チェルノブイリ原子力発電所事故(チェルノブイリげんしりょくはつでんしょじこ)は、1986年4月26日1時23分(モスクワ時間 ※UTC+3)にソビエト連邦(現:ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で起きた原子力事故。後に決められた国際原子力事象評価尺度 (INES) において最悪のレベル7(深刻な事故)に分類され、世界で最大の原子力発電所事故の一つである。当時、チェルノブイリ原子力発電所にはソ連が独自に設計開発した黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉(RBMK)のRBMK-1000型を使用した4つの原子炉が稼働しており、そのうち4号炉が炉心溶融(俗にいう「メルトダウン」)ののち爆発し、放射性降下物がウクライナ・白ロシア(ベラルーシ)・ロシアなどを汚染した、史上最悪の原子力事故とされた。1991年のソ連崩壊以後は原子力発電所が領土内に立地しているウクライナに処理義務がある。2013年現在もなお、原発から半径30km以内の地域での居住が禁止されるとともに、原発から北東へ向かって約350kmの範囲内にはホットスポットと呼ばれる局地的な高濃度汚染地域が約100箇所にわたって点在し、ホットスポット内においては農業や畜産業などが全面的に禁止されており、また、その周辺でも制限されている地域がある。事故当時、爆発した4号炉は操業休止中であり、外部電源喪失を想定した非常用発電系統の実験を行っていた。この実験中に制御不能に陥り、炉心が融解、爆発したとされる。爆発により、原子炉内の放射性物質が大気中に量にして推定10t前後、14エクサベクレルに及ぶ放射性物質が放出された 。これに関しては、広島市に投下された原子爆弾(リトルボーイ)による放出量の約400倍とする国際原子力機関 (IAEA) による記録が残されている(影響 も参照)。当初、ソ連政府はパニックや機密漏洩を恐れこの事故を内外に公表せず、施設周辺住民の避難措置も取られなかったため、彼らは数日間、事実を知らぬまま通常の生活を送り、高線量の放射性物質を浴び被曝した。しかし、翌4月27日にスウェーデンのフォルスマルク原子力発電所にてこの事故が原因の特定核種、高線量の放射性物質が検出され、近隣国からも同様の報告があったためスウェーデン当局が調査を開始、この調査結果について事実確認を受けたソ連は4月28日にその内容を認め、事故が世界中に発覚。当初、フォルスマルク原発の技術者は、自原発所内からの漏洩も疑い、あるいは「核戦争」が起こったのではないかと考えた時期もあったという。日本においても、5月3日に雨水中から放射性物質が確認された。爆発後も火災は止まらず、消火活動が続いた。アメリカの軍事衛星からも、赤く燃える原子炉中心部の様子が観察されたという。ソ連当局は応急措置として次の作業を実行した。この策が功を奏したのか、一時制御不能に陥っていた炉心内の核燃料の活動も次第に落ち着き、5月6日までに大規模な放射性物質の漏出は終わったとの見解をソ連政府は発表している。砂の投下作業に使用されたヘリコプターと乗員には特別な防護措置は施されず、砂は乗員が砂袋をキャビンから直接手で投下した。作業員は大量の放射線を直接浴びたものと思われるが不明。下部水槽(サプレッション・プール)の排水は、放射性物質を多く含んだ水中へとソ連陸軍特殊部隊員数名が潜水し、手動でバルブを開栓し排水に成功した。爆発した4号炉をコンクリートで封じ込めるために、延べ80万人の労働者が動員された。4号炉を封じ込めるための構造物は石棺(せきかん / せっかん)と呼ばれている。事故による高濃度の放射性物質で汚染されたチェルノブイリ周辺は居住が不可能になり、約16万人が移住を余儀なくされた。避難は4月27日から5月6日にかけて行われ、事故発生から1か月後までに原発から30km以内に居住する約11万6000人全てが移住したとソ連によって発表されている。しかし、生まれた地を離れるのを望まなかった老人などの一部の住民は、移住せずに生活を続けた。放射性物質による汚染は、現場付近のウクライナだけでなく、隣のベラルーシ、ロシアにも拡大した。ソ連政府の発表による死者数は、運転員・消防士合わせて33名だが、事故の処理にあたった予備兵・軍人、トンネルの掘削を行った炭鉱労働者に多数の死者が確認されている。長期的な観点から見た場合の死者数は数百人とも数十万人ともいわれるが、事故の放射線被曝と癌や白血病との因果関係を直接的に証明する手段はなく、科学的根拠のある数字としては議論の余地がある。事故後、この地で小児甲状腺癌などの放射線由来と考えられる病気が急増しているという調査結果もある。1986年8月のウィーンでプレスとオブザーバーなしで行われたIAEA非公開会議で、ソ連側の事故処理責任者のヴァレリー・レガソフが当時放射線医学の根拠とされていた唯一のサンプル調査であった広島原爆での結果から、4万人が癌で死亡するという推計を発表した。しかし、広島での原爆から試算した理論上の数字に過ぎないとして会議では4,000人と結論され、この数字がIAEAの公式見解となった。ミハイル・ゴルバチョフはレガソフにIAEAに全てを報告するように命じていたが、彼が会場で行った説明は非常に細部まで踏み込んでおり、会場の全員にショックを与えたと回想している。結果的に、西側諸国は当事国による原発事故の評価を受け入れなかった。2005年9月にウィーンのIAEA本部でチェルノブイリ・フォーラムの主催で開催された国際会議においても4,000人という数字が踏襲され公式発表された。報告書はベラルーシやウクライナの専門家、ベラルーシ政府などからの抗議を受け、表現を変えた修正版を出すことになった。