安 重根(日本語読み;あん じゅうこん、朝鮮語読み;アン・ジュングン、朝鮮語表記:、1879年9月2日 - 1910年3月26日)は、大韓帝国時代の朝鮮の独立運動家で、前韓国統監の伊藤博文を、1909年10月26日に北満州のロシアが権益を持つハルビン駅構内で襲撃し、殺害した暗殺者である。ロシア官憲に逮捕されて日本の関東都督府に引き渡され、1910年3月26日に処刑された。(テロリストか義士かの評価については下記)現在は北朝鮮にある黄海道の道都海州府首陽山の両班の家に三男一女の長男として生まれた。本人執筆の自伝によると、性格が軽急に近いので名(諱)を重根(、ジュングン/チュングン)と、胸腹に黒子が7箇所あったので字は應七(、ウンチル、日本語読みでは「おうしち」)と名づけられたと言う。実名敬避の習慣から通常は、安應七(アン・ウンチル)を名乗っていた。本人が重根を使い始めたのは暗殺事件の直前である。安の生家は資産家で、多数の土地から小作料を取って生活する大地主(地方両班)であり、祖父・安仁寿が鎮海県監を務めるなど、地元の名家でもあった。父・安泰勲(三男)は幼少より英才として知られ、科挙を受けて進士に合格し、京城で開化派の朴泳孝が選抜した70名の海外留学生に選ばれたが、1884年、甲申政変で開化派が失脚した影響で、学生も排斥され、立身の道を閉ざされた。この際に、仁寿は家財を売り一族を連れて信川郡青溪洞に移住して難を逃れている。また泰勲は朝鮮では当時西学や天主教と呼ばれていたカトリックに改宗し、洗礼名はペテロとした。仁寿は教育に熱心で、6歳の應七を漢文学校に入れ、次いで普通学校で学ばせたが、14歳の時にこの祖父が亡くなると、應七は半年間学業を中断。父母と教師が、銃と狩猟を好み山野に入り浸る應七を叱責して学校には戻ったが、自伝によると項羽の故事成句を引用して「書は以て姓名を記するに足る」と友人に言い、父の様に学業で身を立てないと言っていた。應七は不学をむしろ誇り、長じて、狩猟、銃、飲酒、歌舞、妓生、義侠を好む浪費家となった。1894年、16歳の時に金氏(キム・アリョ)を妻に娶り、後に二男一女をもうけた。またこの年に甲午農民戦争(東学党の乱)があった。泰勲は東学党が郡内で外国人排斥や官吏を殺害して暴れまわっていたのを憂い、70名余の私兵を集めて自警団(所謂、民包軍の1つ)を組織して青溪洞に避難民や宣教師を保護した。東学党・農民軍とも戦ってこれを撃退し、應七もこの時重傷を負ったというが後に全快した。しかし翌年、泰勲が東学党から奪った軍糧が、もともと魚允中や閔泳駿の年貢米だったということで、国庫金の掠奪であると訴えられ、行賞されるどころか逆に賊の汚名を着せられた。泰勲は京城に赴き、法官に三度無実を訴えたが、聞き入れられず、判決もでなかった。そのうちに閔氏の手勢に襲撃され、安一族はパリ外国宣教会から派遣されていたフランス人のジョゼフ・ウィレム(、韓国名: 洪錫九)司祭に匿われた。この一件の後、泰勲は布教に熱心になり、應七も洗礼を受けて17歳で改宗し、洗礼名を「トマ(トマス)」とした。應七は熱心な信者となって、洪神父から数か月フランス語を学んで見識を広げたので、洪神父と西洋教育(科学)の大学校を開こうと相談した。それを閔主教に掛け合ったが、「韓国人にもし学問があっても信教によいことはない」と拒絶された。再三の要請が拒否された後、應七は厭いてしまい、「日本語を学ぶ者は日本の奴隷になり、英語を学ぶ者は英国の奴隷となる。もしフランス語を習得すればフランスの奴隷になるのを免れるのは難しい。もし韓国の威が世界に振るえば、世界の人も韓国語を用いることになる」から必要ないとして外国語学習を辞めてしまった。この頃、2つの刑事事件に関与した。1件は韓国人の官吏と軍人に搾取されていた友人を義侠心から助けようとして失敗したもので、もう1件では、病気の父泰勲を診察した清国人医師が、反清勢力である開化派であったとして飲んだ勢いで父に殴る蹴るの乱暴をしたというので、應七は怒って殴り込みをかけて相手を殴打した上に短銃を発砲して逃走したというものだった。この清国人は官憲に訴えて應七を逮捕させようとした。当時の韓国は外国に領事裁判権を認めており、清国領事は京城の外務部にこの事件を主管することを訴えていたので、應七は外務・法務大臣の李夏栄に嘆願してこの件が鎮南浦裁判所に回されるように手を回してもらった。韓国の裁判所では自国民に有利な判決がでるため、清国人は仲裁に応じて和解して、結局は事なきを得た。1904年、日露が朝鮮半島などの植民地領有を巡って争った日露戦争が勃発したが、應七は日露の何れが勝っても韓国はその勝者の属国であると行く末を悲観。