広島東洋カープ(ひろしまとうようカープ、)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。広島県を保護地域とし、同県広島市南区にあるMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島を専用球場(本拠地)としている。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は山口県岩国市にある広島東洋カープ由宇練習場である。特定の親会社を持たない市民球団を源流とする、他球団と比較して特異な歴史を有する。地元・広島の自動車メーカーであるマツダが球団の3分の1以上の株式を保有する筆頭株主であり、球団名の「東洋」もマツダの旧社名「東洋工業」に由来する。ただし、マツダは広島東洋カープを「持分法を適用していない非連結子会社」と位置づけており親会社としての球団への資金提供(赤字補填など)など球団経営への積極関与は行っていない。その一方で、マツダ創業家である松田家一族の所有株式を全て合わせるとマツダの所有比率を上回り、議決権ベースでは過半数に達する。歴代のオーナーも松田家から出ていることから、実質的には同族経営を行っているという見方もある。市民が直接株式を保有するという意味での市民球団ではないが、特定の企業に全面依存せずに経営を成り立たせているという意味では今なお市民球団のイメージを有する。戦後の野球の隆盛をもとにした正力松太郎のリーグ拡張方針を受け、9月20日、中国新聞社は「広島に広島出身者だけで1チームつくろう」と、原爆による壊滅的被害からの復興を目指したプロ野球球団結成の動きを報じる。正力の二リーグ構想の前から広島に球団を作ろうという構想は存在していた。広島は戦前から広島商や広陵高といった名門校があり、鶴岡一人や白石勝巳などの名選手が輩出した野球どころという下地があった。そこへ正力の構想が公になったことで、中国新聞社東京支社長・河口豪と広島県出身の元内務省官僚・谷川昇が中心となり、広島球団創設の機運が高まった。河口は戦後、2リーグ構想の発表より前に広島でプロ野球の興行を手掛けた経験があり、谷川は野球とは無縁だったが、同郷で戦前に金鯱軍の理事だった山口勲に助力を要請されたのが契機であった。河口と谷川を中心に「広島野球倶楽部」を設立、広島市を流れる太田川は鯉の産地、しかも原爆で焼け落ちた広島城は“鯉城”とも呼ばれていたため、9月28日に球団名を「広島カープ (Hiroshima Carp)」と決定し、日本野球連盟に加盟を申請した。発起人代表は谷川昇、築藤鞆一(中国新聞社代表取締役)、伊藤信之(広島電鉄専務)の3名。11月28日に谷川は巨人軍代表と会見し、正式にセ・リーグ参加承認の通知を受けた。これを受けて帰広した谷川と、伊藤、山本正房(中国新聞社専務)の3名による首脳会談が12月3日に行われ、初代監督に石本秀一をすることが決定、石本も快諾した。本拠地は広島総合球場とした。核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく、12月5日に広島商工会議所で開かれた球団発会式に参加し石本は、この時点で契約選手が1人もいない事実を知った。球団幹部にはプロ野球に関わった者は皆無だったため、選手集めは監督・石本の人脈に頼る他なかった。石本は既に引退した選手や以前の教え子まで声をかけ、12月29日、投手では内藤幸三、野手では白石勝巳、岩本章ら23人を入団選手として発表した。1月15日、西練兵場跡(現在は広島県庁一帯)でチーム結成披露式が行われ、ファン約1万人が押し寄せた。この日は辻井弘ら7名の追加選手を発表している。翌16日には広島総合球場で新人採用テストが行われ、この中にいた長谷川良平は即座に石本監督の目に止まり、21日に選手契約を結んでいる。3月10日に福岡市の平和台野球場でセ・リーグ開幕戦が行われ、西日本パイレーツとのこの年から加盟の球団同士の公式戦初試合となったが、5対6で敗れている。3月14日の国鉄戦で打線が奮起して16-1と球団初勝利を挙げたものの、その後チームは著しく低迷する。11月13日の大洋とのダブルヘッダーで共に敗れ13連敗を記録するなどたるチーム状況で、この年優勝した松竹ロビンスには59ゲーム差をつけられた8位(最下位)に沈んだ。さらに勝率3割に到達できなかったチームは両リーグ通じて広島だけ(勝率.299)だった。白石勝巳が遊撃手としてベストナインを受賞した。この当時は試合で得た入場料(1試合あたり20万円)を開催地に関係なく、勝ったチームに7割、敗れたチームに3割配分していた。そのため当初1100万円を見込んでいた入場料収入はチーム成績に比例して落ち込み、5月の時点で早くも選手に支払う給料の遅配が発生している。2軍選手にいたっては給料が支払われたのは4月のみだった。さらに資本金調達については、県民から株式を公募する他、広島県や県内各市からの出資を見込んだ計画であったが、各自治体の予算執行が次年度に持ち越されたため、当初2,500万円を予定していた資本金は1950年4月の時点でわずかに600万円しかなかった。5月以降、ようやく各自治体からの出資が相次いだものの、最終的に予定額2,000万円の半分しか集まらなかった。6月25日、セリーグ連盟は加盟金300万円の支払いを求めてきたが、これに応じることができなかったため、やむを得ず経営合理化策として給料の支払いが滞っていた2軍選手全員を汽車賃だけ渡して郷里に帰らせている。さらに7月12日に竹原市出身の池田勇人大蔵大臣に「後援会会長」の名目で球団幹部に就任してもらうことで、ようやく連盟からの督促を回避した。12月7日、カープ選手会は球団に対して「給料の遅配を解消すること」を旨とした要望書を提出し、受け入れられない場合は全選手退団も辞さないと通告した。これに対して12月26日、球団側は12月分の給料支払いとチーム再建策を選手会に提示し、ようやく選手会も了承した。2月分の給料や合宿費が支払えず、3月16日から甲子園で開催予定であった準公式トーナメント大会の遠征費も捻出できないほど経済的に追い詰められる。選手達は「甲子園まで歩いていこう」と意気盛んだったが、3月に球団社長の檜山袖四郎、球団代表代理の河口豪(中国新聞東京支社)、大平正芳(後援会会長・池田勇人の代理)はセリーグ連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない」「早急に身売りしてはどうか」と厳しい叱責を受けた結果、3月14日、広島市の天城旅館で行われた役員会で当時下関市にチームがあった大洋との合併が決まった。しかし報告を受けるために後から役員会に参加した石本監督らの説得で合併方針は撤回され、ファンに協力を求め危機打開を図ることになった。3月15日、ナインは急行「安芸」で準公式トーナメント大会に無事出発。