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野村克也

野村 克也(のむら かつや、1935年6月29日 - )は、京都府竹野郡網野町(現:京丹後市)出身の元プロ野球選手(捕手)・コーチ・監督(ヤクルトスワローズ監督(第17代)、阪神タイガース監督(第29代)、東北楽天ゴールデンイーグルス監督(第2代))、解説者・評論家。日本体育大学客員教授。元東北楽天ゴールデンイーグルス名誉監督。所属事務所はエフエンタープライズ。血液型はB型。愛称は「ノムさん」。戦後初・捕手として世界初の三冠王、出場試合数歴代2位、監督としても出場試合数歴代3位、通算本塁打数歴代2位、通算打点数歴代2位、通算犠飛数歴代1位などの記録を持つ。京都府京丹後市出身。野球選手としての現役生活はからの27年間にわたり、南海ホークス、ロッテオリオンズ、西武ライオンズでプレーした。引退後はからまでヤクルトスワローズ、からまで阪神タイガース、からまで社会人野球のシダックス、からまで東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を務めた。からまで東北楽天ゴールデンイーグルスの名誉監督。2010年からはサンケイスポーツの野球評論家を務める。また、出身地の京丹後市名誉市民となっている。通算試合出場数は日本プロ野球歴代2位(実働年数は歴代2位)、通算の安打、本塁打、打点、塁打数は歴代2位で、いずれもパ・リーグ記録である。球史に残る名選手であり、本人は「俺は王貞治さえいなければ三冠王だった」とぼやいている。選手・監督時代を通じ、勝つために様々な工夫や駆け引きを重ねており、野球理論・野球技術の発展に貢献している。前述の「ノムさん」の愛称の他にも、「ノムやん」「ノムはん」「ムース」「和製のベーブ」などと呼ばれることがある。ムースとはロッキー山脈に生息する、普段のっそりしているが非常に敏感で頭がよい「へら鹿」のことであり、日米野球で来日したウィリー・メイズが「のそっとしているがいろいろな動きによく反応している」野村をこう呼んだことから名づけられた。現妻は野村沙知代。息子は野村克則。元妻との間にも息子が1人いる。継子には団野村、ケニー野村がいる。自著で幾度か「何よりも自分は働く人間」と述懐している通り、幼少の時から老年に差し掛かった現在まで、仕事に対する執着心は非常に強い。第一線を退くことなく野球を続け、オフや休日にも講演やテレビ出演、執筆活動など数え切れないほどの仕事をこなす。現役時代は捕手という負担の大きいポジションで歴代選手2位の出場数(3017試合)を記録し、選手兼任監督まで務めており、監督としての試合出場も通算3204試合と3000試合の大台に乗せている。また通算打席数(11970打席)と通算打数(10472打数)も歴代1位記録である。家業は食料品店。日中戦争に出陣した父・要市は3歳のときに満州にて戦死したというが、実際は道端の供え物の柿を食べて亡くなったらしく、幼少時代に情けない思いをしたと語っている。網野町は丹後ちりめんの産地で周囲は裕福な家庭が多い一方、野村の家は貧しく、劣等感にさいなまれる。看護師だった母・ふみは病弱で野村が小学校2年生と3年生のときに二度もガンを患い、一家は極貧といっても過言ではない状況に陥った。家計を少しでも助けるため、野村は小学校1年生の頃から兄とともに新聞配達やアイスキャンディー売りなどのアルバイトをした。また、父の戦友の助けや母の糸繰りの仕事もあり、何とか生活は出来た。貧乏な生活から脱却したいとの思いから、将来は歌手になろうと中学校のコーラス部に所属したり、俳優になろうと映画館通いをしたりしていたが、当時プロ野球の大スターであった赤バットの川上哲治・青バットの大下弘への憧れや、出身地にほど近い兵庫県出石郡出石町にて名を馳せていた大友工投手(後に巨人等で活躍)の影響もあり、次第に野球選手を志すようになる。