前身の旧制横浜専門学校は勤労青年の為の夜間部を設けた横浜初の高等教育機関であった。また、地方入学試験および給費生制度を戦前以来導入している。建学の精神は、質実剛健、積極進取、中正堅実となっている。創設者の政治家米田吉盛は、1927年の金融恐慌により、農村は深刻な不況に見舞われ、1928年田中義一内閣の下での共産党党員の一斉検挙、治安維持法の改正など混乱した社会の中で、「民族の危機」を感じ、「自分と志を同じくする中正堅実な青年を一人でも多く育成する」という使命感を持っていた。米田は太平洋戦争戦時下の1942年4月第21回衆議院議員総選挙で、大政翼賛会の推薦候補制度が導入される中、「政府が選挙に介入することは公選精神に反する」とし、非推薦で立候補、当選している。また、建学の精神は横濱専門学校校歌(作詞:土井晩翠 作曲:岡野禎一 編曲:坂下滉)の歌詞にも、「一、近代日本の文化の曙光、初めてまばゆく照しゝ港、港に基おく吾等が母校、榮えよ 横濱専門学校 二、基は新たに昭和の御代に、四海の思潮の寄せくる時に経世実用めあてとなして榮えよ 横濱専門学校 三、狂と暗とは暫しの悩み、正義は世界の力の本と信じて勉むる健兒のやどり榮えよ 横濱専門学校、四、祖国の誉と世界の平和、目指して日に日に希望にみちて向上無窮の使命に進む榮えよ 横濱専門学校」などと歌われている。創立当時、米田吉盛は自らも苦学した経験から、給費生制度を設け勤労学生を援助した。また「教育は教員にあり」という信念を持っており、中央大学の恩師・当時司法次官だった林頼三郎を横浜専門学校初代校長に招いた。また樋貝詮三から資金面の援助を得た。太田哲三からは商業系の学科を開設するにあたって援助を得た。法律系の教授陣は米田の母校中央大学の教員と裁判官、そして、商業系の教授陣は東京商科大学(現、一橋大学)の教員が主流をしめていた。日本で唯一の歴史民俗資料学研究科が大学院に設置されている。また、外国語学部スペイン語学科では、副専攻として「英語コミュニケーション特修副専攻」を履修でき、国際文化交流学科の単位を一定以上修得すれば副専攻コース修了証書を得ることができる。法学部には、1995年に設置された自治行政学科があり、実際に自治体の行政に携わってきた実務経験者を講師に招いて講義を行っている。1928年に米田吉盛が横浜市中区桜木町に、林頼三郎、樋貝詮三、太田哲三らの協力を得て、横浜学院を開設した。その後、1929年に専門学校令によって横浜専門学校となる。横浜専門学校は、勤労青年の為の夜間部を設けていたが、これは高等教育機関としては横浜初のことであった。所在地は横浜市中区桜木町であった。1930年、当時東急東横線の開通で発展の見込まれた横浜市神奈川区六角橋の字・宮面の丘陵に移転し、現在に至る。移転当時、付近は田畑の広がるのどかな田園地域だった。現在の校名は第二次世界大戦後の学制改革による大学昇格時に決定した名称である。横浜専門学校と官立の新制大学(前身は横浜経済専門学校・横浜工業専門学校・神奈川師範学校・神奈川青年師範学校)と横浜市立の新制大学(前身は横浜市立経済専門学校)がともに「横浜大学」を名称として申請したため、3校において協議を行うこととなった。その結果、各校が譲歩し「横浜大学」の名を使用しないことを決定した。その際、官立の新制大学は「横浜国立大学」、横浜市立の新制大学は「横浜市立大学」とすることとなり、横浜専門学校は「神奈川大学」を名乗ることとなった。各キャンパスの詳細についてはキャンパスの項を参照"詳細は"短期大学部は2002年度に廃止された。日本常民文化研究所は、澁澤敬三が1921年に創立したアチック・ミューゼアム・ソサエティを母体として設立された研究機関で1982年に神奈川大学の附属機関となった。日本の民衆文化や市井の生活を調査分析する研究機関として民俗学の研究家の間では高い評価を受けている。神奈川大学の図書館は横浜キャンパスに横浜図書館が、湘南ひらつかキャンパスに平塚図書館が設置されている。2010年4月現在で、横浜図書館には約100万冊、平塚図書館には約18万冊の蔵書が存在している。互いの図書館の書籍を借りることもできる。また、横浜図書館には金融関係を主にした約2,400冊から構成される「山口文庫」が存在しており、現代の日本では他の大学図書館にはあまり存在していないフランスの原典が含まれている。平塚図書館は湘南ひらつかキャンパス開学時には平塚図書室として設置されたが、11号館建設とそれに伴う1号館のリニューアル工事に伴って拡張されたことにより、2010年4月から現在の名称に変更された。21世紀COEプログラムは以下が採択されている。横濱専門学校(神奈川大学)は東京専門学校(早稲田大学)に対抗していた風潮があり東専対横専と称して喧嘩に明け暮れていた俗に言うバンカラ校でもあった。現在の神奈川大学応援団はその流れを汲んでいる神奈川大学の学生運動は全学自治会を社青同解放派(ヘルメットは青色)が握る。塩川喜信(全学連運動中期、元全日本学生自治会総連合(全学連)委員長)の妻塩川啓子(けいこ、全学連委員長)が60年代末、神奈川大学の非常勤講師であり、神奈川大学は70年代に藤本陽一、北條秀輝全学連委員長を出すなど社青同解放派全学連の最大拠点校の一つであった。