3月23日、鈴木竜二セ・リーグ顧問と河口豪球団代表代理との会談でチーム存続が正式決定している。球団の資金難を救うべく甲子園から帰広した石本監督は3月20日、広島県庁前で資金集めの後援会構想を発表する。これらの事情から、この年の広島の公式戦の開幕は他より9日遅れて、4月7日の広島での対阪神戦となった。石本監督はシーズン中も試合の采配は助監督の白石に任せて、自身は球団の苦境を訴えるべく広島県内各地の公民館、学校を回り辻説法、さらには中国新聞に資金調達の必要性を訴える投稿を続けた。その結果、7月29日の国鉄戦直前にセレモニーが開かれ、石本が構想したカープ後援会は正式に発足した。この時、既にカープ後援会は1万3千人の会員数に達しており、その結果、年末までに400万円(当時)を集めている。この一件は、通称昭和の樽募金と呼ばれ、2001年5月1日放送のNHK『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた。しかし、シーズン途中に前年度クリーンナップとしてチーム最多の21本塁打・72打点を記録した樋笠一夫が契約でもめ、巨人に移籍してしまうなど、前年に引き続きペナントレースは苦戦を続け、チーム成績は2年連続の最下位に終わった。この年は西日本パイレーツがパ・リーグの西鉄クリッパースに吸収合併されたことで、7球団による20回総当り戦の120試合だったが、秋にアメリカ選抜チームの来日(日米野球)があったため順位決定後の試合は全て打ち切られた。特に広島は最下位決定の後、一番多い21試合が打ち切られ99試合しか消化出来なかった。12月25日には、エースの長谷川良平が自由契約選手として名古屋ドラゴンズへの移籍を表明する。これは当時、12月15日までに球団は選手に対して、契約更改を書類で申し込む規則になっていたのだが、印刷会社の手違いにより、名古屋に里帰りしていた長谷川には、期日までに書類が届かなかったことに端を発する。だが翌年3月10日のコミッショナー裁定により長谷川の広島復帰が決まっている。開幕前、同年のシーズン勝率3割を切った球団には処罰を下すという取り決めがリーグの代表者会議でなされた。これには、奇数(7球団)による日程の組みにくさを解消するため、下位の球団を整理する意図が含まれており、設立より2年連続最下位だった広島は処罰の最有力候補だった。こうして迎えた1952年シーズン、開幕試合(3月21日)の松竹戦は3-1で勝利して幸先良いスタートを切ったものの、3月23日の同じく松竹戦から7連敗、5月15日の巨人戦から7連敗、さらに7月15日の大洋戦からは8連敗を喫して、7月27日の時点で13勝46敗2分(勝率.220)と最下位に沈んでいた。だが、そこから選手が奮起し、残り試合を24勝34敗1分で乗り切り、シーズン勝率.316(37勝80敗3分)を達成、処罰を免れた。長谷川良平と杉浦竜太郎の2人でチーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)を稼ぎ、さらに杉浦は防御率でセ・リーグ9位に入ったが、これは球団として初の投手ベスト10入りとなった。なお、この年からフランチャイズ制が導入されており、勝敗に関係なく興行収入の6割が主催チームに入ることになった。これにより広島で圧倒的な人気を誇ったカープは、球団収入の安定化に目途が立つことになった。10月15日、後援会が「松竹の小鶴・金山らを広島へ」を合言葉に1,000万円募金を行うことを決定する。またこれら動きとは別に、シーズン終了後の代表者会議で勝率3割を割った松竹に合併を申し入れたが拒否されている(最終的には松竹ロビンスは大洋ホエールズと合併して大洋松竹ロビンスとなった)。松竹から赤嶺昌志一派(小鶴誠・金山次郎・三村勲)が集団で移籍した。小鶴は3月1日の午前2時48分に広島駅に到着したが、既に200人のファンが待ち構えており、小鶴をトランペットで盛大に祝っている。小鶴・金山に続いて外国人選手を獲得するため、後援会は更に400万円を集め、その結果、日系二世選手である銭村兄弟(銭村健三・銭村健四)・光吉勉が入団した。6月19日に銭村らは広島入りしたが、その際に盛大なパレードが挙行され、10万人の歓迎で市中を紙吹雪が舞った。さらにオールスターのファン投票では、長谷川良平、小鶴誠、白石勝巳の3選手が選出。競争になれば大都市には敵わないため、後援会会員は投票最終日に一斉投票を行っており、「集団投票事件」などと批判を浴びた。なお5月1日、球団役員会にて、球団と後援会を1本化し、石本監督は「総監督兼常務取締役」として球団運営に専念し、助監督の白石が選手兼任で監督に昇格することが決定。5月3日の国鉄戦が石本の最後の指揮となった(試合は7-1で勝利)。また、1952年から53年はユニフォームは胸に「HIROSHIMA」と書かれた1種類だけだった。このユニフォームは大下回春堂(フマキラー)から提供されていたため、この2年間のユニフォームには左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。この年はチームの若返りを図り、前年から7人が退団し、新たに19人が入団している。また、発足したばかりの新日本リーグに、二軍(広島グリーンズ)が参加した。この頃になると、給料の遅配はなくなったように球団の財政事情は明るくなってきたものの、首脳陣は監督の白石以外にコーチがおらず、シーズンオフには白石が選手をスカウトしたり、キャンプでは白石自ら外野でボールの球拾いという状況であった。新婚旅行のため来日していたジョー・ディマジオとマリリン・モンロー夫妻が2月11日広島入りし、広島に4日間滞在。宮島口(現:廿日市市)の一茶苑と広島市内の三瀧荘に宿泊し、広島平和記念公園やABCC(現:放射線影響研究所)などを訪問。12日から2日間にわたり、ディマジオ、ボビーブラウン、フランク・オドールが広島県総合球場でカープナインに野球指導を行った。シーズンは、開幕試合の4月3日中日戦から7連敗を喫する最悪のスタートとなったものの、9月22日、23日の巨人戦で3連勝するなど後半戦は追い上げて、4位(56勝69敗5分)を確保した。この年から、助監督に門前真佐人、2軍監督に野崎泰一が就任する。2月28日、カープ産みの親、谷川昇が衆議院選挙当選の報を聞きながら、脳出血のため急逝する。3月11日、入団したばかりの日系2世平山智が広島入りし、市内パレードに10万人が押し寄せる。シーズンは4位(58勝70敗2分)を確保し、長谷川良平が30勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得した。また、この年は球団創設以来の「広島野球倶楽部」の負債が5,635万円まで達してしまい、もはや後援会の手にも負えなくなってしまった。そこで東洋工業社長の松田恒次の提案により、負債を帳消しにするため「広島野球倶楽部」を倒産させて、新たに地元財界の協力を得た新会社を設立することが決定。