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屋久島

屋久島(やくしま)は、鹿児島県の大隅半島佐多岬南南西約60kmの海上に位置する島。熊毛郡屋久島町に属し、近隣の種子島や口永良部島などと共に大隅諸島を形成する。より南方にトカラ列島と南西諸島が位置する。面積504.29 km、周囲130㎞(東西約28㎞、南北24㎞)。円形に近い五角形をしており、淡路島よりやや小さい。鹿児島県の島としては奄美大島に次いで2番目、日本全国では7番目の面積である(北海道・本州・四国・九州を除く)。豊かで美しい自然が残されており、島の90%が森林である。島の中央部の宮之浦岳(1936m)を含む屋久杉自生林や西部林道付近など、島の面積の約21%にあたる107.47km²がユネスコの世界遺産に登録されている(世界遺産への登録は1993年、姫路城・法隆寺・白神山地とともに日本初)。全島が屋久島町一町に属している。本島においての発電は、屋久島電工が製錬所の自家発電のために建設した火力発電所と水力発電所からの電気を、屋久島電工と九州電力を含めた4事業者が分担して供給しており、日本では唯一の発送電分離の形式をとっている。したがって本島では九州電力から電気を買っていない世帯や事業者も存在する。平素、島内の電力は水力発電で賄われており、火力発電は緊急時に限って活用される。屋久島はほぼ全域が山地であり、1,000mから1,900m級の山々の連なりは八重岳、洋上アルプスなどと呼ばれる。屋久島山地と記述した文献もある。中央部には日本百名山の一つで九州地方最高峰の宮之浦岳 (1,936m) がそびえる。このような中央部の高峰は奥岳と呼ばれ、永田岳を除き海岸部の人里から望むことはできない。宮之浦岳、永田岳および栗生岳は屋久島三岳とされ、山頂に一品宝珠大権現が祀られ古来より嶽参りの対象とされてきたが、『三國名勝図會』の記す栗生嶽は位置的に現在の黒味岳に相当するとする説もある。海岸部から間近に聳える山々は前岳と呼ばれ、本富岳、国割岳および愛子岳などがある。地質的には西南日本外帯の四万十帯に属し、島外周部は日向層群(旧称・熊毛層群)の第三紀堆積岩からなり、中央山岳部は直径約25kmの巨大な花崗岩が貫入している。屋久島の高山はこの1550万年前にできた花崗岩がその後隆起して形成された。また激しい雨による侵食の結果残された花崗岩塊が点在し、永田岳の山頂付近に見られるローソク岩のような岩塔が林立する。一般に花崗岩は広い間隔で節理が発達するため巨大な岩塊が生まれる。さらに島の北西-南東方向および、北東-南西方向に発達した渓谷や尾根筋も節理の方向に沿って侵食が進んだ結果である。屋久島を流れる河川は放射状に広がり、その数は140にも及ぶ。主な河川は安房川、宮之浦川、永田川、栗生川の4つである。また急峻な山々と日本一を誇る雨量のため深い渓谷が刻まれ、河床は急勾配で滝が発達している。大川の滝、千尋の滝などが良く知られ、宮之浦川には、屋久島最大の竜王滝(3段110m)がある。海からの湿った風がこれらの山にぶつかり、「屋久島は月のうち、三十五日は雨」と表現されるほど大量の降雨をもたらすため、年間降水量は平地で約4,000mm、山地では約8,000mm~12,000mmにも達する。とりわけ山間部の観測点では、淀川登山口で1999年に11,719.5mm(平年値8,920.9㎜)、ヤクスギランドで2012年に11,129.5㎜(平年値9,823.7㎜)を記録するなど、毎年10,000㎜前後の降水量が観測されている。また、山頂付近の年間平均気温は約6-7℃(札幌市よりも低い)であるために積雪が観測されており、日本国内において積雪が観測される最南端となっている(60cm以上の積雪を観測することがあるほか、3月の彼岸以降でも大雪や路面凍結、また4月以降でも頂上付近ではまだ冠雪が見られる)。こうした条件により、豊富な流水や湧水に恵まれ、1985年、宮之浦岳流水は名水百選に選ばれている。また、2007年、日本の地質百選にも選定された。温帯最下部のほぼ亜熱帯に属する地域にありながら、2,000m近い山々があるため亜熱帯から亜寒帯に及ぶ多様な植物相が確認されている。海岸付近の低地はアコウ、ガジュマルなど亜熱帯性の植物相である。このガジュマル林は日本最北端のものとされる。