力道山(りきどうざん、朝鮮語:(ヨットサン、Yeokdosan / Yŏktosan)、朝鮮文化語:(リョットサン、Ryeokdosan / Ryŏktosan)、1924年11月14日 - 1963年12月15日)は、日本のプロレスラー。本名・戸籍名・日本名:百田 光浩(ももた みつひろ)、旧名・出生名・朝鮮名:金 信洛(きん・しんらく、キム・シラク、(Gim Sinrak / Kim Sinrak))。大相撲の力士出身。身長176cm(プロレス時代の公称身長は180cm)、体重116kg。日本統治時代の朝鮮・咸鏡南道洪原郡新豊里(現在の北朝鮮統治範囲)で現地人の両親のもとに生まれた。二所ノ関部屋に入門し、1940年5月場所初土俵、1946年11月場所に入幕し、入幕2場所目の1947年6月場所に前頭8枚目で9勝1敗の星をあげ、横綱羽黒山、大関前田山、同東冨士ら3人と相星となり、この場所から設けられた優勝決定戦に出場した(優勝は羽黒山)。1948年5月場所では横綱照國とこの場所優勝した大関東冨士を破り、さらに横綱前田山には取り直しの末、前田山の棄権によって不戦勝となって殊勲賞を受賞している。なおこの年に力道山の生まれた朝鮮半島に韓国が建国されたが、その後も力道山は自分の出自をマスコミに公開しないままであった。1949年5月場所に関脇に昇進するが、1950年9月場所前に突然、自ら髷(まげ)を切り廃業。師匠の二所ノ関親方との間には金銭トラブルも起こしていたとされる。相撲界から引退時、百田の戸籍に長男として入籍。 その後二所ノ関部屋の後援者新田新作が社長を務める新田建設に勤務したが、ナイトクラブでの喧嘩が元でハワイ出身の日系人レスラーのハロルド坂田(トシ東郷)と知り合い意気投合した(「プロレス修行」の項参照)。1951年9月30日から、アメリカのフリーメイソン系慈善団体「(フリーメイソン#関連団体も参照)」が、当時日本を占領下に置いていた連合国軍への慰問と障害者のチャリティーを兼ねて、母国からボビー・ブランズら6人のレスラーを招きプロレスを開催していたが、ハロルド坂田もこの一員だった。力道山は坂田の勧めで練習を見に行き、プロレス転向を決意し、港区芝にあったシュライナーズ・クラブで指導を受けるようになった。1952年2月、アメリカに渡り、ホノルルで日系人レスラー沖識名の下で猛特訓を受けた。翌年帰国して新田新作と興行師永田貞雄の助力を得て日本プロレス協会を設立する。シャープ兄弟を招聘し、1954年2月19日から全国を14連戦した初興行は、テレビ放送が1953年にテレビ放送が始まったことに追い風を受け、全国民の支持を受けて大ブームとなる。この興行でシャープ兄弟組と戦う時の力道山のタッグパートナーは、戦前戦中に日本柔道史上最強と謳われる木村政彦だった。しかし、木村は相手の技を受ける等のプロレス独特のスタイルに適応できず、シャープ兄弟との戦いでいつも負け役を担わされ、その木村を力道山が空手チョップで救いだし、相手レスラーを倒すという一連の展開に嫌気がさし、力道山との間に亀裂が入るようになった。後に木村は力道山とは袂を分かち、自身の団体で興行を打つものの、観客動員は芳しくなく、金銭的に窮地に陥った木村は朝日新聞記者に「力道山のプロレスはジェスチャーの多いショーだ。真剣勝負なら負けない」と挑戦を表明した。この一連の流れが「昭和の巌流島」といわれる謎の試合に繋がっていった。1954年12月22日、力道山は挑戦に応じ「相撲が勝つか柔道が勝つか」と騒がれたプロレス日本ヘビー級王座の決定戦が行われた。この試合は、力道山側によるレフェリー「ハロルド登喜」の選定、木村側のみ当身禁止という力道山側に有利なルールで行われた。しかし、木村側の証言によれば、本来この試合は、あくまで勝敗の決まったプロレスであり、東京をはじめ、大会場で両者勝敗を繰り返しながら全国を巡業する予定であったという。しかし、初戦で木村の急所蹴りに激怒した力道山が突如と殴りかかり、そのまま張り手と執拗な蹴りの連打で、戸惑ったままの木村政彦をそのままKO。倒れた木村は大量の血を吐き、マットには大きな血だまりができた。この通常のプロレスと違う顛末に観客たちも驚き会場は静まりかえったという。