事故から20年後の2006年を迎え、癌死亡者数の見積もりは調査機関によっても変動し、世界保健機関 (WHO) はリクビダートルと呼ばれる事故処理の従事者と最汚染地域および避難住民を対象にした4,000件に、その他の汚染地域住民を対象にした5,000件を加えた9,000件との推計を発表した。これはウクライナ、ロシア、ベラルーシの3カ国のみによる値で、WHOのM. Repacholiによれば、前回4000件としたのは低汚染地域を含めてまで推定するのは科学的ではないと判断したためとしており、事実上の閾値を設けていたことが分かった。WHOの国際がん研究機関 (IARC) は、ヨーロッパ諸国全体(40か国)の住民も含めて、1万6,000件との推計を示し、米国科学アカデミー傘下の米国学術研究会議()による「電離放射線の生物学的影響」第7次報告書(BEIR-VII)に基づき全体の致死リスク係数を10%/Svから5.1%/Svに引き下げられたが、対象範囲を広げたために死亡予測数の増加となった。WHOは、1959年にIAEAと世界保健総会決議(:WHA)においてという協定に署名しており、IAEAの合意なしには核の健康被害についての研究結果等を発表できないとする批判もあり、核戦争防止国際医師会議のドイツ支部がまとめた報告書には、WHOの独立性と信頼性に対する疑問が呈示されている。欧州緑の党による要請を受けて報告されたによると、事故による全世界の集団線量は約60万[人・Sv]、過剰癌死亡数を約3万から6万件と推定している。環境団体グリーンピースは9万3,000件を推計し、さらに将来的には追加で14万件が加算されると予測している。ロシア医科学アカデミーでは、21万2,000件という値を推計している。2007年にはロシアのAlexey V. Yablokovらが英語に限らずロシア語などのスラブ系の諸言語の文献をまとめた総説の中で1986年から2004年の間で98万5000件を推計、2009年にはロシア語から英訳されてというタイトルで出版された。ウクライナのチェルノブイリ連合(NGO)は、現在までの事故による死亡者数を約73万4,000件と見積もっている。京都大学原子炉実験所の今中哲二助教授の話によれば、チェルノブイリ事故の被曝の影響による全世界の癌死者数の見積りとして2万件から6万件が妥当なところとの見解を示しているが、たとえ直接の被曝を受けなくとも避難などに伴う心理面・物理面での間接的な健康被害への影響に対する責任が免責されるわけではないと指摘している。ウクライナ国立科学アカデミー()のIvan Godlevskyらの調査によると、チェルノブイリ事故前のウクライナにおけるLugyny地区の平均寿命は75歳であったが、事故後、65歳にまで低下しており、特に高齢者の死亡率が高まっていることが分かった。これは放射線およびストレスのかかる状況が長期化したことが大きな要因と見られる。1991年に独立した当時のウクライナの人口は約5200万人だったが、2010年には約4500万人にまで減少している。事故発生時、4号炉では動作試験が行われていた。試験の内容はいわゆるストレステストで、外部電源が遮断された場合の非常用ディーゼル発電機起動完了に要する約40秒間、原子炉の蒸気タービンの惰性回転のみで各システムへの電力を充足できるか否かを確認するものであった。しかし、責任者の不適切な判断や、炉の特性による予期せぬ事態の発生により、不安定状態から暴走に至り、最終的に爆発した。動作試験は原子炉熱出力を定格熱出力の20 - 30%程度に下げて行う予定であったが、炉心内部のキセノンオーバーライドおよびオペミスによって熱出力が定格の1%にまで下がってしまった。運転員は熱出力を回復するために、炉心内の制御棒を引き抜く操作を次々に行った。これにより熱出力は7%前後まで回復したが、反応度操作余裕(炉心の制御棒の数)が著しく少ない不安定な運転状態となった。これにより実験に支障が出ることを危惧した運転員らは、非常用炉心冷却装置(ECCS)を含む重要な安全装置を全て解除したうえで、実験を開始した。実験開始直後、原子炉の熱出力が急激に上昇し始めたため、運転員は直ちに緊急停止操作(制御棒の挿入)を行ったが、この原子炉は特性上制御棒を挿入する際に一時的に出力が上がる設計(ポジティブ・スクラム)だったため原子炉内の蒸気圧が上昇し、緊急停止ボタン(AZ-5ボタン、起動するのに約5 - 8秒、スクラム完了にはさらに20秒程度かかる)を押した7秒後に爆発した。この爆発事故はなど多くの複合的な要素が原因として挙げられる。学者らによる後の事故検証では、これらのいずれかがひとつでも守られていれば、爆発事故、あるいは事故の波及を最小限に抑えることができた可能性が高かったとも言われている。ソ連政府は当初、事故は運転員の操作ミスによるものと発表したが、事後の調査結果はこれを覆すものが多かった。重要な安全装置の操作が運転員の判断だけで行われたとは考えにくく、実験の指揮者の判断が大きかったものと推定される。これに原子炉の設計上の欠陥が後押しする格好となった。事故から20年後の一部報道の中には、暴走中に「直下型地震」が発生したことが爆発につながったとするものもあるが、京都大学の今中哲二は、他の1 - 3号炉に異常が無かったこと、付近の住民が地震についての証言をしていなかったことなどから、地震計に記録されているとされるその振動は、4号炉の爆発そのものによって引き起こされたものであると反論している。事故の前年の12月26日の原子力産業の記念日に合わせて4号炉を完工するために、耐熱材質を不燃性材質から可燃性材質へと変更し施工を強行したことも放射性物質の拡散拡大の原因のひとつに挙げられる。