富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は、静岡県富士宮市にある神社。式内社(名神大社)、駿河国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。社家は富士氏。全国に約1,300社ある浅間神社の総本社である。「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録されている。富士山を神体山として祀る神社であり、境内は以下の2宮からなる。浅間大社は全国の浅間神社の総本社であり、富士信仰の中心地として知られる。境内は広大で、本宮社地で約17,000mになるほか、富士山の8合目以上の約385万mも社地として所有している。本宮の本殿は徳川家康による造営で、「浅間造」という独特の神社建築様式であり、国の重要文化財に指定されている。また、本宮境内には富士山の湧水が湧き出す「湧玉池」があり、国の特別天然記念物に指定されている。祭神を木花之佐久夜毘売命とし、祭神にまつわる桜を神木として境内には約500本もの桜樹が奉納されている。また、古来より富士氏が大宮司を務め、「日本三大宮司」の1つに数えられた。古くより朝廷・武家からの崇敬が深かったほか、社地は大宮・村山口登山道の起点に位置することもあり、古くから登山を行う修験者からの崇敬も受けていた。古くは『延喜式神名帳』に「浅間神社」と記載され、明治時代には「富士山本宮浅間神社」が正式名であった。1982年(昭和57年)から現在の正式名「富士山本宮浅間大社」となり、「浅間大社」の略称が多くで用いられている。「浅間」の語源については諸説あるが、長野県の浅間山のように火山を意味するとされる。「あさま」は古い呼称で、現在の「せんげん」は中世以降から用いられたと見られている。また、「本宮」は静岡浅間神社(新宮)に対する呼称である。そのほか、古来は「富士ノ宮」「富士本宮」「富士浅間宮」なども社号として用いられていた。「ふじの宮」という呼称もあり、北条泰時が浅間社参拝の折に詠んだ和歌の詞書に記載がある(『新勅撰和歌集』所収)。またこの語は、浅間大社が鎮座する富士宮市の市名の由来となっている。主祭神配神富士山には、その美しい山容から女神と見る信仰が古くからあり、平安時代には都良香の「富士山記」(『本朝文粋』所収)に「浅間大神」として、『竹取物語』には「かぐや姫」の名でその表現がある。しかしながら、これに『古事記』『日本書紀』に見えるコノハナノサクヤヒメが当てられたのは近世に入ってからと見られ、それまでは一般に「浅間神」の名で信仰されていた。「浅間」の古称「あさま」は、阿蘇山・浅間山・朝日岳等に見られるように「火山」を表す呼称と見られている。都良香の記述も延暦21年(802年)の噴火を取り上げており、この頃に「浅間神」の呼称が生まれたと考えられている。中世以後の神仏習合時代には「富士大菩薩」「浅間大菩薩」、さらに降ると「富士権現」とも称された。富士山の神霊をコノハナノサクヤヒメに当てる起源は明らかでないが、文献の初見は江戸時代初期の『集雲和尚遺稿』である。「コノハナ(木花)」は桜の古名といわれ、祭神は富士山の美貌の形容に由来するとされる。また、神話にある「コノハナノサクヤヒメの火中での出産」も、火にまつわる事象として意識されたと見られる。また、三島神(三嶋大社)の祭神を大山祇神と見て、富士と三島が父子とする伝説も江戸時代頃から散見されるようになる。江戸時代の屋代弘賢による『古今要覧稿』には「二神を祭る」という表現もあるが、現在は上記のように「浅間大神は木花之佐久夜毘売命の別称」としており、習合した1柱の神格を主祭神としている。また配祀神については、『富士本宮浅間社記』では太元尊神と大山祇神としている。太元尊神は国常立尊とされるが、明治初年以降から現在に至るまでは、太元尊神に代えて瓊々杵尊を配祀神の1柱としている。浅間大社の由緒は、寛政年間(1789年-1801年)に大宮司の富士民済により記された社伝『富士本宮浅間社記』に記載されている。同記によると、垂仁天皇3年に富士山麓の山足の地にて祀られていたという。そして景行天皇の時代、日本武尊は駿河国で賊徒の計にかかり野火の難に遭った際に浅間大神に祈念して難を逃れたので、賊徒を平定した後に山宮(現 山宮浅間神社)に磐境を設け浅間大神を祀った。のち大同元年(806年)、平城天皇の命により坂上田村麻呂が現在の大宮の地に社殿を造営したと伝える。