東久邇宮 稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう、1887年(明治20年)12月3日 - 1990年(平成2年)1月20日)は、日本の旧皇族、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。位階は従二位。勲等は大勲位。功級は功一級。皇籍離脱後は東久邇 稔彦(ひがしくに なるひこ)を名乗った。世界連邦建設同盟(現世界連邦運動協会)名誉会長、第2代会長。貴族院議員、陸軍航空本部長(第10代)、防衛総司令官(第2代)、内閣総理大臣(第43代)、陸軍大臣(第34代)などを歴任した。千葉工業大学の創設者。父は久邇宮朝彦親王。香淳皇后(昭和天皇后)は姪、今上天皇は大甥に当たる。第二次世界大戦終結後の1945年(昭和20年)8月17日、敗戦の責任を取り辞職した鈴木貫太郎の後を継いで内閣総理大臣に就任、憲政史上最初で最後の皇族内閣を組閣した。東久邇宮は内閣総理大臣として、連合国に対する降伏文書の調印、陸海軍の解体、復員の処理を実施した。また、「新日本建設に向けて活発な言論と公正な世論に期待する」とし、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望を示した。その一方、昭和天皇への問責を阻止するため“一億総懺悔”を唱え、国内の混乱を収めようとするも自由化政策を巡るGHQと内務省による対立とGHQによる内政干渉に抵抗の意志を示すため、歴代内閣在任最短期間の54日で総辞職した。久邇宮朝彦親王の九男として1887年(明治20年)に誕生。学習院初等科の同期生に、有栖川宮栽仁王、北白川宮成久王、北白川宮輝久王(のちに臣籍降下し侯爵小松輝久)、朝香宮鳩彦王がいた。また、のちの小説家里見弴もいて親友となる。1906年(明治39年)に東久邇宮の宮号を賜り一家を立てた。内親王の降嫁先確保のための特例措置であった。陸軍に入り、1908年(明治41年)12月、陸軍士官学校(20期)、1914年(大正3年)11月、陸軍大学校(26期)を卒業。1915年(大正4年)に予定通り明治天皇の第9皇女泰宮聡子内親王と結婚。1920年(大正9年)から、1926年(大正15年)まで、フランスに留学。サン・シール陸軍士官学校で学び、卒業後はエコール・ポリテクニークで、政治、外交をはじめ広く学んだ。そして、後述するように、この留学時代、フランスの自由な気風に馴染み、クロード・モネやジョルジュ・クレマンソー、ジョゼフ・ジョフル元帥やフィリップ・ペタン元帥と親交を結んだり、自動車運転や現地恋人との生活を楽しんだ。この留学時代の影響から、皇室随一の自由主義的思想の持ち主として知られるようになる。留学の経験から欧米と日本の技術力差を感じた東久邇宮は、アジアの技術力の向上を目指し、興亜工業大学(1942年(昭和17年)設置、のちの千葉工業大学)の創設に尽力している。なお、同校はテクノクラートを養成するための理工系高等教育機関として、小原國芳らが唱えていた新教育を基礎とし、精神教育の面は日本の咸宜園・松下村塾等を手本とし、技術教育の面はヨーロッパ(フランス)のエコール・ポリテクニークを手本にして造られたといわれている。大正天皇の容態が思わしくなくなったという報がヨーロッパ遊学中の稔彦王に入ったが、稔彦王は息苦しい日本に戻るのを嫌い、一向に帰国の素振りを見せなかったため、日本で留守宅を守っていた妻の聡子内親王が「私の面目は丸つぶれである」と稔彦王お付きの者に送った手紙が現存している。留学の経験から大日本帝国陸軍の近代化案を提唱するようになる。帰国後、第二師団長・第四師団長・陸軍航空本部長を歴任。日中戦争では第二軍司令官として華北に駐留する。自身の自由主義的思想に基づいて、対中戦争の開戦及びその長期化、対米戦争突入にはきわめて批判的であった。そのような思想の持ち主でありながら、皇族・陸軍幹部というポジションにもいた東久邇宮は、和平派からはたびたび首班候補にあげられるようになる。1941年(昭和16年)8月5日、昭和天皇と会談した際、天皇は「軍部は統帥権の独立ということをいって、勝手なことをいって困る。ことに南部仏印進駐に当たって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、杉山参謀総長に、国際関係は悪化しないかときいたところ、杉山は、何ら各国に影響することはない、作戦上必要だから進駐いたしますというので、仕方なく許可したが、進駐後、英米は資産凍結令を出し、国際関係は杉山の話とは反対に、非常に日本に不利になった。陸軍は作戦、作戦とばかり言って、どうも本当のことを自分にいわないので困る」と宮に述べた。これに対し、宮は「現在の制度(大日本帝国憲法)では、陛下は大元帥で陸海軍を統帥しているのだから、このたびの仏印進駐について、陛下がいけないとお考えになったのなら、お許しにならなければいいと思います。