12月17日、広島野球倶楽部は臨時株主総会を開き、「発展的解消」を決議する。同日、中国新聞東京支社にいた球団代表の河口豪はスポーツ紙記者から「広島からカープは解散したと通信があったが事実か」と問われた際、「そんなバカげたことはない。新球場の設計が9分どおり出来ているのに解散はありえない」と芝居を打って広島市民球場 (初代)の設計図を公表している。その結果、12月19日の第1回新会社発起人会を経て「株式会社広島カープ」(初代社長は広島電鉄の伊藤信之)が発足した。資本金は500万円(東洋工業、広島電鉄、中国新聞社など13社が出資)。なお、セ・パ両リーグ理事会では「広島野球倶楽部解散により、選手の拘束力は無くなり彼らは自由契約になった(他球団が獲得できるようになった)」、「新会社はリーグ加盟金を支払い直すべき」とパ・リーグから非難の声が上がるが、河口は既にセ・リーグ会長の鈴木竜二と話をつけており、またセ・リーグ理事は6人中4人が河口と同様に新聞出身者であり同情的であったことから、最終的に「会社の名称変更にすぎない」と押し切っている。開幕から4連敗を喫するなど序盤戦から低迷し、5位(45勝82敗3分)に終わる。5月20日、広島総合球場で開催された対読売ジャイアンツ戦で木戸美摸投手負傷事件が起こる。7月17日、地元政官界の六者会談を経て、広島市民球場 (初代)の建設地が「旧二部隊営庭跡地」(現在の広島電鉄原爆ドーム前停留場横)に正式決定する。1月14日、地元10社が広島市民球場の建設資金1億6千万円の寄付を広島市に申し入れ、2月22日に「旧二部隊営庭跡地」にて、新球場起工式が行われる。7月22日、広島市民球場の完工式が行われ、引き続いて行われた点灯式にはファン1万5千人が詰めかける。7月24日に行われた新球場開幕試合の阪神戦では、初ナイターで集まった大観衆を前にして、緊張のため選手が皆固くなってしまい1-15で大敗している。シーズンは、白石監督の「闘志無き者は去れ」のスローガンの元、キャンプから猛練習を行った成果が出て、オールスター戦までは32勝26敗と健闘したものの、後半に入って失速し、最終的には54勝75敗1分の5位に終わっている。広島市民球場が完成した結果、観客動員数が大幅増となり球団財政にゆとりが出来たこともあって大補強を敢行する。その結果、古葉毅、森永勝治、小坂佳隆、鵜狩道夫、拝藤宣雄、大和田明ら、1960年代のチームを支える人材が一斉入団した。一方で「立教三羽烏」とうたわれた長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾の獲得にも動いたが、彼らは入団の意志は見せなかった。また、1950年の灰島元章以来、8年ぶりにコーチを置いた(ヘッドコーチに門前真佐人、コーチに野崎泰一、藤村隆男)。7月10日には、総工費1,700万円をかけた自前の選手寮「三省寮」が完成する。同月29日には、広島では初となるオールスター戦が開かれた。シーズンは、4月8日の中日戦から6連敗、同月24日の阪神戦から10連敗を喫するなど前半戦の不調がたたって、5位(54勝68敗8分)に終わった。シーズン終了後の12月26日、小鶴誠がチーム若返り策により引退を表明する。この年は、新人とトレードを合わせて19人もの補強を敢行する。その結果、チームの平均年齢が21.9歳と、当時12球団で最も若いチームとなった。また広島市民球場(初代)で行われた春のキャンプでは、球団初のピッチングマシンを導入している。2月19日、新しい球団旗を発表。この球団旗は以降、変更されていない。5月7日の対阪神タイガース戦で球団通算500勝を達成。8月には二軍がウエスタン・リーグ初優勝達成。シーズンは、前年に引き続き5位に終わったものの、勝敗は59勝64敗7分であり、勝率.481は過去最高であった。主軸に座った大和田明は、樋笠一夫の持つ球団記録21本塁打を塗り替える23本塁打を放っている。またこの年の観客動員数は862,965人と、12球団中、巨人に次ぐ2位の集客力を見せた。1月11日、河口豪球団代表が辞任、後任は山本正房中国新聞社社長。この年、球団創設11年目で初めてシーズンで巨人に勝ち越し(17勝8敗1分)、勝率も5割台を達成(62勝61敗7分)する。大石清が球団3人目となるシーズン20勝超え(26勝13敗)し、興津立雄は打率2割6分8厘・21本塁打・64打点の成績を残してチーム3冠王となった。1953年以来7年間指揮をとった白石監督はシーズン終了直後の10月6日に、「チームの地固めは出来た」として退任を発表。門前眞佐人が監督を務めたが、いずれのシーズンも勝率5割を割り辞任。1962年、前年に現役を引退した上田利治がコーチに就任。専任コーチとしては日本プロ野球史上最年少の25歳で就任している。しかし、シーズン後、当時の監督である根本陸夫とチーム強化の方針をめぐっての意見の対立から退団している。門前眞佐人に代わる新監督として小鶴誠を招聘しようとするが球団役員の意志統一が出来なかったため、球団社長:伊藤信之が辞任。後任に東洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次が就任し、白石勝巳が再び監督となる。5月5日の対巨人戦(後楽園)において、巨人の王貞治を抑え込む作戦として白石監督考案の王シフトが初めて使われる。5月1日、対大洋戦(川崎)に勝利し、球団初の単独首位に立つが、翌日には首位陥落で一日天下に終わり、このシーズンは首位巨人と31ゲーム差の5位で終わる。6月5日、広島総合球場で開催された対阪神戦で山本一義が死球を受けたため一部のファンが暴徒化。一塁側内野席から投げられたウイスキー瓶が右翼線審の額に当たり全治10日の怪我を負う事件が発生。そのため一塁側応援団の応援を一時見合わせる措置をとった。1963年から1965年7月まで、白石が2度目の監督を担当、1965年7月からは長谷川良平が監督を務めた。東洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次が筆頭株主となりオーナーに就任。松田耕平がオーナー代行に就任。球団名を広島東洋カープに改称。市民球団としての体裁を保ちつつも、東洋工業をメインスポンサーとする松田家私有の同族経営球団となる。根本陸夫が監督に就任。根本はトレードでベテランの山内一弘を獲得する。大打者であった山内を選手たちに見せることで、チームを活性化させるのが狙いだった。阪神との開幕3連戦に連勝し首位でスタートするも、5月に7連敗で一時3位に転落。しかし6月には首位に返り咲き、7月初めまで守った。外木場義郎・安仁屋宗八両投手、野手では山内の活躍もあって3位となり、球団創立19年目にして初のAクラス入りを果たした。球団創立1年目(1950年)から1967年までの18年連続Bクラスは、当時の日本記録で、現在でもセ・リーグワースト記録。前年とは一転し、最下位に終わる。