1968年、原子力空母エンタープライズ (CVN-65)寄港阻止支援カンパ問題(佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争)から学生運動が起こり、教授団と学生が討論会を開く。1973年9月14~15日 深夜、新学期の直前、早稲田解放闘争の継続を恐れた早稲田大学生等の革マル派150名が神奈川大学に泊り込んだ解放派部隊約50人に4時間にわたり夜襲をかける(警察は介入しない、黙認?)。この結果、解放派部隊のほとんどが入院という大きな打撃を受け、反撃された革マル派東京大学生と国際基督教大学生計2名が死亡(神大内ゲバ殺人事件)。1974年の横浜国大内ゲバ殺人事件では神奈川大学の学生が内ゲバの被害者になっている。1970年代後半、学費値上げ阻止闘争の大衆団交で「学生運動初、値上げ決定後に白紙撤回」を勝ちとった。しかし、1981年の狭間派と労対派の分裂により、執行部は狭間派が握るが、通称:4.20グループら学内多数派が滝口弘人(労対派)らのグループにつくことで弱体化し、1996年に内ゲバ殺人事件に絡む機動隊の強制突入により全学自治会は潰される。二部の自治会はノンセクト系。一方、民族派としては「全国学生自治体連絡協議会」(全国学協)に参加し、1970年に三島由紀夫と共に三島事件を起こし憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた「楯の会」の伊藤邦典(1期生)、古賀浩靖(法学部)、小賀正義(工学部)らもいた。神奈川大学は民族派学生の拠点校でもあった。神奈川大学では、スポーツ系や文化系など合計180以上のサークルが日々活動を行っているまた、神奈川大学・横浜FC・神奈川区共催で「親子サッカークリニック」とし小学生らにサッカーを教えるイベント等開催。2013年、2014年、2015年と3年連続で神奈川大学学長杯 KICK THE MINE CUPとし、横浜Fマリノスとの協賛で地雷除去キャンペーンのチャリティイベントを開催している神奈川大学では他大学が「学園祭」と呼んでいるイベントを「大学祭」と総称している。大学側としては、学年暦に含まれる祭を「大学祭」と称し、大学側公認前の祭を「学園祭」と区別していたことがある。そのため、本記事ではかつて開催されていた学園祭とは別であることを示すために節名を「大学祭」としている。後述のとおり1996~1998年は横浜キャンパスでの学園祭が中止され、湘南ひらつかキャンパスのみで学園祭が行われていた。横浜キャンパスで開催されている大学祭である。横浜キャンパスでは古くから「海神祭」(わだつみさい)の名前で学園祭を11月3日前後に開催されていたが、前述の全学自治会追放により、1996年より開催が中止されている。その後横浜キャンパスの学生で組織される神大フェスタ実行委員会が結成されて、1999年より学生主体のイベントとしてスタート、2005年には大学公認イベントとなった。湘南ひらつかキャンパスとの交流を考慮して、後述の平塚祭とは別日程を組んで開催されている。湘南ひらつかキャンパス開設と共に大学の協力も得て立ち上げた大学祭、湘南ひらつかキャンパス学生により結成される平塚祭実行委員会により運営、実行されている。1992年開催の第4回まで「どんちゃん祭」と称し、1993年の第5回から現在の名称となる。2005年より大学公認となった。1993年以降は平塚祭期間中に湘南ひらつかキャンパス卒業生・湘南ひらつかキャンパス教職員経験者を招待する「ホームカミングデー」(2008年までは「ホームカミングパーティー」と呼称)を開催している。2009年は湘南ひらつかキャンパス開設20周年式典が開催された関係で、式典出席者を交えた懇親会が「ホームカミングデー」を兼ねて開催された。期間中の1日昼間に開催している。同窓会は「宮陵会」(きゅうりょうかい)と称す。また、保護者組織としての後援会がある。神奈川大学では以下のサテライトキャンパスを設置している。なお、附属学校や大学野球場・大学ラグビー場などがある場所を中山キャンパス(旧称「台村町校地」)と呼んでいる。横浜キャンパスにはもともと、現在の1号館のある付近に大講堂があったが、再開発によって取り壊されている。再開発中に16号館が建設され、同館内に「セレストホール」と称する講堂を開設した。湘南ひらつかキャンパスには開学当初講堂がなく、1号館の円形講義室を講堂代わりに使用していたが、大学80周年記念事業によって2009年8月に11号館が新設された際に、「サーカムホール」と称する講堂を同館内に開設した。大学では「学生マンション」と称して以下の施設を提供している。戦後から宮面の山腹(現横浜キャンパス・グラウンドの山側)に、「宮面寮」という自治会が運営する大学公認の寮があったが、90年代に取り壊されている。
出典:wikipedia
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