この力道山が激怒したとされる急所蹴りについて、幾つかのスポーツ紙においては力道山が木村の胴へ右足裏での飛び蹴りを浴びせたことが由来とする報道もあり、鮮明な映像がない当時の記録では、事の詳細は不明となっている。後日、力道山が木村が試合前に渡したと言われる「1試合目は引き分け」と書かれた念書をマスコミに公開し、この試合がいわゆる八百長崩れであったと証言する。後年、力道山と木村は仲介人を得て和解するものの、21世紀になる今日でも当時の試合舞台裏については謎が多く、様々な憶測や意見が出されることで、この試合をモチーフとし書かれた小説、エッセー等が存在する。近年では、ノンフィクションを謳う増田俊也著の 「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」が主に木村視点での綿密な取材を行い、ヒットしたことで話題となった。大相撲出身の力道山が天下を取ったことで角界からプロレス入りする者が続出し、現在も日本プロレス界の付き人制度等、相撲の影響が垣間見える。1955年、キングコングを破ってアジアヘビー級王座を獲得。1958年、ルー・テーズを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。1959年には第1回ワールド大リーグ戦を開催し優勝する。ワールド大リーグ戦はその後1963年まで連続優勝。1962年、フレッド・ブラッシーのNAWA世界王座に挑戦、奪取とみられたが、その後、クレームが付き、保留。新たに初代WWA世界ヘビー級王者と「追認」された(WWA世界ヘビー級王座は、当時NWA世界ヘビー級王座から分裂していた王座である)。力道山はルー・テーズやパット・オコーナー、カール・ゴッチのようなストロングタイプともジェス・オルテガやフレッド・ブラッシーのような悪役・怪物タイプとも名勝負を残しているが、後者の方が手が合ったようである。1958年4月、力道山を慕って韓国から密入国して横浜で逮捕された金一を、後見人である自民党副総裁・大野伴睦の政治力で日本在住を認めさせ、門下生にし、大木金太郎のリング名を与え、韓国名を用いることを厳禁した。1963年1月、韓国側の招きで韓国を訪問し、金浦空港で体育協会、レスリング関係者約60人に出迎えられた。記者会見で「20年ぶりに母国を訪問でき感無量です。長い間日本語ばかり使っているので、韓国語はさっぱり・・・」と言い、最後に「カムサ・ハムニダ」と付け加えた。その模様を『東京中日新聞』が「力道山、二十年ぶりに母国へ」の見出しと写真入りで掲載したところ、これまで朝鮮半島出身であることを隠し続けていた力道山は、帰国後これを知り当新聞に激怒したという。1963年5月24日、東京体育館で行われたWWA世界ヘビー級選手権・ザ・デストロイヤー戦は平均視聴率で実に64.0%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。なお、この試合では、「四の字固めを完璧に決められた力道山が」ギブアップすることなく戦い続けたものの決着がつかず、「両者試合続行不可能と判断したレフリーによって、引き分け」とされた。そして、「試合後、自らの力ではからみあった足を解けぬ両者のリング・シューズのヒモ」を若手レスラーがハサミで切って引き離したという。1963年12月8日午後10時30分に、遊興中の赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、暴力団住吉一家傘下の大日本興業構成員であった村田勝志と、足を踏んだ踏まない、で口論になり、馬乗りになって殴打したところ、村田に下から登山ナイフで腹部を刺された。だが、自ら持ちかけた喧嘩ということもあり警察沙汰にはせず、知り合いの医師の勤める山王病院に入院。12月15日に化膿性腹膜炎で死去した。戒名は大光院力道日源居士。墓所は東京都大田区の池上本門寺の他に、故郷・長崎県大村市の長安寺にある百田家の墓所に分骨されている。1991年の大下英治による加害者への直接取材、その他により刺殺事件の顛末が明らかにされている。酩酊するほど飲みながら女性と話していた力道山の横を暴力団員村田勝志が通り掛る際、力道山が「足を踏まれた」と、後ろから村田の襟首をつかんだ。村田は踏んでいなかったので、「踏んだ覚えはない」と反論するが、口論となり、「あんたみたいな図体の男がそんなところに立っていたらぶつかって当然」と言い放つ。