東急5000系電車(とうきゅう5000けいでんしゃ)は、東京急行電鉄に在籍していた通勤形電車。1954年(昭和29年)から1959年(昭和34年)までに105両が製造された。航空機の技術であるモノコック構造を応用した超軽量構造と、アメリカからの技術導入による最新鋭の電装機器を兼ね備え、それ以前の日本の電車とは隔絶した高性能と軽快な車体スタイルを実現した。下ぶくれの愛嬌ある車体形態はライトグリーン(萌黄色)1色に塗装されていたことからカエルを連想させ、「青ガエル」「雨ガエル」などの通称で利用者に親しまれた(ただし東急の公式愛称ではない)。このライトグリーンは当初透明感のある彩度の高いものであったが、退色しやすいため後に彩度を落とした濃い色が使用された。以降この色は東急鋼製車の標準色とされ、新製時から赤帯を前面に配していた8500系が登場するまでは東急電車を象徴する色になっていた。なお後述する渋谷のカットボディの塗色は往年の濃い色である。東急では1980年(昭和55年)春に東横線の運用から退き、大井町線での運用車もその前年には二子玉川園駅以西への乗り入れをやめている(なお当時まで大井町線区間も田園都市線に含まれていた)。1986年(昭和61年)までに全車廃車されたものの、1970年代以降は地方の中小私鉄に大量譲渡されており、そこで運用され続けていたが、車両の老朽化と大手私鉄からの車齢の若い中古車両の導入により、そこでの運用からも退いて行き、熊本電気鉄道が保有していた最後の5101A号車が2016年(平成28年)2月14日に引退した。下記の4形式が製造された。1954年10月14日に公式試運転が行なわれた後、東横線の運用に入った。5000系の3両編成が4本に達した後の1955年4月1日のダイヤ改正より、東横線に渋谷と桜木町を34分で結ぶ急行の運転が再開された。当初は日中のみの運転で、急行が終日運行されるようになったのは同年10月1日からである。1957年5月から、順次デハ5100形を組み込み4両編成化された。1958年12月からはラジオ関東(当時)の放送を、誘導無線により受信した上で車内に流す試みを開始した。この放送は1964年に取り止めとなり、誘導無線は業務用無線に転用された。1959年にはクハ5150形が登場し、デハ5000形に5050号が登場することによってサハ5050形はサハ5350形へ改番された。最終増備車両は1959年10月に入線したデハ5120で、5000系は合計105両となり、最長で6両編成を組んで運用された。1970年に田園都市線から東横線に転属した7000系が急行に使用されるようになったため一部が田園都市線に転属した。1977年(昭和52年)より長野電鉄への譲渡が開始され、その後1980年(昭和55年)には福島交通への譲渡など徐々に保有数は減少した。東急線では、1979年8月の田園都市線・新玉川線(当時)と大井町線との運転系統分離時に、大規模な車両の転配が行われた 。この時点で田園都市線・新玉川線は8500系に統一され、5000系は5両編成15本が大井町線に配置された。一方、東横線用は5000系が4両 + 2両、5200系4両 + 5000系 2両のわずか12両だけの配置となっていた。翌1980年、8000系列の増備に伴って新玉川線用から東横線に8033F・8035Fの5両編成2本が復帰したことで 、同年3月29日をもって東横線における26年の活躍に終止符を打った。大井町線では前述の1979年8月時点で全23編成中5000系が15編成と主力車両となっていたが、翌年以降東横線への8000系や8090系の増備に伴い、捻出された初代7000系などに置き換えられる形で1985年3月中に運用を終了した。 大井町線では5両全車電動車編成を組んだこともある。目蒲線では東横線の運用終了後に配属が始まり、1980年4月15日より3両編成2本が運転を開始している。編成は登場時と同じMTMを中心にオールM3連も存在した。その後、目蒲線には最大3両編成9本が配置されていたが、1986年3月から5月にかけて大井町線から多数の7200系が転入したことで 、同年6月18日をもって、3000系よりも先に営業運転を終了した。同時に東急線から5000系は姿を消した。最後まで残っていた5047-5354-5050の3両編成1本は最後の1週間ほどの期間、5047号車に引退記念ヘッドマークを装着していた。なお、池上線では、全長が18.5mの本系列は入線できなかった(5200系は入線実績あり)。本系列の注目点の一つとして、当初から付随車を組み込んだMT編成であることが挙げられる。直角カルダン駆動の大トルク電動車が、軽量なトレーラーを牽引することで、製造コストを低減できると同時に、カルダン駆動用の高速電動機による瞬間的な消費電力をある程度抑制することが可能であった。