他方で應七は宣戦布告の文面にある「東洋の平和を維持し、韓国の独立を強固にする」ためとする建前を信じていて、その大義を日本が守らないのは全て政治家が悪いのであり、伊藤博文の策略のせいであると考えていた、と自伝にある。しかし伊藤の勢力が今は強くこれに抵抗しても徒死するだけで無益だと、應七と泰勲は話し合い、清国の山東半島や上海には韓国人が多数居留していると聞いていたので、安一族も外国に亡命して安全を図るべきだと考えて、應七がまず下見に行くことになった。ところが、上海で旧知の郭神父が帰国するのに遭遇し、フランス人の彼により朝鮮民族(韓民族)の危機を諭され、外国に逃げたり、外国の力を借りて民族独立を計ろうというのは間違いであると指摘されて、大韓帝国の独立について二千万の同胞(朝鮮民族)が団結するべきという意見を持つようになったと言う。1905年、泰勲らは娘の嫁ぎ先や應七の妻の実家があった平安南道鎮南浦に引っ越していたが、12月、應七が帰国した頃には父はもう亡くなっていた。應七は父が死んだとの凶報を聞いて数回気絶したと自伝に書いている。父を青溪洞に葬った後、應七は大韓独立の日まで日常の飲酒を辞め、断酒をすることを決心した。1906年、私財を投じて三興学校と敦義学校という2つの学校を設立した。1907年、父の知人金進士から白頭山よりも北方にある間島や海参蔵(ウラジオストク)には韓人百数万人が居留して物産豊富であると教えられて、應七はロシアの地で事業を起こすことを考えるようになったが、先に資金を調達すべく平壌で友人の安秉雲らと石炭商を営み始めた。しかしこれに失敗し、数千元という多額の金を失った。應七はこの頃、国債報償運動にも参加して大韓帝国が負った日本からの強制円借款の返済を目指していたが、探偵にきた日本人巡査と議論して殴られ、喧嘩した話が自伝にある。この年の7月、伊藤博文が訪韓して第三次日韓協約が締結され、第二次日韓協約(1905年)にも内心では反感を持っていた高宗の指示により第2回万国平和会議へ派遣されていた密使が抗議活動をして、所謂ハーグ密使事件が露見し、高宗は強制退位となり、皇太子に譲位するという一連の展開があった。軍隊解散とそれに伴う義兵闘争の高まりの中で国内が不穏となると、應七は急に家族を置いて、安多黙と名乗って友人李照夏と共に間島へ渡った。なお「多黙()」は洗礼名トマの当て字である。しかし間島にも日本軍が進出していて、足の踏み場もないような状態だったので、各地方を視察した後、夏の終わりにロシア領に入ってウラジオストクに到着した。ここで青年会に参加して喧嘩で耳を負傷した。ウラジオストクで知り合った李範允は、間島管理使として清国と戦い、日露戦争時にはロシアに協力して亡命中の人物で、應七は大韓独立のために兵を起こし伊藤を倒そうと議論したが、李に財政的準備がないと最初は拒否された。しかし別に厳仁燮と金起龍という2人の義侠と知り合ったので、彼らと義兄弟の契りを結び、厳を長兄・安を次兄・金を末弟とし、3人で韓国人を相手に義を挙げる演説を各地で行った。彼らは「日露が開戦した時に宣戦布告文で東洋平和の維持と韓国独立を明示しながらその信義を守らず、反って韓国を侵略して五箇条条約や七箇条条約を課し、政権掌握、皇帝廃位、軍隊解散、鉄道、鉱山、森林、河川を掠奪した」と日本を非難し、それに怒った「二千万の民族が三千里の国内で義兵として蜂起しているが、賊は強く義兵を暴徒と見なして殺戮すること十万に至る」と苦境を訴え、日本の対韓政策がこのように残虐であるのは「日本の大政治家で老賊の伊藤博文」のせいであり、伊藤は韓国民は日本の保護を受けて平和であると「天皇を欺き、外国列強を欺き、その耳目を掩うて」奸計を弄しており、よって「この賊を誅殺しなければ、韓国は必ず滅び、東洋もまさに亡びる」と演説して伊藤暗殺の同志を募り、一方で独立運動の火が消えてしまわないように義兵運動の継続も訴えたので、これに応じる者、あるいは賛同して資金を出す者があり、金斗星(金都世)や李範充等と300名の義兵を組織することができた。これをもって、1908年6月、咸鏡北道に進入して日本軍と交戦したと、自伝には書かれている。日本軍人と民間人とを捕虜としたが、万国法で捕虜の殺戮は禁止されているから釈放すべしという安と、日本人を殺しに来たのにそれをしないのはおかしいという仲間と口論して、部隊を分かち別行動をしたところで日本軍に襲撃されて散り散りになってしまう。その後、集結するも6、70名程度に減り、食料が無くなり、村落で残飯を恵んでもらう有様となり、仲間を探している途中で再度伏兵狙撃にあって部隊は四散した。数名で苦労して豆満江に戻ってきて、本人の言うところの「敗軍の将」として生還した。1909年正月、同志12名と共に「断指同盟」を結成して薬指を切り(指詰め)、その血で大極旗の前面に「大韓獨立」の文字を書き染めて決起した。