八旗(はっき、 メレンドルフ転写:"jakūn gūsa")は、清代に支配階層である満洲人が所属した社会組織・軍事組織のことである。また、この制度を指して八旗制と呼ぶ。八旗は旗と呼ばれる社会・軍事集団からなり、すべての満洲人は8個の旗のいずれかに配属された。後にはモンゴル人や漢人によって編成された八旗も創設される。八旗に所属する満洲人・モンゴル人・漢人は旗人(きじん、gūsa i niyalma)と総称され、清の支配階層を構成した。八旗は、清の始祖であるヌルハチが、満洲人の前身である女真(jušen)を統一する過程で、女真固有の社会組織を「旗」と呼ばれる軍事集団として編成、掌握したことに始まる。1601年にヌルハチがこの制度を創始した当初は黄(suwayan)・白(šanggiyan)・紅(fulgiyan)・藍(lamun)の4旗であったが、ヌルハチの統一事業の進展によって旗人の数が増えたため、各色に縁取り(「」(金+襄)。「じょう」と読む)のある4旗が加えられ、1615年には正黄(gulu suwayan)・黄(kubuhe suwayan)・正白(gulu šanggiyan)・白(kubuhe šanggiyan)・正紅(gulu fulgiyan)・紅(kubuhe fulgiyan)・正藍(gulu lamun)・鑲藍(kubuhe lamun)の8旗が整備された。八旗は当初、ヌルハチが支配する後金(清の前身)に属するすべての軍民が所属する軍事組織であったので、女直以外にもモンゴル人や漢人で後金に服属した軍人も八旗に編入されることになった。ヌルハチの後継者ホンタイジの時代には、清に服属して八旗に編入されたモンゴル人や漢人が次第に増えてきたため、彼らを新たに蒙古八旗及び漢軍八旗(ujen cooha)に編成した。これにより従来の満洲人の八旗はこれと区別するため、満洲八旗と呼ばれるようになる。八旗に属する旗人たちは、平時は農耕・狩猟に従事しつつ要地の警備や兵役にあたった。要地の警備のために特定の場所に集団で移住させられた八旗を駐防八旗という。また、清が入関して万里の長城以南の全中国を支配するようになると、数多くの旗人が新たに首都となった北京へと移住させられ、北京の内城は旗人(北京八旗)の街になった。旗人には旗地と呼ばれる農地が支給されるなど、さまざまに優遇された。また旗人は、清の官制の特色である満漢偶数官制によって被支配民族である漢人とは別枠で同数のポストに就くことができ、相対的に人口が少ない旗人は清朝一代を通じて官僚の地位を世襲した。しかし、旗人の人口が増大するとともに、支給される土地の窮乏や貧困が慢性化した。特に旗人の中核を占める満洲人は満州語や民族文化を失って武芸を衰えさせた。18世紀末に起こった白蓮教徒の乱以降、各地で反乱が多発し国庫が窮乏して軍事訓練を行う余裕が失われたことや、人口増加に伴ってかつて騎射訓練などを行っていたモンゴル高原の南端まで華北の農民が入植して演習場が失われていったことなども挙げられる。こうして、清末までに八旗制は形骸化した。旗人は清朝の中期以降、言語的にはほとんど漢族と一体化しており、名前も漢語でつけられるようになっていたが、中華民国期以降は姓も漢人と同じように漢字一字の姓を名乗るようになり、ほとんど漢族に埋没していった。しかしその後も多くの旗人の末裔の中では、満洲人の後裔であるという意識は残ることになった。中華人民共和国は満洲人を満族として公式に少数民族のひとつに認めたが、旧支配者の満洲人であると登録する者は1万人に満たなかった。文化大革命中は旧特権層の後裔というだけで迫害の理由となったが、文革終結後は少数民族優遇措置によるメリットの方が大きくなり、現在は満族を民族籍とするかつての旗人の後裔は1000万人にものぼる。八旗制による基本的な編成形体は、有事の際に兵士となる成年男子300人をニル(niru、「矢」の意)とし、5ニルをジャラン(jalan、1500人)とし、5ジャランをグサ(gūsa、25ニル、7500人)とするものである。各グサは、それぞれ固有の旗を持って識別されたので、グサのことを中国語では「旗」と呼ぶようになった。新たに「満洲」という民族名で呼ばれるようになった女直人は、みな8個のグサ(旗)のうちいずれかの旗に所属させられたので、八旗は軍事組織であると同時に社会組織・行政組織であった。