この時、村田は懐中に手をやる。それを見て、刃物を取り出すのではないかと思った力道山が、「わかった。仲直りしよう」と言い出す。それに対し村田は「こんな事されて俺の立場がない」と仲直りを拒否。和解を諦めた力道山は村田の顎を拳で突き飛ばし、壁に激突した村田は顎がガクガクになった。さらに力道山は村田の上に馬乗りになり激しく殴打する。村田は「殺される」と思い、ナイフを抜いて下から左下腹部を刺した。ナイフの刃は根元まで刺さったが、出血は衣服の上に染み出ていなかったという。1日目は応急手当を受け帰宅。その後、村田の所属団体の長小林楠扶がリキアパート内の力道山宅を謝罪に訪問。「申し訳ない。この責任は自分がとる」と頭を下げたところ、力道山も「うん、うん、わかったよ」と声をしぼり出すようにいったという。2日目に症状が悪化したため入院、外科医に山王病院へ来てもらい十数針縫う手術を受け成功。山王病院は産科婦人科が中心の病院だが、力道山がここを選んだのは、話が表に出ないように親しい医者のいる病院にしたためという。側近たちは、赤坂にある有名な外科病院である前田外科への入院を勧めたが、力道山は嫌がったとのこと。7日目に腹膜炎による腸閉塞を理由に午後2時30分再手術。これも成功したと報告されるが、その約6時間後の午後の9時50分ごろに力道山は死亡した。死因は正式には穿孔(せんこう)性化膿性腹膜炎とされている。しかしながら他にも諸説ある。ある説は、手術の際、麻酔を担当した外科医が、筋弛緩剤注射した後に気管内チューブの気管挿管を失敗し窒息したという医療事故のためという。なお、村田勝志を裁く裁判の際、死因究明のため提出されたカルテの中に麻酔に関するものだけなく、最後まで、紛失したといって出されなかったという。また他の説は力道山の腹膜炎はほぼ完治に近い状態まで回復していたが、腹膜炎を患っている期間は食事は勿論のこと、水の服用も厳しく制限される状態にあった。ところが食欲が非常に旺盛であった力道山は、空腹に耐えきれず、付き人に行きつけの寿司屋に寿司を注文するように命令し、序でに酒も買わせた。届けられた寿司と酒を飲食して空腹感を抑えた力道山であったが、飲食した生ものである寿司やアルコールが完全に完治しきっていなかった患部に障り、これを以って病状が急変、急死したという。力道山が最初の手術後、サイダーやコーラ等を飲用しているのを目にしたという者は多く、上記のようなこともありうる話だが確証はない。力道山は普段から人よりも傷が治るのが早く、刺された直後にも病院へ行かず応急処置だけで済ませたことなどから、自身の体を過信していた部分がある。加害者の村田は、力道山の死を病院のベッドで聞いたという。犯行の当夜、彼が所属する大日本興業の上部団体住吉一家と対立関係にあり、力道山とつながりの深い東声会の組員らにより暴行を受けて重傷を負い入院していたのである。経緯については、小林楠扶がリキアパートに謝罪に赴いた際、村田も同行した。しかし、「直接顔を合わせると、先生が興奮してしまう」という力道山側近の判断から、村田は外で待機していた。この時、周辺に集まっていた東声会組員から激しい暴行を加えられたものである。村田は初めは、小林の立場を考えじっと耐えていたが、我慢しきれず力道山を刺した登山ナイフで、東声会組員一名を刺している。なお、村田が入院していた病院は、力道山が入院を拒んだ赤坂の前田外科だった。性格的には粗暴で、感情の起伏が激しかった。機嫌が良いときはボーイに1万円札でチップを渡すこともあったが、機嫌が悪いと飲食店での暴力沙汰は日常茶飯事であり、そのつど金で表ざたになるのを防いだ。1957年(昭和32年)10月18日の『読売新聞』朝刊や、同年12月5日の『朝日新聞』夕刊に「力道山また暴れる」と報道されたこともあった。可愛がられたという張本勲は、飲むと暴れて大きな手で木やガラスのテーブルを叩いて割る、薄いガラスのコップを美味しいと言って食べていた、などと話している。粗暴な行為に関しては、本人の生来の激高しやすい性格も一因ではあるが、晩年には肉体的な衰えをカバーするために試合前に興奮剤を服用しており、試合後にそのまま飲み屋に出かけて行ったため、トラブルを引き起こしたという証言もある。