根本時代は、当時巨人がV9時代を迎えていることもあり、成績こそ振るわなかったが、投手で外木場義郎、打者では衣笠祥雄と山本浩二のYK砲に水谷実雄ら、後の「赤ヘル軍団」フィーバーを巻き起こし中核を成した選手の台頭を促した。1970年と翌1971年は2年連続でシーズンを勝ち越し4位と健闘。1970年10月19日より衣笠祥雄の連続試合出場が始まっている。11月15日に松田恒次オーナーが死去、後任オーナーには、オーナー代行の松田耕平が就任。1972年、開幕から不振が続いて根本はシーズン途中で監督を休養、森永勝也打撃コーチが代行を務める。この年は、最下位に終わる。別当薫が監督に就任する。開幕から6月頃までは大洋とともに首位争いの主導権を握り、前半戦こそ2位で折り返したが後半戦は急失速し最下位。しかし、結果的にリーグ優勝しV9を達成した巨人と最下位の広島までのゲーム差が6という大混戦だった。1974年は、チームは最下位に終わるも金城基泰が最多勝・最多奪三振を獲得。しかし、10月12日に交通事故に遭い、あわや失明の重傷を負う。同年オフ、監督・森永勝也の退団および打撃コーチ・ジョー・ルーツの次期監督就任を発表。1958年に胸ロゴが赤い縁取りとなったユニフォームを着用していたが、1973年に、ユニフォームがニット式のベルトレスに変更され、胸文字・胸番号・背番号に赤の縁取り、袖・腰・ストッキングに赤色のラインが入る。この「赤」は、後にチームカラーとなる。球団初の外国人監督として、ジョー・ルーツが監督に就任。「野球に対する情熱を前面に出そう」というスローガンの元、燃える闘志を表す意味をこめて球団に赤を基調とする新ユニフォームを提案するが、既にシーズン用のユニフォームは出来上がっており変更可能な帽子・ヘルメットの色だけ紺色から赤になった。しかし開幕早々の4月27日の対阪神戦において佐伯和司の投球判定を巡って猛抗議、試合のボイコットを起こす騒動となった。この時、重松良典球団代表が試合続行を支持したため、試合中の介入に不満を持ったルーツは4月30日に監督辞任、5月2日までの代行にコーチの野崎泰一が就き、翌5月3日古葉竹識がコーチから監督に就任。この年のオールスターゲームの第1戦(甲子園)では山本浩二と衣笠祥雄が共に1試合2本塁打を記録するなど、「赤ヘル旋風」を巻き起こした。中日と阪神と熾烈な優勝争いの末、10月15日の巨人戦(後楽園)に勝利し、球団創立25年目で初優勝達成した。この時の先発は外木場義郎で、ウイニングボールを捕ったのはレフトの水谷。。結果的に2位中日と4.5ゲーム差、3位阪神と6ゲーム差と大混戦だった。日本シリーズでは阪急ブレーブスと対戦するも4敗2分で敗退。この年の首位打者となった山本浩二や衣笠祥雄、最多勝の外木場義郎、盗塁王の大下剛史らの活躍が目立った。優勝後、平和大通りで行われた優勝パレードではファン約30万人を集めた。この年の観客動員は120万人で、球団史上初めて100万人を突破した。またこの年は春に山陽新幹線が岡山駅から博多駅まで延伸開業し、チームの遠征時の列車乗車時間が大幅に短縮された。これを振り返って、外木場は「カープが優勝できたのは新幹線のおかげ」とも語っている。経営面では創設以来の累積赤字をこの年解消している。池谷公二郎が20勝を挙げ最多勝と沢村賞。巨人・阪神との優勝争いに加われず当初は山本浩二の不振もあって低迷。最後はかろうじて3位に。5位に終わった。胸文字・胸番号・背番号・アンダーシャツ・ストッキングが赤一色になり、この年から“カープ=赤”が定着する。12月23日、江夏豊が南海ホークスより移籍。高橋里が20勝。3年連続同一チームから最多勝投手を輩出。セでは以降なし。一方前年の最多勝池谷投手はシーズン最多被本塁打48(歴代1位)の記録も。カープ打線が最も破壊力を発揮したシーズンで、この年のチーム205本塁打は日本プロ野球記録を更新。44本の山本浩二や、40本のヘンリー・ギャレット、33本のジム・ライトル、30本の衣笠祥雄など4人が30本以上を記録した。また打点692、得点713は、ラビットボールを使用して本塁打の増えたからを除いてのプロ野球最多得点であった。しかし前半戦は苦戦が続き、首位巨人に10.5ゲーム差をつけられ、5位に沈む。後半戦は投打がかみ合い、31勝13敗7分と驚異的な追い上げを見せるも、巨人を逆転して優勝したヤクルトスワローズと5ゲーム差で、何とか3位を確保するにとどまった。開幕前から独走が予想されたが、開幕は4連敗スタート、序盤は苦戦が続いた。しかし、衣笠の死球による亀裂骨折や、高橋慶彦の33試合連続安打でチームに勢いが付き、8月になり一気に首位に立つと4年ぶり2度目のリーグ制覇。日本シリーズでは、近鉄バファローズを4勝3敗で下し、悲願の日本一を達成する。第7戦では、江夏がノーアウト満塁という絶体絶命の場面を無失点で切り抜け日本一に導く(江夏の21球)。この年は前年とは打って変わり序盤から首位を独走し続け、2位以下に大差をつけて球団初の連覇を達成。勢いそのままに、近鉄を4勝3敗で下し、日本シリーズ2連覇を成し遂げた。同年オフ、江夏豊と日本ハムのエース高橋直樹との大型トレードが成立。この年は、序盤から苦戦が続き、期待の高橋直樹がわずか2勝、一時は最下位に沈むなど、8月終了時点で46勝48敗6分の4位と、首位巨人に12.5ゲーム差をつけられる。9月に15勝3敗と驚異的な追い上げを見せるも、優勝した巨人と6ゲーム差の2位に終わり、3連覇を逃す。山本が無冠に終わるなど打線が振るわず、結果は4位に終わる(1980年代唯一のBクラス)。オフにテコ入れとして福士敬章、内田順三、金田留広らに戦力外通告、水沼四郎を中日へトレード、水谷実雄と阪急ブレーブス・加藤英司との大型トレードを敢行するなどV戦士放出を敢行。北別府学が初の最多勝、津田恒美が活躍し、球団初の新人王を獲得。7月終了時点まで巨人と首位争いを演じるも、8月に4連敗を2度喫するなど5勝14敗1分と失速、優勝した巨人と6ゲーム差の2位に終わる。4月に12連勝を記録するなど、14勝2敗2分と開幕ダッシュに成功する。その後、中日の猛追にあい、首位を明け渡すと、8月終了時点で中日と1ゲーム差の2位となる。しかし、9月6日の阪神戦に勝利し、首位に返り咲くと、そのまま逃げ切り、4年ぶりのリーグ優勝。山本、衣笠に加え山根和夫、北別府学、大野豊ら投手が活躍。この年75勝を挙げたが、これは2016年に更新されるまで球団シーズン最多勝記録だった。西武から復帰の小林誠二が最優秀防御率。小早川毅彦が新人王。日本シリーズでは、阪急ブレーブスと対戦。4勝3敗で3度目の日本一。サウスポーの高木宣宏がブレイクしオールスター前までに9勝を挙げるも後半不調に陥る。2年目の川端順が新人王。高橋慶彦が5年ぶり3度目の盗塁王。8月まで阪神、巨人と優勝争いを演じていたが、9月に阪神との直接対決に連敗し、7連敗を喫するなど失速し、最終的には優勝した阪神と7ゲーム差の2位に終わる。