(日本政府の調査では、1908年4月頃に厳仁燮と金起龍と義兄弟になった際に、外2名と共に盟約して、安と厳が伊藤博文の暗殺を、金らが李完用・朴斉純・宋秉畯の暗殺をすることに決めて、左手の薬指(無名指)を切ったという別の話を載せているが、旅順監獄での警視の尋問に答えて4名での断指を否定し、12名であると言い、義弟で断指同盟の1人でもある金基龍と金起龍は別人で、金起龍は目的の達成を諦めて今は農業に従事していて事件には関与していないと主張した。)大東共報(海朝新聞)の李甲が友人であったので、3月21日付紙面に安應七名義で寄稿し、大韓帝国の国権回復のために同胞に団結を訴えた。国内外に同志を派して情勢を探り、同年9月頃、伊藤博文を暗殺することになった。明治42年(1909年)10月10日から15日の間、大東共報社を安重根・禹徳淳(医師)・曹道先の3名が訪問して、伊藤博文暗殺を議論し、活動資金を無心した。ロシア人社長ミハイルロップは若干の金を渡し、寄稿文に共感していた編集長李剛により軍資金の100円を借ると、安重根は禹徳淳と1909年10月21日(陰暦9月8日)朝にウラジオストク(浦潮)を出発し、10月22日、ハルビン市(哈爾浜)に到着した。両名はそれぞれブローニング社製のピストル、6連発と7連発を携行していた。途中ボクラニチナーヤで下車して、劉東夏にロシア語通訳として同行を頼んだが、彼には計画は伝えなかった。この日、禹と劉と共にハルビン駅周辺を下見して記念撮影。列車の到着時刻などを確認した。ハルビンでは曹道先と合流。金成白(金聖伯)の家に泊まった。旅費がすでに30円しかなかったので、部外者の金より50円借りた。10月23日、妻子を迎えにいくと劉東夏には言い、彼を残して3名で蔡家溝に向かった。24日、安は単独行動し、電報で大東共報の李剛に借金50円の返済を頼み、さらに1,000円送金してくれるように頼んだ。同じく電報でハルビンの劉に伊藤の動向を問い合わせたが、内容が要領を得ないものだったので、禹徳淳と曹道先を蔡家溝駅で見張らせるために残して、25日(陰暦12日)に安だけがハルビンに戻った。結局、安はロシアで発行されていた漢字新聞『遠東報』を見て翌日に伊藤が列車で来ることを知って、1人で決行することになった。安と劉はこの日は停車場に泊まった。安は劉より6円と金時計を貰い、逃走時に備えて、劉を500メートル程離れた場所に馬車で待機させた。朝7時に停車場に姿を現し、安はさらに2時間喫茶店で時間を潰して列車の到着時刻を待った。10月26日、伊藤博文公爵は当時枢密院議長(同年6月に韓国統監を退任。後任の統監は曾禰荒助)で、満州・朝鮮問題に関してロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するために、外交団を連れてハルビン市に赴き、午前9時、哈爾浜駅に到着した。ハルビン駅はロシアが利権を持つ東清鉄道の駅で、多数の路線があり、京浜線を通じて南満州鉄道の特別列車も入ってこれた。当時の満洲はまだ清国領であったが、日露戦争の結果として露清密約は破棄されたものの、路線と駅構内はロシアに管轄権があった。長春駅からは東清鉄道民生部部長アファナーシエフ少将や同営業部長ギンツェらのロシア側接待員も同乗して出迎えていた。伊藤・ココツェフの会談が市内に席を設けずに列車内で設定された背景には同地の治安の悪さがあった。ココツェフは予定通りにロシア側の列車で先に到着して待っており、伊藤は日本側の列車車内を訪れたココツェフの挨拶を受けた。車内で20分ほど歓談した後、ココツェフがロシア側の列車に宴の席を設けていると招待したので、伊藤はこの招待を受けて、議員室田義文と議長秘書官古谷久綱も列席することになった。列車を移る際に、ココツェフは伊藤に敬意を表すためにロシア兵を整列させたので閲兵してもらいたいと言い、伊藤は平服であったために一度辞退したが、ココツェフが重ねて希望したので一行は駅ホームに出て、整列したロシア兵の閲兵を受けることになった。構内には清国兵もおり、外国領事や在留日本人の歓迎団なども控えていた。伊藤らが列になってロシア要人らと握手を交わしていたところに、群衆を装って近づいていた安重根が、ロシア兵の隊列の脇から手を伸ばし、10歩ほどの至近距離から拳銃を発砲した。彼は7連発銃の全弾を乱射した。自伝によれば、安は伊藤の顔を知らず、「顔が黄ばんだ白髭の背の低い老人」を伊藤博文であると思い、その人物に向けて4発を発砲した。しかし人違いで失敗したとあっては一大事と考えて、「その後ろにいた人物の中で最も威厳のあった人物」にもさらに3発連射したと言う。ただし事件直後の古谷秘書官の電報では、7連発銃のうち6発が発砲されたと報告されている。