中学2年生で野球部に入ると、すぐに4番・捕手に抜擢され、3年生の時には奥丹後地方予選で優勝。京都府大会でも四強に入り、青年団の補強選手にもなった。中学卒業後は働くように母から言われるが、兄が大学受験を断念する等の取り計らいにより、野村は京都府立峰山高等学校に進学した。その後に内緒で野球部に入部したことが母にばれ、退部するよう言われるが、顧問の取り計らいにより続けさせてもらう。貧しくバットも買えないため、海水を一升瓶に入れて持ち帰り、素振りをしていたという。野球部は地方大会で1回戦負けが常という弱小チームであり、野村が在学中も2年生の時に京都府予選の2回戦まで進んだのが最高で、甲子園など夢のまた夢だった。当時は廃部も検討されており、野村も全くの無名選手だった。卒業後の進路は顧問がプロ球団の監督に手当たり次第に推薦状を送り、南海監督・鶴岡一人(当時は山本姓)だけが返事をくれた。1954年、南海に契約金0のテスト生として入団。野村は巨人の大ファンであったが、巨人は藤尾茂捕手が活躍していたため断念。捕手層が薄く高齢化していた南海なら一軍のレギュラーになりやすいと考えた。同期入団には皆川睦雄や宅和本司がいる。当時の南海は鶴岡監督の下、毎年優勝争いを繰り広げていた。シーズン当初は出場機会がなく代打での初打席は三振、結局1年目は9試合で11打数無安打だった。シーズンオフにマネージャーに呼び出され戦力外通告を受けるが秋季キャンプ中に正捕手(松井淳)が交通事故、2番手捕手(筒井敬三)が高橋ユニオンズにトレード、3番手捕手(蓜島久美)が怪我(頭部に死球を受けた)をしたことで捕手不足となり残留。「もしここでクビになるようなら生きていけません。南海電鉄に飛び込んで自殺します」と辛抱強く交渉し、担当マネージャーに「お前のようなやつは初めてだが、若いうちなら人生はやり直せる。お前は活躍できないんだぞ。俺の目は確かだ」と苦言を言われつつも何とか残ったと語っている。しかし肩が弱かったため秋季キャンプで一塁手へのコンバートを言い渡される。当時の一塁手は球界を代表する飯田徳治が務めていたため、このままではレギュラーになれないと考えた野村は砂を詰めた一升瓶やテニスボール、握力計、鉄アレイなどを使って筋力を鍛え、遠投で肩を強化した。このような努力が実り、2年目は1軍出場こそなかったものの、2軍で打率2位の成績を残し、 シーズンオフの秋季キャンプで捕手に再コンバートされる。この時代、まっすぐ投げられないことを先輩に指摘され、その原因がろくにボールの握り方も知らないことであったことから、考えることの重要性を知ったという。また、「遠投は体全体で投げること」という先輩の言葉を「体全体を鍛えればいい」と解釈し、当時はまだタブー視されていたウエイトトレーニングを始めた。こういう経験から、指導者となってからはプレースタイルなどについて考えることの重要さを口を酸っぱくして説いている。3年目の、ハワイ春季キャンプで一軍に抜擢され、以降正捕手に定着した。なお、この段落にある経緯を鶴岡は、『私の履歴書』では若干異なる趣旨のことを書いている。打撃不振に陥った頃、テッド・ウィリアムズの著書「バッティングの科学」に出会い、その中で「投手は球種によりモーション時にクセを見せる」という一言があり、これをきっかけに投手のクセを研究するようになった。それ以来、打撃力が格段に向上したが、どうしても稲尾和久だけは攻略できず、野村は16ミリカメラで稲尾を撮影し研究した。このことが後に野村本人が確立するID野球の基礎となった。1957年に山内和弘(毎日)、中西太(西鉄)ら並み居るスラッガーを抑え本塁打王のタイトルを獲得。以降毎年のようにタイトルを獲得し、南海の黄金時代を支える。