李 垠(り ぎん、이 은(イ ウン)、1897年10月20日 - 1970年5月1日)は、大韓帝国最後の皇太子で、日本の王族、李王。大韓帝国時代の称号は英親王。李氏朝鮮第26代国王・初代大韓帝国皇帝高宗の第7男子。母は純献貴妃厳氏。純宗の異母弟。妃は梨本宮守正王第一女子方子。李氏朝鮮(朝鮮国)が大韓帝国と改称した年に生まれ、純宗の即位のときに大韓帝国皇太子(懿愍皇太子)となった。幼少期に当時日韓併合による韓国および朝鮮半島一帯の統治を検討していた日本政府の招きで訪日し、学習院、陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校で教育を受けた。その後、1910年(明治43年)に行われた日韓併合によって、王世子となり、王族として日本の皇族に準じる待遇を受け、「殿下」の敬称を受ける。その後、1920年(大正9年)4月に日本の皇族の梨本宮守正王の第一王女・方子女王と結婚する。陸軍士官学校卒業後は大日本帝国陸軍に入り、その後歩兵第59連隊長、陸軍士官学校教官、近衛歩兵第2旅団長などを経て陸軍中将になる。1945年(昭和20年)4月には、軍事参議官に補せられた。また純宗の薨去に伴い李王家を承継したが、第二次世界大戦の日本の敗戦後日本国憲法施行に伴う王公族制度廃止により李王の身位を喪失した。この日本の敗戦時、李垠は「どうかこれまでと同じ待遇を続けてもらえないか」と日本の内閣に哀願したという証言が残っている。在日韓国人となった李垠・方子夫妻は帰国を試みるが、日本と大韓民国の間の国交は樹立されておらず、その上王政復古を疑う李承晩大統領の妨害などもあり帰国できなかった。1959年(昭和34年)3月渡米中に脳梗塞で倒れ、5月に日本へと戻る。1961年(昭和36年)、渡米途中に日本に立ち寄った朴正煕大統領と面談。翌年夫婦ともに韓国籍の回復の通知を受ける。1963年(昭和38年)に日韓国交正常化交渉が始まると、同年11月夫婦ともに韓国へ渡るが病身であったため金浦空港からソウルの聖母病院へと直接運ばれた。1970年(昭和45年)4月28日、結婚生活50周年の金婚式を病院で開くが、その3日後病院で死去した。李垠は王への即位はなかったが、朴大統領の許可を経て王家の宗廟である永寧殿に「懿愍太子」の諡号で位牌がおさめられた。方子妃との間に2男。晋王世子の突然の夭折には日朝双方の暗殺説がある。1936年(昭和11年)の二・二六事件当時、李垠は宇都宮歩兵第59連隊長だったが、2月28日には連隊の一部である混成大隊を直率して上京した。29日0時半に新宿駅に到着した後、九段のホテルを接収して本部を構え反乱軍を鎮圧すべく対峙した。各地の航空隊を視察する時は必ず現地の神社を参拝した。1944年(昭和19年)7月26日には副官や参謀を伴って空母鳳翔に乗艦し、海軍の攻撃七〇八飛行隊(一式陸上攻撃機装備)や攻撃四〇五飛行隊(銀河装備)とともに合同で夜間雷撃訓練を行なっていた麾下の陸軍飛行九八戦隊(四式重爆撃機装備)を視察した。この部隊は後に海軍の指揮下で台湾沖航空戦に参加した。李垠の親類・近親・祖先の詳細
出典:wikipedia
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