志摩国(しまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。律令制以前は島津国造の領域であったとされ、令制国設置に伴い当国域をも含む伊勢国が成立した。その後7世紀後半から8世紀初めに志摩国として分立したとされるが、伊勢国の隷属下に置かれたという。8世紀初めまで、嶋国、志麻国とも書かれた。飛鳥・奈良時代には、代々内膳司を勤めていた高橋氏などが国司であったが、志摩に赴くことはなかったという。志摩国は面積が小さい上に平地がほとんどないことから稲米の収穫量が少なかったため、伊勢国や尾張国の田を志摩国の口分田とし、国衙や国分寺の費用を伊勢国・尾張国・三河国が負担した。海産物を贄として、宮中へ貢ぐ御食国の一つと推定される。平城京発掘で出土した木簡に伊雑郷・名錐郷・船越郷などの表記が見られ、これらの地域から海産物を貢租していたことは確実である。船越郷は、名錐郷に隣接する船越とする説があるが、現在の度会郡南伊勢町船越と解釈するのが一般的である。当初の志摩国の領域は、現在の三重県の鳥羽市・志摩市だけではなく、度会郡南伊勢町、大紀町の錦地区、北牟婁郡紀北町、尾鷲市全域までが志摩国英虞郡に含まれていた。天正10年(1582年)、紀伊新宮城主の堀内氏善と伊勢国司の北畠信雄が荷坂峠を境として、それぞれが紀伊国牟婁郡と伊勢国度会郡に編入したため、志摩国は現在の三重県の鳥羽市・志摩市だけの地域に限定された。国府は、『和名抄』および『拾芥抄』に、英虞郡とある。志摩市阿児町国府に比定されている。二宮以下はなし。守護代所が、室町時代に答志郡泊浦、現在の鳥羽市鳥羽にあったと考えられている。ただし、室町時代は守護は伊勢・志摩両国で一人だったともいう。志摩国は飛鳥時代には志摩郡のみであったが、奈良時代に入り佐芸郡、答志郡の二郡に分けられた。佐芸郡はすぐに英虞郡に改名された。伊勢国守護と兼任だったとされている。伊勢国を参照。
出典:wikipedia
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