陸軍大学校(りくぐんだいがっこう)は、大日本帝国陸軍の参謀・高級将校養成教育機関(軍学校)。略称は陸大。現在の陸上自衛隊では幹部学校に相当する。陸軍の諸学校が陸軍士官学校を筆頭に基本的には陸軍教育総監部管轄下であったのに対し(陸軍航空士官学校を筆頭に航空諸学校は陸軍航空総監部管轄下)、陸大は陸軍中野学校と共に参謀本部の管轄であり、卒業生の人事も参謀本部が行った。在学生数は1期から12期頃までが約10人、それ以降は約50人で、卒業者数は3,485名になる。陸大の受験資格は隊附(部隊勤務)2年以上、30歳未満の兵科大尉・中尉だった。初期には陸士卒業でない者がわずか2名だが存在した。陸大3期以降は全員が陸士卒業生である。教育期間は歩兵・騎兵が3年、砲兵・工兵等は2年。1933年(昭和8年)には教育課程に「専科(専科学生)」が新設された。就業期間は本科の約3年に対して専科では約1年と短く、教育内容も限定的なものであった。入学試験を受験するためには、直属の上官である連隊長の推薦を必要とした。工兵や輜重兵であれば大隊長の推薦であった期間もある。試験は初審と再審に分かれる。初審は語学や数学、歴史などの一般教養科目や、典範令や操典などで、入学定員の二倍から三倍程度に絞り込む。検査の合否は検閲将官会同の際に決議され、再審は陸大本校で行なわれ、5名程の試験官を前にして口頭試問が行われた。出題は戦術や操典などだった。海軍大学校と比較して定員枠はそれほど変わらないため、将校数が圧倒的に多い陸大の入試は海大より難関とみなされていた。士官候補生ではない少尉候補者出身の叩き上げ将校や、もとは幹部候補生等の予備役であった特別志願将校出身の将校も陸大の受験資格を有していた。初審を突破した者は数名存在するものの、再審も合格した例はなかった。陸大では戦略・戦術の教育を中心に、戦史、参謀要務等の主科目と兵器、築城、交通、兵要地学、外国語、海戦術、憲法、国史等の補助科目が教育された。授業は講義もしくは兵棋演習等が主体であったが、現地研究演習も毎年実施されていた。その戦略・戦術思想として特に強調されたのは、1、包囲殲滅の推奨 2,要時要点に戦力の徹底集中 3、戦機の捕捉とこれに乗ずる攻撃 4、先制主導権の獲得と利用、5、機動の重視と独断の推奨 6、夜間攻撃の奨励であった。しかし、第一次世界大戦後から急速に発展した航空部隊や機械化部隊の運用については、他先進国に比べて遅れていた。戦史教育では、近代戦術の元祖である欧州戦史、日本軍が戦った日清日露戦史、戦国合戦等の日本古戦史などがとりあげられた。なお、軍人勅諭において軍人の政治への不関与が謳われていたこともあり、仮想敵国や戦争論といった政治と関わる戦争指導の科目は設定されなかったが、必要がある場合は戦史教育や課外講演等において教育、補足していた。これは戦争の未然防止といった事項に対しても計画的・理論的な研究・教育がされなかったことの裏返しでもあり、陸軍において政治への認識がかえって浅薄になったことで、軍部と政治家との間に一致点を見いださないまま政戦略を度外視し、戦争を前提に国内・国外政治に関与する作戦第一主義(作戦至上主義)の遠因にもなった。卒業者には胸部に菊花と星章をかたどった「陸軍大学校卒業徽章」が授与された。この徽章は江戸時代の天保通宝に似ている事から、卒業生は「天保銭組」とも呼ばれ、陸大を出ない将校は「無天保銭組」と通称されていた。両者の間には感情的な対立も生まれたため1936年(昭和11年)に陸大卒業徽章は廃止されている。成績評価は各教官の評価を学生に接したことのない学事副官が集計して序列を決めるなど情実が挟まれない仕組みになっていた。陸大卒業生のうち首席1名、優等5名からなる成績上位6名には大元帥である天皇から御賜の軍刀が授けられ、授与者は「軍刀組」、「恩賜の軍刀組」と称された。上位12から13名には、外国への留学する権利が与えられた。首席は天皇の前で研究発表(御前発表)を行うのが慣例だった。卒業生は補職や昇進で優遇され、昭和時代には陸大卒業者が陸軍省と参謀本部(省部)の幕僚を独占した。旅団長と師団長もほぼすべてが陸大卒業者である。しかしながら恩賜組でも必ずしも将軍になっていない事例が存在し、成績の序列が昇進の全てを決定すると言った硬直した仕組みではない。一般軍人に対しては厳しい選抜試験が課せられたが、皇族王公族の場合は別枠で形式的な入学試験のみで入校することが可能であった。陸軍幼年学校においては皇族・王公族以外にも華族(一部士族)に対して優遇枠が設けられていたが、陸大においては皇族にのみ限定されている。入校後の成績や進級に手心は加えてもらえなかったが、成績は公表されない。秩父宮雍仁親王については成績優秀であったため恩賜の軍刀を与えてはどうかとの議論が教官の間でもちあがった。皇族は卒業後に海外留学するのが一般的だった。日本陸軍は創設以来フランス陸軍式の軍制を整えていたが、普仏戦争において勝利したプロイセン王国(ドイツ)の影響からドイツ陸軍式への軍制改革も模索されていた。参謀養成を目的とした教育機関である陸大は、1882年(明治15年)に「陸軍大学校条例」が制定されて創設され、教官にはフランス軍将校があたっていた。1883年(明治16年)4月に赤坂の参謀本部敷地内に生徒10人で開校した。1884年(明治17年)にはドイツ帝国の陸軍大学校 () をモデルとすることになり、参謀本部長山縣有朋、陸軍卿大山巌によりドイツ人教官の招聘が決定された。日本からの要請を受けたドイツの陸軍大臣ブロンザルト・フォン・シェレンドルフや参謀総長ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケは1885年(明治18年)にクレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル参謀少佐を陸大に派遣した。教官となったメッケルはそれまでの図上演習等に加えて現地における参謀業務の実習、戦術教育を重視し、3年次には参謀演習旅行を行った。メッケルは1888年(明治21年)に退任したが、その教育は高く評価され、後年まで影響を与えた。参謀本部が三宅坂に移転すると現在の青山北町1丁目(現在の北青山1丁目、港区立青山中学校)に校舎が建設され、1891年(明治24年)から利用された。1923年(大正12年)から1932年までは専攻科が設置されていた。1933年(昭和8年)に研究部と専科を設置された。太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)4月に山梨県甲府市の常磐ホテルに疎開され、8月の終戦に伴い廃止された。
出典:wikipedia
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