なお同記によると、元々は大宮の地は「福地神」の社地であったが、山宮より浅間神が移るにあたってこちらも遷座したという(現 富知神社とされる)。以上の社伝の一方、正史での富士山噴火の初見は『続日本紀』天応元年(781年)7月条であり、それ以前は穏やかな山としての表現のみで噴火は起こっていなかったと見られている。「浅間神」の神格も火の神としてのものであり、仁寿3年(853年)の従三位の神階奉授(神名の文献上初見)以降、富士山の噴火と連動して鎮火のための神階昇叙も確認される。これらより、富士山鎮火のため国家として浅間神を祀る必然性があり、実際の創祀は噴火が起こってから遷座するまで、すなわち「天応元年(781年)から大同元年(806年)の間」と考えられている。また、元々大宮に鎮座したという富知神社は現在本宮境内の北方に鎮座しており、大宮の地主神として古くから浅間大社の祭祀に深く関わっている。「富知」の神名は「富士」の山名と深い関係が考えられることに加えて、湧玉池を祭祀場として富士山を水神の神格で祀っていたと見られている。このことから浅間神の遷座は、富士信仰が水の神たる「フクチ・フジ」信仰から火の神たる「アサマ」信仰へ転換したことを表す象徴的な出来事だと解されている。六国史においては、仁寿3年(853年)に名神・従三位に叙せられた。なお、これは「浅間神」の初見でもあるが、初めから従三位という高位を授かるとは考えがたく、神名の成立はさらにさかのぼると見られる。貞観元年(859年)には正三位に叙せられた。また、貞観6年(864年)から貞観8年(866年)に多くの被害を出した富士山の貞観大噴火に対して、朝廷では占いにより噴火を浅間社の祭祀怠慢によるものとした。その結果甲斐国でも浅間神を祭祀することとなり、結果的に浅間信仰は甲斐側にも広がることとなった。以降朝廷の崇敬を受け、『延喜式神名帳』では「駿河国富士郡 浅間神社 名神大」と記載されて名神大社に列した。また駿河国一宮としても崇敬された。駿河国府の近くには、浅間大社から勧請を受けて浅間神社(現 静岡浅間神社の一社)も創建された。「本宮」の浅間大社に対し、そちらは「新宮」と呼ばれる。なお、甲斐国の浅間神社も同国では唯一の名神大社に列し、浅間神に対する崇敬の深さがうかがわれる。以降、公家や武家からの崇敬を受け、後醍醐天皇の土地の寄進のほか、武家からは社領の寄進や修復が重ねて行われた。鎌倉時代には源頼朝の社領の寄進や北条義時の社殿の造営といった当時の実力者からの崇敬を受けた。社伝(『富士本宮浅間社記』)によると、源頼朝が富士の巻狩を行った際、流鏑馬を奉納したことが浅間大社の流鏑馬の起源とされる。南北朝時代には足利尊氏や足利直義による社領の寄進、今川範氏や今川泰範らの土地の安堵や諸役の免除などが行われた。武田信玄は願状を捧げ、その後武田勝頼は天正4年から造営を進め天正6年(1578年)に遷宮を行った。豊臣秀吉も社領寄進の朱印状を発布している。江戸時代に入ると、徳川家康は867石の朱印地を安堵したほか、関ヶ原の戦いの戦勝を記念して現在の社殿を造営した。慶長14年(1609年)には、富士山頂における散銭取得の優先権を得た。その後の歴代将軍も祈祷料・修理料の寄進を行っており、4代将軍徳川家綱は金1千両を寄進、5代将軍徳川綱吉は銀50枚・金2千両、後にも金700両を寄進、10代将軍徳川家治は銀300枚を寄進した。その後も徳川家の歴代将軍による崇敬が絶たれることは無かった。安永8年(1779年)には三奉行による裁許により富士山の8合目以上が浅間大社へ寄進された(「富士山を巡る争い」を参照)。『富嶽之記』(1733年)では、浅間大社の様子を「是冨士山根本の浅間也、木花開耶姫を祭る、神主大宮司といふ、社僧二十院あり、境内桜多シ、神の愛木也、社ノ東に垢離場有り」と記している。寛政の社領目録を基とした神職一覧。社殿は慶長9年(1604年)に徳川家康の造営によるものである。宝永地震(宝永4年(1707年))や安政東海地震(嘉永7年11月4日(1854年))などで崩壊した建物もあり、現在は本殿・拝殿・楼門が現存している。安政東海地震にあたっては『大地震に而御宮大破損記』が記され、その被害の様子を伝えている。室町時代にも造営が試みられており、富士上方や富士下方の諸役等が造営の費用として賄われるなどしているが、戦乱の世の中で造営は円滑に進むものでは無かったようである。