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伊丹十三

伊丹 十三(いたみ じゅうぞう、1933年5月15日 - 1997年12月20日)は、日本の映画監督、俳優、エッセイスト、商業デザイナー、イラストレーター、CMクリエイター、ドキュメンタリー映像作家。戸籍名は池内 義弘(いけうち よしひろ)だが、家庭では岳彦(たけひこ)と呼ばれて育ったため、本名・池内岳彦とされる場合もある。映画監督の伊丹万作は父。女優の宮本信子は妻。長男は池内万作(俳優)。次男は池内万平。ノーベル賞作家の大江健三郎は妹ゆかりと結婚したので義弟。ギタリストの荘村清志は従弟。料理通としても知られた。身長180cm。京都市右京区鳴滝泉谷町に生まれる。池内家の通字が「義」だったため、祖父の強い意向で義弘と命名されたが、父は岳彦と命名する予定だったため、家庭では父の意向により「岳彦」「タケチャン」と呼ばれて育った。生後7か月で京都市右京区嵯峨野神ノ木町に転居。2歳の時、妹ゆかり(長じてのち1960年に大江健三郎と結婚)が誕生。1938年4月末、父の東宝東京撮影所移籍に伴い東京市世田谷区祖師谷に転居。1940年、世田谷区立桜第一小学校入学。1940年末の父の東宝退社に伴い、1941年、京都市上京区(現・北区)小山北大野町に転居、京都師範男子部附属国民学校(現・京都教育大学附属京都小学校)に転校。1944年、同校の特別科学教育学級に編入される。この学級では、戦時中としては例外的な早期英語教育を受ける。級友に湯川秀樹の長男湯川春洋や、貝塚茂樹の長男で経済学者の貝塚啓明、日本画家の上村淳之がいる。1946年、京都府立第一中学校(現・京都府立洛北高等学校)入学の年に父が死去。同窓に共同通信労組の林直久がいた。1947年10月、京都府立洛北高等学校併設中学校に転校。1948年10月、京都府立山城高等学校併設中学校に転校。1949年4月、京都府立山城高等学校に入学。この頃、スクリプター野上照代が「飯炊き係」として約1年余り同居し世話をした。1950年1月以降は休学。1950年、愛媛県松山市小坂町の寺院・多聞院の一室に移り、母や妹と同居を開始。1950年4月14日、1学年遅れで愛媛県立松山東高等学校に転入。同校では文藝部誌「掌上」第1号に黒田匡の筆名で創作「気分」を発表。また、巻末の「編輯雑感」にも池内義弘の名で執筆。1951年、2年次から転入した大江健三郎と親交を結ぶ。同年8月1日、同校演劇部の「彦一ばなし」「夕鶴」などの公演に裏方として参加。同年10月から休学。1952年4月、愛媛県立松山南高等学校2年次に転入。1954年3月、20歳で同校を卒業後、大阪大学理工学部を受験するも失敗。上京し、新東宝編集部に就職。同年、新東宝での映画編集の仕事を経て商業デザイナーとなり、車内の吊り広告や目次のデザインなどを手がける。この頃山口瞳と出会い、のちに山口の小説『人殺し』のタイポグラフィを手がけるなど、生涯にわたる親交を結ぶ。デザイナーとしての手腕は晩年まで活かされ、自著をはじめとする本の装丁、ブックカバー、ポスター、宮本信子の楽屋暖簾などもデザインした。とくにレタリングには定評があり、映画監督の山本嘉次郎によれば「伊丹十三さんの明朝体は、日本一である。いや世界一である」と評するほどだった。舞台芸術学院に学び、1960年1月、26歳の時大映に入社、父伊丹万作と小林一三の名に因み「伊丹 一三」という芸名を永田雅一にもらい俳優となる。1960年5月にスクリプター野上照代より、日本映画界の巨人である川喜多長政・川喜多かしこの娘の川喜多和子を紹介され、同年7月に結婚。同じ年に作家であり友人の大江が妹ゆかりと結婚する。1961年、大映を退社する。その後『北京の55日』(1963年)『ロード・ジム』(1965年)などの外国映画に出演し、話題となる。1962年に妻・和子と自主短編作品『ゴムデッポウ』を制作、1963年に勅使河原宏監督の「砂の女」と同時上映された。1965年には、外国映画に出演した際のロケ道中をまとめたエッセイ『ヨーロッパ退屈日記』を出版しヒット。