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チャイニーズタイペイ

チャイニーズタイペイ(; ; IOCコード: TPE)は、オリンピックをはじめとした国際スポーツや国際機関など国際的な場で用いられる呼称で、「中華民国」の実効支配地域(いわゆる台湾地区)を指す。国際連合から事実上追放されるなど外交的孤立に追い込まれていく1970年代以降、台湾の「中華民国」が国際社会に参加するため妥協策として主権・国家承認問題を棚上げしたもの。「中華民国」自身が中国全土を代表するという建前により「台湾」の名称を使えない一方で、実際に「中華民国」が中国全土を実効支配していないことなどから「中華民国 (Republic of CHINA)」も国際社会で受け入れられなくなったこと、中華人民共和国が主張する「一つの中国」論との関係により「中華民国」も「台湾」も用いることができないことが背景にある。台湾地区は、台北市に本拠を置く「中華民国」が1955年以降も実効支配する地域、具体的には台湾島と付属島嶼及び澎湖諸島・金門島・馬祖島を指す(同「国」の主張によるとさらに釣魚台・東沙諸島・南沙諸島も含まれる)。最初にこの名称が使われたのは、台北市に本部を置く「中華民国」の国内オリンピック委員会 (NOC)「」の英文名称とオリンピックへの参加名義としてである。「中華民国」ではなく「Chinese Taipei(中華台北)」名義を用い、国旗である青天白日満地紅旗を使用せずに国際的な場に参画することを「オリンピック方式(')」または「オリンピック委員会方式(')」と称する。オリンピックでは、国旗の代わりにオリンピック委員会旗を使用し、一般に順序はIOCコード「TPE」による。オリンピック以外の国際競技大会や国際的な民間組織でも、オリンピック方式で参加している事例がある。その後アジア太平洋経済協力 (APEC)、旧関税貿易一般協定 (GATT) へのオブザーバー参加、世界貿易機関での加入名義の略称、経済協力開発機構 (OECD) の一部委員会への参加など、国際機関(政府間組織)でも用いられるようになった。チャイニーズタイペイオリンピック委員会旗()は、その意匠からと呼ばれることがあり、オリンピックに中華民国の選手が「中華台北代表」として出場する際に「中華民国の国旗」の代わりに使用、掲揚される。白地の旗で、国旗に使われる青白赤で「中華民国の国花」である梅をかたどり、その中に「中華民国の国章」(青天白日の紋章)とオリンピックシンボルである五輪をあしらったオリンピック委員会のエンブレムを中央に配置している。大会の表彰式などでは国旗歌が演奏される。チャイニーズタイペイオリンピック委員会旗は、オリンピックと直接関係しない大会でも使用される場合がある。アジア競技大会やバレーボール世界選手権、ワールドベースボールクラシックなどの例がある。パラリンピックやデフリンピック、ユニバーシアードといった特定の人々のための総合競技大会や、個別競技の統括団体・代表チームの旗・エンブレムも、多くがこのオリンピック委員会旗と共通するデザイン要素を有している。チャイニーズタイペイオリンピック委員会ウェブサイト内のページに各競技の統括団体のエンブレムとそれぞれのサイトへのリンクがまとめられている。中華民国(中国)におけるオリンピック委員会の歴史は、1922年に上海に創設された「(China National Amateur Athletic Federation=中華アマチュアスポーツ連合会)」が、同年パリで行われた国際オリンピック委員会 (IOC) 年次総会でNOC「(China Olympic Committee=中国オリンピック委員会)」として認められたことに始まる。1932年ロサンゼルス、1936年ベルリン、1948年ロンドンの3大会では、中国代表選手はこの体制の下で参加した。国共内戦の結果、1949年、中国大陸に中華人民共和国が成立し、中華民国政府は台北に逃れた。1951年に「中国オリンピック委員会」は台湾に移転したと通知され、IOCに認められた。1953年には中華人民共和国の首都・北京に中国オリンピック委員会が設立された。