4号炉は1986年4月25日に定期保守のためにシャットダウンすることが予定されていて、この時を利用して外部電源喪失時に4号炉のタービン発電機の慣性運転によって原子炉の主ポンプおよびECCS安全システム関連のポンプに十分な給電を行うことができるかどうかについての試験を行うことが決められた。具体的には4号炉の出力を利用して蒸気タービンを回した後にこの蒸気系統を切り離し、前記主要ポンプ系のみの電力負荷に制限した場合にタービン自体の慣性力による有効な発電がどれほどの時間継続するかという試験であった。この試験に際しては、原子炉の出力は標準熱出力の3.2GWから、より安全な低い出力である700MWまで減らす計画になっていた。実験を行うために、実験予定日の前日から運転員は炉の出力を予定通りの700MWに落として実験開始に備えていた。しかし中央の出力司令所からの給電指令が長時間にわたり延期され、当初の予定時刻を過ぎても実験を開始できなかった。その間、原子炉の内部では中性子を吸収する性質が強いキセノンがどんどん溜まっていき、キセノンオーバーライド状態になって出力が自然に低下し始めた。運転員は低下した出力を無理に補うため、挿入されていた制御棒を引き抜かざるを得ず、出力が下がっては抜き、下がってはまた別の制御棒を抜き、を繰り返すことによって、延びに延びた実験開始の時点では制御棒のほとんどが抜かれていたといわれている。制御棒をほとんど引き抜いていた状態から、実験に適したさらに低い出力にするために、今度はいくつかの制御棒が挿入された。しかし炉の出力は、局所制御系から平均制御系への運転モード切り替え操作時に目標値計算を忘れるというオペミス(日本の国会答弁によれば、出力10%以下でしか切り替えを行わない規則があったという)により予定外の30MWまで低下した。この30MWという出力レベルは安全規則が許す限界に近かったにもかかわらず、原子炉を停止せずに実験を強行すること、しかも下がりすぎた出力を補うために本来の実験手順・要項の一部を省略し出力を200MWとすることに現場指揮者が独断で決めた。結果として過剰となったキセノン135の中性子吸収を克服するため、多くの制御棒が炉から引き抜かれ、安全規則が定める挿入済み制御棒本数下限の26本を下回ることになった。実験の予備段階として、4月26日1時05分にタービン発電機によって動かされる冷却水ポンプが起動されたが、14分後の1時19分にはこれによって生成された水流が安全規則によって指定された流量を超えてしまう。水は中性子を吸収する減速材ゆえに増えすぎると(ボイド=泡が減ると)炉の出力を下げる働きをするので、出力を確保するためにさらに炉から手動で制御棒を引き抜かなければならなくなった(爆発直前の制御棒本数は計6本にまで減らされていた)。この際に再試験優先のため、万一のタービン停止時の炉心運転自動停止装置の回路をバイパスして無効化した。このような不安定な炉心状態で、1時23分04秒に実験が始まった。前述の措置により、原子炉各設備の不安定な状態は制御盤にはまったく表示されず、また知識不足も重なり、操作員たちは誰も危険に気付いていなかった。冷却水ポンプへの電気が止められ、そのポンプがタービン発電機の慣性回転のみで運転されると、炉心へ送られる冷却水の流量は減少した。タービンは炉心配管で蒸気量を増やしつつある(減速材である水を減らしつつある)原子炉から切り離された。冷却材が温められるにつれて、冷却材配管中にボイドが増えて大きくなり始めた。チェルノブイリのRBMK黒鉛減速炉は設計上、大きな正のボイド係数を持っているが、それは減速材による中性子捕獲効果が万一減ると同時に原子炉出力は急速に増加し(減速材が減りすぎても逆に中性子は方々へ飛散してしまい核反応しにくくなる)、運転がより不安定で危険になることを意味する。さらにこの原子炉においては、制御棒の先に黒鉛ディスプレーサーという核反応促進装置(減速材の一種)が取り付けられており、これが挿入される間は反応が加速され、これが抜かれて水が浸入すると反応が抑制されるという、急激な変化をもたらす構造となっており、その上下寸法はコスト削減のために核燃料棒のリーチよりやや短くされていた。1時23分40秒に操作員は「スクラム」(軽率にも引き抜かれていた手動制御棒を含むすべての制御棒の全挿入)を命令する「事故防衛」ボタンを押した。それが緊急処置として行われたのか、あるいはただ実験の一部として原子炉停止の型通りの方法(4号炉は通例通りの保守のために停止が予定されていた)として行われたのかは不明であるが、その予期しない速い出力増加を止めるための緊急対応として命じられたものだと一般には考えられている。他方、チェルノブイリ原子力発電所の事故当時の最高エンジニア、は、彼の著書で次のように述べている:制御棒挿入機構のスピードの遅さ(完了までに18 - 20秒)、黒鉛ディスプレーサーが通過することでの一時的な反応促進作用(ポジティブ・スクラムと呼ばれた)、減速材である冷却水が減少し配管内部がボイドおよび蒸気で満たされる、などによってこのスクラム操作はむしろ核反応を劇的に増やす結果になり、炉心内圧上昇は制御棒装置周辺設備の大規模な変形をもたらし操作不能となり、原子炉の反応を止める術を失った。なお黒鉛ディスプレーサーの事故発生寄与度については国際会議でも諸説分かれている。1時23分47秒までに、原子炉出力は定格熱出力の10倍であるおよそ30GW(東京電力管内のピーク時総発電量の半分に相当)まで跳ね上がった。燃料棒は融けて飛び散り、構造上から核燃料が冷却水管の中にあるため瞬時に2000℃近い溶融燃料が冷却水と接触し、油をひいて熱したフライパンに水を投入する要領で水は全て一瞬で蒸気化し容積が急膨張し水蒸気爆発を起こした。