南海は1959年、1961年、1964年、1965年、1966年にリーグ優勝、そのうち1959年と1964年は日本一になっている。1962年、別当薫(毎日)の持っていたパ・リーグ記録のシーズン43本塁打(1950年)を抜く44本を記録。1963年には小鶴誠(松竹)のプロ野球記録シーズン51本塁打(同上)を破る52本を残した。52本塁打は翌年に巨人の王貞治が55本を打ったことによりプロ野球記録としては更新されたが、パ・リーグ記録としてはにタフィ・ローズが55本を打って更新するまで長く残っており、捕手として50本以上打った選手はメジャーリーグを含めても野村だけである。さらに同年は盗塁阻止率でもキャリアハイの.524を記録するなど、パ・リーグを代表する強肩強打の捕手として名を馳せた。その後、8年連続本塁打王、1965年には戦後初の三冠王に輝く。また、1977年には規定打席到達者の中では最低打率であったが、これによって野村は最高打率(首位打者)と最低打率の両方を経験した初めての打者となった。しかし、当時の日本のプロ野球を取り巻く世情は人気面・知名度いずれも巨人を中心としたセ・リーグ偏重傾向が現在より圧倒的に高かったため、同時期にセ・リーグで活躍していた巨人の長嶋茂雄や王貞治に比べて世間からの注目は少なく、今に伝えられる野村の打者としての評価も目立たないものである。5月22日、野村が史上2人目の600号本塁打を達成(後楽園球場)したときの観客はわずか7,000人ほどであった。野村はこの試合後のインタビューで「自分をこれまで支えてきたのは、王や長嶋がいてくれたからだと思う。彼らは常に、人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目のふれない場所で寂しくやってきた。悔しい思いもしたが、花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある」と答え、それ以後「月見草」が野村の代名詞となった。打撃部門で多くの記録を残したが、年間最多本塁打の記録を更新した翌年のに王に更新され(55本塁打)、に通算最多本塁打の記録を(約2週間の攻防の末)王に、には一晩のうちに通算最多打点を王に、通算最多安打を張本勲(当時巨人)に破られるという経験もしている。王は1973年以降のオールスター戦で、野村がマスクを被った試合では27打数1安打0本塁打と抑え込まれている。また、足は遅い方だったが、通算117盗塁を記録。そのうちホームスチールが7回、三盗は2回ある。上述のような成績を残せた大きな理由に、試合展開や相手選手の心理を読む能力に長けていたことが挙げられる。当時の鶴岡監督率いる南海は、他球団に先駆けてデータ収集・活用のための体制を整えており、実際のデータ収集を担当した尾張久次は日本プロ野球のスコアラー第1号とも言われている。野村は蔭山和夫コーチらとともに、こうしたデータを試合展開や相手選手の観察結果と併せて分析し、打撃にも配球にも生かした。投手のクセを盗み、球を投げた瞬間に球種・コースを見破る技術を身につけたことも活躍の要因となった。当初はカーブが全く打てず、「カーブの打てないノ・ム・ラ!」「カーブのお化けが来るぞ!」などと野次を浴びるほどだったが、投手のクセを盗みカーブを事前に見破ることで克服した。こうした能力は、徹底的な観察と各投手との駆け引きの中で身に付けたものだった。中でも西鉄のエースとして活躍した稲尾和久とは、野村が苦心の末にクセを見破ると、稲尾はそれに気付いてさらに対策を講じるという、ハイレベルな駆け引きを繰り広げた。野村がプロ生活を始めた当時、捕手の地位は打者としての役割を求められないばかりか大柄で、ミットの薄い部分でキャッチングして大きな音を出すことで投手の気分を良くさせる程度しか求められていないなど現在とは比べ物にならないほど低いものであった。