その後も『女たちよ!』など軽妙なエッセイを次々と発表し、文筆業にも活動の場を広げた。1966年10月26日、川喜多和子と協議離婚。大島渚監督作品「日本春歌考」(1967年)で、共演者の一人であった女優の宮本信子と出会う。同年、「マイナスをプラスに変える」意味で「伊丹 十三」と改名し、映画とテレビドラマで存在感のある脇役として活躍した。1969年に山口瞳の媒酌で宮本と再婚。結婚式は東京都国立市にある谷保天満宮であげる。そして子供を二人もうける(長男は俳優の池内万作、次男は池内万平)。家事や子育てにも関心が深く、著書訳書もある。ちなみに長男の万作は父の筆名から名前をそのまま取って命名された。1970年代に入るとテレビ番組制作会社テレビマンユニオンに参加し、『遠くへ行きたい』等のドキュメンタリー番組の制作に関わり、自らレポートする。この時培ったドキュメンタリー的手法は、その後の映画制作にも反映している。また『日本世間噺大系』『小説より奇なり』に見られる、独特の聞き書き文体はこの時代の経験を反映している。また70年代後半には『アフタヌーンショー』のレポーターを務め、“緻密な画力”で犯罪現場を生放送のスタジオで描いてみせた。岸田秀の『ものぐさ精神分析』(1977年)を読み、彼の主張する唯幻論に傾倒する。1978年12月、岸田との共著『哺育器の中の大人 精神分析講義』(朝日出版社)を上梓。また、1982年に刊行された『ものぐさ精神分析』中公文庫版の解説を書く。1981年、岸田らを中心に取り上げた現代思想の雑誌『モノンクル』(フランス語で“僕のおじさん”の意)をに創刊、編集主幹を務めた。しかし、6号で終刊となる。伊丹の関わった記事のいくつかは、『自分たちよ!』に収録されている。俳優活動としては、『家族ゲーム』(1983年)、『細雪』(1983年)で、キネマ旬報賞助演男優賞、報知映画賞助演男優賞を受賞している。この一方で、文化人達が伊丹の周辺に集まり、一種のサロンを形成している。コピーライターの糸井重里、自称「ゲージツ家」の篠原勝之、作家の村松友視などである。1984年、51歳で、『お葬式』で映画監督としてデビューし、日本国内で高い評価をうける。この作品で受賞した映画賞は、日本アカデミー賞、芸術選奨新人賞を始めとして30を超えた。この映画は信子の父の葬式がきっかけであり、わずか一週間でシナリオを書き上げた。なお、本作はその著作を読み漁り講演などには必ず駆けつけるほど傾倒していた蓮實重彦の「理論」を強烈に意識して制作されたものであり、事実、主に30年代 - 40年代に至るハリウッド映画のシーン、ショットの引用が多数ちりばめられている。しかし、試写会に訪れた蓮實に対し伊丹は高評価を期待し歩み寄り声を掛けたが、蓮實は無碍に「ダメです」と返答しただけだった。伊丹は蓮實からの予想外な酷評にひどく失望したと言われているが、その影響からか二作目以降は「引用の織物」による「芸術的」な側面は姿を消し、もっぱらエンターテインメントに徹した作風となっている。また、この作品で伊丹はその前歴の俳優・エッセイスト・ドキュメンタリー作家・CM作家・イラストレーター・商業デザイナーとしての全ての経験が活かせる事を発見し、その後も食欲と性欲の未分化な人びとを喜劇的に描いた『タンポポ』や国税局査察部・通称「マルサ」に対する徹底した取材を元にした『マルサの女』、ヤクザの民事介入暴力と戦う女弁護士を描いた『ミンボーの女』など、日本の社会に対する強い問題意識をもちながら、かつエンターテインメント性に富み、映画史的引用や細部にこだわった映画作品を作り、一躍当時の日本を代表する映画監督となり、「伊丹映画」というブランドを築く事に成功する。1992年、特に『ミンボーの女』では、ゆすりをやる暴力団は市民が勇気を持って賢く行動すれば引き下がることを描き、観客は大喜びした。これまで日本では、映画でヤクザ(暴力団員)をヒーローとして扱い礼賛していた(「ヤクザ映画」という一ジャンルが存在する)。公開1週間後の5月22日夜に、自宅の近くで刃物を持った5人組に襲撃され、顔や両腕などに全治三ヶ月の重傷を負うが、「私はくじけない。