やや内陸の標高約500mまではシイ、ウラジロガシなど暖帯林、約500mないし600mから1,000mないし1,200mはウラジロガシ、スギおよびイスノキなどの混合林で移行帯となりスギの人工林もあり、約1,000mから1,600mは屋久杉、ヤマグルマおよびモミなどの温帯林となる。約1,600m以上はササに覆われ、ヤクシマシャクナゲなどが点在し高山的様相を呈する。本州や四国などで落葉広葉樹林帯に相当するブナ林はなく代わりに屋久杉が分布し、同程度の標高である石鎚山脈、剣山地および大峰山脈とは異なり、南海上の島である屋久島はシラビソなどの亜高山帯針葉樹林を欠く。島の中心部には、日本最南端の高層湿原である花之江河(はなのえごう)、小花之江河(こはなのえごう)が存在する。ヤクシマの名を冠した植物はきわめて数が多く、以下のようなものがある。また、屋久島の植物にはなぜか他より小さいものが多い。たとえばイッスンキンカはかつてはアキノキリンソウの変種とされたものだが、せいぜい7cmにしかならない(アキノキリンソウは30cm以上になる)。このようなものは山野草や盆栽としての鑑賞価値が高いため、これらを屋久島ものと呼んで珍重する向きがある。また、これに便乗する形で、他地域産のものでも小柄な姿のものに対して「屋久島○○」と名付けて販売される場合があるという。野生哺乳類としては、ヤクザルやヤクシカ、コウベモグラ、ジネズミ、ヒメネズミ、コイタチ、コウモリ数種しか生息していない。1990年代から外来種のタヌキが観察されるようになり、定着したものと思われる。古来から様々な鯨類の回遊路にあたり、大幅に種類が減ってしまった現在でもマッコウクジラやイルカ類等が近海で見られ、ザトウクジラの確認も増えている。薩摩藩政時代にはジュゴンが、昭和初期にはカワウソが生息していたことが報告されているが、標本等は残されていない。爬虫類ではニホントカゲやマムシなどが知られ、日本本土とほぼ共通である。島北部の永田浜は世界有数のアカウミガメの産卵地であり、ラムサール条約登録湿地となっている。(後述)上記のように主な動物は日本本土と共通、あるいは関係が深いものである。それに対してこの島以南の南西諸島に見られるアマミノクロウサギやハブなど、南西諸島に独特のものは見られない。そのため、この島の南側に分布境界線として渡瀬線(渡瀬ライン)を認める。スギ(杉、Cryptomeria japonica)の屋久島に産し樹齢が1000年を越えるものをヤクスギと呼んでいる。屋久島の強風、多雨、地質、シカの生息などの自然環境に対応して、抗菌性を持つ樹脂を多量に分泌し極めて長寿になる、幼樹の葉が鋭いなど、特徴的な形質を有する。ヤクスギ、モミ、ツガを主体とする温帯針葉樹林は屋久島の標高600m以上に分布する。600 - 1,200 mは低地を占める照葉樹林との移行帯であり、両方の要素が混交する。抗菌性が強く耐久性があることが重視され、中世以降、建築材や造船材として開発された。豊臣秀吉による京都方広寺大仏殿建立の際、石田三成が島津義久に屋久島の木材資源調査を指示しており、実際に木材が薩南海域から大坂へ運ばれた形跡がある。17世紀に薩摩藩によるヤクスギの伐採が本格化し、明治になるまでにヤクスギの良木のほとんどが伐採された。樹齢1000年程度の巨木は年輪がゆがみ、山地での製材が不可能であったため放置され、現在も生きているものが多い。伐採跡地にはスギの稚樹が成長し、以来300~400年を経て美しい二次林を形成している。三次林となっている林分も広い。現在は1000年程度の巨木や変形木をヤクスギ(屋久杉)とよび、二次林・三次林をつくる若いスギをコスギ(小杉)と呼ぶ。明治以降、屋久島の山林の大半は国有林に編入され、大正から昭和にかけて二次林・三次林の伐採が進んだ。1000年以上の「屋久杉」は切り残されることが多かったが、樹齢400年以下の「小杉」は、屋久杉ではないとされ、1955年(昭30)チェーンソーが導入されるとともに、大々的に伐採が進んだ。現在、原生自然環境保全地域に含まれる小楊枝川流域、国立公園第一種特別地域に含まれる永田川流域、宮之浦川上流域、東部の安房川支流荒川左岸(ヤクスギランド)などがヤクスギの主要な群落として僅かに残されている。屋久島最大の「縄文杉」はかつてその巨大さから推定樹齢6000年以上であるとされ、環境省(当時は環境庁)の環境週間ポスターで「7200歳です」と紹介されたことで、全国的に有名になった。現在では放射性炭素年代測定法で推定樹齢約2000年以上であることが確認されている。