一説では爆発は2度あり、ソ連の事故報告書によればこの2度目の爆発は、燃料棒被覆や原子炉の構造材に使用されていたジルカロイと水が高温で反応したことによって発生した水素による水素爆発である。これに対し京都大学の今中哲二は、冷却水を喪失した事によって反応度が増大し、即発臨界で大量のエネルギーが放出されたことによる爆発であると解釈した(即発臨界を「一種の核爆発」と表現しているが、これは核爆弾の爆発とは意味が異なる。核爆発をどう定義するかの言葉上の問題)。この爆発による爆風が原子炉容器の天蓋を吹っ飛ばして斜めにしたため隙間が開いて炉心は大気開放状態となり(この時はまだ爆発とわからず必死で制御棒を操作していたという)、建屋の屋根にも穴が開いた。近隣の者による証言では発電所から赤く光る物体が次々と宙に舞い上がり、花火を見ているようだったという。吹き出す様は火山噴火のようで、一瞬の揺れは地震かと思った、との原子炉タービン建屋の作業員の証言もある。炉心大型化と、経費削減と、納期最優先の突貫工事のために、4号炉は部分的な封じ込めだけで建設されていた(RBMK-1000とチェルノブイリ原子力発電所も参照)。核兵器用のプルトニウム抽出原子炉の設計を転用した原子炉であることも一因であった。これも一因となり、蒸気爆発が一次圧力容器を破裂させ天蓋を吹っ飛ばした後、急速に流れ込んだ酸素と高温の核燃料が合わさって黒鉛減速材が火災を起こしたため、これが上空6000mもの気流に乗って世界各地へ飛散し、広範囲の汚染、および原発周辺地域の高汚染の要因になった。目撃証言と発電所の記録の間に矛盾があるために、現地時間1時22分30秒の後に起こった事態の正確なつながりについては今も解釈が分かれている。最も広く合意されている説明は上で記述した通りであるが、この理論によれば、最初の爆発は操作員が「スクラム」を命令した7秒後のおよそ1時23分47秒に起きたことになる。しかし、爆発がそのスクラムの前、あるいはすぐ直後に起きたと時々主張される(これはソビエト委員会の事故調査の作業途中での説明であった)。この違いは重大である。なぜなら、もし原子炉がスクラムの数秒後に超臨界になったなら事故原因は制御棒の設計にあると見なされるのに対して、爆発がスクラムと同時に起こったのならば、責任は指揮者にあったことになるからである。これについては、ソ連の原発の建設および運用体制に問題の一因があったといわれている。原発の設計と建設は中規模機械製作省が担当し、原発の運用は電力電化省が担い、それぞれが縦割りによって意思疎通がおろそかであったことと、前述の通り軍事用原子炉の設計を転用した民生用原子炉であるため前者は軍事機密秘匿を最重要視しており他省にあまり情報を教えたがらなかったため、たとえば制御棒を全部抜かないようになどとする運用安全規則は用意するものの「なぜそうするのか」といった技術的レクチャーは一切しなかったため、実際の運転業務を担う後者側はあまりに技術的知識がなかったというものである。実際、事故直後は両省の間で責任の押し付け合いがあったといい、結局は原子炉の欠陥設計を認めることでの経済的損失を鑑みて電力電化省側が折れたという。1時23分39秒にマグニチュード-2.5の地震に類似した弱い地震動のイベントが、チェルノブイリ周辺で記録されていた。この振動は4号炉の爆発(2回発生)によって起きたのか、あるいは全くの偶然の一致かもしれない。原子炉の致命的な破壊はこの地震によって引き起こされたとされる説も存在する。その状況は「スクラム」ボタンが一度ならず押されたという事実によって複雑になっているが、実際にスクラムボタンを押した人物は放射線障害により事故の2週間後に死亡しているため、真相は不明である。ただこうした地震原因説については4号炉以外は無事である点などの疑問点が存在する。行政当局の対応のまずさと適切な設備の欠如によって事故の規模は拡大した。2011年の回想によれば、共産党中央委員会政治局会議(当時のソ連の最高意志決定機関)で原発担当大臣が書記長などに対し「大丈夫です」と述べたため対策が遅れた。真相は現地の関係者からの知らせによって分かったという。 4号原子炉建屋に設置された線量計のうち、2つの線量計は1,000レントゲン毎秒まで測定可能だったが、1つは爆発のために接近できず、もう1つは作動させた時に故障していてどちらも使用できず、それ以外の線量計は1ミリレントゲン毎秒までしか測定できないものだった。そのため、原子炉の操作員は原子炉建屋の大部分の放射線レベルが4レントゲン毎時(約1.1ミリレントゲン毎秒)より大きいことを確認できただけだったが、実際の線量レベルは、最も高い区域で20,000レントゲン毎時であった。このような不完全な情報に基づき、操作員の班長は原子炉が損なわれていないと判断した。このとき、建物周辺には黒鉛と核燃料の小片が横たわっていたが、原子炉破損の判断にはつながらなかった。また、現地時間4時30分までに持ち込まれたもう1つの線量計による測定値は、線量計の故障と判断された。原子炉に水を送り込もうと作業を続けたアキモフと操作員は、翌朝まで原子炉建屋に留まったが、いずれも保護具を着用しておらず、大部分は事故後3週間で放射線障害のため死亡した。事故直後、消防士が消火活動のために到着したが、彼らは放射性物質による煙や残骸等がどれほど危険であるかを告げられてはいなかった。火災は5時までには消火したが、その間に多くの消防士が高い放射線量にさらされた。事故を調査するために政府委員会が招集され、副首相が4月26日夜チェルノブイリに到着したが、その時までに2人が死亡し、52人が入院していた。4月26日の夜(その爆発の24時間以上後)に、高いレベルの放射能と多人数の放射線被曝の十分な証拠に直面した委員会は原子炉の破損を認めなければならなくなり、プリピャチ(ウクライナ)の近くの都市からの退避を命令した。