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斎藤実

斎藤 実(さいとう まこと、旧字体:齋藤 實、1858年12月2日(安政5年10月27日) - 1936年(昭和11年)2月26日)は、日本の海軍軍人、政治家。階級は海軍大将。位階は従一位。勲等は大勲位。功級は功二級。爵位は子爵。出生時の名前は富五郎(とみごろう)といったが、海軍兵学校卒業後に改名した。号は皋水(こうすい)。第一次西園寺・第二次桂・第二次西園寺・第三次桂・第一次山本の5内閣で海軍大臣を務めた後、シーメンス汚職事件により大臣を引責辞任した。その後、ジュネーブ海軍軍縮会議の主席全権を務め、朝鮮総督を2期務めているあいだに、子爵の称号を受けた。犬養毅首相が海軍将校らによって殺害された五・一五事件のあとの第30代内閣総理大臣として、陸軍関東軍による満州事変など混迷した政局に対処し、満州国を認めなかった国際連盟を脱退しながらも、2年1か月という当時としては長い政権を保ったが、帝人事件での政府批判の高まりにより内閣総辞職した。その後内大臣となって宮中にまわったが、直後に二・二六事件で射殺された。仙台藩水沢城下(現在の岩手県奥州市水沢区)に、当地を地方知行により治めていた水沢伊達氏に仕える藩士・斎藤軍記(耕平)高庸の子として1858年(安政5年)に生まれた。幼名は富五郎。『子爵斎藤実伝』によれば、斎藤氏の始祖とされる斎宮頭藤原叙用の五世孫の竹田四郎頼基の子孫一族から鎌倉幕府の奉行人が多く出ている。斎藤又四郎基長が鎌倉陥落の後に奥州へ赴き留守氏(後の水沢伊達氏)の配下となり、留守氏の居城であった岩切城がある宮城郡岩切邑(現・宮城県仙台市宮城野区岩切)に居住したのが初祖とされている。1873年(明治6年)10月27日に海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に入学、1879年(明治12年)に卒業した(6期)。同期に山内万寿治、坂本俊篤がいて、「海軍の三秀才」と呼ばれた。1884年(明治17年)9月19日から1888年(明治21年)10月26日までアメリカ留学兼駐米公使館付駐在武官を務めた。1888年(明治24年)に帰国し、海軍参謀本部員、「秋津洲」、「厳島」艦長を歴任した。1896年(明治29年)11月6日に戦艦「富士」回航委員に任じられ、艦はスエズ運河を通航して1897年10月31日に横須賀に到着した。1898年(明治31年)11月10日に第1次大隈内閣の山本権兵衛海軍大臣の推挙により海軍次官に就任、艦政本部長を経て1906年に第1次西園寺内閣で海軍大臣を拝命し、第1次山本内閣まで8年間つとめた。1912年(大正元年)、海軍大将。1914年(大正3年)、シーメンス事件により海軍大臣を辞任し、予備役に編入された。1919年(大正8年)、武断政治が批判された陸軍大将長谷川好道に代わって、現役海軍大将に復して第3代朝鮮総督に就任、文化政治を推し進めた。同年9月2日に朝鮮の南大門駅(現 ソウル駅)において、独立運動派テロリストの姜宇奎に爆弾を投げつけられる暗殺未遂事件に遭遇している。ジュネーブ海軍軍縮会議全権委員、枢密顧問官への就任を経て1929年(昭和4年)に朝鮮総督に再任され1931年(昭和6年)まで務めた。1931年9月に陸軍関東軍により満州事変が勃発し、1932年(昭和7年)5月15日、総理大臣犬養毅が武装海軍青年将校らにより殺害されたことから(五・一五事件)、高橋是清が臨時の総理大臣を務めたが、その後の5月26日、シーメンス汚職事件で引責辞任した元海軍大臣、元朝鮮総督で子爵となった斎藤実が総理大臣兼外務大臣に就任した。なお、首相の犬養毅が殺害された直後、立憲政友会右派の森恪らは次期総裁及び次期首相候補として、右翼とつながりを有しナチズムやファシズム、共産主義などの外来思想を危険視していた司法官僚の平沼騏一郎を担ごうとしていたが、立憲政友会は鳩山一郎の義弟の鈴木喜三郎を総裁・首相候補に選出した。元老の西園寺公望も当初はまだ政党内閣を続けるつもりで鈴木喜三郎を推していたとされている。一方、犬養内閣の陸軍大臣だった荒木貞夫は西園寺に政党内閣を拒絶する意を伝えており、また、昭和天皇は、五・一五事件から右翼や過激な言動をする軍人に強い嫌悪感を持っており、次期首相は「ファッショに近い者は絶対に不可」と考えていたという。