またその際内部組織の年代が入り乱れ、同心円状の年輪を形成していなかったことから合体木であるという説があったが、これに対して数本の大枝から葉サンプルリングして遺伝子分析解析を行った結果、一本の木であることが明らかになった。なお現在までに確認された最古の木は「大王杉」で、やはり放射性炭素年代測定法で樹齢3000年以上とされる。屋久島が初めて文献に出現するのは、中国の隋の書「隋書」で、「夷邪久(いやく)」がそれであるとの説があるが、明らかではない。『日本書紀』では616年(推古天皇24年)に掖久・夜勾・掖玖の人30人がやってきて、日本に永住したという記事が見られ、629年(舒明天皇元年)には大和朝廷から掖玖に使が派遣されたという記載がある。日本書紀で、掖玖(ヤク)を、特定の島である屋久島をさすような言葉として初めて区別するような記載が行われたのは、682年(天武天皇11年)に、「多禰人・掖玖人・阿麻彌人(奄美人)それぞれ禄を賜った」という記載からである。『続日本紀』には、699年(文武天皇3年)に多褹・掖玖・菴美・度感から朝廷に来貢があり位階を授けたと記載がある。また同書には、種子島とともに多禰国との記述があり、大宝2年8月1日条(702.8.28)に「薩摩と多褹が化を隔てて命に逆らう。是に於いて兵を発して征討し、戸を校して吏を置けり」薩摩国と多禰国が成立する。これ以後、大和朝廷は令制国として一国に準ずる多禰国に国司を派遣する。多禰国からの税収はとても小さかったが、南島(なんとう)(南西諸島)(奄美・沖縄方面)との交流や、隼人の平定、遣唐使の派遣のため格は中国として扱われていた。実際、天平勝宝5年12月12日(754.1.9)に鑑真、大伴古麻呂、吉備真備らを乗せた遣唐使船の第二船、第三船が屋久島に帰国、第二船は12月18日に大宰府に向けて出港、20日に秋目、26日に大宰府に到着する。734年と754年の二度遣唐使が帰国した。しかし、島民を兵として徴用しても動員が難しく、年貢として取り立ても少ないことから、天長元年10月1日(824.10.26)に多禰島司を廃止し、能満郡・熊毛郡・馭謨郡・益救郡の四郡を熊毛郡・馭謨郡の二郡に再編して大隅国に編入した。1203年に鎌倉幕府から種子島氏に種子島を初めとした南西諸島が与えられ、屋久島も種子島氏の支配下に置かれることになる。1542年、大隅の禰寝氏が種子島氏の悪政を正すとの名目で屋久島に襲来し、島を占拠。宮之浦に城ケ平城を築城。1544年に種子島氏は屋久島を奪還すべく、城を攻める。禰寝氏は敗退し、再び島は種子島氏の支配下になる。このとき初めて火縄銃が実戦で使用されたと伝えられている。織豊時代の1595年、種子島久時のとき、太閤検地に伴う所替えで薩摩国知覧に移され、屋久島は島津家の直轄地となる。また豊臣秀吉が京都方広寺の大仏殿建立用材調達を全国の大名に命じ、島津家にも用材の献上を命じられている。一説にはウィルソン株はその時に切り出された屋久杉の切り株ともいわれている。江戸時代は薩摩藩の支配下に置かれる。島津光久に招かれ薩摩藩に使えていた僧侶であり儒学者でもあり、屋久島の安房の生まれであった泊如竹は、島民の困窮を目にし、島民のため屋久杉伐採を藩に願い出る。また屋久杉伐採の指導などを行い島の経済復興に尽力した。このため屋久聖人と呼ばれている。今でも泊如竹の命日である旧暦の5月25日に如竹踊りが如竹神社で行われている。米作、畑作に不向きな屋久島の年貢は、屋久杉を伐採加工した平木で納めることになった。男子は年一人当り平木六束(一束は百枚で600枚)を収めることとなっていた。1708年にキリスト教布教のため、鎖国下の日本に潜入しようとしたジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティが、屋久島に上陸している。明治時代に入り、地租改正により、島の山林のほとんどが国有地に編入され、1891年(明治24年)には国有林監視所が設置され、盗伐の取り締まりが強化されたことをきっかけに、明治37年(1904年)には島民が国を相手取って訴訟を起こすにいたった。この訴訟は16年に及ぶ長期の係争となったが、関係書類からもともと薩摩藩有であったことが確認されるとして島民側の敗訴となった。だが、この判決には批判が多く、国会議員やマスコミからの追及が高まった。世論を重視した国は1921年(大正10年)に屋久島の国有林を島民一般のためにのみ使用することを旨とする「屋久島国有林経営の大綱」を定めた。