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東アジア史

東アジア史(ひがしアジアし)は東アジアの歴史である。中国にて早期に文明が生まれ、やがてその影響は冊封体制の中で日本、朝鮮、ベトナムといった周辺国に広がっていった。近代に入ると欧米列強の進出を受け、中国を中心とした冊封体制は崩壊する。近代化に成功した日本は唯一列強に伍して欧米諸国と覇権を競ったが第二次世界大戦で敗戦、大戦後はそれぞれ独立し今日に至る。紀元前1600年頃に中国で殷が建国され、漢字と青銅器を用い始める。春秋時代には儒教を生み鉄器を用いた。紀元前221年に秦の始皇帝が中国を統一すると、始皇帝は匈奴や北ベトナムに侵攻し更に版図を広げた。早くに文明を生んだ中国と始皇帝に始まる皇帝は、以後近代に至るまで東アジア史において主要な役割を担う事となる。秦滅亡後の紀元前206年に建国された漢は、当初周辺を支配する国力を持たず、北ベトナムを支配した漢人を冊封し王として認め、南越国が建国される。半世紀を経て国力を蓄えた漢の武帝は全盛期を迎えた。長年の宿敵匈奴を大破したうえ南越国と衛氏朝鮮を滅ぼし、朝鮮には楽浪郡を置き支配した。この時代日本は倭と呼ばれており、数百の国があったとされ中国との交流もあったことが漢書に記されている。この後も前漢は力を保ったまま時代は進んだが、紀元前1世紀の終わりごろになると徐々に臣下が権威を握り、最終的に漢の幼帝から帝位が簒奪され漢が滅び新が成立する。この時期、支配力の衰えた朝鮮半島から満州地域にかけて高句麗や扶余が台頭した。漢に変わり新が大陸を支配したが、この変革は失敗し、再び漢(後漢)が立てられた。後漢時代には技術革新が進み、中国は再び勢力を盛り返し、高句麗や扶余から再び朝貢を受けるようになった。また、この時期には倭も朝貢を行っていた。しかし、この後漢も徐々に皇帝の外戚や宦官が権威を持つようになり、漢は衰退の道へ向かい、中国は再び戦乱の時代を迎えた。紀元後184年ごろ、中国は群雄割拠の時代に入り、最終的には220年に後漢が滅亡。この後に中国では魏 (三国)・呉 (三国)・蜀の三国時代に入り、各国が激しい戦いを繰り広げた。中でも魏が勢力を強め、高句麗に対して攻撃を行い、246年に高句麗の首都を攻略した。239年には、倭国大乱を終えた邪馬台国の卑弥呼が魏に朝貢を行っている。三国時代はおおよそ60年続き、どの国にも国力の疲弊をもたらした。魏は一時は漢の皇帝から帝位を奪い取るなどの活躍を見せるも、その後の戦いで国力をすり減らし、魏皇帝は臣下の一族に帝位を禅譲を余儀なくされた。280年には魏から帝位を取って成立した西晋が中国を統一する。しかし、この王朝も短命に終わり、中国は五胡十六国時代、南北朝時代とさらに約三百年に渡り戦乱の時代が続いた。この間に朝鮮では高句麗が楽浪郡を滅ぼし、4世紀頃には高句麗、新羅、百済による三国時代に入り、こちらも激しく争い合う時代になった。また、この時期の事象を書いた新羅本記によると393年ごろ、倭人が王城を包囲したとあり、広開土王碑によると400年に倭軍にあふれる新羅王都に救援兵を送ったと書かれており倭人が朝鮮半島南部への進出が伺われる。この時代、倭は百済と結ぶようになり、倭に多くの大陸文化が流入した。5世紀に倭の五王は東晋や宋に朝貢を行っており、宋書によると宋から「使持節都督・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王」の号を与えてもらっている。南北朝時代を終え、581年には隋が中国大陸を統一する。隋の文帝は律令制を整備し科挙を始めた。このころ、倭国の聖徳太子は隋に対し、対等の関係を示す国書を送っている。隋は短期間の統一で滅び618年に唐が建国されると、唐は太宗の治世により国力を強め、630年に突厥を破り644年には西域の高昌国を支配下に置いた。唐は更に高句麗の制圧を目指して新羅と同盟(唐・新羅の同盟)を結んだ。これに対し、倭国と百済は同盟をするが、660年には百済が滅んだ。