LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

本多猪四郎

本多 猪四郎(ほんだ いしろう、1911年5月7日 - 1993年2月28日)は日本の映画監督。山形県東田川郡朝日村(現・鶴岡市)出身。数々の東宝特撮映画を撮った。「いのしろう」とした書が多く出版されており、また本人もニックネームで「いのさん」「いのしろさん」などと呼ばれることが多かったが、正しい読みは「いしろう」。亥年生まれの四男であったことから「猪四郎」と命名された。その影響を受けた海外の文献でも"Ishiro"と"Inoshiro"が混在している。湯殿村七五三掛、湯殿山注連寺一山、本多龍傳院(ほんだりゅうでんいん)住職である父・本多芳寛と母・本多みよの末っ子として生まれる。3人の兄と姉がいる。10歳の時に父親が東京都高井戸にある医王寺住職となる為上京し杉並区立高井戸小学校 に転校する。その後神奈川県に引っ越し攻玉社中学校・高等学校に入学。1931年に新設された日本大学芸術学部映画科の第1期生として入学。22歳の時に同大学の講師である森岩雄の勧めで金曜会に入会。1933年8月に卒業目前にPCL(東宝の前身)に入社し1934年に大学を卒業。山本嘉次郎や成瀬巳喜男の助監督につく。山本門下の黒澤明や谷口千吉は親友である。1939年3月にはスクリプターの山崎きみ(本多きみ)と結婚。入社後には3度徴兵された。特に最初に入営した歩兵第1連隊では将校が二・二六事件を起こしたので、事件後の部隊が満洲に送られてしまい、通常2年で済む現役が長引いた。復帰後は軍に再召集され、日中戦争に従軍。終戦は中国で迎えた。この間、本多の両親や兄弟はすべて他界していた。1946年、中国から引き上げてきた本多は汽車で帰郷中に原爆で壊滅した広島を目の当たりにし、強い衝撃を受けた。8年間も軍にいたため、本来は山本門下の3人のうち最も先輩だったにもかかわらず黒澤(1943年『姿三四郎』で初監督)、谷口(1947年『銀嶺の果て』)に対して、1949年に短編ドキュメンタリーの『日本産業地理大系第一篇 国立公園伊勢志摩』で監督デビュー。本作は日本で初めて、本格的な水中撮影が行われた。1951年、本多が40歳の時にようやく『青い真珠』で劇映画を初監督する。『太平洋の鷲』以降円谷英二とのコンビで多くの特撮映画を監督した。1954年の『ゴジラ』は全米で大ヒットを記録したため、一躍世界に名を知られる映画監督となる。なお、『ゴジラ』では真夏の海上ロケを敢行したが、巡視船の上で上半身裸となって撮影に挑んだため、日焼けしすぎて背中に水ぶくれができてしまったという。1957年の『地球防衛軍』はMGM配給、1959年の『美女と液体人間』、1959年の『宇宙大戦争』、1961年の『モスラ』はコロムビア映画の配給、1962年の『キングコング対ゴジラ』と1967年の『キングコングの逆襲』はユニバーサル映画配給、1965年の『怪獣大戦争』と1966年の『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』はユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカ配給で全米公開されるなど、担当した作品のほとんどが海外で公開された。なお、『キングコング対ゴジラ』では撮影中に斜面を30メートルも滑落してしまったが、負傷した腕を吊りながら撮影を続行したという。1965年に東宝専属でフリーとなり1967年の『新婚さん』からはテレビシリーズの監督も行うようになる。1971年に東宝を正式退社。円谷との縁から『帰ってきたウルトラマン』や『ミラーマン』等の円谷プロダクション製作によるテレビ作品の監督を務めていた。1975年の『メカゴジラの逆襲』を最後に監督作品はなく、その後はゴルフ場で再会した黒澤明の勧めで『影武者』以降の黒澤の映画を演出補佐として支えた。その主な仕事は子役を含めた演技指導やリハーサルの代行。1990年の『夢』ではそれ以外にB班の監督や特殊効果面の指揮も務めていた。『まあだだよ』の撮影終了後、風邪をこじらせ1993年2月28日に呼吸不全の為死去。本多の墓には次のような言葉を刻んだ碑が立っている。「本多は誠に善良で誠実で温厚な人柄でした 映画の為に力いっぱいに働き十分に生きて本多らしく静かに一生を終えました 平成五年二月二十八日 黒澤明」。本多を師とする大林宣彦監督による『漂流教室』と『異人たちとの夏』にカメオ出演したことがある。また、没後には前述の黒澤組にいた関係で交友があった米田興弘監督の『モスラ』と大林監督の『水の旅人 侍KIDS』(本作は本多に捧げられた特撮映画)の2作品で、主人公の少年の祖父として本多の肖像が出演している。