各ニルにはニルイ・ジャンギン(nirui janggin、佐領)、各ジャランにはジャラニ・ジャンギン(jalani janggin、参領)、各グサにはグサイ・エジェン(gūsai ejen、都統)が任命され、統括された。各グサにはさらにその上に、清朝の皇族である愛新覚羅氏の旗王が置かれ、ベイレ(beile、貝勒)と呼ばれた。各旗の旗王は1人ではなく複数人おり、その中で序列が存在した。皇帝自身は正黄旗・黄旗・正白旗3旗の王で、八旗による社会組織は、皇帝の領する3旗(dergi ilan gūsa、上三旗)と諸王の領するその他の5旗(fejergi sunja gūsa下五旗)による部族連合国家という側面もある。八旗の構造は元々満洲人に存在した部族(氏族)における族長と構成員の主従関係である主(ベイレ)と大臣(アンバン)と民(ジュシェン)、家(ボー)における主僕の関係である主(エジェン)と奴僕(アハ)の関係をそのまま発展させたものである。禁旅八旗は、清が長城以南に入関した後、首都となった北京を警備するために北京城に移住させた八旗のことで、清朝皇帝の近衛兵である。順治帝時代、禁旅八旗には、驍騎営(aliha coohai kūwaran)、前鋒営(gabsihiyan i kūwaran)、護軍営(bayara i kūwaran)、歩兵営が設けられ、各々驍騎(馬甲、馬兵とも称する)、前鋒、護軍、親軍(gocika bayara)及び歩兵(yafahan cooha)を統括した。その後、火器営(tuwa i agūra i kūwaran)、健鋭営(silin dacungga kūwaran)、内府三旗護軍営(booi ilan gūsai bayara i kūwaran)、前鋒営、驍騎営、円明園八旗護軍営、三旗虎槍営等も設置された。前鋒、護軍、驍騎、親軍、歩兵は、八旗佐領の下から選抜され、人数は、時代によって変化している。乾隆帝時代、驍騎3万4000、護軍1万5000、前鋒1700、歩軍2万1000、親軍1700、健鋭兵2000、火器営兵6000、虎槍営兵600、及び藤牌兵(kalkangga cooha)等、計約9万人がいた。この外、領侍衛府が設置され、領侍衛内大臣6人、内大臣6人が置かれ、上三旗の一等、二等、三等満洲蒙古侍衛570人、藍翎侍衛(lamun funggala)90人、四等待衛(duici jergi i hiya)、御前侍衛(gocika hiya)、乾清門侍衛(kiyan cing men i hiya)、漢侍衛若干名、計1800人余りを管轄した。紫禁城の警備に関しては、領侍衛府の責任が最も重く、地位も最高で、宮殿の宿衛と巡幸等の諸事を総括した。紫禁城内の各門、各宮殿には、領侍衛内大臣(hiya kadalara dorgi amban)が侍衛、親軍、上三旗、内府三旗前鋒、護軍、驍騎宿衛を派遣した。紫禁城外の周囲は、下五旗護軍が守衛した。紫禁城外から皇城以内は、満洲八旗歩軍が守衛し、皇城外から大城以内は、満洲、蒙古、漢軍八旗歩軍が守衛した。大城外は、五城巡捕営からの1万の緑営兵が守衛、巡邏した。駐防八旗は、清の入関後、各地の反清運動を鎮圧し、統制を強化するために派遣された八旗である。駐防八旗は、畿輔駐防、東三省駐防、各省駐防、新疆駐防の4系統に分けることができる。畿輔駐防は、直隷駐防とも称され、乾隆帝後期、良郷、昌平、水平、保定等25ヶ所に8000人が駐屯した。東三省駐防は、盛京、吉林、黒龍江駐防に分かれる。盛京駐防は、盛京将軍が統括し、盛京、遼陽、開原等40ヶ所に1万6000人が駐屯した。吉林駐防は、吉林将軍が統括し、兵力は9000人だった。黒龍江駐防の八旗兵とソロン(索倫)族兵7000人は、黒龍江将軍が統括した。各省駐防は、山東、山西、河南、江蘇、浙江、四川、福建、広東、湖北、陝西、甘粛等11省の20都市に駐屯し、乾隆帝後期、計4万5000人に達した。各省駐防は、各都市に設けられた将軍又は副都統が管轄し、各省駐防の兵数は300 - 3000人程度だった。新疆駐防は、西域兵とも称され、ジュンガル部、ウイグル部の征服後に設置された。兵数は1万5000人で、イリ将軍が統括した。
出典:wikipedia
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