たとえ参謀総長とか陸軍大臣が作戦上必要といっても、陛下が全般の関係上よくないとお考えになったら、お許しにならないほうがよい」と、立憲君主の枠を越してでも天皇の大権によって陸軍の暴走を食い止めた方が良いと助言したという。しかし、英国訪問時に感銘を受けた立憲君主制への拘りは強く、昭和天皇に宮の助言は届かなかったという。日米開戦直前の1941年(昭和16年)10月、第3次近衛内閣総辞職を受け、後継首相に名が挙がった。皇族であり対米戦争回避派である東久邇宮を首相にして内外の危機を押さえようとする構想で、日米交渉妥結を志向する近衛文麿、広田弘毅、海軍ら穏健派以外にも、強硬派の東條英機も東久邇宮が陸軍出身であることから賛成した。しかし皇室に累を及ぼさぬようにということで木戸幸一内大臣の反対によりこの構想は潰れ、東條英機が首相に抜擢された。日中の和平を説き、太平洋戦争前夜には悪化する日本の外交関係を改善させるため、政治・外交・報道・軍など、各方面の有力者を招きいれ、戦争回避の糸口を模索するも開戦に至る。1941年(昭和16年)9月には頭山満に蒋介石との和平会談を試みるよう依頼し、蒋介石からも前向きな返事を受け取るが、新しく首相に就任した東條英機に「勝手なことをしてもらっては困る」と拒絶され、会談は幻となった(自著『私の記録』)。1942年(昭和17年)の元日、参内して祝賀の挨拶をした際、昭和天皇から開戦直前の1941年(昭和16年)11月30日に高松宮宣仁親王との間で起きた出来事を打ち明けられ、海軍の実情をはじめて知ることになる。これを受け、日本の先行きに対し一層不安を覚えたとしている。太平洋戦争時は防衛総司令官・陸軍大将に就く。大戦中は海軍の高松宮宣仁親王と共に大戦終結のために奔走した。大戦末期に起きた宮城事件では、鈴木貫太郎首相らと同様、断固交戦を唱える「国民神風隊」によって私邸を焼き討ちされている(宮城事件)。ポツダム宣言受諾(降伏予告)の3日後に当たる1945年8月17日に、東久邇宮が内閣総理大臣に任命された。日本の降伏予告に納得しない陸軍の武装を解き、ポツダム宣言に基づく終戦にともなう手続を円滑に進めるためには、皇族であり陸軍大将でもあった東久邇宮がふさわしいと考えられたためであり、昭和天皇もこれを了承した。東久邇宮は最初、総理拝命を固辞しようと考えていたが、敗戦にやつれた天皇に懇願されて意思を変えたという。副総理格の国務大臣(無任所)には国民的に人気が高かった近衛文麿、外務大臣には重光葵、大蔵大臣には津島寿一、内閣書記官長兼情報局総裁には緒方竹虎が任命された。また海軍大臣には米内光政元首相が留任している。なお重光が占領軍と対立して外相を辞職した九月半ばに、後任外相として吉田茂を任命している。吉田にとって東久邇宮内閣の外相が政治家としての正式なデビューであった。陸軍大臣は任命が内定していた下村定陸軍大将が帰国するまでの間(8月17日-23日)東久邇宮が兼任した。新聞やニュース映画では、この皇族出身の首相を「東久邇総理大臣宮(ひがしくにそうりだいじんのみや)」あるいは「東久邇首相宮(ひがしくにしゅしょうのみや)」と呼んだ。日本の降伏が告知されたものの、依然として陸海軍は内外に展開しており、東久邇宮内閣の第一の仕事は連合国の求める日本軍の武装解除であった。この目的のため、東久邇宮は日本領や占領地に皇族を勅使として派遣し、現地師団の説得に当たらせている。また、連合国による占領統治の開始が滞りなく行われるように、受け入れ準備に万全を期すことも重要な任務としてこれを達成した。9月2日には東京湾沖のミズーリ号上で日本の降伏文書に調印がされ、正式に太平洋戦争(大東亜戦争)は終結した。東久邇宮は8月17日におこなわれた日本人記者団との初の記者会見において、国体護持の方針、敗戦の原因論に触れるとともに、「国民の道義のすたれたのも原因のひとつ」であり、「軍・官・民・国民全体が徹底的に反省し懺悔し」なければならず「全国民総懺悔をすることがわが国再建の第一歩」であると述べた。9月5日に国会で行われた施政方針演説においても次の様に発言した。このいわゆる「一億総懺悔論」発言は、国家政策の誤りを認めるとともに、国民の道義的責任についても言及するものだった。その発言は、戦争責任の所在を曖昧にするための理論だとして国民の間で反発を招く一方、問題への関心を高めた。すでに敗戦直前の時期に内閣情報局から各マスコミに対して「終戦後も、開戦及び戦争責任の追及などは全く不毛で非生産的であるので、許さない」との通達がなされていた。また、敗戦後に各省庁は、占領軍により戦争責任追及の証拠として押収されるのを防ぐため、積極的・組織的に関係書類の焼却・廃棄を行っている。9月12日の終戦処理会議においては、戦争犯罪に関して日本による自主的な裁判をおこなうことが決められた。