この年優勝した阪神には15勝11敗、同じく優勝争いをした巨人にも14勝12敗と勝ち越したものの、阪神が17勝6敗3分と大きく勝ち越した大洋に対し10勝14敗2分と負け越したのが響いた。古葉がこの年限りで監督を勇退。同年、松田元がオーナー代行に就任している。阿南準郎が監督となり、阿南は「『山本浩二監督』実現までのつなぎ」と言われたが、就任1年目にリーグ優勝を果たす。レギュラーが固定され不動のオーダーと言われた。北別府が投手部門のタイトルを総なめ。長冨浩志が新人王。日本シリーズでは西武ライオンズと対戦し初戦引き分けの後3連勝するも、その後4連敗した。史上初の第8戦まで縺れ込んだが3勝4敗1引き分けで敗退となった。前年とこの年はチームに外国人選手は在籍しておらず、スターティングメンバーも「純国産打線」であった。またこの年限りで長年チームの4番を務めてきた山本が引退し、1990年代前半までチームは4番不足に悩まされるようになった。6月13日、衣笠がルー・ゲーリッグの2130連続試合出場の世界記録(当時)を更新、衣笠はこの年の最終戦までに2215まで記録を伸ばし引退した。4番打者は5月末まではランス、その後小早川、もしくは片岡光宏が務めた。正田耕三が首位打者、ランスが本塁打王を獲得するも3位に終わる。2年連続の3位。正田が2年連続の首位打者。大野が防御率1.70で最優秀防御率と沢村賞。阿南が監督を退任。同年オフ、山本浩二が監督に就任。新外国人のロッド・アレン、ウェイド・ロードンが加入。アレンが故障で離脱するもロードン、小早川、西田真二もしくは長内孝でクリーンナップを形成。津田恒実が最優秀救援投手。優勝した巨人と9ゲーム差の2位に終わる。野村謙二郎がトップバッターに定着し盗塁王に輝く。2年目のアレンが好調も新加入のマイク・ヤング、高沢秀昭が奮わず開幕直後から巨人に独走を許し、結果的に優勝した巨人と22ゲーム差離され2年連続の2位に終わった。この年リリーフ強化のために山本監督は津田と大野のダブルストッパー構想を打ち出した。しかし、4月に津田が戦線を離脱し闘病生活に入る。津田の穴を埋めるべく大野が一人抑えとしてリリーフを支える。野手陣では野村謙二郎が高打率、盗塁王を獲得してチームを。しかしチーム全体長打不足で絶対的4番が不在(チーム最多本塁打は規定打席に達していない江藤の11本)の中、勝負強い西田真二や山崎隆造などが少ないチャンスの中奮闘した(優勝を決めた試合も初回に西田のタイムリーの1点を9回まで守りきった)。2年目の前田智徳がレギュラーに定着、江藤智も三塁手として出場し長打力の片鱗を覗かせた。投手陣は2年目の佐々岡真司がMVP、最多勝、最優秀防御率、沢村賞に川口和久が最多奪三振、北別府が最高勝率となった。大野が最優秀救援投手を獲得するなど投手力を核とする守りの野球でリーグ優勝。投打にわたりチームのほとんどの選手を一軍起用する文字通り全員野球だった。リーグ優勝が本拠地だったので、ビールかけなど祝勝会は広島市民球場のグラウンドでファンが観客席にいる中で行われた。日本シリーズでは西武と対戦し、川口が4試合に奮投するなどし先に王手をかけたが最終的には3勝4敗で敗退した。チームはこの年以降、まで優勝から遠ざかることとなる。ヤクルト・巨人・阪神との四つ巴の優勝争いとなり、優勝したヤクルトとはわずか3ゲーム差であったもののヤクルトと最終成績最下位の中日が9ゲーム差とセ・リーグ全体が例年に見ぬ大混戦となり、同率2位だった巨人と阪神に僅か1勝の差で及ばずに4位となり、1982年以来10年ぶりのBクラスに沈んだ。北別府が200勝を達成、達川光男が引退した。7月20日、津田が脳腫瘍のため32歳の若さでこの世を去った。序盤は開幕6連勝するなど好調だったが、津田の死にショックを受けたチームはその後急降下した。江藤智が初の本塁打王に輝くも、前年97試合本塁を守っていた達川の引退による捕手の急な若返りの影響から捕手陣と投手陣がかみ合わず大崩壊。9月には12連敗を喫しチームとして1974年以来19年ぶりとなる最下位に転落、山本監督は責任を取って辞任した。山崎が引退、山本の後任監督には三村敏之が就任した。新任の三村監督は前年崩壊した投手陣を再編し主に中継ぎ投手だった紀藤真琴、近藤芳久を先発に抜擢し、紀藤は16勝5敗で最高勝率を獲得した。近藤は巨人キラーとして活躍しシーズン11勝を挙げている。野手陣では控えだった金本知憲、緒方孝市、音重鎮等を積極的に起用、一定の成果を残した。前年苦しんだ捕手も西山秀二がゴールデングラブ賞・ベストナインを獲得する活躍をみせた。一時期は最下位から10連勝の快進撃で優勝争いに加わるものの、その後失速し3位に終わる。オフに川口和久が巨人にFA移籍、北別府が引退した。この年のドラフト1位山内泰幸とカープアカデミー出身ロビンソン・チェコが大活躍した。しかし主軸の前田が序盤戦でアキレス腱断裂の大怪我を負い、抑えの大野も不調でシーズン途中先発に回り、開幕投手を務めた佐々岡が抑えに回る等落ち着かない状況だった。チェコが15勝、山内が14勝で新人王、野村が3割30本30盗塁(最多安打のタイトルも取った)のトリプルスリーを達成した。江藤が2年ぶりの本塁打王・初の打点王、緒方が規定打席不足ながら初の盗塁王獲得し投打に目立った活躍をしながら怪我人や不調者が相次ぎ駒不足故に勝負どころで勝てず、首位ヤクルトの独走を許し6.0ゲーム差の2位に終わった。チーム打率.281の打線とダイエーからテスト入団した加藤伸一、5年目の山崎健が大活躍で前半戦を首位で折り返すも、後半戦主砲の江藤が負傷でシーズン復帰が絶望、エース紀藤が後半6連続先発失敗と前年同様勝負どころで怪我人・不調者が出てしまい最大11.5ゲーム差をつけていた巨人に逆転され、最終的には中日にも抜かれ3位で終えた。江藤が最高出塁率、緒方が2年連続の盗塁王、ルイス・ロペスが打点王を獲得した。野手陣では江藤が前年の大怪我の影響からか打撃守備に精彩を欠き、正捕手の西山も開幕早々けがでリタイア。緒方が3年連続盗塁王、ロペス2年連続打点王、他のレギュラー陣も数字は残したが3年連続で勝負どころで打てなかった。投手陣は前年合計41勝した山内、紀藤、加藤、山崎が合計で9勝に終わった(山崎は未勝利)。この年のドラフト1位の澤崎俊和ドラフト2位の黒田博樹、3年目の横山竜士、8年目の高橋英樹が穴を埋めようと奮闘した。澤崎が新人王を獲得、横山がリリーフで10勝、黒田6勝、高橋英樹が苦しい8月に4勝を挙げるが穴は埋めきれなかった。大野豊が42歳で史上最年長の最優秀防御率のタイトルを獲得している。順位は3位ながら貯金は作れず、この後貯金を作ってのAクラス入りは2014年まで達成できなかった。新外国人のネイサン・ミンチー、この年のドラフト4位の小林幹英が活躍。前田も首位打者まで後少しの大接戦を繰り広げるが、5月頭までは好調だったがゴールデンウィークが終わる頃にはここまで支えていた投打の主力選手が軒並み不調・怪我人が出だし選手層の薄さから負けが込みだし、最終的には借金15で5位に終わった。