その中で野村は自身の打撃成績の向上のため蔭山和夫や尾張久次とスコアの研究を重ねる過程で、スコアの研究をリードに生かすことで効率よく打者を抑えることを研究するようになっていった。捕手として守備に就いた時には、相手打者にささやくことで集中力を奪うことを得意とした。この策は「ささやき戦術」として知られる。野村のささやき戦術は1950年代、当時同リーグで活躍していた西鉄の日比野武を参考にして始まったといわれる。当初は「次は頭にいくでぇ」「今度こそ頭だぞ」「当たったら痛いだろうナァ」などといった直接的な脅しだったため、当時ライバルだった阪急の西本幸雄監督が「先に野村にぶつけろ」と指令を出した。その後、鶴岡と西本の会談が持たれたために脅しは止めたが、次は相手打者の私生活などについてささやき、集中力を乱す方向へ変更された。東京であれば銀座、大阪であれば北新地といった繁華街の高級クラブに頻繁に出向き、その店のホステスから常連客として姿を見せるライバル選手の情報を仕入れるのが常だったという。このささやき戦術は多くの選手に影響を与え、有名選手を中心に様々なエピソードを残している。白仁天はささやきによる集中力低下を避けるために耳栓を用いたが、かえって意識しすぎて打てなかったという。一方で大杉勝男にささやきかけると「うるさい!」と一喝されたものの、その一喝は野村のささやきをそれだけ気にしていた結果であった。また、張本勲は対策として空振りと見せかけて野村の頭をバットで殴るという手段を取ったと述べているが、野村自身は著書でこれを否定しており、別の理由でささやきをやめたと記している(詳しくは張本の項を参照)。ただし、この戦術が全く通じない選手も存在した。王貞治はバッターボックスに入るまでの雑談には応じたものの、いざ投手と構えると集中し、話を全く聞かなかった。長嶋茂雄は、野村のつぶやきに「よく知ってるねぇ。どこで聞いたの?」と違う話を持ちかけたり、かみ合わない話を返したりするなど全くささやきが通じず、動揺を誘う為「(バッティングの)フォームが少しおかしいんじゃないの?」と長嶋にささやいた際には、「本当?ちょっと待って」とタイムをかけられ1、2回素振りをした後に次の球を本塁打にされてしまった。ホームインした際に長嶋から「教えてくれてありがとう」と言われ、野村は唖然としたという。天才肌の榎本喜八に対しては、榎本独特のオーラに呑まれて、野村自身余裕をなくして戦術を実行できなかった。また、投手のクセの研究に関しては野村にもヒケをとらない高井保弘は、打席で「何(のボールを)待ってんのや」と聞いてきた野村に「ヤマの張り合いをしよう」と持ちかけ、ことごとく球種を言い当てた上に最後に本塁打を打ったという。オールスターゲームでも、パ・リーグ捕手としての地位を最大限に利用して同リーグ投手のデータ収集を行ったが、稲尾はこの意図を見抜いていたため野村のサイン通りに投げることはなかった。パ・リーグの投手にとってオールスターはセ・リーグの打者との戦いではなく「野村との騙し合い」だったと言われており、稲尾は後年「オールスターでは野村との駆け引きに専念せざるを得ず、セ・リーグの打者の記憶はまったくない」と語っている。1965年オフ以降、恩師であった鶴岡一人との確執が表面化しはじめ、同年11月に自身の理解者であった蔭山が急逝する。からはコーチ兼任となり、同年オフに母親と死別。また、この頃に関係がうまくいっていなかった前妻とは別居状態となった。、戦後初の最下位に終わり飯田徳治監督が辞任し、野村が後任の監督に就任した。川勝傳オーナーから「南海再建を託せるのは君しかいない」と熱心に口説かれ承諾。この時に野村が挙げた条件がドン・ブレイザーをヘッドコーチにすることだった。野村は「ブレイザーがヘッドじゃなきゃ監督は引き受けなかった」と語っている。捕手というポジションで野球を突き詰めて考えていた野村は、以前からブレイザーの野球への知識に感銘を受け、共感できる部分が多いと思っていた。