(異説は下記)伊藤には3発が命中した。伊藤を先導して前に立っていた哈爾濱総領事の川上俊彦は、身を翻した際に銃弾が右腕から腹部に入り重傷を負ったが、この1発と合わせて4発が最初の連射であろうか。伊藤のすぐ後ろにいて多くの弾丸を受けた室田義文は奇跡的に軽傷であったが、紳士然としていた室田は伊藤に間違えられた可能性がある。室田を外れた流れ弾が、その後ろにいた宮内大臣秘書官森泰二郎の右腕から肩にかけて通り抜けて軽傷、さらに満鉄総裁の中村是公の衣類、同理事の田中清次郎の右の靴も、それぞれ貫通した。ロシアの捜査記録によると、最初2連射があって、安重根は3発目を左手を右肘に添えて冷静に狙い撃ったとされる。直後にロシア鉄道警察の署長代理ニキホルホ騎兵大尉が捕えようと飛びかかったが、安はこれを力づくで振り払って、銃撃を続けようとした。日本の新聞が載せた安がロシア兵に向けて発砲したとの目撃証言はこの動作であろう。騎兵大尉の妨害を受けながら撃ったために次の連射は著しく目標を外した。周りにいたロシア兵が加勢して安を地面に引き倒し、その際にピストルが手から落ちた。ロシア兵の証言では安は「最後の銃弾で自殺を試みたが、失敗したようだ」と言うが、ここまでが30-40秒ほどの間の出来事である。安はすぐにロシア官憲に逮捕された。停車場の一室に連行される際に、安はロシア語で「コレヤ! ウラー! コレヤ! ウラー! コレヤ! ウラー!( / 韓国万歳)」と大声で三唱して叫んだ。後に供述したところによると、朝鮮語ではなくロシア語を用いたのは「世界の人々に最もわかる言葉を選んだ」ためであったと言う。伊藤は胸・腹部に被弾して「三発貰った、誰だ」と言って倒れた。中村是公(または室田義文)がすぐに駆け寄って伊藤を抱きかかえ、ロシア軍の将校と兵士の介助で列車内に運び込んだ。同行の宮内庁御用係で伊藤の主治医小山善が治療にあたって止血を試み、歓迎のために駅に来ていた成田十郎ら日本人医師2名、ロシア人医師1名がこれを手伝った。古谷秘書官は本国に電報して凶報を、桂太郎総理と伊藤夫人に伝えた。伊藤は少しブランデーを口にして、しばらく意識があった。犯人は誰かと聞き、ロシア官憲からの報告でそれが朝鮮人だと聞いて「そうか、馬鹿な奴だ」と一言、短く言った。伊藤は森も被弾したと聞いて心配していたが、森の傷は軽傷であり、対して伊藤のものはすぐに助からぬとわかる重傷。桂内閣に提出された小山の診断書によると、3ヵ所の盲管銃創でうち2つが致命傷だった。第1は右上膊中央外面よりその上膊を穿通(貫通)して第七肋間に向かい、恐らく水平に射入したもので、胸内に出血が多く、恐らく弾は左肺の内部にあるとされた。第2は右肘関節外側よりその関節を通じて第九肋間に入り、胸腹を穿通し、左季肋の下に弾を留めていた。第3は上腹部中央において右側より射入し、左直腹筋の中に留まっていた。伊藤は次第に衰弱して昏睡状態に陥り、約30分後に死亡した。暗殺事件の発生にロシア側は驚愕した。ココツェフはまず電報局に急ぎ、電報でナポリに外遊中だった皇帝ニコライ2世とペテルブルクの駐ロシア大使本野一郎に急報した後に、11時15分ごろ、日本側の要請で伊藤に最後の別れをするために特別列車に戻ってきた。ココツェフは少々取り乱していて、随員に犯人の詳細と謝罪とを伝えると、遺骸の前に跪いて哀悼の意を表した。日本側はできるだけ早くハルビンを離れることに決め、中村がロシア側と交渉して列車をそのまま長春に向けて出発させることを了承させた。11時40分にはハルビンを発車して午後4時頃長春に到着。そこから満鉄で大連に向かった。早くも10月28日午前11時に伊藤の亡骸は大連港から、イギリスのキッチナー元帥を歓迎するために来港していた軍艦秋津洲に載せて、急ぎ横須賀に送り出された。このため大連においては、キッチナーも清の東三省総督錫良と共に、大連の停車場にて、伊藤に弔意を示す機会があった。一方、満州鉄道関連施設で捜索権を持っていたロシア官憲は、すぐに背後関係を調べて20名余を尋問し、8名を新たに拘束した。逮捕したロシアではこれらを韓国国籍者と断じて、日韓協約により韓国人の管理指揮権を持つ日本の管轄として即座に日本当局への送致を決定した。安重根ら9名は結局ロシア公館に2日間拘留されたが、日本領事館に移送されて(後述する法律の定めにより)領事官による形式的な取り調べを受けた。前10月27日に外相小村壽太郎が本件を関東都督府地方法院に送致する命令を出していたので、そこからさらに旅順の日本の司法当局に引き渡された。このように日露間の協力がスムーズにいったのは事前の取り決めがあったからである。