大惨事の拡大を止めるために、ソ連政府は清掃作業にあたる労働者を現地に送り込んだ。(陸軍兵士とその他の労働者で構成された)多くの「解体作業者 (liquidator) 」が清掃スタッフとして送り込まれたが、大部分がその危険について何も知らされておらず、効果的な保護具は利用できなかった。というより、このような稼働中の原子炉が爆発し破壊される事態など想定されていなかったし、そもそもこれほどの高線量に対応した「地球の地表で活動するための」放射線防護具など、(現在に至るまで世界のどこにも)存在していなかった。特に危険と思われる場所を担当する軍部隊のみ、軍内部で急造した鉛入りの両かけエプロンを着用させたが、効果のほどは不明であった。放射性の残骸のうち最悪のものは原子炉の残骸の中に集められた。原子炉それ自身は事故の翌週にヘリコプターから投下された砂嚢(およそ5,000t)で覆われた。コンクリート製の石棺が、原子炉とその中身を封じ込めるために早急に建てられた。しかし発表が遅かった。即入院した203人のうち死亡したのは31人で、28人が急性放射線障害だった。彼らは事故を収束させるべく集まった消防と救急の隊員だったが、彼らには煙等からの放射線被曝がどれくらい危険であるかは知らされていなかった。プリピャチの近くの町からの50,000人を含む合計135,000人が、この地域から避難させられた。厚生当局は、次の70年にわたって、原子炉から放出された(情報源によって幅があるが、ヨウ素換算値で)5 〜12EBq(Eはエクサ、10)の放射能を持つ放射性物質を被曝した人の発癌率が2%増加するだろうと予測した。この事故の結果、癌により10人が死亡した。IAEAは1986年の分析では、操作員のオペミスを事故の主原因としていたが、1993年1月に、原子炉の設計仕様そのものに根本原因があると改訂した。ソ連の科学者により、チェルノブイリ4号炉に装填された『二酸化ウラン燃料および核分裂生成物(燃料棒の総量)』を約190トンと推測されているが、このうち大気放出総量の評価は13 - 70%の範囲でばらつきがある。チェルノブイリ事故による汚染は周辺の地方全体に均等に広がったわけではなく、その日の風向きや天候により不規則な散らばり方をした(これは日本の福島第一原発事故においても同じであり、火山灰や煙の拡散と同質。風で運ばれ、降雨で落ちる)。ソ連および西側各国の科学者からの報告書は、ベラルーシが旧ソ連全体に降りかかった汚染の約60%を受けたと述べている。しかし、北西ウクライナの一部でもあった、ブリャンスクの南にあるロシア連邦の広い地域も汚染された。(概要も参照)この事故は当初、国内外問わず秘匿されていた。原発事故の発生に最初に気づいたのはスウェーデンで、4月27日にチェルノブイリ原発からおよそ1,100kmにあるスウェーデンのフォルスマルク原子力発電所の労働者の衣服に放射性物質が付着していることが判明したのがきっかけだった。当初はフォルスマルク原発域内の事故かと騒動になったが、フィンランド政府からも同様の事例があったとスウェーデン政府が通報を受け詳細に当時の気象や風向きなどから発生源の特定調査を行った結果、西ソ連ベラルーシ付近で大きな原子力災害が起こっている疑いが強まり、これを追及されたソ連政府は自国で原発事故が発生したことを公表するに至った。商用発電炉の歴史で、放射線による死者が出たのはこれが初めてだった。2000年4月26日の14周年追悼式典での発表によれば、ロシアの事故処理従事者86万人中5万5000人が既に死亡しており、ウクライナ国内(人口約5000万人)の国内被曝者総数342.7万人の内、作業員は86.9%が病気にかかっている。また、周辺住民の幼児・小児などの甲状腺癌の発生が高くなった。IAEAの記録によると、この事故による放射性物質の放出とそれに伴う汚染は広島に投下された原爆(リトルボーイ)による汚染の約400倍と多いようでも、20世紀中頃に繰り返されたすべての大気圏内核実験による汚染と単純比較した場合、その放射性物質の総量比率は100分 - 1,000分の1に過ぎないので、この事故は局地的災害の性質が濃いという考え方もあるが、など、単純比較にはあまり意味がないともいえる。国連科学委員会の「原子放射線の影響に関する国連科学委員会」(UNSCEAR-1993)によると1945年から60年代に行われた約500回の大気圏核爆発により拡散した放射性物質による集団積算線量は2230万人・Svと推定されている。対してチェルノブイリ事故による集団積算線量は60万人・Svと推定されており核爆発の約13回分(40分の1)に相当している。国連科学委員会は2008年の報告で集団積算線量を以下のように推定している(1986-2005年の間の累計値)爆発時、炉心内部の放射性物質は量にして推定10t前後、14エクサベクレルに及ぶ放射性物質が放出され、北半球全域に拡散した。事故直後半年以内で以下の例が報告されている。事故直後の社会現象としては、例えば、日本では欧州産パスタの販売量が一時的に急減した。「放射線障害に効く」というデマが流れ、ヨード卵の価格が高騰した。日本では、この事故をきっかけに原子力発電そのものに対する一般市民の不安が急増した。このため、政府は、『日本の原子炉はアメリカ型で、事故を起こしたソビエト型とは構造が異なり、同様の事故は起きない』という説明を行った。広河隆一が直接現場を訪れて取材した。事故の直後においては健康への影響は主に半減期8日の放射性ヨウ素によるものだった。今日では、半減期が約30年のストロンチウム90とセシウム137による土壌汚染が問題になっている。最も高いレベルのセシウム137は土壌の表層にあり、それが植物、昆虫、キノコなどに吸収され、現地の食糧生産に入り込む。