メキシコ出身のギレルモ・デル・トロ監督が子供の頃から慣れ親しんできたゴジラシリーズを含む日本の特撮怪獣映画やロボットアニメへのオマージュを込めた2013年のアメリカ映画『パシフィック・リム』では、エンドクレジットに“この映画をモンスターマスター、レイ・ハリーハウゼンと本多猪四郎に捧ぐ”との献辞が掲げられている。また、ゴジラ生誕60周年作品である2014年版『GODZILLA ゴジラ』には、監督のギャレス・エドワーズの案により、1954年版の登場人物である芹沢大助と監督である本多猪四郎からそれぞれ名前を合わせた、芹沢猪四郎博士(演:渡辺謙)が登場する。撮影技術、映画効果としての“特撮”に関わり続けた映画監督である一方、メロドラマ、サラリーマン喜劇、歌謡映画など幅広い作品がある。黒澤明が自分の作品に対して予算や時間のオーバーも辞さず、テーマや納得できる映像を追求した芸術家タイプだったのに対して、本多の作品は会社の求める企画を予算や時間を守って仕上げる職人タイプであった。『ゴジラ』もそうした会社から提示された企画の1つである。そんな黒澤と本多の違いを表現した言葉にこんなものがある。「“飯を作れ”というと、黒澤は食べきれない程のフルコースを用意する。本多は綺麗に重箱に詰めてくる」演出は概して淡々として破綻がなく堅実である。特撮映画では最大の見せ場である特撮シーンに水を差すことなく、あくまで一歩下がった位置を守っている。土屋嘉男によると、警察官が避難民の交通整理をしているシーンに対して黒澤明が「おかしいよ。本当ならあんなところで交通整理せずに逃げちゃうだろう」と言ったが、それに対して「警官はああでなきゃいけないんだ」と答えたという。本多が特撮映画の演出でこだわったのは、超常現象を目の当たりにしての、演技者の目線の統一だった。俳優を決める際には、「子供が見る映画だからといって、真剣に演じられない人は私の映画には出てもらわなくて結構」と述べ、徹底したリアリズムを心がけた。佐原健二によれば、俳優の演技に関しては、特撮主体の映画で見られがちなオーバーアクションを極力避け、あくまで抑えた自然体で演じるよう指導されたという。本多を師と仰ぐ大林宣彦によれば、黒澤明の映画『夢』に出演していたマーティン・スコセッシが、撮影前のメイクの間中「ミスター・ホンダはどこにいる?」と語り、本多との対面を熱望していたという。後日、スコセッシは本多や黒澤と共に撮影現場で記念写真を撮ったとのことである。また、大林によれば晩年の本多が撮りたがっていた映画は、若い男女の恋愛を描いた映画であったという。現場では終始にこやかであり、スタッフや俳優を怒ることなどは一度もなかったという。性格のきわめて温厚であることは関係者に異論がない。また、演技指導に関しては、積極的に自ら模範演技をしてみせたという。監督作品は当初は自分自身の手筆だったが中期に入ると脚本家まかせである。そんな本多作品の主な執筆者として馬淵薫、村田武雄、関沢新一がいる。ただし、クレジットされなくても、監督自身が加筆・修正していた。映画音楽は伊福部昭、佐藤勝。晩年の演出補佐作品では池辺晋一郎が担当した。ほかのスタッフは、一貫して東宝で製作していたことも含めれば、撮影の山田一夫、小泉一、完倉泰一、美術の北猛夫、録音の矢野口文雄、整音の下永尚、チーフ助監督の梶田興治らが本多作品を支え、演出補佐後はB班撮影の上田正治、監督助手の米田興弘らが支えていた。本多は、1951年の『青い真珠』から、1962年の『妖星ゴラス』まで池部良を主役として起用し、1954年の『ゴジラ』から1969年の『緯度0大作戦』までは宝田明を、1953年の『続思春期』から、1970年の『ゲゾラ・ガニメ・カメーバ 決戦!南海の大怪獣』までは久保明をそれぞれ起用。佐原健二は『ゴジラ』では記者の役として出演、その後1956年の『空の大怪獣ラドン』から1966年の『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』まで6本の映画で主役を務め、それ以外でも脇役として数多くの作品に出演。その他、高島忠夫(3本)、夏木陽介(2本)。池部、佐原、宝田、久保と共に志村喬も本多作品には不可欠な存在であり、デビュー作『青い真珠』から1965年の『フランケンシュタイン対地底怪獣』、演出補佐作品の『影武者』まで数多くの作品に参加。『ゴジラ』の山根恭平博士を演じたのを機に東宝特撮映画には欠かせない名脇役となった。『さらばラバウル』で初出演を果たし『ゴジラ』で芹沢博士を演じた平田昭彦はこれを機に本多作品、東宝特撮映画に欠かせない存在となり、『メカゴジラの逆襲』では芹沢博士の正反対の真船博士を演じた。土屋嘉男は『地球防衛軍』でミステリアンのボスを演じた事で悪役の名をあげ、『怪獣大戦争』のX星の統制官で人気を更に博す。出演作の大半は悪役を占めている。

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。