アッシリア東方教会(アッシリアとうほうきょうかい、シリア語:、英語:Holy Apostolic Catholic Assyrian Church of the East)は、サーサーン朝を経由して唐代の中国に渡り景教となった、古代のネストリウス派(東方教会(英語:"Church of the East")とも呼ばれる)の流れを継承し、東方諸教会に分類されるキリスト教の教派のひとつである。アッシリア教会、アッシリア東方使徒教会、東方アッシリア教会とも。アッシリア正教会と呼ばれる事もあるが、当該教会は「オーソドックス(Orthodox:正教)」に類する自称を用いないのでこの呼称は誤りである。現在のアッシリア・カトリコス総主教は、アメリカ・シカゴに居住しているが1976年よりその地位にある。三位一体論を支持していないと誤解される事があるが、三位一体論は認めている。東方諸教会のうち、いわゆる単性論教会に分類される非カルケドン派の多くの教会は「正教会」の称号を用いており、これらは英語で「オリエンタル・オーソドックス(Oriental Orthodox:オリエント正教)」と呼ばれるフル・コミュニオン(相互領聖)関係を構築している。対してアッシリア東方教会は、この関係には加わっていない。1994年には、アッシリア東方教会の総主教マル・ディンハ4世と、ローマ・カトリック教会の当時の教皇ヨハネ・パウロ2世が『キリスト理解におけるカトリック教会とアッシリア東方教会の共同宣言』に調印し、「両教会は互いの典礼と信心を尊重する」と述べた。431年にコンスタンティノープルの大主教ネストリウスがエフェソス公会議で異端とされて破門されると、彼の説を支持する者たちが東方へ渡って布教していった。そのうちの一派が5世紀に当時サーサーン朝ペルシアの領土であったメソポタミア(現イラク)にて布教したのが、今日のアッシリア東方教会の始まりである。当時ネストリウス派を異端視するビザンツ帝国と敵対していたササン朝の歴代皇帝は彼らを手厚く保護し、ペルシア領のいたるところにキリスト教徒の共同体が存在した。498年には「クテシフォン・セレウキア」に新しい総主教が立てられた。644年にイスラム教徒のアラブ人がササン朝を滅ぼすと、アッシリア人を含むキリスト教徒たちは啓典の民(ズィンミー)として低い扱いを受け、イスラム領を出て中央アジアや唐などの外地で布教活動を行う者も少なくなかった。そのうちの南西インドのマラバール海岸(ゴア州からコモリン岬に渡って広がる、アラビア海に面した西ガーツ山脈より西側の地域)に渡った一派は(紀元52年の聖トマスの宣教によりキリスト教に改宗したユダヤ人の末裔。トマス派とも)と合流し、カルデア・シリア教会の流れにつながる(図の説明参照)。なお、欧米の文献においては古代のネストリウス派そのものをアッシリア東方教会と呼ぶこともある。派生として1968年にバグダードで分裂・独立した古代東方教会(Ancient Church of the East)がある。アッシリア人・アッシリア東方教会信徒は、オスマン帝国の崩壊時において、1914年から1920年の間にジェノサイドの対象となった。一説には50万人から70万人の犠牲者が出たとされ、アッシリア・カトリコス総主教だったも犠牲者となった。現代のイラクでも他のキリスト教徒同様テロや脅迫などの迫害にあっている。地域によっては地元のイスラム共同体からジズヤの支払いを要求されている場合もある。現在の信者はイラク、アメリカ合衆国などに広く分布し、現在の総主教庁はアメリカ・イリノイ州にある。大主教区は「インド」、「イラク・ロシア」、「豪州・ニュージーランド・レバノン」の3つ、さらに主教区がアメリカ東部、アメリカ西部、カリフォルニア、カナダ、ロシア、欧州、シリア、イランなどに設けられている。
出典:wikipedia
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