1954年にはアテネで開かれたIOC総会で、台湾海峡両岸の二つの「中国オリンピック委員会」がともに承認された。1956年のメルボルンオリンピックでは、中華民国が国旗・青天白日満地紅旗を掲げて参加することに抗議して、中華人民共和国が直前に参加を取りやめた。1958年には北京のオリンピック委員会が「二つの中国」をつくる動きに抗議するとして、IOCと複数の主要な国際競技連盟 (IF) を脱退、関係断絶を宣言した。一方、1959年5月28日、IOC総会で台北のオリンピック委員会について、全中国を代表・統括していないとして、「中国オリンピック委員会」名義で承認し続けることはできないとの決議が採択された。台北のオリンピック委員会は、これを受けて即座に「 (Republic of China Olympic Committee)」と改称しIOCに申請した。IOCは1960年にこれを認めたものの、試合には「台湾 (Taiwan)」または「フォルモサ (Formosa)」の名義を使用することを求めた。台北側はこれら台湾名義の使用を受け入れず、同年のローマオリンピックでは入場式で「フォルモサ」の呼称が使われたことに対して抗議デモを行っている。1968年、IOCでは中華民国の英語表記Republic Of Chinaの略称であるR.O.C.という名称を使うことで一応の決着を見た。1971年、国際連合総会が中国の唯一の合法的代表は中華人民共和国であり「蔣介石の代表」を即時追放するという内容の国連総会決議2758を採択したことにより、中華民国は国連脱退を宣言した。1970年にカナダと国交を樹立したことをはじめとして、中華人民共和国は西側諸国との関係改善を続け、中華民国とこれらの国との国交断絶が相次いだ。こういった動きに対応するため、1973年台北のオリンピック委員会は、日本の日本体育協会に相当する「」を分離して「」に改組した。一方、1975年4月、北京側はIOCに復帰を申請した。書類不備を理由に棚上げされたが、国連と同様に一国一代表の前提に立ち台湾追放を条件(「国連方式」)としていたために難航し、「中国復帰問題」は当時のIOCと国際スポーツ界における最大の懸案の一つとなった。1976年のモントリオールオリンピックで、開催国のカナダは、「R.O.C.=中華民国」の呼称とその国旗である青天白日満地紅旗を使う限り、台湾からの選手団を受け入れられないとの方針をとった。IOCは1969年に交わした取り決めに反するとして非難したが、カナダは態度を変えず、この問題によりモントリオール開催の中止も検討された。IOCが示した「台湾」という呼称を使い五輪旗を掲げる妥協案を台北の中華奧林匹克委員會(R.O.C.オリンピック委員会)は受け入れず、アメリカでカナダ入国を待っていた選手団を呼び戻した。中華人民共和国側はIOCとIFへの復帰交渉を通じて、段階的に譲歩した。「国連方式」を断念し台湾除名の主張を撤回、台湾を含む統一チームでの参加を主張して態度を軟化させた。最終的には「中国の一地域」という前提で台湾を別個のチームとすることを認めた。1979年10月25日、名古屋で開かれたIOC理事会の決議で、台北の中華奧林匹克委員會が「Chinese Taipei Olympic Committee」の名称のもと、旗・歌についてはそれまでのもの(中華民国の国旗・国歌)と異なるIOCが認めたものを使うという条件で残留し、中華人民共和国が「Chinese Olympic Committee(=中国オリンピック委員会)」の名義で国旗五星紅旗と国歌義勇軍進行曲を使用してオリンピックに復帰することが認められた(名古屋決議)。その後、現行のシンボル、他のNOCとの対等な権利・地位、IOCや関連IFでの会員資格の保証が認められたことにより、1981年3月23日、中華奧林匹克委員會は名称(英文名称)・旗・エンブレムの変更を受け入れた。1984年のサラエボ(冬季)・ロサンゼルス(夏季)両大会から、台湾海峡両岸の選手団が共にオリンピックに参加するようになった。Chinese Taipeiの中国語名称については、1989年になるまで、台北側が主張する「中華台北」にするか、北京側の主張する「中国台北」にするか結論が出なかった。