最近の試験(1997年頃)によると、この区域内の木の中のセシウム137のレベルは上がり続けている。汚染が地下の帯水層や、湖や池のような閉じた水系に移行しているといういくつかの証拠がある(2001年、Germenchuk)。雨や地下水による流去は無視できるほど小さいことが実証されているため、消滅の主な原因は、セシウム137がバリウム137へ自然崩壊したことによるものと予想されている。事故後に復旧と清掃作業に従事した労働者は高い放射線線量の被曝を受けた。ほとんどの場合、これらの労働者は受けた放射線量を計測するための個人線量計を装着していなかった。それゆえ専門家は彼らの被曝線量を推定するしかなかった。線量計が使われていた場合でも、測定手順はまちまちだった。一部の労働者たちは他の者よりも大量の放射線量を受けたと推定された。ソ連の推定によると、30万から60万人が炉から30kmの退避区域のクリーンアップに従事したのだが、その多くは事故から2年後にその区域に入った(解体作業者"liquidators"とは事故の処理と復旧作業のためにその区域に立ち入った労働者を言うが、その推定人数はまちまちである。例えば、世界保健機関 (WHO) は約80万人とし、ロシアは汚染区域で働いていなかった一部の人間も解体作業者としてリストに含めている)。事故から最初の1年で、この区域のクリーンアップ労働者は約21万1,000人と推定される。これら労働者は推定平均線量165ミリシーベルトを受けた。ソ連政府は事故から36時間後にチェルノブイリ周辺の区域から住民の避難を開始した。およそ1週間後の1986年5月までに、当該プラントから30km以内に居住する全ての人間(約11万6000人)が移転させられた。その他、当該プラントから半径350km以内でも、放射性物質により高濃度に汚染されたホットスポットと呼ばれる地域においては、農業の無期限での停止措置および住民の移転を推進する措置が取られ、結果としてさらに数十万人がホットスポット外に移転した。ソ連の科学者の報告によると、28,000kmが185kBq/mを超えるセシウム137に汚染した。当時、約83万人がこの区域に住んでいた。約10,500kmが555kBq/mを越えるセシウム137に汚染した。このうち、ベラルーシに7,000km、ロシア連邦に2,000km、ウクライナに1,500kmが属する。当時、約25万人がこの区域に住んでいた。これらの報告データは国際チェルノブイリプロジェクトにより裏付けられた。民間人に対する長期的影響についての問題は、議論の余地が大きい。この事故で生活に影響が出た人の数は極めて多く、原発から半径30km圏内の住民約11万6000人が即時に強制避難、ついで線量ホットスポットである北西約100km圏内も避難対象となり、計40万人超が移住を余儀なくされた。また約60 - 80万人が事故後の処理に従事した(リクビダートル)。1991年 - 1995年の集計データでも約656.7万人の人々が汚染区域に住み続けている。その一方で、これらの人々の大部分は、比較的に低線量の被曝であると言われる。汚染区域の子供は甲状腺に、最大で累積50グレイの高線量を被曝した。これは汚染された地産の牛乳を通じ、甲状腺に蓄積される性質を持ち、半減期の短いつまり単位時間あたりでは高線量である放射性ヨウ素を多量に摂取したためであり、また子供は身体および器官が小さいため、大人よりも累積線量が高くなるためでもある。IAEAの報告によると、「事故発生時に0歳から14歳だった子供で、1,800件の記録された甲状腺癌があったが、これは通常よりもはるかに多い」と記されている。発生した小児甲状腺癌は大型で活動的なタイプであり、早期に発見されていたら処置することができた。処置は外科手術と、転移に対するヨウ素131治療が必要である。1995年、世界保健機関 (WHO) は、子供と若年層に発生した700件近い甲状腺癌をこの事故と関連付けた。10件の死亡が放射線に原因があるとした。しかし、検出される甲状腺癌が急速に増えているという事実は、そのうち少なくとも一部はスクリーニング過程によって作り出されたものであることを示唆している。放射線により誘起される甲状腺癌の典型的な潜伏期間は約10年であるのに対し、一部地域での小児甲状腺癌の増加は1987年から観測されている。しかし、この増加が事故と無関係なのか、あるいはその背後にあるメカニズムかは、まだ十分に解明されていないとIAEAは主張している。資金不足、不十分な時系列的疫学調査、貧弱な通信設備、および多くの要因からなる緊急の公衆衛生問題により、旧ソ連では疫学的調査が遅々として進んでいない。適切に設計された疫学的調査よりも、スクリーニングに重点が置かれてきた。適切な科学インフラが不足しているため、国際的に疫学的調査を体系立てて行うことが遅れている。ベラルーシ・ウクライナは、環境の回復、退避と再定住化、汚染されていない食料の開発と食料流通経路の開発、公衆衛生への対策などを行ってきたが、重過ぎる負担になっている。国際機関と外国政府は広範囲に渡る物流支援、人道支援を行ってきた。加えて、欧州委員会 (EC) と世界保健機関は、ロシア、ウクライナ、ベラルーシでの疫学的調査基盤を強化し、あらゆる種類の疫学的調査の能力を向上させている。住民は現在でも少なくとも半年に1回は定期的な健康診断を受けており、健康に不安を持っている。一部の人には、男性では頭髪が抜けたり、女性ではひげが濃くなったりといった症状を訴える人もいる。いくつかの研究により、ベラルーシ、ウクライナ、およびロシアの子供での甲状腺癌の発生が増えていることが判った。国際連合人道問題調整事務所の立ち上げた「The United Nations and Chernobyl」によると、ウクライナでは350万人以上が事故の影響を受けており、その内の150万人が子供であった。