緑地では1984年から、博覧会に向けてのイベントが定期的に開催されていた。しかしその後、国の政策とも合致し国際博覧会として、1990年に開催されることになった。計画当初は「鉄冷え」と言われるほど日本経済は冷え込んでおり、閣議了解は民間活力導入を条件になされた。その後、1980年代後半辺りから日本経済はバブル景気を迎え、民間企業からの施設参加(資金提供等)は順調に推移、また民間企業からの寄付金の総額は国際博覧会史上最高を記録するなど、民間からの参加が順調に推移した。国内で大小数々のイベントが催されたバブル期でも最大規模の催事である。会場内は「野原のエリア」「街のエリア」「山のエリア」の大きく3つのエリアに分かれていた。会場中央の大池「いのちの海」を取り囲む花一杯のエリア。企業出展の大規模なパビリオンや飲食店・遊園地ゾーンなどが建ち並ぶ賑やかなエリア。3つのエリアの中で最大面積を誇り、入場者の約8割が足を運んだ。「国際庭園」が点在する異国色豊かなエリア。花の万博のテーマ館である「政府苑」や、いくつかの企業パビリオンも、このエリアに出展されていた。会場内を遊覧・移動するために、4つの交通機関が出展されていた。1990年3月31日、皇太子徳仁親王による開会宣言が行われて花の万博は開会した。開会式の様子はNHKで中継された。一般公開は翌日の4月1日から同年の9月30日までの183日間だった。開幕2日目の4月2日、会場内を水力を使って遊覧するウォーターライド(ジャスコ・イオングループ出展)が高架水路(高さ7メートル)から転落する事故が発生し、当時の乗客・コンパニオン合わせて24名が重軽傷を負う事故が発生した。事故の影響でウォーターライドは約3か月間、運行を中止し、安全確認を強化することで7月12日から運行を再開した。この事故の後も、他の交通システムや、遊園地ゾーン「マジカルクロス」の乗り物などで、部品落下や緊急停止などのトラブルが相次いだ。事故やトラブルが相次いだものの、入場者は日増しに増え、6月20日には入場者数が早くも1000万人に到達した。7月23日に来場した。成婚後間もない1990年当時、世の中は「紀子様ブーム」一色となった。紀子妃にとっては、これが結婚後初の公務となった。1990年の夏は記録的な猛暑となった。特にアスファルトが敷き詰められた博覧会会場の暑さは尋常ではなく、まさに灼熱地獄と化していた。会場内の最高気温は38度近く。博覧会協会は、人工雪を降らせたり、会場内のあちこちに氷柱やクーラー付きのテーブルを設置したりと、「暑さ対策」に追われることになる。その「暑さ対策」に投じられた金額は3億円。9月15日に、予定より早く目標であった入場者数2000万人をクリアした。会場は感謝ムード一色となったが、その後、1日の入場者数が30万人を上回る日も出始め、活況による会場内・各交通機関の混乱が心配された。9月23日には、1日の入場者数が37万人となり、これが会期中最高の人出となった。1990年は台風の当たり年となり、1年に6個もの台風が上陸した。その中でも台風19号は強い勢力を保ったまま9月19日に関西地方に上陸し、この影響で博覧会会場は、午後3時半で閉場となった。当日の入場者数は約4万2000人で、これが会期中最低の人出となった。なおこの日は出口にて再入場券を無料で配っている。(何時から配りだしたかは不明)1990年9月30日、183日間の会期を終え閉会式を迎えた。当日は台風20号の影響で暴風雨となったが、午後1時半に入場者数2300万人を突破し、最終的には総入場者数が2312万6934名を数えた。これは特別博覧会史上、最も多い入場者数であり、日本で行われた国際博覧会の中でも1970年の大阪万博に次ぐ記録である。様々な歌手によってテーマソングが歌われた。会場への交通手段として、京橋駅と鶴見緑地駅を結ぶ日本初の鉄輪式リニアモーターミニ地下鉄である大阪市営地下鉄鶴見緑地線(現・長堀鶴見緑地線)が建設された。なお各線京橋駅、京阪関目駅、京阪守口市駅からの徒歩ルートも設定されてはいたが、大型連休などの多客期を除き利用者はあまり見受けられなかった。東海道新幹線では臨時のひかり号として東京駅~新大阪駅間で、ひかり花の万博号が運行された。以下の場所と会場との間に直通シャトルバスが運行された。シャトルバス7ルート28社局の輸送人員は508.6万人だった。公式には上記7箇所から直通シャトルバスが出ていたが、下記の場所からも運行されていた。また、路線バスとして以下の場所からも運行した。高速バスも開設された。なお、鶴見緑地公園の整備に伴い、整備区域にかかることになった近畿日本鉄道(近鉄バス)茨田営業所(鶴見通沿いの諸口停留所前)が移転を余儀なくされ、開幕前年の1989年に稲田営業所を設置して移転した。当時のドラマ・アニメ・小説などで、博覧会が登場することもあった。また、博覧会会場内に特設されたサテライトスタジオから読売テレビが、来場客を回答者としてスタジオに招いてのクイズ番組「クイズ!花博ランド」を生放送していた(平日夕方の帯番組。タージン司会)。『花物語』- 後援映画として前年1989年夏より大映の配給で公開する。会場跡地は花博記念公園鶴見緑地として整備されている。無料で入ることができ、市民の憩いの場となっている。博覧会閉幕と同時に、ほとんどすべてのパビリオン・乗り物等は撤去されたが、下記の施設は現在も存在している。会場内に設置された「花の万博郵便局」は、閉幕後、残務処理を行う会場内各施設の利便性のため、会場中央にあった本局だけが閉会後もしばらくの間営業を続けていた。この郵便局はゲートの中にあったにもかかわらず、ゲートで郵便局を訪問したい旨を告げるだけで、一般人でも正門ゲートのみからの入場が可能であった。このため、正門ゲートから郵便局の間に限るが、後片付けや建物の解体の様子が観察できた。ただし、風景印や定額貯金記念証書などの使用は会期中だけであった。2005年日本国際博覧会の際に開設された愛・地球博郵便局も閉幕後しばらくの間営業していたが、この時は関係者以外のゲートの入場は禁止されていたため、閉幕後の一般人の利用は不可能だった。博覧会の準備及び運営を目的とした財団法人国際花と緑の博覧会協会は解散し、花の万博の翌年には理念継承法人として財団法人国際花と緑の博覧会記念協会が設立された。(平成25年4月1日より公益財団法人となる。)。
出典:wikipedia
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