また、リングで殴り合っても、その後の飲み会で仲良く飲んでいることから、八百長ではないかと疑われる要因が強まったともいわれている。このような粗暴な性格のため、多数のトラブルを引き起こしている。例をあげると山口組ともめて監禁寸前にまでなったり、安藤組に対して誠実な対応を取らなかったため付け回され家に帰れなくなったり、フィリピンマフィアの顔役を橋から川に投げ込み揉めるなど、当時のプロレス興行が暴力団と密接な関係にあるにもかかわらず、配慮に欠けた行動を繰り返したため、命を狙われることも多かった。上記の1963年12月8日の赤坂での刃傷事件(これが死の遠因となった)で見られるように、力道山には飲酒した時のトラブルが多かったようで、暴力団山口組三代目組長の田岡一雄は「(力道山は)酒を飲まなければ……」と自伝で嘆いている。力道山本人も自身の性格がよくわかっていたのか、猟銃を合法的に数丁所持し、また妻の自伝によると拳銃まで所持していたという。プロレスラーの百田義浩(元プロレスリング・ノア取締役)、百田光雄(現役・元プロレスリング・ノア副社長)は実息。芸者・綾の息子である。自らが朝鮮人であることは生前周囲に隠して生きており、力道山主演映画「力道山物語」でも「長崎県の貧しい農家で生まれ育った」という設定になっている。亡くなる10か月前に結婚した田中敬子(元日本航空客室乗務員。死後、百田姓から抜けた)はそのことを知っていたが、実息であった二人の息子は父である力道山の死後に知ったということである。最後の妻となった田中敬子に関しては余程惚れていたらしく、当時数多くあった女性関係を全て清算した上で結婚したと言われている。1984年週刊プレイボーイが、当時タブー視されていた力道山の国籍問題を「もうひとつの力道山物語」として報じた。それによると、力道山は15歳で来日する時、既に結婚し子供もいた。その後、2002年の釜山アジア大会で、力道山の孫娘が北朝鮮の重量挙げ監督としてエントリーして話題になった。怪我をしてもすぐ出血が止まる体質だったようで、「額を割って血を流しても、ものの10分もすると赤チンをつけただけで血も出ていない」「骨が見えるぐらいの傷なのにすぐ血が止まる」と剱持松二が証言している。リキパレスでプロレスの試合が終わると、怪我したままの状態で「(リキパレスの別フロアのレストランで)『今日はひどかったねえ』なんて話をしながら(酒を)飲んでいる」というのが日常だった。自身を含めたプロレスラーの強靱な肉体に過信があったことは事実であり、客人の前で馬場に度数の高い洋酒を一気飲みさせたり、猪木を走行中の自動車から突き落としたりして、「強靱な肉体があるからプロレスラーはケロっとしている」というアピールを好んで行った。また、相手を威嚇するためにガラスのコップをバリバリと噛み砕いて飲み込む「人間ポンプ」という芸を持っており、ごく機嫌のいい時か悪い時に披露したという。大きいイメージを持たせるため、実際より4cm身長をサバ読みした。それによりその世代のレスラーは4cmサバ読みしていることが多い。番付では長崎県大村町の出身となっている。幕内通算11場所、75勝54敗15休(15休は引退廃業の場所の全休)。入幕2場所目の1947年6月場所、その場所から始まった優勝決定戦に進出している。幕内勝率5割8分1厘は戦後の関脇どまりの力士の中では最高である。最後の出場場所となった25年5月場所は西関脇で、東関脇に1歳年上の鏡里、東小結に1歳年下の栃錦、東前頭筆頭に4歳年上の吉葉山がいて、彼らとの幕内での対戦成績は鏡里に2勝1敗、栃錦に2勝2敗、吉葉山に3勝4敗と互角だった。彼らと共に次代の角界を担う逸材と期待されている最中に突然廃業した。廃業直前の2場所の成績は小結で10勝5敗、関脇で8勝7敗。当時の基準としては大関取りがかかった場所前の突然の廃業については、相撲界側に残る話では師匠二所ノ関との部屋の運営をめぐっての対立があったとされているが、力道山側の主張とは食い違い、現在となってははっきりしない。一時期角界復帰の話も持ち上がり、実業界の有力者の仲介もあって決まりかかったが、力士会が反対して実現しなかった。なお同時期に元大関増位山の三保ヶ関も現役復帰の意向をしめしており、これも含めての反対だった。