そこで元老の西園寺は、天皇の意向に応え軍からも反対されない候補として、朝鮮総督を経て子爵となっていた斎藤を首相に推したとされている。なお、西園寺はこの措置を一時的なものと考えていたが、9月には陸軍関東軍が満州事変を勃発させ、齊藤内閣は1932年に満州とのあいだに日満議定書を締結、1933年には満州国の独立を認めなかった国際連盟を脱退したため、「憲政の常道」とされていた政党内閣はこれ以降は、第二次世界大戦で敗戦しGHQに占領される1945年に至るまで、日本から姿を消すこととなった。斎藤は英語に堪能で、条約派に属する国際派の海軍軍人であり、粘り強い性格、強靭な体力、本音を明かさぬ慎重さが評価されていたという。また、齋藤内閣は立憲政友会と民政党の双方から大臣を迎えた挙国一致内閣(連立内閣)であり、経済恐慌に苦しむ農村の救済に一定の業績を上げ、国内政治の安定を最大の眼目に置いていたという。ただ齋藤内閣は外交問題では、軍部の要求に従い満州国を承認するなどして、軍部と決定的に対立することはなかった。そのことから陸軍将校の一部は、齋藤をリベラルであるとして嫌い、閣僚のスキャンダル暴きに従事した。1934年、時事新報が報じた汚職疑惑に始まった帝人事件では、大蔵次官ら16名が逮捕され、百十数人が収監された。同事件は、司法省下の裁判所の公判において全員が無罪判決という異例の経過をたどったことから、検察内の平沼騏一郎派、陸軍将校、立憲政友会右派らが仕組んだ陰謀であると見られている。しかし、この無罪判決によっても政権批判の世論が収まることはなく、齋藤内閣は7月8日、内閣総辞職した。その後内大臣に就任した斎藤は、天皇をたぶらかす重臣ブロックとして中堅、青年将校から目の敵にされ、二・二六事件において斎藤は殺害された。2月26日未明に坂井直中尉、高橋太郎少尉、安田優少尉に率いられた150名の兵士が重機4、軽機8、小銃、ピストルなどを持ち斎藤邸を二手に分かれて襲撃した。自室にいた斎藤は無抵抗で虐殺された。斎藤の遺体には47箇所の弾痕、数十の刀傷が残されていた。春子夫人は銃撃された際に斎藤の体に覆いかぶさり「私も撃ちなさい!」とさけび、斎藤の死を確認しようとする兵士の銃剣で負傷した。春子夫人はその後、長寿を全うし、1971年に98歳で逝去したが、最晩年に至るまで事件のことを鮮明に記憶し語っていたという。斎藤実の養子である斎藤斉(ひとし)の妻の弟であった作家の有馬頼義は、事件当日に隣家の義兄邸に宿泊していた。春子から話を聞いた有馬によると、兵士らはベッドの上にあぐらをかいていた斎藤に軽機関銃を発射し、ベッドから転げ落ちた死体に更に銃撃した。信任していた重臣らを殺害された昭和天皇は激怒し、反乱軍の鎮圧を命じた。二・二六事件の数日前、警視庁が斎藤に「陸軍の一部に不穏な動きがあるので、私邸に帰られないようにするか、私邸の警備を大幅に強化したらいかがでしょう」と言ってきた。二・二六事件は基本的には秘密裏におこなわれた計画だったが、それでも情報のいくらかは漏れており、警察は陸軍青年将校の一部が近々、何かの行動をおこすかもしれないと予想し、彼らの標的の筆頭格である齋藤に注意したのである。しかし斎藤は「気にすることはない。自分は別に殺されたってかまわんよ。殺されたっていいじゃないか」と落ち着いて答えたという。二・二六事件の前夜、斎藤は知日派のジョセフ・グルー駐日大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した。当初は中座して別荘に行く予定だったが、気心知れたグルーとの夕べに会話がはずみ、結局最後まで映画を観て夜遅く帰邸、別荘行きは翌日にした。もし齋藤が予定通りに東京を後にしていたら、事件の難を逃れることもできていたかもしれなかった。斎藤は小山崎斎藤墓地に埋葬された。昭和天皇は斎藤の葬儀に異例のお悔やみの言葉を遣わしている。生前の書簡、執務資料などは、岩手県奥州市水沢区の斎藤實記念館と、東京都千代田区永田町の国立国会図書館に分散して保存されている。

出典:wikipedia

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