この処置は島民から大いに喜ばれ、「屋久島憲法」と呼ばれた。1922年(大正11年)からは本格的なインフラ整備が開始された。1992年3月13日に世界遺産条約の国会提出を閣議で決定され、6月30日に条約受諾書をユネスコへ送付した。それを受けて、1992年10月1日、屋久島が世界遺産委員会へ推薦された。1993年12月11日、コロンビアのカルタヘナで開催された世界遺産委員会で、世界遺産リストに登録された。姫路城・法隆寺・白神山地とともに日本初である。登録当時、ユネスコ世界遺産センターのドロステ所長は、「自然遺産としての屋久島の価値は、多くの人たちが暮らしていながら、すぐれた自然が残されていることにある。」と語ってる。屋久町と上屋久町の町議会は、世界遺産登録を控えた1993年10月に屋久島憲章を決議した。屋久島の自然環境保護を第一とし、自然環境との共生による島の将来への指針を示している。しかし世界遺産登録後の観光客の増大によるゴミ増加、山岳トイレ、登山道とアクセス道路、山小屋の整備の遅れ、観光ガイドの質の低さなどが指摘されている。特に縄文杉見学の登山客は激増した。2010年の同コースの登山客は約9万人で、それまでの10年間で3倍近くに増えた。一方で登山客の増加は、登山道の劣化、ゴミ処理、山岳トイレ、ガイドの資質等々の地域社会的問題を招いた。屎尿処理は当初現地に埋設していたが、悪臭や水源汚染の問題が深刻化してきた。2008年からトイレ利用者から募金を募るなどして、人力で屎尿搬出を始めた。しかし募金率は低く、町の予算から拠出していた山岳トイレの屎尿処理費が約530万円の単年度赤字になるなど、町財政の負担になった。このような事態を受け、2011年6月屋久島町町長の日高十七郎がエコツーリズム全体構想の骨格をなす縄文杉コースの利用制限、永田浜への立ち入り制限などを規定した町条令案を町議会に提出した。具体的には、縄文杉への日帰り登山客を1日360人、宿泊客60人に制限するものであった。しかし6月21日本会議に先がけておこなわれた特別委員会で出席議員全員の反対で否決された。この背景には観光客倍増60万人を掲げ目先の利益に固執し続ける観光協会の影響が大きかった。否決前、「条例案に反対するよう求める」という屋久島観光協会ガイド部会の文書が全町議に送られていた。この動きを踏まえて、「屋久島は危機遺産になったほうがいい」という日本山岳会自然保護委員会世界自然遺産プロジェクトの意見表明まででた。また林野庁も登山者の増加やヤクシカの増加により、生態系や自然景観に影響を及ぼす恐れが出てきたことから管理計画の見直し、新しい計画案への意見公募を2012年1月27日に行った。2011年10月30日に行われた町長選挙で当選した荒木耕治は、当選後、入島料の導入に言及。11月13日に「自然資源の保護が、あらゆる政策に優先する」と所信表明。島の環境保全を目的に来島者から「入島料」を徴収する方針を決めた。早ければ2013年度に導入を目指す。豊かで多様な自然環境を舞台にして、登山・トレッキング・沢登り、カヤック・スキューバダイビングなど、多様なエコツアーが実施されている。一周を海に囲まれているが、海岸線は崖や磯になっている部分が多い。そのため、砂浜はごく僅かで、海水浴の為の施設は乏しい。遠浅で海水浴に適しているものとしては、島の北西部にあるアカウミガメ上陸・産卵数日本一で2005年にラムサール条約にも登録された永田浜(前浜・いなか浜)がある。運行本数は、種子島・屋久島交通が比較的多く、朝から夕方にわたり運行している。一方、まつばんだ交通バスは各路線の運行本数が非常に少ない。 "※運行本数・運賃・所要時間等の詳細は、公式サイト・観光協会サイトなどを参照。複数のレンタカー会社があり利用者も多いが、毎年のように事故が後を絶たない。西部林道と呼ばれる北西の道路は車同士がすれ違うのが困難な狭い道で、急カーブや急勾配が続くほか、雨の日には土砂崩れや数トンの落石などがあり通行止めとなることもある。なお、島内でのガソリン販売価格は、本土より数十円高くなっている。営業用ではないが、日本最後の森林鉄道(安房森林軌道)がある。軌道の一部に登山道との供用区間がある。ただし屋久島電工が管理・運行する区間は全線立入禁止となっている。

出典:wikipedia

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