和光市駅(わこうしえき)は、埼玉県和光市本町にある、東武鉄道・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。1914年(大正3年)5月1日に東上鉄道(現・東武東上本線)池袋駅 - 田面沢駅の開業から大幅に遅れて、1934年(昭和9年)2月1日に埼玉県新座郡新倉村ににいくら駅として開業したのが始まりである。開業直後の同年7月12日に新倉駅へ変更した。開業当時の当駅近隣の集落は白子宿など川越街道沿いに存在しており、駅は畑の中に開設された。そのため、開業当初の一日平均の乗客は約94人で、1938年(昭和13年)が約160人であった。白子村と新倉村の全面積の約20%を1937年(昭和12年)から買収を進めて1941年(昭和16年)11月2日に陸軍予科士官学校が移転し、1940年(昭和15年)に大倉財閥系で機関銃を製造していた「中央工業新倉工場」や「芝浦工作機械」、「日興航空工業」など多くの軍需工場も進出し、駅の南側を中心として人口も増加した。そのため、1945年(昭和20年)には一日平均の乗客は開業時の20倍以上に増加した。第2次世界大戦で敗戦したことから、1945年(昭和20年)8月に「陸軍予科士官学校」は解散となり、軍需産業は壊滅状態となった。だが、「陸軍予科士官学校」跡地や「中央工業新倉工場」跡地などがキャンプ・ドレイクとなって米軍第一騎兵師団約4,000人が進駐し、1960年(昭和35年)3月に陸上自衛隊朝霞駐屯地が開設されたことから、戦後も軍需都市的な側面が残った。しかし、本田技研工業が1952年(昭和27年)3月に「日興精機工業」の工場を買収して白子工場を開設し、1953年(昭和28年)7月に「中央工業新倉工場」跡地の一部を買収して大和工場を開設するなど民需工場の進出が相次いで、当駅周辺は新たな発展を遂げた。その後、基地の返還跡地に日本住宅公団が1965年(昭和40年)4月に「西大和団地」を開設したのを皮切りに、「南大和団地」や「諏訪原団地」を開設。「中央工業新倉工場」跡地の一部で「米軍新倉倉庫」(1971年(昭和46年)6月23日返還)となっていた地区が「シーアイハイツ和光」(1972年(昭和47年)に伊藤忠商事が用地を取得)として再開発されるなど、返還後の基地の跡地に団地開発が進められた。また、1941年(昭和16年)7月20日に開院した白子陸軍病院が1945年(昭和20年)12月1日に厚生省に移管されて「国立埼玉病院」として一般市民向けの医療施設として存続し、基地の返還跡地の一部に1967年(昭和42年)3月に理化学研究所が大和研究所を開設するなど公共系の施設も当駅周辺に立地した。さらに、松ノ木島地区や丸山台地区などで土地区画整理事業が進められ、新興住宅地としても発展した。こうした利用者の増加に対応して輸送力増強を行うため、東武東上線と都営地下鉄6号線(現・三田線)・東京急行電鉄との相互直通が運転を行う計画があり、1964年(昭和39年)12月18日に認可されていた。しかし、東京都交通局が担当区間であった1968年(昭和43年)12月27日に「高島平駅(計画・志村駅)」まで開通したものの、東武鉄道が「志村駅(現・高島平駅)」から当駅まで4.8kmの免許を返上し、1972年(昭和47年)3月1日に運輸大臣の諮問機関である「交通審議会」で予定路線を「戸田・浦和・大宮」方向へ変更したことから、計画は消滅した。その後、1969年(昭和44年)1月に帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄、愛称東京メトロ)が地下鉄8号線(現・有楽町線)の車庫を「米軍新倉倉庫」跡地の一部に設置し、その為の引込線を東武東上線に沿って建設する構想で用地取得を申し入れた。同線は、1968年(昭和43年)10月に免許を取得した時点では「明石町-永田町駅-飯田橋駅-池袋駅-成増駅」とされており、当駅には乗り入れを計画していなかった。1970年(昭和45年)4月10日に営団が大和町(現・和光市)当局に示した当初構想では、東上線に沿う形で高架線を建設し、駅を開設せず旅客扱いを行わないものであった。そのため、大和町(現・和光市)当局が反発し、旅客扱いや車庫の地下化など7項目の要求を行い、受け入れられない場合には車庫建設を認めないと表明した。1975年(昭和50年)10月に営団が当駅から渋谷駅までの路線の建設許可を申請し、1976年(昭和51年)8月11日に運輸大臣から営団に事業免許が交付され、1978年(昭和53年)7月11日に地下鉄8号線(現・副都心線)の建設許可も交付された。