倭国は百済復興を目指して挙兵し、663年に白村江の戦いが起こるが、唐・新羅連合軍に対し倭国は敗北した。唐・新羅連合軍はさらに、668年に高句麗を滅ぼし唐は平壌に都護府を置いた。高句麗遺民の一部は北東方面に落ち延び、新たに渤海を建国した。唐と新羅は660年に連合軍を結成した時に、高句麗の都平壌以南を新羅領、以北を唐領とすることを約束していたが、唐が一方的に約束を反故にして百済、高句麗の故地に唐の機関を置き、新羅の支配まで図ろうとした。そのため新羅は670年に半島内の唐軍に攻撃を掛けた(唐・新羅戦争)。この時期に西蔵など国外の多方面との争いがあった唐軍は朝鮮半島を放棄し、新羅は676年にこれを駆逐して朝鮮半島を統一した。8世紀に入ると唐は安定した時代になった。広い領域を版図とした唐の首都である長安には、シルクロードを通じて西域、インド、中東の文物が運ばれ、新羅、倭国、渤海は遣唐使を通じて、それらの文物や中国の制度、文化、技術を自国に取り入れた。特に倭国では白村江の戦いの後に急速に律令制の導入が進み、九州での防衛体制を強化した。また、倭国は701年には国号を日本に変更、この後日本は徐々に本州東北方面に勢力を伸ばていった。10世紀初頭に唐、新羅、渤海は次々と滅ぶ。朝鮮は後三国時代を経て936年に高麗が統一し、渤海の故地には契丹が進出、中国は五代十国時代を経て960年に北宋が中国を統一した。日本はこれらの国と国交を持たなかったものの、中国から来航する海商により唐物がもたらされ、貴族の間で珍重された。その一方で国風文化が発達する。北宋は高麗や大理国から朝貢を受け、科挙制度を充実させるなど文治主義を重んじ経済を発展させ、水墨画、山水画、磁器などを生んだ。しかし1004年に北方から契丹の遼に攻められ、歳貢を課せられる。1125年に女真の金と同盟し遼を滅ぼすが、翌年には靖康の変で金に攻められ華北を失い南宋となる。南宋と日本の間では平清盛などにより日宋貿易が行われた。この時代、日本では貴族の摂関政治や武士の台頭によって天皇家から徐々に政治の実権が奪われ、天皇家には威光のみを持たせるようになった。1192年には鎌倉幕府が成立し、武士が軍事権と警察権を掌握する武家政権の時代となった。13世紀初頭にモンゴル高原においてモンゴル帝国が起こり、周辺を次々と侵攻し始める。1211年に金の版図である華北を支配し、1234年には南宋と同盟して金を滅ぼし、1259年には高麗を服属させた。1271年にモンゴル帝国の東部領は国号を元とした。さらに元は高麗を服属させ1274年と1281年に蒙古襲来(元寇)と呼ばれる日本侵攻を2度行った。しかし、2度とも沿岸地域で激しく抵抗され、台風によって壊滅的打撃を受け撤退している。幕府は、戦時体制の構築や、元の再度の襲来への警戒を通じて、自らの権力を九州など西日本に拡大させた。しかし、得宗による専制や、土地争論や皇位継承問題(両統迭立)に対する稚拙な対応を理由にして、鎌倉幕府は諸階層の信頼を失っていった。元は1279年には南宋を滅ぼし、中国大陸を再び統一した。ユーラシア大陸を広く支配したモンゴル帝国の下では東西の交易が盛んとなり、元の首都である大都には欧州や中近東から多くの商人が訪れる。この中の一人であるイタリアのマルコ・ポーロの体験は東方見聞録として出版され、欧州の人々の興味を呼んだ。元末の13世紀頃から倭寇が朝鮮や中国沿岸で海賊(防衛・復讐)行為を始める。元は広大な国土を保ちきれず、内乱が起こり、倭寇によって疲弊した。そうした中で1368年に明は元をモンゴル高原へと追いやった。明は、1372年から海禁し私貿易を禁じた。朝鮮では13世紀半ばから中国での内乱に巻き込まれ、倭寇の損害を受け、国内では王と将軍の齟齬が生まれた。1392年に朝鮮王朝がクーデターによって建国され高麗に代わり明から冊封を受けることを許された。朝鮮は倭寇への対策から日本との私貿易を倭館に限定した。1419年には応永の外寇で倭寇取締を目的とし対馬国に攻め入ったが対馬宗氏によって撃退されている。反対に1510年には、朝鮮による貿易統制に反発した在留日本人とそれに加勢した対馬の宗氏の救援軍による三浦の乱が起きた。