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八八艦隊

八八艦隊(はちはちかんたい)は、日本海軍の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を根幹とする艦隊整備計画。日露戦争後に行われたアメリカ海軍を仮想敵国選定とした日本海軍の国防指針と、第一次世界大戦の戦争景気による経済成長を背景に計画した、艦齢8年未満の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を根幹とし、補助艦として古鷹型重巡洋艦、多数の5500トン型軽巡洋艦、峯風型・樅型駆逐艦を含んだ大艦隊整備計画の事。第一次世界大戦終結後の列強国間の軍縮を定めたワシントン海軍軍縮条約(1921年)により、計画は破棄(又は一部変更)を余儀なくされた。1907年(明治40年)、帝国国防方針における「国防所要兵力」の初年度決定において、戦艦8隻・装甲巡洋艦8隻として計画された。紆余曲折の後、1920年(大正9年)、「国防所要兵力第一次改訂」の予算案が通過した。当時の日本の歳出が15億円に対し、この艦隊が完成した場合の維持費が6億円かかるとされており、それを維持することは不可能であったといわれている。長門型から十三号艦型までの諸元:なお、十三号艦型については上記要目が一般的に流布しているが、一試案又は想像に過ぎず 46cm 砲搭載艦として建造される可能性はなかったとする説もある。46センチ砲搭載の根拠は、平賀造船官が1921年(大正10年)に出した意見書の中で、八八艦隊の最後4隻は18インチ砲搭載と述べていることにある。牧野は、当初12門を目標とし、連装6基、三連装4基、四連装2基・連装2基が検討され、平賀の推奨により5万トン以内におさめるべく18インチ砲8門、16インチ防御の案が決定したという。しかし、海軍内部でのそのような計画資料は発見されていない。ただし、1920年3月27日付けの資料で、41センチ50口径砲と46センチ50口径(45口径ではない)の砲力比較資料は存在し、砲塔の構造図 や砲弾の構造 図も発見されている。また同時期の「主力艦ノ主砲ニ関スル件」においても「近い将来の主力艦には46センチ砲10門以上の砲数が必要」とあるが、同時に「新補充計画による主力艦に対しては、排水量・工作力などの点で46センチ砲は困難のため、41センチ砲で満足し」とも書かれている。このことから、46センチ砲搭載戦艦の建造はなく、天城型巡洋戦艦12隻建造による、コスト低減が行われたであろうとの考察も見受けられる。ただし、紀伊型は計画番号B-64'及びB-65と分けて書かれることもあり、別途の設計案があったという可能性もある。しかし、同時期の英国戦艦が18~20インチ砲搭載、米国でも18インチ砲搭載戦艦計画艦が多数存在することから、隻数を減らす、建造期間の伸ばす、などの対応で46センチ砲搭載艦型に移行した可能性もある。どちらにせよ、13号艦の47,500トン、46センチ砲8門、30ノットという要目自体が、福井静夫造船官による予想であり、設計として決定したものではない。また、後の大和型戦艦と比較するに、このスペックが実現できた可能性は極めて低いと考えられる(一般に、連装砲4基の重量は、3連装砲3基の重量を上回る)。また、天城型巡洋戦艦と紀伊型戦艦の要目に大幅な差がないが、先行建造予定の天城型の実績を加味し、紀伊型はより強力な主砲・装甲に改設計される予定もあった。天城型にくらべて砲塔天蓋、中央水平甲板の防御力を増し、重量増加を舷側装甲の一部減少と速力低下で対応している。「軍艦尾張製造の件」には、「天城型と同艦建造の利点を失うことなく加賀型と同等の防御力を施し得たる」の表現が見られる。第二次世界大戦当時の戦艦の視点で各艦のスペックを見ると、「戦艦の高速化と巡洋戦艦の重防御化が13号艦で一致し、高速戦艦に進化している」ように見えるが、計画当時の視点で捉え直すと、「当時の標準的な巡洋戦艦より高速な26.5ノットの戦艦4隻と30ノット対41cm防御の高速戦艦12隻で、アメリカ3年艦隊計画艦の鈍速な21~23ノットの戦艦と33ノットと高速過ぎて戦艦部隊と連携の取れない巡洋戦艦をその機動性で翻弄し、各個撃破する」と言うシナリオが見えてくる。