また、この年は神宮球場での試合は10戦全敗に終わった。シーズン後に三村監督が退任、後任は達川晃豊が就任した。この年限りで大野、正田が引退した。伝統の猛練習でチームの底上げを図るも慢性的な戦力不足の結果、99年・00年とも5位に終わり達川監督はわずか2年で辞任し、99年オフに江藤智はFAで巨人に移籍した。また、引退直後から就任していた大野投手コーチと正田守備走塁コーチ、8年ぶりに復帰した大下剛史ヘッドコーチも1年限りで辞任した。山本が8年ぶりに監督として復帰した。しかし、チーム成績は2001年は勝率3位ながら勝利数で横浜を下回り4位に終わった。2002年、2代目オーナー松田耕平が死去し、3代目オーナーにオーナー代行の松田元が就任する。からまで3年連続の5位。元大洋4番・松原誠をチーフコーチに招聘し、新井貴浩が中軸打者に成長する。一方で金本知憲が2002年オフにはFAで阪神に移籍する。2004年には嶋重宣が首位打者・最多安打・ベストナインを獲得している。2005年に、投手陣再生の切り札として安仁屋宗八コーチを招聘、新井が本塁打王を獲得し、エース格の、ジョン・ベイルを抑えに転向させるも初めての交流戦での失速や投手陣の不調が響いて最下位に転落。この年のシーズン終了後に山本監督は辞任、2000本安打を達成した野村謙二郎も現役を引退した。ルーツ以来31年ぶり、球団史上2人目の外国人監督となるマーティ・ブラウンが監督に就任。戦力補強は、チームのモチベーション低下を懸念して最小限に抑え、先発投手の負担を抑えるため、投手の分業化を図った。キャプテンは野手陣・前田智徳、投手陣・黒田博樹が就任。開幕戦から4月11日の巨人戦まで、1961年の国鉄スワローズが持っていた7試合連続2得点以内のプロ野球ワースト記録を更新し、9試合連続となった。その後も波に乗れず、黒田博樹以外の先発投手が期待に応えられずに借金を増やし、5位に終わる。キャプテンは前年に引き続き、前田と黒田。交流戦までは5月の大型連勝で10以上あった借金を返済し、5割を維持していた。このシーズンからセ・リーグでは初となるプレーオフ制度(クライマックスシリーズ)が導入され、進出を目指したが、交流戦で最下位に沈み優勝争いから脱落。最終順位は前年と同じ5位に終わった。課題の投手陣では黒田以外にも大竹寛が先発として一定の成績を残したものの3番手以降が続かず、守護神・永川勝浩がたびたび救援失敗するなど中継ぎ陣も安定感を欠いた。チーム防御率もリーグワーストの4.22に終わり、課題を克服することはできなかった。シーズンオフに新井貴浩と黒田博樹がFA宣言。新井は阪神に、黒田は大リーグ・ロサンゼルス・ドジャースに移籍。投打の柱を失った球団は、思い切った組織改革を行うなど、新たな球団経営に取りかかった。苦手の交流戦を13勝11敗として4年目にして初の勝ち越しを記録し、対巨人戦も12勝10敗2分けでこちらも勝ち越しを記録している。若手の台頭などもあり、中日やヤクルトと熾烈な3位争いをしたものの選手層の薄さ、慢性的な戦力不足や経験不足から終盤に息切れし11年連続Bクラス、シーズン成績も7年連続負け越しが確定したが、北京五輪での主力選手離脱による上位チームのもたつきなども幸いして最終的に7年ぶりの4位となった。延長戦、コールドゲームを除いた試合時間が12球団で最短だったことから、スピードアップ賞をチームで受賞した。この年から、広島県を本拠地とするスポーツクラブの連携組織「トップス広島=広島トップスポーツネットワーク」に正式加盟。本拠地も旧・広島市民球場から「MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島市民球場)(通称・マツダスタジアム)」に変更した。オープン戦の最中に栗原健太のWBC参戦に伴い、3月20日にスターティングメンバーを急遽変更した。シーズン中は投打がかみ合わない試合が多く、低迷状態に陥り、対中日戦では11連敗で球団記録を59年ぶりに更新した。しかし、後半戦ではヤクルトの急失速から阪神・ヤクルトとの三つ巴状態で3位争いを展開し、一時は3位と0.5ゲーム差という僅差であったものの、阪神の粘りやヤクルトの追い上げなどから3位争いから離脱し5位。Aクラス入りという続投条件をクリアできなかったためブラウン監督と再契約せず退任が決定し、ブラウンは楽天の監督へ移籍した。この年、緒方孝市が現役引退している。ブラウンの後任は野村謙二郎。チーム勝ち頭であったコルビー・ルイスが残留目前から一転して退団。シーズンに入ると大竹、セットアッパーのマイク・シュルツ、守護神・永川が故障で離脱、4年目の前田健太が最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の三冠に輝き孤軍奮闘したが、チーム防御率は前年から1点以上悪化するなど、投手陣が崩壊。また攻撃では梵英心が盗塁王に輝くなどチーム盗塁数はリーグ最多だったが、主砲・栗原が故障で離脱、前年3番の天谷宗一郎や新戦力のジャスティン・ヒューバーなど主力が打撃不振で得点に結びつかず、その結果、対巨人戦で8連敗を含む6勝18敗、対中日戦では昨年に続き11連敗記録するなど8勝16敗、対阪神で9勝15敗と3強に大きく負け越したことが影響し、ヤクルトを含む上位4チームに大きく離され1度も3位争いに加われずに2年連続の5位となった。東日本大震災の影響で開幕が当初の3月25日から4月12日に変更となり、開幕直後は不振の前田健に代わり新加入のブライアン・バリントンとデニス・サファテに新人の福井優也、打撃では4年目の丸佳浩が活躍し、一時は首位に立つなど2位で交流戦を迎えたが、その交流戦ではリーグワーストの50イニング連続無得点、球団ワーストの4試合連続完封負けと打線が沈黙、交流戦を最下位で終えリーグ順位も5位に急降下、前半戦も5位で終える。後半戦に入ると、7月までわずか3本塁打の栗原が8月だけで9本塁打、25打点と活躍し月間MVPを獲得、チームも当時首位を走っていたヤクルトの急失速もあり、8月終了時点で首位と3.5ゲーム差の3位に浮上した。栗原は9月も好調を維持し、広島の打者として初めて2か月連続で月間MVPを獲得したが、チームはサファテ、豊田清と救援陣の相次ぐ故障離脱などで6勝16敗1分けと大きく負け越しAクラス争いから脱落。10月8日にはBクラスが確定。結果は、3年連続の5位。中日との開幕3連戦は2敗1分としたものの、巨人との本拠地での開幕戦では1988年以来の3連勝で、4月6日の対横浜DeNAベイスターズ戦で前田健太がノーヒットノーランを達成するなど投手陣が球団新記録となる39回無失点もあり、4月8日に一時首位に立つものの、その後は失速し4月を11勝11敗の5分とした。4月25日に栗原健太が離脱するなど故障者が続出し、交流戦は10勝11敗3分の6位とし、7月16日に5割復帰するなど、交流戦以降14勝7敗で前半戦を1997年以来の3位で折り返す。