その趣旨は「一度引退を内外に表明して、引退相撲(その収益は力士当人に還元されるのが通例)まで開催した力士が、後で現役復帰を求めるというのは筋が通らない」とするもの。力士会が特に力道山個人の復帰を嫌ったという話ではない。粗暴な性格は大相撲時代より知られており、戦前にも岡山と香川を結ぶ連絡船の上で泥酔して暴れていたところを止めに入った前田山が張り手で失神させたという逸話(これには諸説あり)が伝わっている。相撲界側で比較的力道山に好意的な証言者の一人として、二所一門の弟弟子だった横綱若乃花幹士 (初代)がいる。その著作などを読むと、気性は荒くしごきはきついが、稽古熱心なものには徹底的に目をかける兄弟子像が浮かびあがる。しかし、その若乃花にとっても「力道関」はもっとも恐ろしい兄弟子だったらしい。若乃花が夜遊びのために部屋を抜け出した際、オートバイを駆って追いかけ強引に連れ戻したのは、若乃花が脱走したと勘違いした力道山であった。ちなみに、プロレス時代の力道山が常に黒いタイツを着用し、素足を見せなかったのは、大相撲時代に、若乃花がしごきに耐えかね、力道山の足に噛み付いた時の歯形が残っていたからとも言われている。珍記録としては、3場所連続で同じ相手(前田山)から不戦勝をあげるなどした。また、最後の優勝旗手になった力士でもある。引退後も国技館で観戦し、当時の最新のビデオカメラにて本割や弓取式を撮影する姿が残っている。また横綱千代の山雅信の断髪式(1959年)に参加し、ひげの伊之助として有名だった名行司・19代式守伊之助が鋏を入れる横で、写っている写真も残っている。2013年9月21日のNHKの大相撲中継で「力道山がのこした大相撲」として番組内で特集された。二所ノ関部屋を自ら髷を切って引退した力道山は、横綱東富士の後援会長で新田建設社長の新田新作の下で働く。新田はかつて生井一家の鈴木栄太郎(人形町の大親分で、戦前の国家団体である関東国粋会副幹事長であった)の跡目に擬された男だったが、戦後はやくざの足を洗い連合軍とコネをつなぎ羽振りがよく、戦災により焼け落ちた国技館を復興するために資材を集めて仮の国技館を創設したとされ、全国の親分衆とのつながりがあった。新田は、力道山の相撲界復帰のために尽力するが、結局実現しなかった。力道山は同じころ、プロレス慰問興行のため来日中のハロルド坂田(トシ東郷)に出会う。ハロルド坂田はハワイ生まれの日系二世で、ロンドンオリンピック重量挙げのアメリカ代表で銀メダリストだった。当時のハロルドはハワイの英雄として売り出し中のプロレスラーで、日本でのプロレス興行のプロモートを模索している途中だった。ハロルド坂田に誘われて、力道山は1951年10月28日、メモリアルホール(旧国技館)で、統一前の元NWA世界ヘビー級王者、ボビー・ブランズと10分1本勝負のエキシビションマッチを行い引き分ける。力道山の素質に惚れたボビー・ブランズは、ハワイ興行に力道山を誘うが、新田社長の許しが得られなかったため、日新プロダクションの永田貞雄に相談する。永田は、横綱千代の山の贔屓筋で、浪曲や歌謡曲などの興行を手がけている人物であった。永田が新田を説得し、力道山はハワイへ行くことになる。1952年2月17日、ハワイ・ホノルルのキングストリートにあるシビック・オーデトリアムで、力道山は記念すべき海外遠征初試合を行う。相手はチーフ・リトル・ウルフというインディアンレスラーで、勝利を収めた。ハワイでのプロレス興行は黄金時代で、日系人1世、2世の観客の間で力道山人気は爆発した。このとき力道山のハワイでのトレーナーは、後の日本プロレスでレフェリーとなる、沖識名であった。沖の助言もあり、黒のロングタイツに空手チョップというスタイルは、この頃ハワイで作られた。その後、1952年6月10日に、アメリカ本土のサンフランシスコへ乗り込む。だが、この時代の米マット界でのトップヒールは、まだ太平洋戦争が終わって間もない時期であったこともあって、グレート東郷ら、日系二世演じる誇張された日本人だった。これを日本出身(この当時朝鮮半島出身であることを隠していた)である力道山本人にも求められたが、ルー・テーズのような正統派ファイトを望んでいた本人にとっては、かなりの屈辱であったという。力道山の死後プロレス界を支えた両巨頭であるジャイアント馬場、アントニオ猪木も彼の弟子であった。