実際、13号艦の装甲性能は重防御を誇ったイギリス海軍のネルソン級より弱体で、後の46cm対応防御の大和型と比較すると41cm対応防御の46cm砲搭載巡洋戦艦であるようにも見える。ただし、第二次世界大戦当時と、13号艦の計画時では砲弾の性能がまるで違うことに注意が必要である。日本戦艦の41センチ/45口径砲の距離20キロでの垂直装甲貫徹力は、五号徹甲弾で10.7インチ。しかし改良された後の九一式徹甲弾では17.9インチの装甲を打ち抜くのである(だから長門型、加賀型、天城型、紀伊型は完成当時の41センチ砲弾を防げるが、九一式は無理である。長門型が改装時に超重装甲を施された理由がここにある)。五号徹甲弾は41センチ50口径砲でも、上記と同条件で貫徹力12.3インチだから、13号艦に46センチ45口径砲が搭載されたとしても、せいぜい14インチ程度の貫徹力だと考えられる。つまり13号艦の330ミリ傾斜装甲(第二次世界大戦時のアメリカ海軍のアイオワ級戦艦より重装甲だが)は、当時の46センチ砲弾を防げるのである。2008年4月1日、海軍造船官である故・平賀譲氏が携わった技術資料がアーカイブ化され、公開された。一連の公開資料に基づく考証が進捗した結果、旧来流布していた八・八艦隊のイメージは大きく転換を迫られるものとなっている。判明した事実を幾つか例示すると・天城型の煙突は当初の直立二本から結合型に変更された・紀伊型戦艦は二隻までとし、続艦は砲力を強化した新型へ移行(米サウスダコタ級戦艦を強く意識したもの)・七号型巡洋戦艦の設計は構想レベルの進捗であり、詳細は主砲口径を含めて未定などである。上述の通り、八八艦隊が実現した場合、その維持は当時の日本の国力からは不可能であり、ワシントン海軍軍縮条約は日本にとって渡りに船であった。しかしながら、続く1930年のロンドン条約において、これを受け入れる「条約派」と反対する「艦隊派」の対立が生じ、海軍内部に深刻な分裂を生じた。海軍兵学校は、長らく入学者は100名前後で推移していたが、八八艦隊計画にあわせて第50期から52期までは300人へと大幅に増員した。太平洋戦争の期間中の佐官(すなわち軍艦・艦艇の艦長・艇長クラス)の多くが、この増員した3期の入学者であった。将官は平時であれば退役する者を戦時には慰留し、尉官は新規育成で人材確保ができるが、佐官は普通であれば戦時での緊急の大幅増員は困難である。はからずも八八艦隊計画は、本来ならば急激に増員不可能な人的資源を確保するのに貢献した。日露戦争時の連合艦隊の対露戦で考案された、戦艦6、装甲巡洋艦6からなる艦隊整備計画が「六六艦隊」である。「敷島」、「朝日」、「三笠」、「初瀬」、「富士」、「八島」という戦艦六隻、「浅間」、「常磐」、「八雲」、「吾妻」、「出雲」、「磐手」 からなる装甲巡洋艦6隻で構成された。これが八八艦隊の原型ともなった。六六艦隊はこの通り実現したが、八八艦隊は実現不可能な計画になってしまったのは、この間の前弩級戦艦からポスト・ジュットランド艦への発展に伴い、戦艦のコストが暴騰した事を示している。その一方、六六艦隊整備をはじめとする日露戦争関連の軍事予算によって、日本が国家破綻寸前までいったのも事実である。それを免れたのは、第一次世界大戦の戦争景気という僥倖であった。冷戦末期に計画された海上自衛隊の1個護衛隊群の構成。護衛艦8隻(DDH:ヘリコプター艦1隻、DDG:ミサイル艦2隻、DD:汎用艦5隻)と、哨戒ヘリコプター8機(DDは1隻あたり1機で5機、DDHは3機、DDGは搭載しない)で編成されることから、俗に「八機八艦体制」と呼ばれるが、日本海軍での呼び名を転じて「八八艦隊」あるいは「新・八八艦隊」ともいう。なお、八八艦隊が日本海軍の聯合艦隊の全体構成だったのに対し、この新・八八艦隊は海上自衛隊の護衛艦隊に4個存在する各護衛隊群のそれぞれの構成であり、単なる語呂合わせであり、構想的には全く異なるものである。また4次防においては8艦10機体制だったものを、8艦8機体制へと削減したものである。

出典:wikipedia

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