1990年の北京アジア大会をはじめとする北京で開催される複数の国際大会を控えてとりまとめる必要があった。1989年4月6日、チャイニーズタイペイオリンピック委員会秘書長(事務局長)と中国オリンピック委員会主席(会長)何振梁が香港で行った協議で、台湾のスポーツ団体の中国語名称を「中華台北」とすることで合意した。同月20日に開会したアジアユース体操選手権大会に参加するためチャイニーズタイペイ代表選手が初めて北京に向かったことで、台湾海峡両岸のスポーツ直接交流が始まった。Chinese Taipeiを中国語でどう表現するかは政治的にデリケートな問題である。チャイニーズタイペイオリンピック委員会の名称は、対外名称である英語名称はChinese Taipei Olympic Committeeとされるが、国内向けの中国語名称では「台北」の文字を使わず「中華奧林匹克委員會」としている。他の競技統括団体では、オリンピック委員会同様、英語名称にChinese Taipeiを使うが、中国語名称を「中華民國○○協會」としている場合が多い。台湾では、代表チームを「中華隊(隊=チーム)」と呼ぶのが一般的である。台湾本土化を支持する泛緑系のメディア(自由時報など)では「台湾隊」という呼称を使用している。一方中国大陸では、試合会場などの公式な場では「中華台北」を使用する一方で、報道などでは「中国台北」と呼ぶべきであるとされた。大陸では同じ文脈で香港は「中国香港」、マカオは「中国澳門」と呼ばれる。公式・対外的な場で中国語での呼称として「中国台北」が使われた場合には、台湾側が抗議を申し入れたことがある。北京オリンピック直前の2008年7月、台湾側がこの呼称問題により、開会式・大会のボイコットを示唆したことを受けて、大陸側も譲歩し新華通訊社、華僑向けの中国新聞社(中新社)といった国営通信社をはじめ、大陸メディアの配信記事にも「中華台北」の名称が見られるようになった。北京オリンピック以前、「中華台北」という名称がメディアによって使われたのは、香港などに限られた。ただし香港においても大公報・文匯報といった大陸系メディアは「中国台北」を使った。日本語では、公式な場面では「チャイニーズタイペイ」「中華台北」も用いられるが、それ以外では単に「台湾」と表記されることが多い。蔣介石・蔣経国政権時代、中華民国政府こそが中国全土を代表する正統政府であると主張していた。中華民国(つまり建前上、中国全土)を代表するのに、台湾を称することはその正統性をおびやかすこと(「法理独立」)に繋がる。そのため当時の中華民国には「台湾」や「フォルモサ」という名義名称は受け入れられなかった。当時中華民国では民間団体であっても全国的なものの名称に「台湾」を使用することはできず、「中華民国」、「中国」または「中華」を使用しなければならなかった。本省人である李登輝総統が政権基盤を固め始め、「(台湾から来た総統)」としてシンガポールを訪問し「(現実外交)」を展開するようになる1989年3月以降、状況に次第に変化が見られるようになる。2007年4月、陳水扁総統は、台湾在外ビジネス団体の帰国訪問団との会見で「中華台北(チャイニーズタイペイ)」について「奇妙な名称」とし、オリンピックで台湾の名を使用できないことについて「歴史的な要素があり、また当時もさまざまな現実を考慮してのことだった」としながらも「不公平な待遇」と述べ、台湾への改称(台湾正名運動)に意欲を見せた。2008年4月、馬英九は総統就任を前に中央通訊社とのインタビューで世界保健機関 (WHO) 加盟問題について、「外交部は『中華台北』を用いるなと言うが、問題は『中華台北』以外の名称で(加盟に)成功したことがあるのか。『中国台北』というさらに受け入れがたい名称のほか、現在『中華台北』より適切な(参加可能な)ものがあるだろうか」と述べ、「中華台北 (Chinese Taipei)」について国際社会で受け入れられる「適切な名称」であるとの認識を示し、台湾名義の使用は今後推進しないとの考えを述べた。

出典:wikipedia

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