そこで、和光市も地下鉄乗り入れに伴う駅周辺の整備事業に乗り出し、渋滞解消のための立体交差や土地区画整理などの調整を始めた。この立体交差化については当初は高さ4.5mの地下道を建設することが構想されたものの、商店街への影響を避けるため、鉄道側を1.85m嵩上げすることで地下道の高さを維持したまま、深さを抑制する計画へ変更され、1985年(昭和60年)8月5日に地下市道が開通した。そして、新線の建設や乗り入れに向けた駅の改築工事などを進め、1987年(昭和62年)8月25日に帝都高速度交通営団(営団地下鉄)有楽町線が営団成増駅から当駅まで延伸開業し、直通運転を開始することになった。その後、2008年(平成20年)6月14日に副都心線が全線開通して当駅から東武東上線との相互直通運転を開始し、2013年(平成25年)3月16日に同線を経由して東急東横線との間でも相互直通運転を開始した。2016年現在、東京メトロの駅としては最北端かつ最西端に位置する駅であり、東京の地下鉄全体でも最西端に位置し、唯一埼玉県内に所在する駅である。。南口のみで営業していたが、営団地下鉄の乗り入れに合わせた改良工事で路盤全体を嵩上げして半高架化し、北口の開設や地下市道の建設と合わせた立体交差による踏切の廃止などが行われた。島式ホーム2面4線を有する高架駅。半高架式。ホーム直下に改札口があり、改札からは階段(スロープあり)を上って駅舎外に出る構造となっている。池袋方階段に上りエスカレーターが設置されている。駅売店は改札外の自動券売機横にある。当駅 - 志木間は、東上線内で唯一の複々線区間である。朝霞側に有楽町線・副都心線列車の引き上げ線が2線あり、線路はその先の和光検車区に繋がっている。有楽町線・副都心線には当駅始発・終着列車が設定されているのに対して、東上線の当駅始発・終着列車は設定されていない。地下鉄線内の当駅始発・終着は平日日中及び土日祝日でも毎時10本あり(東上線直通は4本/h)、ラッシュ時やダイヤが乱れた場合を中心にB線で当駅から列車が数珠繋ぎになる場合がある。東武鉄道と東京メトロが構内を共用する共同使用駅で、。東武鉄道の東上本線、東京メトロの有楽町線といる。有楽町線と副都心線は当駅が起点であるが、列車によっては東上本線川越市方面へ直通運転を行う。当駅 - 小竹向原間は、有楽町線と副都心線が線路を共有している。東京メトロの駅では最北端かつ最西端で、東京の地下鉄全体で最西端に位置し、唯一埼玉県内に所在する駅である。駅番号は、東上本線がTJ 11、有楽町線がY 01、副都心線がF 01となっている。下り列車は、1番線を東上線池袋方面からの列車、2番線を有楽町線・副都心線方面からの列車が使用する。3番線(有楽町線・副都心線のりば)は有楽町線開通当初から発車ブザーが、それ以外では朝ラッシュ時のみ4番線で発車ベルが使用されていた。2007年4月5日より東上線ホーム(1・2・4番線)に発車メロディが導入された。有楽町線・副都心線ホームの3番線は2012年7月7日のホームドア稼働開始と同時に発車メロディ「きらめくホーム」が導入されたが、同年12月17日には再び発車ブザーに戻された。改札階1日平均の乗降人員は以下の通りである。数値は、東武鉄道⇔東京メトロとの直通連絡人員を含んでいる。当駅の中心的な出口である南口は、区画整理が完了したことに伴い、南口を中心に多くの商業ビル、銀行などが立地するようになった。前述のように駅の南側にはかつて軍の施設や軍需工場があったことからまとまった土地があり、その跡地に理化学研究所や本田技術研究所などの国や民間の施設が立地した。そのため南口からは多くの研究所方面行きのバスが発着している。北口駅前周辺は、道路が狭く住宅が密集しているなど多くの問題を抱えていることから、和光市では2008年度から北口土地区画整理事業を進めている。今後、新たに駅前交通広場を設け商業系・住居系土地利用の増進、道路や公園などの整備を行っていく予定である。北口と南口に和光市駅停留所があり、以下の路線が発着する。一般路線バスは東武バスウエストと西武バス、空港連絡バス・高速バスは西武バス・東京空港交通・京成バス・東武バスウエストにより運行されている。南口は研究所方面行きのバスが多く発着する。国際興業バスも池袋駅西口発深夜急行バスが南口に乗り入れている。全て東武バスウエストの運行。北口にはターンテーブルが設けてある。
出典:wikipedia
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