力道山は、プロ野球出身で知名度もあり、肉体的に恵まれていた馬場をスター候補としてデビュー当時より特別扱いしていたが、猪木への対応は「靴べらで顔を殴る」「飼い犬を番犬として教育する際の実験台にする」「少年の猪木に一升瓶の日本酒を一気飲みさせる」「意味もなくゴルフクラブをフルスイングして側頭部を殴打する」「灰皿を投げつける」など、極めて冷酷なものであったと言われている(猪木自身が一部語り、古いスポーツ紙の記者もそれを書いている。近年でも、当時は本気で殺意を覚えたと語る事も)。その一方で、弟子の中で、力道山が本心から一番可愛がっていたのは馬場でも猪木でもなく、同じ朝鮮民族出身の大木金太郎であったともいう。可愛がっていたジャイアント馬場にさえも、トレーニングで弱気な発言をしても我慢を強要するなど、横暴な一面があったが、それでも弟子の教育に合理的な面があったようで、一度目のアメリカ武者修行で大成していた馬場が、アメリカ側から催促されていた時に、「お前だけすぐにアメリカに出したら周りの奴に妬まれる」と時間を置いて出発させたという馬場自身の証言があり、まだ付き人だった猪木には「ウェイトが100キロを超したら武者修行に出してやる」と約束していたという。結局、力道山の生前には猪木のアメリカ修行は無かった。力道山は素行の面でいろいろと問題はあったが、日本のプロレス界の礎を築いた最大の功労者であることは間違いない。生前は朝鮮人であることがほとんど知られておらず、彼の相手レスラーを空手チョップで殴打する時の口癖が「この、朝鮮人野郎」だったこともあり、白人レスラーを次々と倒す姿は、敗戦後の日本人の一種愛国的な感情をも揺さぶった。「総理大臣の名前は知らなくても、力道山の名前を知らない者はいない」とされ、テレビの普及にも大きく貢献があった。またバックに就いていた東声会は、力道山のプロレス興行により莫大な富を手にすることともなった(ロバート・ホワイティング「東京アンダーワールド」など)。死去した日と同日に4代目の鈴々舎馬風が中風で死去したが、スポーツ紙の一面が力道山の死で埋め尽くされたため、一段のベタ記事扱いとなった。しかしそれを枕にした落語家はいなかったという。実業家としても成功し、赤坂に自らの住居も兼ねた高級アパートの「リキ・アパート」、ナイトクラブの「クラブ・リキ」、さらに「リキマンション」と名づけたマンションの奔りである高級賃貸住宅を建てた。1973年に自殺した俳優の大辻伺郎も晩年にこの「リキマンション」に住んでいた。渋谷には「リキ・スポーツパレス」という地上9階建てのプロレスの常設会場を作り、その中には「リキトルコ」やビリヤード場、ボウリング場などを併設した「リキレストラン」を建設した。ボクシングジム経営にも進出している。死の少し前には、相模湖畔に、自動車レース場・射撃場・室内スケートリンク・モーテル等レジャー施設を併設した大規模なゴルフ場、「レイクサイド・カントリークラブ」の建設を始めていた。広大な土地を購入し、会員権を販売し、一部工事にも取りかかったが、死去により未完に終わった。跡地は売却されて、現在、さがみ湖リゾート プレジャーフォレスト(旧称・さがみ湖ピクニックランド)となっている。また、三浦半島の油壺にも土地を購入しており、家族で楽しめるマリンリゾートの建設を計画していた。趣味は狩猟などの他、あまり知られていないが、一時期将棋に興味をもった時期があり、プロ棋士の剱持松二らと親交があった。剱持からはアマチュア三段の免状を授与されているが、実際は「ほとんど指していなかった」とのことで、実力がどの程度だったかは不明。昭和30年にプロレス興業で福島県会津若松市を訪れた際、七日町の肉屋で生の馬肉を注文し、持参した唐辛子味噌を付けてその場で食べた。福島県会津地方では生の馬肉を食べる習慣は無かったが、この出来事をきっかけに馬刺しを唐辛子味噌で食べる風習が広まった。人気絶頂期の力道山は、映画スターでもあった。1956年に公開された『怒れ! 力道山』(東映東京)では、国会議員に指示された鉄砲や日本刀で武装したヤクザとキャバレーで格闘して負傷するシーンがあり、力道山の死に方に似ていると話題を呼んだ。他に北朝鮮でも力道山に関する作品が製作されている。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。