一方でGHQは、指導命令・新聞発行停止命令などを用いて「一億総懺悔論」の伸張を抑え、日本の戦争犯罪を当時の政府・軍のトップに負わせることを明確にすべく極東国際軍事裁判の準備にとりかかっている。東久邇宮首相は、新日本の建設に向けて活発な言論と公正な世論に期待するとし、政治犯の釈放や言論・集会・結社の自由容認の方針を組閣直後に明らかにし、選挙法の改正と総選挙の実施の展望も示した。しかしながら、政治犯釈放は共産主義革命を憂慮した内務省と司法省の反対により実現しなかった。内務省は、モーニングコートを着た「現人神」の昭和天皇が、略装の軍服を着たマッカーサーと並び立っている会見写真の公表を阻止するために、内務大臣の権限で記事掲載制限及び差止め措置(発禁処分)を実施し、東久邇宮も同意したが、GHQは日本政府に対して会見写真の公表を迫り、これに従わない場合は山崎巌内務大臣を逮捕して軍事裁判にかけ、内閣には総辞職を命じるとの通告を行った。これを受けて、山崎巌内務大臣は発禁処分を撤回した。GHQは10月4日に「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去の件(覚書)」(人権指令)を指令し、治安維持法などの国体及び日本政府に対する自由な討議を阻害する法律の撤廃、特別高等警察の廃止、内務大臣以下、警保局長、警視総監、都道府県警察部長、特高課長などの一斉罷免を求めた。なお、この時点では共産主義者の開放は行われていなかったが(徳田球一は東久邇宮の総辞職5日後の10月10日に府中刑務所を訪れたフランス人ジャーナリストのロベール・ギランによって発見され出獄)、東久邇宮と副総理の緒方は対応を協議し、GHQの指令の不合理に対する抗議の意思を明らかにするために辞職するとの結論に至り、翌日内閣総辞職した。1945年(昭和20年)11月11日、東久邇宮稔彦王は「敗戦の責任を取るため」として、皇族の身分を離れる意向であることを表明、賀陽宮恒憲王などがこれに同調した。1946年2月に東久邇宮は、「宮内庁の某高官」として、昭和天皇が自身の戦争責任をとるため退位する意思があること、これへの賛同者は天皇が「道徳的、精神的な責任」があると考えていることをAP通信記者に述べている。東久邇宮は早くから天皇退位が必要であると考えていたとみられる。既に戦犯裁判における昭和天皇免責を決定していたGHQでは、退位論の進展が天皇の責任問題につながりかねないとして警戒し、日本政府および宮中と連絡してこれに対応した。1947年(昭和22年)10月14日、稔彦王も11宮家51名の皇族のひとりとして皇籍を離脱し、以後は東久邇稔彦(ひがしくに なるひこ)と名乗った。公職追放を受け、その後の生涯は波乱に満ちたものであった。最初に新宿西口に闇市の食料品店を開店したが売上が全く伸びず、その後も喫茶店の営業や宮家所蔵の骨董品の販売などを行ったがいずれも長続きしなかった。その理由は東久邇宮本人が曲がった事が大嫌いで、闇市で商売をしているにもかかわらず、他の商店とは異なり、正規品を正規のままの値段で取扱い、一切不正をしなかったことが原因だった。回想録によると宮は、貧しかったが国民と共に必死に働いたことではじめて国民生活を知り、充実した人生を送れたと語っている。1948年には、尾崎行雄、賀川豊彦、下中弥三郎、湯川秀樹と共に「世界連邦建設同盟」(現世界連邦運動協会)を創設した。1950年(昭和25年)4月15日に禅宗系の新宗教団体「ひがしくに教」を開教したが、同年6月、元皇族が宗教団体を興すことには問題があるとして法務府から「ひがしくに教」の教名使用の禁止を通告された。また、東京都からも宗教法人として認可されなかった。このため、任意団体のまま実質解散となった。その後もいろいろな事業を行なうものの、いずれも成功はしなかった。同1950年フリーメイソンに入会(=initiated)。1957年6月、東京の友愛ロッジにて「メイソン」になる。1960年(昭和35年)、六十年安保闘争をめぐる騒動で、石橋湛山、片山哲とともに三元首相の連名で時の首相の岸信介に退陣を勧告。1964年(昭和39年)4月29日、菊紋の銀杯一組を賜る。1971年(昭和46年)には桟勝正が創設した日本文化振興会の初代総裁になる。1979年(昭和54年)、聡子夫人と死別。同年暮れ頃から、「東久邇の妻」を自称する女性がいるとの噂があったため戸籍を調べたところ、知らぬ間に入籍されていたことが判明。「東久邇紫香」と名乗る女性(増田きぬ)を相手取り、結婚無効の調停を起こした。調停が不調であったため民事裁判となったが、一審判決は婚姻は有効、高裁判決は無効とし、1987年(昭和62年)最高裁が上告を棄却したため婚姻の無効が確定した。1990年(平成2年)1月20日に102歳で死去。従二位に叙せられ、特例として豊島岡墓地に葬られる。
出典:wikipedia
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