2年前の1907年、金才童(キム・ジェドン)がハルビンで日本人を殺害した事件で、ロシアが裁判を主管する権利を主張したことがあり、このときに小村外相が、第二次日韓協約(1905年)によって在外韓国人の保護は日本の管轄になったこと、同じく同条約により日本を介する以外で対外交渉できない韓国政府とは協議する必要はないことを、川上総領事に訓令して対処させ、金を引き渡させたことがあった。翌年、日本は明治四十一年法律第五十二号(満洲ニ於ケル領事裁判ニ関スル件)を制定して国内法を整備し、同法第三条「満州に駐在する領事館の管轄に属する刑事に関し国交上必要あるときは外務大臣は関東都督府地方法院をして其の裁判をなさしむる事を得る」の規定により裁判管轄の行政手続きをはっきりと定めていた。清国は韓清通商条約により韓国人に治外法権を認めていたので、国内で起きた事件であったにも関わらず、一切干渉することはできなかった。すなわち大韓帝国の委任により日本の主管で裁判は処理されることになるわけである。他方、事件は劉東夏も驚愕させた。彼は安が暗殺を決行したことを知ってその場から逃走し、酷く狼狽して金氏の家に帰ってきて、冷水を飲んで精神を落ち着ける必要があった。しかし前述のように彼もまた芋蔓式にロシア官憲に逮捕されている。安重根は、ピストルのほかに短刀も所持しており、逮捕時に押収された。尋問したロシア国境管区のミレル検事によると、安は最初は非常に興奮した様子だったが、自分の身元や犯行の動機について淡々と供述したと言う。ただしこの時「暗殺は自分一人の意志でやったことで、共謀者はいない」との嘘の供述もした。安は動機を「祖国のために復讐した」とだけ語った。ミレル検事は安の声の調子について「傲慢な声だった」と表現している。連行される際には伊藤は生きていたので、安は暗殺の成否を知らなかったが、この14時間の尋問の最中に伊藤の死亡を知った。安は暗殺成功を神に感謝して、事務室の壁に掛かっていた聖像の前で祈りをささげ、十字を切って「私は敢えて重大な犯罪を犯すことにしました。私は自分の人生を我が祖国に捧げました。これは気高き愛国者としての行動です」と述べた。一方、新聞は伊藤の暗殺をトップニュースで伝え、速報では兇漢は「二十歳ぐらいの朝鮮人」とし、第一報(28日付)で犯人の氏名は「ウンチアン(またはウンチヤン)」として平壌出身の31歳と報じた。一部の新聞はこれに「雲知安」の当て字をして、後に2度偽名を用いていたと伝えているが、偽名を使っていたわけではなかった。当時(朝鮮)統監府の警視であった相葉清の回顧によれば真相はこうである。1909年10月26日夜遅くに事件の報せがあり、「ウン・チアンという朝鮮人が伊藤統監を殺した。彼に関する調査記録を送れ」との指令を受けた。統監府には非常招集がかかり、深夜に幹部会議が開かれたが、不逞鮮人名簿に「ウン・チアン」という氏名はなかった。そもそも「ウン」という姓の朝鮮人が国勢調査では記録がなかったのだと言う。そうするうちに1人の課長がロシア検察が調査した名前であれば洋式に名・姓の順で表記したのではないかと指摘した。なるほど「アン・ウンチ」と読んでみると似た発音の「アン・ウンチル(安應七)」が名簿から出てきて、安應七が安重根なる者であることが判明したのだと言う。日本の新聞が犯人を安應七とするのは詳報が入った11月2日付前後、これが安重根に代るのは予審が始まって被告の姓名が公示されてからであった。新聞で事件を知った洪神父は、大韓帝国のカトリック教会からは大罪を犯した安重根にサクラメントを施してはならないという命令が出されたにもかかわらず、議論において殴り合うほど懇意であった彼のために予審中に旅順を訪れて、心の支えとなった。安は収監中に官吏に対して、應七ではなく自分を洗礼名「多黙」と呼ぶよう主張したといわれる。ただし死刑執行命令記録原本には、氏名を安應七と明記しており、應七と呼ばれていた可能性が高い。安重根は旅順の関東都督府地方法院で、まず1909年11月13日(伊藤博文の葬儀から9日後)、予審を受け、これが11月16日に結審した後に重罪公判に移された。連累者は曹道先、禹徳淳、卓公圭、金麗水、金成玉、劉東夏、鄭大鎬、金衝在の8名。うち曹、禹、劉の3名以外は不起訴となった。殺人罪および合併罪、殺人未遂罪を問われた本裁判も、引き続き関東府地方法院で行われ、第1回公判は1910年2月7日で、5回目の公判で最終弁論となり、公判開始からちょうど一週間後に判決の言い渡しとなった。安重根は真鍋十蔵裁判長により決行後に逃亡や自決をしなかったのはなぜかと尋ねられると、伊藤公爵を斃すことが目的ではなく韓国義軍(大韓義軍)の参謀中将として韓国独立東洋平和を成し遂げるのが終生の事業であり、自殺や逃走など卑劣なまねはせず一刻でも長く生きて(裁判で)日本の暴挙を世界に告発すると言った。