この時期に現れたいわゆる「高性能電車」においては、起動加速度を2.7km/h/sから3.3km/h/sに引き上げるため全電動車方式を積極的に取り入れる例が多く存在した。具体的にはWN駆動方式と小形主電動機の組み合わせによるもので、特に同時期の1067mm狭軌の私鉄に良く見られる方式である。また日本国有鉄道(国鉄)のモハ90系電車(後の101系)も、駆動方式が違うものの同様の設計理念である(なお、この形式では東急5000系とは違い中空軸平行カルダン駆動方式を採用していた)。しかしこの方式では製造費や給電施設の強化などの初期投資が割高で、急増し切迫する輸送需要に対応しなければならない状況では現実的でなかった。このため大半の鉄道事業者(国鉄を含む)ではMT編成の新車を大量生産する結果となった。本形式に採用されたPE-11形電動カム軸式抵抗制御器は、後に国鉄のCS12形制御器のモデルとなり、さらに改良されて国鉄の電車用抵抗制御器の決定版となるCS15形へと発展した。PE-11形制御器の制御段数は直列12段、並列11段、弱め界磁3段、発電制動20段である。弱め界磁制御は高速域のみならず加速を滑らかにするため発進時にも弱め界磁を使用する「弱め界磁起動」装置が導入された。弱め界磁は高速域でも当初使用されていたが終期には発進時のみ使用されるようになった。モノコックの車体構造、いわゆる張殻構造によるボディの軽量化は航空機では一般的だが、鉄道車両用としての利用はその後も相模鉄道5000系などの例があるものの、最終的にはあまり広まらなかった。これは丸みの強い形状のため通常の電車と比較しても断面積が小さく、足元にまで曲面が現れる構造で混雑時の詰め込みが効かないことなどが問題となったためである。またモノコックの性質上、部分的な荷重・応力には弱いために、のちの冷房化など設備追加を伴う大規模な改造も困難であったことが結果的に世代交代を早める原因となった。また、腐食・老朽によるダメージも通常より大きいものとなるため整備コストの上がる、より大型の車体には導入しにくいなどの問題もある。このような理由から、鉄道車両においてモノコック構造の応用はあまり進まず、セミ・モノコック構造(準張殻構造)が多用されるようになった。当時、5000系の車重はステンレスカーの5200系より軽く、経済性の面でも有利であると考えられていた。東急で運用を離脱した後に、旧型車の置き換え・サービス向上のために64両が地方私鉄に譲渡された。これだけ大量の車両が譲渡された理由として、車齢が浅かったことのほか、軽量のため橋梁など重量制限のある構造物への支障がない、1M方式のため短編成が組みやすいなどの特徴から、地方私鉄でも導入しやすい車両であったことが挙げられる。しかし先述の欠点に加え、直角カルダン駆動の保守部品調達も難しくなってきていることから、京王電鉄3000系などに代替された。最後まで残っていた熊本電気鉄道の1両の運用も2016年(平成28年)2月14日をもって終了し(最後は東急時代の緑一色の塗装に戻されて運用されていた)、譲渡された車両すべてが運用離脱した。塗色変更で「赤ガエル」などになった車両、中間車や先頭車連結面側へ運転台が取り付けられて切妻型の先頭車「平面ガエル」となった車両もある。以下に譲渡車両の一覧を記す。詳細は各車の記事を参照。なお、上記の譲渡両数以外に、廃車車両の一部が部品取り用として譲渡されている。また、台車(TS301)が伊豆急行と西日本鉄道(西鉄)に譲渡されている。伊豆急には1982年に譲渡され、サハ173・174がこの台車に振り替えられた。西鉄には1986年に譲渡され、宮地岳線(現・貝塚線)の120形のカルダン駆動化に使用された。1991年に120形が廃車となった後は天神大牟田線から転属した600形に転用された。伊豆急・西鉄ともに現在では台車は廃棄されている。デハ5001号は譲渡先の上田交通で1993年(平成5年)に廃車となった後、静態保存のため東急に返却され、登場時の緑塗装に復元の上、長津田検車区での保存を経て、東急車輛製造の構内で保管されていたが、2006年(平成18年)10月26日から渋谷駅ハチ公口で車体後部をカットし、台車や床下機器を取り外した状態で昔の渋谷駅の写真とともに展示されている。なお松本電鉄に譲渡された車両のうち、1編成が松電新村駅車両所構内に東急時代の塗装で静態保存されているうえ、熊本電気鉄道でも、可動状態のまま北熊本駅構内での保存が発表されている。
出典:wikipedia
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