8月は5割で3位をキープしたものの、9月に入り15日から25日にかけて8連敗するなど6勝17敗1分と負け越し、9月29日の対阪神戦(甲子園)で敗れたことで、Bクラスが確定している。最終的には首位巨人と26ゲーム、3位ヤクルトとは6.5ゲーム差の4位で終わっている。3月、オーナー代行に松田一宏が就任。開幕対巨人3連戦で1分2敗に終わり、前年から続く東京ドームでの連敗記録(引き分けを挟む)を10に更新したのを含め、2008年以来5年ぶりの開幕から4連敗とつまずく。4月13日に、前田健太がナゴヤドームでは2010年開幕戦以来となる勝利を挙げようやく勝率5割に戻すが、同じ試合で5試合連続2桁三振のリーグタイ記録を作るなど必ずしも調子は上向かず、同月18日の試合終了後に2度目の勝率5割となり、翌19日に借金生活に戻って以降、レギュラーシーズン終了まで一度も勝率5割に戻ることはなかった。交流戦は11勝13敗で西武と同率の8位。中日、DeNAとの3位争いとなるが、前半はオールスター直前の試合に敗れ5位で折り返す。9月25日の対中日戦(ナゴヤドーム)に2対0で勝利し、16年ぶりのAクラスと球団史上初のクライマックスシリーズ進出が決定、10月3日の対中日戦(マツダ)に3対5で敗れ、12年連続シーズン負け越しとレギュラーシーズン3位が確定した。2位の阪神とのCSファーストステージ(甲子園)は2連勝でファイナルステージ進出を決めたが、巨人とのファイナルステージ(東京ドーム)では3連敗でCS敗退が決定した。前田智徳、菊地原毅が現役を引退。前年に続き巨人と阪神との優勝争いとなるが、9月26日の対阪神戦(マツダ)に敗れ、巨人の優勝が決まったが同時に広島の2年連続クライマックスシリーズ進出も決定した。その後、阪神との2位争いとなったが、10月6日のシーズン最終戦の対巨人戦(マツダ)に敗れ、2年連続3位が確定した(なお貯金を作ってのシーズン終了は2001年以来13年ぶり、貯金を作ってのAクラス入りは1996年以来18年ぶりである)。10月8日、野村謙二郎が監督辞任を球団に申し入れ、了承された。阪神とのCSファーストステージ(甲子園)では、第2戦で延長12回表に0対0とされた時点で阪神の勝ち上がりが決定し、0勝1敗1分でCS敗退が決定。10月15日に野村の後任に野手総合コーチの緒方孝市の就任が発表された。11月14日に阪神から自由契約となった新井貴浩、12月27日にヤンキースからFAとなった黒田博樹が広島に復帰した。開幕前は各種順位予想で優勝候補に挙げられていたものの、序盤は投打がうまくかみ合わず一時は最下位に沈むなどBクラスに低迷、特にリリーフ陣の救援失敗が多発し、この敗戦が最後まで尾を引くことになった。6月19日、対DeNA戦に3-1で勝ち、球団通算4000勝を達成、交流戦は9勝9敗で7位に終わった。交流戦明けには一時Aクラスの3位に立つも、結局5位で前半戦をターン、それでもこの年のセ・リーグは混戦だったこともあり、首位のDeNAとは2ゲーム差であった。後半戦は巨人・阪神・ヤクルトの3強を追い続け、9月15日には借金を完済して勝率を5割まで上げるものの、その後も貯金を作ることはできず9月24日の対巨人戦に敗れたことでリーグ優勝の可能性が消滅した。その後は阪神とのCS進出争いとなったが、10月7日、勝てばCS進出となる対中日戦(シーズン最終戦)に敗北したことで3年ぶりのBクラス(4位)が確定した。尚、先発投手の勝ち星はリーグトップの57勝を挙げ勝率でもトップだったが、救援勝敗は12勝20敗でこれはセ・リーグの救援勝率では最下位であり、12球団でも11位の成績で課題の残るシーズンとなった。オフに前田健太が沢村賞を受賞した後、ポスティングシステムでロサンゼルス・ドジャースへ移籍。今期加入した外国人はクリス・ジョンソンの他はパッとせず全員が退団、中日を自由契約となったエクトル・ルナを獲得した。開幕4番を務めたルナが早々に故障離脱するも、4月26日のヤクルト戦(神宮)で通算2000本安打を達成した新井ら打線が好調を維持し交流戦前のチーム打率・本塁打・打点・盗塁数は全て12球団1位に。ルナに代わって1軍昇格した新外国人のブレイディン・ヘーゲンズが中継ぎの一角に定着し、同じく新外国人のジェイ・ジャクソンから中崎翔太へ繋ぐ勝ちパターンの継投を確立し前年の課題だった救援陣を支えた(尚、ヘーゲンズは夏場から先発転向し手薄になりかけた先発陣も支える)。そのままリーグ首位で迎えた交流戦では、ソフトバンク、ロッテと共に三つ巴の優勝争いとなり交流戦3位でセ・リーグ唯一の勝ち越し、2位以下を引き離し独走態勢に入った。足裏痛を抱えていたエルドレッドが戦線離脱するもルナが1軍に復帰、2試合連続サヨナラ本塁打の鈴木誠也、プロ初本塁打を放った左投手キラーの下水流昂ら日替わりヒーローが登場して穴を埋めた。7月22日、阪神戦16回戦目を勝利し野村祐輔が13年の自己最多に並ぶ12勝目を挙げた。さらに翌7月23日に黒田が日米通算200勝、8月2日に新井が通算300本塁打を達成と記録ラッシュが続いたが、同じ日に正捕手の石原がウラディミール・バレンティンの空振りしたバットが後頭部を直撃し負傷退場すると残りのヤクルト戦2連戦を連敗、猛追してきた巨人との直接対決でも負け越すなど、2位巨人とのゲーム差が一時4.5ゲーム差まで追い詰められたがその後は持ち直し、8月14日からの6連勝もあって23日からの2位巨人との3連戦前には、ゲーム差を8ゲームまで盛り返した。8月24日巨人戦20回戦目で7-3と快勝し25年ぶりに優勝マジック「20」が点灯した。8月30日、DeNA戦で勝利を収め3位以上が確定し、クライマックスシリーズ進出が決定した。9月1日、DeNA戦の20回戦で延長10回、6x-5でサヨナラ勝ちを収め、シーズン76勝目を挙げシーズン最多勝利を更新した。その後も勢いを落とすこと無く(マジック点灯後の8月25日から9月10日の優勝までの14試合の戦績は12勝2敗)、マジックナンバーを1として迎えた9月10日、25年ぶり7度目のリーグ優勝を果たした。この試合の視聴率は広島地区で平均60・3%、瞬間最高視聴率は71・0%を叩き出した。優勝を決めた時点で2位巨人とは14ゲーム差と他を大きく引き離した。9月16日、先発の野村が7回4安打無失点で、チームメートのジョンソンに並んでリーグトップの15勝目を捧げた。クライマックスシリーズのファイナルステージでは、ファーストステージで巨人に勝利したDeNAと対戦。対戦成績は4勝(アドバンテージ込み)1敗で広島が勝利。1991年のVS西武以来25年ぶりの日本シリーズ出場が決定した。田中広輔が絶好調で打率.833(12打数10安打)、1本塁打、4打点、出塁率.882、長打率1.333、OPS2.215、6打数連続安打、9打席連続出塁を記録してクライマックスシリーズ最優秀選手(MVP)に選出された。日本シリーズではパ・リーグ代表の北海道日本ハムファイターズと対戦。