乱などにより度々破損することもあり、例えば河東の乱の際破損した社殿の造営なども行われている。またこのとき、社人の「清長」(一和尚職)「春長」(四和尚職)が造営関係の処務を先導していた。本殿は国の重要文化財であり、桁行5間・梁間4間・寄棟造の社殿の上に三間社流造の社殿が乗り、二重の楼閣造となる珍しい形式である。屋根は檜皮葺であり、この本殿の特徴的な形態は「浅間造」と称される。各所に葵紋と富士氏の家紋である「棕櫚の紋」が附され、蟇股には菊花紋や葵紋や五三桐紋が並んで附されている。『富嶽之記』という江戸時代の記録に「彩色彫物等美盡し、菊葵の紋あり」とあり、実際に現在も菊花紋と葵紋が並ぶ装飾が現存している。また富士山を御神体としていることなどから、富士山を装飾したものもある。拝殿は妻入りで正面が入母屋造、背面が切妻造となっており、本殿と同じく檜皮葺である。内外面ともに丹塗となっている。これらの造営は関ヶ原の戦いの戦勝祈願が成就したことによる家康の意向からなると考えられており、安永8年の史料にもその旨の記載がある。またこの造営における正遷宮の儀式は盛大なものであったと伝えられ、社人だけでも182人にも上ったという。また古くは社僧や垢離場などが存在し、神仏習合の形態があった。現在は見られないが「三重塔」といった仏教的建造物も境内に位置しており、寛文10年(1670年)の社殿配置図に見える。社叢は本殿の裏手に広がり、「神立山」と称される。『続後撰和歌集』における隆弁の歌の詞書に「四月廿日あまりの比、駿河の富士の社にこもりて侍りけるに、櫻花のさかりに見えければよみ侍りける」とあり、桜の木が古来より多く立っていた様子がわかる。祭神のコノハナノサクヤヒメの神格から桜との関係は深く、境内には多くの桜の木が植えられている。拝殿の前には武田信玄の手植えと伝わる七本の桜が存在していたという。現在、それらの二代目とされる「信玄桜」が境内に伝わる。また『富士本宮雑記』には、武田勝頼により社中に多くの木々が植えられたことが記されている。古来は「萬年杉」なるものが存在していたと言われ、『甲陽軍鑑』に見える「卯の年月より駿河の大宮大杉より煙立てて見ゆる」の「大杉」と同一であるとされる。また『駿河国新風土記』にはこの萬年杉が枯死したことが記されている。楼門前には、東西へ伸びる「桜の馬場」があり、神事流鏑馬式などに用いられる。また眼鏡池とも称される鏡池がある。東側には湧玉池があり、境内に湧出する富士山からの湧水によってできている。何層にも重なった溶岩の間から湧出しており、特別天然記念物に指定されている。水源の岩上には朱塗りの水屋神社が鎮座している。近年は発掘調査などが進み、2008年(平成20年)の発掘調査により、社殿配置図(1670年の作成とされる)にある護摩堂の建物跡が、湧玉池北側で確認された。神仏習合の1つの資料となるとされ、位置関係としては富士山の登山者が護摩堂を見降ろせられる位置にあったとの調査結果が出ている。他に青磁碗・白磁壺・青白磁関連のものが出土し、護摩堂跡の道にあたる石畳、中世の集石遺構が確認された。浅間大社は大宮・村山口登山道の起点に位置するため、富士参詣を対象とした道者坊が存在し、社人たちが富士登山の道者に宿舎を提供した。これを「大宮道者坊」という。『大宮道者坊記聞』には「大宮道者坊ノ事、古へ享禄・天文年間ハ、凡三十ヶ余坊有之由伝フ」とあり、室町時代後期に道者坊が30余り存在していたことが知られる。富士山頂上奥宮は富士山村山口登山道頂上に鎮座する。奥宮境内地の全てが富士箱根伊豆国立公園の富士山地域の「特別保護地区」に指定されている。元は富士山興法寺を形成する大日堂であったが、神仏分離令により仏像が取り除かれ、跡地は浅間大社奥宮として管理されることとなった。大日堂は「表大日」と称され、薬師堂は「裏薬師」と称されるのが慣例であった。奥宮境内には「冨士山頂上淺間大社奥宮」と書かれた石碑が建てられており、山頂のシンボルとなっている。山頂の薬師堂は山役銭の徴収場の役割を担っていたが、廃仏毀釈により浅間大社の末社となり、久須志神社(東北奥宮)として管理されることとなった。浅間大社奥宮の御扉には大きく金色で「國鎭無上嶽」と書かれ、建物内には「高齢者記帳所」が設けられている。7月11日に開山祭を行い、8月末まで神職が常駐して祭事やお守り等の授与を行う。奥宮の例大祭は8月15日に行われる。9月の閉山祭以後は、翌年の開山まで無人となる。