1300年代の初め、日本では鎌倉幕府が実権を失い、1338年には足利氏によって室町幕府が成立した。この時代、日本では室町文化が花開いた。明は永楽帝の代に南京から北京に遷都し、1401年に日本に対して倭寇の取締を要求すると共に、室町幕府の足利義満を日本国王に封じ日明貿易を始める。1405年には鄭和の大船団を南海に発し多くの朝貢国を得た。この船団はアフリカの東岸にまで達しており、欧州の大航海時代に70年ほど先んじるものであった。一方このころの日本では室町幕府が内部での家督争いや、皇室の南北分裂などから徐々に力を失い応仁の乱を経て戦国時代が始まりを告げる。16世紀半ばには織田信長が京に上洛し、足利氏を京から追放すると、安土桃山時代となった。1592年、日本を統一した豊臣秀吉は一度目は明征服を、二度目は朝鮮王朝の南部の占領を名目に、朝鮮に出兵した(日本名:文禄・慶長の役、韓国名:壬辰・丁酉倭乱)。文禄の役の初期には日本軍が勝利を収めたものの、明の援軍によってそれ以上の侵攻は抑えられた。文禄・慶長年間に日本の軍は防衛体制を築き、慶長の役が始まるが豊臣秀吉の死により、日本軍は継戦の意義を失い退却したため戦争は終結した。この戦いの時期において豊臣政権では内部対立が生じ、関ヶ原の戦い及び大坂の陣を経て徳川家が政権を握り江戸幕府を開くに至った。江戸幕府は統一権力として、外交・貿易に関する権限を独占し、四つの口(長崎・・・中国・オランダ、対馬・・・朝鮮、薩摩・・・琉球、松前・・・アイヌモシリ)を通じて貿易・外交を管理・統制した。この体制は、19世紀に「鎖国」と呼ばれるようになる。文禄・慶長の役によって戦場と化した朝鮮半島は国内に壊滅的な損害が生じ、明はこの戦いに多くの支出を行ったために力を失っていくことになった。1636年、満州の後金が清に国号を改める。同年に清は朝鮮に対し朝貢を求め、拒まれると丙子の役で侵攻し服従させた。1644年に明が滅びると北京に入り中国の支配を始める。1683年には明の復興を目指し台湾で抵抗する鄭氏政権を滅ぼした。1757年からは、ヨーロッパ諸国との貿易港を広州に限定した広東システムに基づく貿易を行う。1804年にはベトナムの阮朝を越南国王に封じた。この間に西欧諸国は大航海時代や産業革命を経て国力を強め、南アジアなどの植民地化を進めていた。19世紀初め、清ではイギリスから密輸されるアヘンが問題となっており、取り締る清とそれに反発するイギリスの間で、1840年に阿片戦争が起こる。戦いは清の敗北に終わり、1842年の南京条約で不平等条約を結ばされ、続く1857年からのアロー戦争でも敗れた。この結果、沿海の都市のいくつかを租界として取り上げられ、香港を割譲せざるを得なくなった。また、北はロシアが沿海州の割譲を要求し、それにも従った。租界や割譲地は欧米列強のアジア活動の基地にされた。西欧国家の圧倒的優位を認識した清は、洋務運動でその技術を取り入れ始める。しかし、この改革は守旧派との対立もありはかばかしく進まなくなる。西欧列強の進出は、「鎖国」を「祖法」として固守していた日本にも及んだ。1853年にはアメリカ艦隊が開国を求めて来航し、翌年には日米和親条約、1858年には日米修好通商条約が結ばれた。攘夷が叫ばれる中で条約を結んだ江戸幕府は国内の求心力を失い、1867年の王政復古により武家政権が終わった。この後の日本は明治維新により富国強兵や文明開化を進め、諸外国からの通商要求を拒否し続けていた朝鮮に対して、1875年の江華島事件を経て翌年の日朝修好条規で開国させた。清は阮朝への侵略を強めるフランスと1884年に清仏戦争で争い敗れ、ベトナムは仏領インドシナとされる。また朝鮮を巡る日清の対立が高まり、1894年に日清戦争で戦い敗れた。清は下関条約で朝鮮の独立を認め、遼東半島や台湾などを日本へ割譲するが、遼東半島は日本に対する欧州の三国干渉により還付された。この後にロシア帝国、イギリス、ドイツ帝国、大日本帝国、フランスなどの列強は次々と清の領土を租借し、朝鮮は1897年に大韓帝国として独立する。また、朝鮮半島史上初めて他国の干渉から解放される。