裁判長より公爵が命を落とし随行員3名も負傷したことをどう感じているのか問われると、安は随行員の負傷は気の毒であるが、伊藤の死は年来の願望であったと述べた。さらに裁判長より切断された小指のことを尋ねられると、同志と血書をしたためた経緯を説明し、義軍の総大将である金都世という人物の自分は部下であり、彼が同胞の司令官であると述べた。予審において特に注目を集めたのが動機である。検察官溝渕孝雄に動機を尋ねられた際に、安は下記のような伊藤博文を暗殺した15の理由を列挙した。この有名な15条は明治42年当時の新聞で広く日本や世界に公表された。上記のうち5つは第三次日韓協約に関するものであるが、伊藤との関連については少しも関係がないものや関係性がよくわからない風説の類も散見され、「大韓独立主権侵奪の元凶」として、伊藤を朝鮮支配の象徴とし偶像化していたことが伺える。伊藤が統監を務めていた1906年から1909年までの約3年の間に、統監府は保護国化を進め、朝鮮の軍隊を解散させて、それに抵抗して蜂起した兵士と民衆を力づくで鎮圧した。一説には、支配に抵抗した朝鮮人が17,000人以上殺害され特に暗殺前年の1908年には11,000人以上が殺害されたと言われることから、その憎むべき統監府の長たる伊藤個人が元凶であると考えた安の認識は、当時の朝鮮人一般のそれと大差ないものであった。現在の韓国では、統監府に対する反対運動は“義兵”と見なされ、義兵闘争または抗日義兵戦争と呼ばれ、日本からの独立戦争の始まりと位置づけられている。安重根の述べた義兵と、実際の義兵運動との関わりを具体的に示す史料が存在するわけではないにも関わらず、義兵を独立運動の初めとし、安を独立の英雄とした事情から、韓国では両者は密接な関係にあったと信じられ、「大韓義軍」は高宗から直接支援を受けた軍事組織の1つだと言われているが、本人が執筆した自伝にすらそのような話はなく、論拠には乏しい。(下記も参照)他方、公判において溝渕検事は、政治的動機を否定して私怨による犯行という筋書きを持って裁判を進めたので、これを論破するために本裁判においても、安が挙げら暗殺理由に対する疑問や歴史観、抗日活動に関する質問を盛んに交わしており、その内容は訊問調書に記録されている。義兵中将という発言も自らには伊藤を殺す資格があったとういう主張の中に登場したものである。しかし安は日清戦争や日露戦争が東洋平和を維持し韓国の独立をはかるための戦争だったという肯定的な認識を述べ、「伊藤さんのよからぬ政略」がそれを妨げているから「私の思っていることを、直ちに日本の天皇に上奏して」くれるようにと述べて、日韓協約も韓国の独立のための宣言であったという検事の指摘には、「それは信じられません」と答えた。国際公法を知っているかという質問には「全部は知っていませんが、一部は知っています」と答えているが、万国公法の適用を訴えながらも本件がそれに該当しないことを知らなかった。安は「日本が韓国に野心があろうがなかろうが、それはどうでもいいことです。東洋の平和ということを眼中に置いて、伊藤さんの政策が誤っていることを憎むのです」と述べ、「日本の天皇の宣言は、韓国の独立をはかり東洋平和を維持すると述べておられるのに」伊藤と日本の政治が「この悲惨な事実を言わないで、偽りだけを述べている」ことが伊藤個人を狙った理由であるとした。韓国皇室については君主制度に問題があるとしながらも、日本が韓国皇太子の教育に尽力したことには「韓国民が非常に感謝」していると述べた。安は日本や天皇に対して一定の敬意を表明していて、日本国や天皇ではなく、伊藤という政治家が個人的に悪いのだということに彼の意見は帰着する。別の日の陳述で、伊藤は韓国の逆賊であるだけでなく日本の大逆賊でもあり、伊藤が孝明天皇を殺したという14番目の理由の説明を口にしかけた時には、過激発言であるとして真鍋裁判長の判断で公聴は途中で中断され、傍聴人には退廷が命じられた。安重根らが逮捕されたと知った大東共報は募金公募した。安の弟安定根は、兄の写真で5種類のはがきを作り、ハワイに300枚、サンフランシスコに500枚を送った。集まった金のうち1万円の大金で英国人弁護士ダグラスなる人物を雇い、2,400円を家族の保護のための費用に当てた。韓国人弁護士にも多数志願するものがあったが、これらの選任は真鍋裁判長によって却下されたため、結局、安には2人の日本人の官選弁護人が付くことになった。官選弁護士の1人であった鎌田正治は、まず、清国での犯罪について韓国人に対して裁判権が及ばないこと、韓清通商条約を理由に治外法権があるために清国領土内における韓国人の犯罪には韓国刑法を適用すべきことを指摘して、日本帝国刑法が主管する本法廷の管轄外であると主張したが、これは前述の理由で真鍋裁判長に退けられただけでなく、安本人も人を殺して裁く法がないとは道理が合わぬと不満を述べる始末だった。