癌の症例数は19.5倍に増加し、甲状腺癌で54倍、甲状腺腫は44倍、甲状腺機能低下症は5.7倍、結節は55倍となった。ベラルーシでは放射性降下物の70%が国土の四分の一に降り、50万人の子供を含む220万人が放射性降下物の影響を受けた。ベラルーシ政府は15歳未満の子供の甲状腺癌の発生率が2001年には1990年の2000例から8,000-10,000例に急激に上昇したと推定している。ロシアでは270万人が事故の影響を受け、1985年から2000年に汚染地域のカルーガで行われた検診では癌の症例が著しく増加しており、それぞれ、乳癌が121%、肺癌が58%、食道癌が112%、子宮癌が88%、リンパ腺と造血組織で59%の増加を示した。ベラルーシとウクライナの汚染地域でも乳癌の増加は報告されている。2011年、アメリカ国立衛生研究所の一機関であるアメリカ国立癌研究所による国際的な研究チームは、子供の被曝は、大人が被曝した場合に比べて甲状腺癌にかかるリスクが高く、さらに依然として甲状腺癌の発症リスクが減少傾向に転じていないことを報告した。アメリカ国立癌研究所の調査結果によると、慢性被曝による癌リスクは日本の原爆被爆者が受けた急性被曝によるリスクに匹敵し、放射能汚染は、白血病全体のリスク増加に加え、チェルノブイリ事故前には放射能被曝との関連性が知られていなかった慢性リンパ性白血病に影響を及ぼしていることが分かった。過去の被曝者の健康調査の結果、白血病は被曝から発病まで平均12年、固形癌については平均20 - 25年以上かかることが分かっている。このことから、白血病および固形癌が通常に比べてどれだけ増加するのかは継続的な調査によって判明すると予想される。第一回チェルノブイリ事故の生物学的、放射線医学的観点にかかる国際会議(1990年9月)でのソビエトの科学者による報告によると、当該プラントから10km区域での放射性降下物のレベルは4.81GBq/mであった。大量の放射性降下物により枯死したいわゆるマツの「赤い森」が10km区域内のサイトのすぐ背後の地帯に広がっている。この森は事故後、極めて大量の放射性降下物により枯死して赤茶色に見える木々のためにそう名づけられた。事故後のクリーンアップ作業の中で、4kmの森の大部分が埋め立てられた。赤い森のある場所は、世界で最も汚染された地域の一つである。この地域の動植物に放射性降下物が長期的な悪影響をもたらしたかどうかは未だ分かっていない。動植物は人間に比べ、放射線耐性が大きく異なり、また幅広く差があるためである。この地域の一部の植物が突然変異しているという報告もあり、そのため、奇怪な姿に変異した多くの植物があるという「ふしぎの森」や「奇怪な森」についての根拠のない噂がいくつか生まれている。また、植物に限らず動物や昆虫の奇形化・巨大化も一部で起こった。しかしながら、その場所から人間がいなくなったことが自然の復活をもたらしつつあるようで、たとえば事故後およそ20年後現地に入ったウクライナ系米国人ジャーナリストによれば、イノシシを主として、いくつかの希少な動植物が数を増やしているという。テレビ番組「Life After People(人類滅亡後の世界)」では、人類滅亡後の地球の姿を想像するサンプルとして、チェルノブイリが取り上げられている。チェルノブイリプラントのトラブルそのものは4号炉の惨劇で終わったわけではなかった。ウクライナ政府は、国内のエネルギー不足のため残った3つの原子炉を運転させ続けた。この時のウクライナ政府は財政難で新規の発電所の建設が困難であったため、チェルノブイリ原子力発電所をそのまま使わざるを得なかった。1991年に2号炉で火災が発生し、政府当局は炉が修復不能なレベルまで損傷していると宣言して、電源系統から切り離した。1号炉は、ウクライナ政府とIAEAのような国際機関との間の取り引きの一部として、1996年11月に退役した。2000年11月に当時のウクライナ大統領・レオニード・クチマ本人が公式式典で3号炉のスイッチを切り、こうして全プラントが運転停止した。4号炉は事故直後、大量の作業員を投入し、「石棺」と呼ばれるコンクリートの建造物に覆われた。建設は6月に開始され、11月に完成した。耐用年数は30年とされており、老朽化への対策が望まれている。事故後、放射能汚染により人が立ち入ることができなかったことから、原発事故の直撃を受けた職員の遺体が搬出されなかった。事故直後に無防備のまま炉の中に入った数名の作業者の行方が未だ分からず、現在も石棺の中に数名の職員の遺体が残っているものと思われるが、彼らの遺体を搬出できるようになるまでには数世紀にわたる長い時間がかかると見られている。石棺の中では放射性物質拡散防止のために特殊な薬剤が散布されているが、大半が外部に流出しているとみられている。なお、『10日間で収束した』という曖昧な俗説が見受けられるが、実際は簡易的に線源放出量を下げる応急処置が功を奏するまでの期間に過ぎない。石棺の完成までは事故発生から7か月を要している。時系列的には、4月27日にホウ酸、石灰、鉛、粘土、砂など5000トンを炉内へ散布し放射線源放出量が1/3、5月1日までには1/6に低下。翌2日、核燃料の崩壊熱と制御棒黒鉛棒の火災熱により温度上昇し線量が再び増加、翌3日にはこの高温化した炉内と水分との接触を回避するためにサプレッションプールから水抜き作業を開始(再度水蒸気爆発の回避)、翌4日には放出線量が事故当日の半分にまで増加、翌5日には液体窒素注入を開始し急激な線量低下を達成した、という流れである。石棺はこの場合効果的な封印手段ではなく、石棺の建設は応急処置である。