映画で自由をつらぬく。」と宣言した(病院に搬送された際に取材陣から「大丈夫ですか!?」と声をかけられて、声こそ出なかったもののピースサインで応えた)。警察は現場の車より山口組(稲川組)系後藤組の犯行であることを突き止めた。5人の組員が4年から6年の懲役刑となった。1993年5月には自称右翼の男が『大病人』公開中の映画館のスクリーンを切り裂く事件が起こるなど数々の被害や脅迫・嫌がらせを受ける事となったが、襲撃事件により身辺警護を受けた。1997年、身辺警護の経験は『マルタイの女』で映画化された。『タンポポ』はアメリカでも配給され評判となった。演出面での特徴は、俳優に対して一言一句のアドリブも許さず、画面に映る全ての小道具に一切の妥協を許さないという厳格なものであった。しかし、俳優がNGを出しても決して怒鳴り散らしたりしなかったため、俳優にとっては非常にやり易かったという。また、『お葬式』以降、一貫して死にこだわり続け、端役が死ぬような場面でも、演出には熱がこもっていた。全体が食にまつわる気楽なコメディである『タンポポ』にも、死のイメージは挿入され、本筋と何の関係なく登場し続ける白服ヤクザは最後に銃弾を浴びて落命する。1997年12月20日、伊丹プロダクションのある東京麻布のマンション下で遺体となって発見された。当初から、経緯について様々な説が飛び交った。かつて『ミンボーの女』(1992年)公開後に襲撃事件があった経緯から、当初から暴力団の関与を疑う声はあった。ただ、事務所にワープロ印字の遺書らしきものが(別途関係者宛にも)残されていて、そこに「身をもって潔白を証明します。何もなかったというのはこれ以外の方法では立証できないのです」との文言があったことから、写真週刊誌『フラッシュ』によりSMクラブ通いや不倫疑惑が取り沙汰されたことに対する抗議の投身自殺か、とも推測されるようになった。だが、伊丹はレタリングデザイナーとして日本有数と自負する存在であり、書き文字には人一倍の愛着とこだわりを持っていたことから、遺書が手書きでなくワープロで打たれていた点が不自然とされた。また、死の直前、FLASHの記者から不倫疑惑について問われた際、伊丹は笑いながら「妻に聞いてみればいいよ」「(不倫疑惑は)いつものことだから」と軽口で答え、その様子がFLASH誌面に掲載されている。また死の5日前まで医療廃棄物問題の取材も続けていた。「飛び降り自殺」はまさにその直後のことであり(インタビュー、FLASH発売直後)、自殺直前の様子との不自然さから、その「自殺」には強い疑惑が持たれ続けている。ジェイク・エーデルスタインの著書によれば、伊丹は当時後藤組と創価学会の関係を題材にした映画の企画を進めており、池田大作創価学会名誉会長や創価学会関係者、後藤組組長の後藤忠政がそれを快く思わず、後藤配下の5人が伊丹の体をつかんで銃を突きつけ屋上から飛び降りさせたと、自身が取材した人物が語ったという。また大島渚や立川談志など古くから伊丹十三を知る人物も、警察が死因を「自殺」と断定した後も「不倫報道ぐらいのことで、あいつは自殺しない」「飛び降り自殺は絶対に選ばない」と話し自殺を否定した。宮本信子は2002年12月20日、「感謝の会」における挨拶では「本人が決めたことですから仕方がないですけれども」と語った。2000年、大江健三郎の小説『取り替え子』に伊丹十三を思わせる人物が描かれ、話題となった。2007年5月、少年時代の一時期を過ごした愛媛県松山市に妻・宮本信子が、「伊丹十三記念館」をオープンさせた。晩年になって東京から移り住んだ湯河原の家などから遺品を集め、展示している。2008年、伊丹十三記念館を運営しているITM伊丹記念財団理事長兼代表取締役社長一六本舗玉置泰が、伊丹十三賞を創設した。2009年から「言語表現を主軸としたもの」および「映像・ビジュアル表現を主軸としたもの」を毎年交互に選出し賞を贈っている。ほか

出典:wikipedia

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