次に主任官選弁護士水野吉太郎が、安の行動と幕末の志士とを比較して、安は朝鮮の志士であるという弁論を展開して、情状酌量を求め、殺人罪としては最も軽い懲役3年が妥当であると主張した。しかし判決では、結局、裁判長は政治的背景の考慮を認めず検察の言う私怨説に近いものを採用した。判決は、1910年2月14日午前10時30分頃、ロシア法学士ヤブゼンスキー夫人、韓国人弁護士安秉瓉、ロシア弁護士ミカエローフおよびロシア領事館員、安の従弟安命根(安明根)、そして多数の日本の新聞記者が傍聴する中で、真鍋裁判長によって言い渡された。安と共犯3名は全員が有罪判決を受けた。午前11時、量刑ついて話が及ぶと、共犯者とされた禹徳淳は懲役2年、曹道先及び劉東夏には懲役1年6ヶ月の判決が下された。禹は安が暗殺を計画していると知ってピストルを渡した殺人幇助の罪だけでなく、弾丸を用意し、実行直前には蔡家溝駅で見張りをしてその犯行を助けた殺人予備罪に問われた。曹道先と劉東夏はロシア語通訳として働いたのみとされ、幇助罪のみが問われた。実行犯であり、殺人罪に問われた安重根には死刑が宣告された。公判で以前に単独で暗殺を計画したが未遂に終わったと供述した禹は判決に異存を述べず、曹も同様に黙っていたが、通訳として同行しただけで暗殺計画について全く知らなかったと供述した劉は「早く家に帰してくれ」と言って、泣きだした。しかし連累者の刑としては比較的短期であり、軽かったことには朝鮮や欧米でも驚きがあったと言う。安は自分は捕虜であり裁判そのものが不当であると憤慨したというが、すでに死刑は覚悟の上であり、5日以内に控訴できることが説明されると、安はさらに意見を言うには控訴しなければならないのかと通訳を通じて質問するなど、平然としていた。(下記も参照)裁判を統轄した判事は、死刑執行までには少なくとも判決後2、3か月の猶予が与えられるとしていた。しかし内地の日本政府は、事件の重大性を鑑みて死刑の速やかな執行を命じた。また看守を増員して監視し、周辺の巡回警備を強化するなど、奪回の動きも当局は警戒していた。安は上訴を行ってさらに政治主張を述べようとしていたが、そのようなことをしても棄却されるか上訴審が非公開となるだけだと考えた水野弁護士が「朝鮮の志士が死を恐れるために控訴」したと思われると諭したため、2月19日、上訴を取り下げることに安も同意して、刑が確定した。安は公判中から許可を得て自伝である「獄中記(安応七歴史)」を書き進めており、3月15日にこれを脱稿した。彼はさらに「東洋平和論」を書き始めたので、担当検察官として次第に懇意となった溝渕に、書き終えるまでの時間的な猶予と、死刑の時に身に纏う白い絹の衣装を一組の都合を願い出た。獄中には洪神父や安定根・安恭根の実弟2人も面会に来た。絹衣装は他からも提供されたが、死装束の純白の韓服は安命根が用意して本人に渡された。1週間程度で書いた「東洋平和論」は、結局序文を書き終えたのみで短い文章で終わった。また安は日本人看守らに人気で、求められるがままに多数の墨書も書き残している。3月26日、刑場に向かう前、弟達との最後の面会が許された。これには水野と鎌田の両弁護士も同席した。安は弟達に妻子の面倒を頼んだ。また安は熱心な信者で、死ぬまでカトリック信仰を持ち続け、妻への最後の手紙では、自分の息子は聖職者になるようにと書いたという。同日午前9時、伊藤の月命日と絶命した時刻に合わせて、死刑が執行された。立会人には、溝渕孝雄(検察官)、園木末喜(通訳)、栗原貞吉(典獄)、水野吉太郎(弁護士)らが列した。安がキリスト教の祈祷をする猶予が与えられた後、栗原が被告に死刑執行文を読み聞かせ、遺言の有無を尋ねた。安は別に遺言はないが、臨検する諸君が「東洋平和のために御尽力される」ことを願うとだけ言った。9時4分ごろに絞首台に登り、安が最後の黙祷をした後、15分後に絶命した。水野は安の志を尊重して執行後に皆で「東洋平和のため万歳三唱」することを願い出たが、刑務官に許されなかった。安の遺体は、医師の検死の後、栗原が特別の厚意で事前に用意していた棺に納められて、一時、監獄内の教会堂に安置され、共犯者として同監獄で受刑中の禹徳淳、曹道先、劉東夏の3名で告別式が行われた。弟の安定根・安恭根が安の遺体を貰い受けることを嘆願したが、拒否され、午後1時には旅順共同墓地内に埋葬された。(関連話)安の死から更に5か月後の8月29日に、日韓併合により大韓帝国は消滅した。初代総理大臣の伊藤博文を暗殺した安の死刑を執行した関東都督府の当時の都督大島義昌は、後の総理大臣の安倍晋三の高祖父にあたるという巡り合わせがある。