大半は産業用ロボットを用いて遠隔操作で建設されたために老朽化が著しく、万が一崩壊した場合には放射性同位体の飛沫が飛散するリスクがある。より効果的な封印策について多くの計画が発案、議論されたが、これまでのところいずれも実行に移されていない。国内外から寄付された資金は建設契約の非効率的な分散や、杜撰な管理、または盗難に遭うなどして浪費される結果となった。現在も年間4,000kl近い雨水が石棺の中に流れ込んでおり、原子炉内部を通って放射能を周辺の土壌へ拡散している。石棺の中の湿気により石棺のコンクリートや鉄筋が腐食し続けている。その上事故当時原子炉の中にあった燃料のおよそ95%が未だ石棺の中に留まっており、その全放射能はおよそ1,800万キュリーにのぼる。この放射性物質は、炉心の残骸や塵、および溶岩状の「燃料含有物質 (FCM) 」からなる。このFCMは破損した原子炉建屋を伝って流れ、セラミック状に凝固している。単純に見積もっても、少なくとも4tの放射性物質が石棺内に留まっている。シェルター構築計画 (SIP) は、現在4号炉を覆っている石棺の上に、新安全閉じ込め設備 (NSC) と呼ばれる、石棺を覆うようにして滑らせる可動式のアーチを建設し、それを使用して石棺内にあるとされる放射性物質や汚染された瓦礫などを排除し、4号炉の中にある放射能をゼロにするという計画である。放射能や水の汚染などの問題解決が期待されるが、建設に莫大な費用(推定コストは7億6800万ドル)や労力がかかるという問題がある。NSCの概念設計は、高い放射線場を避けるためシェルターから離れた場所で建設してから取り付ける方式をとる。NSCは史上最大級の可動式構造物になることが想定される。チェルノブイリシェルター基金は1997年のデンバーG7サミットでシェルター構築計画に資金を提供するために設立された。シェルターはベクテル、、フランス電力公社によって管理される予定。2010年12月21日より、ウクライナ政府は正式にチェルノブイリ原子力発電所付近への立ち入りを許可した。本来は発電所から半径30km以内はそれまで立入禁止であった。ウクライナ政府が正式にこのような許可を発表したのは、現在は発電所付近の放射線レベルが低くなったためとの発表があったためである。キエフからはツアーが催行されている。無人の土地となった現地一帯は、野生動物の宝庫となっている。チェルノブイリ事故は国際的な注目を集めた。その結果として「チェルノブイリ」は大衆の認識に多くの異なった姿で刻み込まれることとなった。チェルノブイリ事故は明らかに大規模災害であったため、世界中のメディアの注目を集めた。原子力のリスクに対する大衆の認識は大幅に上がった。原子力推進側と反対側の団体が、大衆の意見を動かすために多くの努力を払った。死傷者の数、炉の安全性の評価、および他の炉でのリスク評価は、著者がどちらの立場に近いかによって大きく異なる。例えば、原子放射線の影響に関する国連科学委員会は、国際連合人道問題調整事務所の刊行物に関して、公に批判した。このように、この問題の真実を明らかにすることはかなり困難である。実際の事故の原因、経過に関しては、ソ連首脳部に対しても、より現場に近い組織、人間が事実を隠蔽しようとする動きがあった。これは、スターリン体制以来の恐怖政治から、当事者が懲罰を恐れ自らの保身を第一に考えたためである。この体質に対して最高指導者のミハイル・ゴルバチョフはいらだち、グラスノスチ(情報公開)の徹底を指導した。事故は改革派としてのゴルバチョフのイメージに傷をつけることになった。「チェルノブイリ」が「ニガヨモギ」と翻訳されることがある事実から(この翻訳が正しいかどうかは議論の余地があるが)、英語圏のキリスト教徒の間で、チェルノブイリ事故は聖書の中に記されているという都市伝説が生まれた。この話の発祥(少なくとも西側に広まることになった最初の起源)は、ウクライナ語で「ニガヨモギ」を「チェルノブイリ」というのだという氏名不詳の「著名なロシア人作家」の主張を引用した、によるニューヨーク・タイムズ紙の記事だとされている。この都市の名前は、ウクライナ語でニガヨモギの近縁種の mugwort ("Artemisia vulgaris") を意味する「チョルノブイリ ( / chornobilʹ) 」から来ている。この語は、「チョールヌイ(chornyi、黒い)」と「ブイリヤ(byllia、草の葉または茎)」を組み合わせたものであるから、直訳すれば「黒い草」、または「黒い茎」という意味になる。『黙示録』のニガヨモギは、"Artemisia vulgaris" でも "Artemisia absinthium" (現在のニガヨモギ)でもなく、"Artemisia judaica" だとする説が有力である。また、キリスト教神学上の通説においてはこのような聖書解釈は一切なされていない。被曝児の喉に残っている赤い傷痕で、甲状腺癌摘出による手術跡を首飾りに見立てている。なお、甲状腺を摘出した場合、代謝を司る甲状腺ホルモンを体内で作ることができなくなるため、生涯甲状腺ホルモンの必要量を毎日経口摂取しなければならない。CIHコンピュータウイルスは多くのメディアにより「チェルノブイリ・ウイルス」という名前を付けられた。変種v1.2が毎年4月26日、すなわちチェルノブイリ事故の日に発症することにちなんでいる。しかし、これはウイルスの作成者の誕生日がたまたまその日だったというだけで、ただの偶然の一致である。残留放射能が多く存在し続けている現地周辺を撮影しているため、空中を飛び交う中性子が撮影用フィルムに衝突して感光し、無数の白い小さな点が一緒に撮影された作品が多い。
出典:wikipedia
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