江戸時代には、徳川家康による庇護の下で、本殿等の造営や内院散銭取得における優先権を得たことを基に、浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになっていた。安永8年(1779年)には幕府による裁許により正式に八合目以上の支配権が認められ、現在に至る。『駿河国新風土記』(江戸時代の地誌)の「富士山 上」の項には「八合目より上は富士郡にて、大宮浅間大宮司別当の所置する所なり、其詳なることは安永八巳亥年12月5日下さるる所の公裁の文書に見えたり」とある。この浅間大社に寄進されていた土地は、一時国有化された時期がある。国有財産法における「社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」により、全国各地の寺社の土地は無償で国から返還された。富士山を神体山とする浅間大社は、長きに渡りその寄進されていた土地を管理していたため、他の寺社のように同法が適用されるはずであったが、特別な山ということもあり例外として適用されなかった。本来法律通りであれば神社側の土地として処理されるはずであったが、49,952坪のみしか譲渡されなかったのである。それに対し浅間大社側は、訴願を申し立てた。そして江戸幕府が浅間社に寄進したことを示す古文書といった決定的な証拠により、これらの土地が浅間社の境内地であることが裁判という形で改めて確認されることとなった。この裁判に基づき、2004年には浅間大社側に土地が返還されることとなった。 ただし、静岡県・山梨県の県境が未確定のため、土地登記はしていない。古では山頂に近づくほどより強い神聖性を持つと考えられてきた。そのため山頂に対して寄進・奉納が繰り返され、その結果現在の山頂信仰遺跡が形成された。山頂における最初の宗教的施設は、末代上人が建立した施設(後の大日堂)が最初とされ、経典や仏像などが奉納された。また内院(噴火口)への散銭は、内院に鎮座するとされる神仏を拝する行為であった。このように奉納などが繰り返され、山頂には信仰遺跡の一部である仏像などが多く存在していた。しかし廃仏毀釈により多くが撤去され、現在は一部が残るのみである。また山頂には、火口に突き出す岩が虎の姿に見えることから「虎岩」と呼ばれる岩がある。傍には「虎岩の碑」があり、岸岱筆の『富士山記』(都良香)が刻まれている。本宮と奥宮では朱印も異なる。またその御朱印は特別製で、富士山の溶岩の砂が含まれたものが押される。高齢者記帳所にある「高齢者登拝者名簿」に記帳(資格は70歳以上)すると記念品が授けられることになっており、この記帳は1960年から行われている。奥宮と浅間大社末社の久須志神社で取り扱っており、累計では2010年時点で1243人に上る。現在の摂末社は上記の摂社節・末社節で挙げた境内社7社であるが、古くは境内・境外に多くの摂末社を抱えていた(詳細は摂末社の変遷参照)。特に、式内社の摂末社には富知神社と倭文神社があった。また浅間大社に関係する神として、『駿河国神名帳』には「浅間御子明神」の名で、第一御子明神から第十八御子明神までの記載がある。このうち第三御子神・第七御子神は本宮境内に摂社として祀られている。境外では若之宮浅間神社に第一御子神が、二之宮浅間神社に第二御子神が本宮北方に祀られているほか、米之宮浅間神社には第八御子神・第十八御子神を祀るという説があり、それぞれ古くは浅間大社の摂社であった。なお、その他の御子神の所在は明らかとなっていない。江戸時代以降の摂末社の変遷。山宮浅間神社と浅間大社の間では「山宮御神幸」という行事が行われていた。これは浅間大社と山宮浅間神社間を往復する行事であり、文献上では1577年には既に行われていたことが分かっているが(『冨士大宮御神事帳』)、詳しい開始年などは不明である。1874年まで継続して行われていた。この儀式の解釈として、神が4月に旧跡(山宮)に戻るという解釈、または山の神が4月に田の神として里(大宮)へ降りるという解釈がなされている。山宮御神幸にて使用された経路を「御神幸道」といい、起点は湧玉池南にある神幸橋である。御神幸道の首標が1984年(昭和59年)に境内の土中から見つかり現在池湖畔に立てられている。所在地交通アクセス(本宮まで)奥宮までについては富士登山を参照。注釈原典出典原典文献
出典:wikipedia
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