(関連話)投獄された旅順監獄の看守で、安重根の監視の担当となった千葉十七は、当初は伊藤を暗殺した安を憎んでいた。ところが、話を重ねるごとに千葉は安の思想に共感を覚えるようになっていった。安は処刑の直前、千葉に向かって「先日あなたから頼まれた一筆を書きましょう」と告げ、「為国献身軍人本分」と書いて、署名し薬指を切断した左手の墨形を刻印した。そして彼は、「東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語ったという。千葉は終生、安の供養を欠かさなかった。旅順監獄の典獄(刑務所長)であった栗原貞吉も、安に感化された1人で、安の願いを聞き入れ、煙草などの差し入れをしたり、法院長や裁判長に掛け合い、助命嘆願をするなど便宜を図っていた。処刑前日には、彼も絹の白装束を安に贈った。また前述のように栗原は安のために厚い松板で拵えた特別な棺を用意していた。死刑執行後、栗原は安の死を惜しんで、しばらく後に退任して故郷の広島に帰った。安を朝鮮の志士と称した主任弁護士で、高知出身の水野吉太郎も手帳に安重根の親筆を得ていた。前述のように彼は処刑の朝の面会に同席したが、この時に腹を割って話して交感したので、安からキリスト教に改宗するように勧められ、「天国で共に語り合おう」と言われている。別の看守の八木氏も安の墨書を記念に書いてもらって持ち帰り、2004年、孫の八木正澄氏が韓国に無償で寄贈した。それより前の1970年代に、日本から韓国大統領府(朴正煕時代)に寄贈された安の遺墨宝物第569-4号は、現在所在不明である。2012年の韓国大統領選挙では、投票日の9日前に、安度眩(詩人)がこの墨書は「(娘である)朴槿恵が盗んだのではないか」と示唆する内容の記述をTwitter上に書き、物議を醸した。その後、彼はこれが中傷であるとして名誉棄損で刑事告訴され、有罪判決を受けた。旅順監獄の共同墓地に葬られた安重根は、遺言として解放後の韓国への移葬を希望していたが、35年後には葬られた場所の所在を知るものがおらず、墓と遺骨は紛失したままである。韓国ではしばしば日本軍が隠した等の主張がされることがあるが、同監獄の日本人医師古賀初一や、同様に処刑されて共同墓地に埋葬された李会栄の子と孫も、安の墓を参ったことがあると言い、特に隠されたというより単に裏山にあったとされる共同墓地が管理されなくなって正確な場所が分からなくなったに過ぎない。1992年、韓国が中国と国交回復した後に一部関連資料が発見され、安の遺体埋葬推定地の調査も行われた。韓国と北朝鮮は2005年から2007年にかけて文献調査をした後、共同調査団を構成して旅順監獄の現地調査をしたが、特に成果はなかった。李明博大統領は、その任期中に安の死から100周年を迎えることから、2008年と2010年に、安の遺骨問題を担当する国家報勲庁に発掘調査を行わせたが、監獄西北の野山(約6600平方メートル)という広大な範囲を調査して、何も見つけることが出来なかった。このため日本側に埋葬資料の提供を要請していた。これを受けて、民主党の松本剛明衆院議員は、被害者である伊藤博文の玄孫にあたる縁から、2011年に外務大臣に就任した後に「遺骨関連記録を必ず探し韓国側に引き渡したい」と述べたが、結局、何の進展もなかった。そのため、以後もたびたび韓国側は遺骨の関連記録の提出を日本政府に要求している。事件当時より情報が錯綜したため、被害者や犯人の数について様々な憶測が流れた。1909年10月27日付の各新聞の中にも、三井物産会社着電をもとに「五六名の韓国人に狙撃され」たと報じたものや、大連発本社着電をもとにした東京日日新聞の「歓迎者に混じ居たる韓人数名に狙撃され」たと報じたものがあり、逮捕者も蔡家溝で新たに「拳銃を持てる朝鮮人2名を捕縛」と報じられていたため、これらを原因として複数犯の印象が最初に広がったことは事実であろう。しばらくした後に目撃者談をまとめた新聞報道と安の供述、そして秘書官等の電報とは、総合して見ればほぼ符合していることがわかるが、襲撃では何発が発砲されたか、狙撃手は1人か複数かには異説があり、単独犯行ではなかったという主張や、背後に国家的陰謀があったという主張がある。立場が違えば「歴史認識が違って当然」で、正反対の評価が下されるということはしばしばある。安重根への評価は、下記のように様々で、時代によって変遷して、国によって人によって大きく異なる。特に日韓の安の評価の違いは、日韓両国の永続的な確執の象徴になった。
出典:wikipedia
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