本拠地のMAZDA_Zoom-Zoom_スタジアム広島には、球団の本部のほかに公式グッズを販売する売店なども整備されている。球団マスコットは以下の2人。詳細はその項を参照。球団創立からカープ坊やデビューまでは、丸に鯉のペットマークを使用。当時のジャンパーにワッペンが張りつけられていた。また、1989年には、当時広島県内で開催された海と島の博覧会の公式マスコットのアビ丸を広島市民球場での「ホームランガール」として起用した。※復刻版にはホームゲーム時に限りユニフォームの袖やヘルメットに「MAZDA」の広告が張り付けられている。※太字は優勝達成監督カープでは永久欠番に準ずる制度として、前任者が推薦する選手が出て来るまではその番号を空き番とする「永久預かり」制度を導入している。この制度が適用されたのは以下の通り(カッコ内は空き番だった期間)。下記の記述は現在使用者が不在の番号2010年まで広島市への原子爆弾投下が行われた8月6日に広島の主催試合が編成された場合は、旧広島市民球場(マツダスタジアムも同様)は使用せず、岡山県倉敷スポーツ公園野球場(マスカットスタジアム)、福山市民球場などで行っていた。これは球場を保有している広島市が、8月6日を原爆記念日として休日となっているためであった。また旧市民球場は広島平和記念公園に近いため、当日の記念式典などによる参拝・参列者が多数訪れ、交通機関も混雑することも考慮した上での措置であった。旧市民球場が閉場となる2008年には8月6日に試合を行う方向で検討もされたが、実現しなかった。2011年は、53年ぶりに本拠地(マツダスタジアム)で対巨人戦が開催され、以来マツダスタジアムで開催される試合は毎年生協ひろしま等の共催による「ピースナイター」としている。2015年の試合では限定ユニフォームも着用された。カープは当初、「広島野球倶楽部」として、広島県、広島市、呉市、中国新聞社、日本専売公社(広島市に主力工場があった)、広島電鉄、東洋工業などの広島政財界の出資で設立された。運営資金が極めて少なく、1951年には早くも解散ないしは当時同じ中国地方の山口県下関市を本拠地としていた大洋ホエールズとの合併が検討されたが市民の猛反対に遭っている(「#8人の侍」参照)。この経験から資金集めを行う後援会が設立され、創成期のカープの運営を支えていくことになる。また「樽募金」と呼ばれる、ファンによる運営資金募集活動が起り、これは1960年代まで続いた。しかし1955年には「広島野球倶楽部」の負債額は莫大なものとなり、もはや後援会でも手に負えなくなったと判断した広島財界は、負債を帳消しにするため「広島野球倶楽部」を倒産させ、新たに「株式会社広島カープ」を設立、初代社長に広島電鉄の伊藤信之が就任している。1965年には近鉄バファローズとの合併計画が非公式に持たれ、仮に合併した場合は形式上カープが存続球団とする形で運営することが検討されていたが、2代目社長の松田恒次がそれを拒んでいる。それについては当該項の記事を参照。1967年、東洋工業は株式会社広島カープを全面買収し、松田恒次は球団オーナーとなったが、これは当時、長期低迷するチーム成績に加えて広島市民球場 (初代)フィーバーが落ち着いたことで年間観客動員数が激減(1959年:862,965人 → 1967年:622,100人)していたことを受けて、出資者間の主導権争いを収拾しチームの運営を安定させる意図があったといわれ、東洋工業はあくまでもスポンサーの立場にとどまり球団経営への介入を控えた。これは1970年代後半に松田家がマツダの経営から離れ、さらにマツダがフォード・モーター傘下に入った1980年代以降も変わっていない。ただし実質的にオーナー会社ではなくなった現在でも、チーム名にマツダの旧社名が由来の「東洋」を現在も残している。現在もマツダは筆頭株主として球団株式の34.2%(22万1616株)を保有しており、運営会社はマツダグループに名を連ねている。またカープ選手のユニフォームの右袖やヘルメット、更にMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島のチケットにマツダの広告が出され、さらに2013年からは新型マツダ・アテンザに採用された新色「ソウルレッドプレミアムメタリック」がヘルメットカラーに採用されるなど両社の関係は深い。経営状態そのものは、親会社の資金援助なしでは莫大な赤字を出すことが常態である日本のプロ野球球団の中にあって、その親会社が無い独立採算制でありながらも良好であり、1975年度から2013年度まで39期連続で黒字決算となっている。特に2009年度はMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島開場初年という背景もあって、当期売上高が117億円余と過去最高を記録した。ただしこの売上高の内訳については、2004年(65億円)が、放映権料収入(28億円)、入場料収入(20億円)、販売・広告料収入(12億円)で大半が占められていたのに対して、2009年(117億円)は、入場料収入48億円、グッズ販売20億円、飲食収入20億円とその構成比が大きく変わっている点に留意する必要がある。特にグッズ販売に関しては、2010年・2011年が14億円、2012年は16億5,000万円、2013年は19億5,000万円と、2009年以降も好調な売り上げを記録しており、売上高全体の約2割を占めるまでに成長した。これは2004年の球界再編を契機にセ・パ交流戦が実現。その影響で巨人戦を中心とした放映権料収入の激減が予想されたため、強い危機感を抱いた球団は、この時期からグッズ開発の強化、週末試合をナイターからデーゲームへ切り替えるなど、これまでの放映権料収入中心のビジネススタイルからの脱却を図っており、それが2009年以降に大きな成果となって現れている。2009年に球場内の球団専用施設へ22億円を出資したことに続いて、2010年は1軍寮の建設(2億円)、2012年はクリーニング工場の建設、2014年は2軍選手送迎バスの更新(5,000万円)、マツダスタジアム横の屋内練習場建設(16億円)等、新球場完成後は設備投資も増えている。またドミニカ共和国のカープアカデミーは、2005年から球団の経費削減の一環として運営費が縮小されたため、投手の育成しか行っていなかったが、2013年から野手育成を再開している。その一方、年俸総額順位はプロ野球12球団中、2007年の10位を除き、近年は11位以下である。これは、1993年オフに導入されたFA(フリーエージェント)制度、そしてドラフトにおける希望入団枠制度の導入により、カープにおいては、1989年には8億円であった選手年俸総額が1997年には16億円と8年間で2倍に急騰、2002年には17億8900万円に
出典:wikipedia
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