1899年に扶清滅洋を掲げる義和団の乱が発生する。翌年に清は列強に対し宣戦布告を行うが敗れ、北京議定書により莫大な賠償金などを課せられた。またロシア帝国は満州への軍駐留を続け朝鮮半島への影響を強める。これを嫌った日本は急速に戦力を整え、1902年に日英同盟を結び、1904年の日露戦争でロシアを破った。この後、1910年に日韓併合条約で韓国を併合する。清は1911年の辛亥革命を経て翌年に滅ぶ。中国は中華民国が建てられるが軍閥による内戦状態へと陥った。この内戦状態の中で、中国は徐々に欧米列強の影響を強く受けるようになっていった。1914年になると第一次世界大戦が勃発した。この機に乗じ、日本は極東地域のドイツ租界や島嶼地域を占領した。また、日本は中華民国に対華21ヶ条要求を行い、欧米に先んじていち早く中国への影響を拡大させようとした。しかし、中国の租界は戦争後に欧州の干渉によって中国にもどされ、日本の21ヶ条要求は他国から非難されるに至った。日本はロシア内戦の干渉戦争においてシベリア出兵を行っている。大正時代に入ると、日本では民主主義的思想が流行し、1925年には普通選挙が実施された。なお、大正年間初期には戦争で好景気(大正バブル)を博した日本であったが、関東大震災が起こり、東京は原野に戻った。さらに、この後経済の建て直しに難航し昭和金融恐慌が起こり、さらに1929年には世界金融恐慌が起こり、日本は壊滅的な打撃を受ける。この状況下で日本は軍国主義へと舵を切っていった。一方、このころ中国では蒋介石が北伐を成功させ、満州地域にも勢力を伸ばそうとしていた。日本はこれに対抗し満州は日本の生命線と主張し、大陸へ深くかかわることになった。日本は1931年の満州事変を経て翌年に満州国を建国した。1936年には二・二六事件が起こり、政府は軍部の傀儡となった。日中関係はその後も悪化を続け、1937年からは盧溝橋事件をきっかけに中国を侵略(進出)する日中戦争が始まる。日本はこれを戦争と認めず、支那事変と称した。中国側はこれに対し国民党と共産党の内戦を一時中断させ第二次国共合作をおこない、統一抗日戦線を張った。日本はさらに1941年からは太平洋戦争(大東亜戦争)でアメリカ合衆国と全面戦争になった。日本は大東亜共栄圏を主張し東アジアから東南アジアの広い地域に向けて軍を展開した。日本軍は緒戦は勝利を収めるものの、ミッドウェー海戦以降、太平洋での作戦の失敗を続け、1945年には原子爆弾を投下され、抗うすべを失い同年8月15日に降伏した。これに伴い満州国も滅び、台湾は中国に返還され、朝鮮半島は連合国が管理することになった。日本とソ連は中立条約を結んでいたが、8月8日にソ連は満州領、日本領に侵攻をはじめ、日本は千島列島と樺太を占領された。第二次大戦後、中国では再度国共内戦が行われ、工場の多く残る満州を占領し、ソ連からの支援を得た共産党側が勝利を収め、大陸側は中華人民共和国が統一した。これに対し、国民党政府は台湾へと亡命、現在も両岸問題は継続されている。日本は1946年の日本国憲法により大日本帝国から日本国と国名を改め民主主義となり、1951年の日米安全保障条約で日米同盟を結んだ。また、進出したアジアの国家に対し多額の賠償を行うことになった。しかし、戦後にすさまじい経済復興をとげ、世界第二の経済大国に躍進した。朝鮮は米国とソビエト連邦が南北に分け、それぞれ大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国が建国された。この後、北朝鮮の侵攻を受けて朝鮮戦争が勃発した。韓国と北朝鮮は1950年から1953年の朝鮮戦争で戦い今も停戦状態にある。南北朝鮮の関係は、戦後は劣悪なものであったが、近年は韓国側の歩み寄りから関係の改善が見られる。現在の東アジアは北朝鮮を除いて経済が発展し、各国の交流も深まっているが、台湾の帰属を巡る台湾問題、北朝鮮の核開発問題、日本人拉致問題などの課題がある。

出典:wikipedia

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