監督と選手を兼任するプレーイングマネージャーとして「4番打者」「捕手」「監督」の3つの重責をひとりで担うことになった。野村の著書によると、このときの年俸は選手、監督分を合わせて1億円を超えていたという(当時の南海は給料を税金分天引きした手取りで渡していたため、1億円を超えていなかったが税金分を含めた給料は1億円を超えている)。監督兼任となってからも打棒は健在で、1970年シーズンは42本塁打を記録。この年は大杉勝男と最後まで本塁打王を争い、ともに42本でそれぞれのシーズン最終戦を迎え、ここで大杉が2本塁打を放ち、44本として野村に2本差をつけた。これに対し野村は打席数を増やすためにそれまで全試合座っていた4番を捨てて1番打者として出場したが、本塁打を記録できず、大杉に及ばなかった。同年10月18日の西鉄戦では史上4人目となる通算2000本安打を達成。には打点王を獲得した。この頃には、現在の妻、野村沙知代との愛人関係が始まっている。監督就任1年目は新人・佐藤道郎を抑えでフル回転させ、何とか投手陣をやり繰りし、2位となったが、2年目は勝率が5割を切って4位で終わる。ここで野村は他球団でくすぶっていた投手たちの獲得を目指すことにした。トレードで東映から江本孟紀、巨人から山内新一、松原明夫を獲得した。弱体化していたチームを立て直し、にリーグ優勝を果たした。当時パ・リーグで採用していたプレーオフ制度を最大限に利用し、実力は南海より上と見られていた阪急を退けての優勝だった。監督兼任でありながら、選手としても.309、28本塁打、96打点の成績を残し、MVPに選ばれた。しかし、日本シリーズでは巨人に敗れ、V9を許す結果となった。阪急の1番打者として活躍していた福本豊の盗塁を阻止する為、投手に素早いモーションで投球させた。これが後のクイック投法の原型である。クイック投法の重要性自体は三原脩が既に提唱していたが、南海投手陣にその意識をもたせてリーグ戦で使い、パ・リーグ全体に普及させたのは野村だった。この頃は現役生活も晩年に差し掛かって肩が衰えており、それを補うために考え出した策である。に江本らとのトレードで阪神から獲得した江夏豊が、移籍1年目に思うような成績が挙げられなかったことから、江夏をリリーフ専任投手として再生することを決断。「プロ野球に革命を起こそう」という決め台詞で江夏を説得し、江夏は6月からリリーフに転向。この年19セーブを挙げて最優秀救援投手に輝いた。江夏は「『革命』と言われなかったらリリーフ転向はOKしなかったと思う」と語っている。投手分業制を提唱し実践していた近藤貞雄の存在や、江夏のこの活躍などがあってリリーフの役割の重要性を球界に認識させ、先発、中継ぎ、抑えというピッチャーの分業を本格的に定着させるきっかけとなった。監督としての野村はトレードに対しては積極的であった。トレードの理由としては単に戦力的な面だけではなく、実は選手を借金地獄から救う為や、チーム内での交友関係を思い、移籍先に頭を下げて引き取ってもらったこともあったという。ある主力投手は投手コーチと衝突したためトレードに出して欲しいと直訴してきた。野村は「自分が球を受けているから、主力でいられるんや」と慰留したが、本人の意思が堅かったために止む無く放出する。その投手はわずか数年で2球団を渡り歩き、ユニフォームを脱いだ(西岡三四郎)。逆にトレードで迎えたある選手には、飲み屋のツケを全て調べ、「お前は南海に野球しにきたんやろ、これで全部(ツケを)払ってから、球場にこいや」と言ってポンと現金を渡した。以来その選手は「この人のためなら」という気持ちになったという。一方で放出した選手の一部には恨まれることもあった。1972年、チームでは、一部選手が野村の指導にはついていけないと首脳陣にこれまでの方針撤回を迫り、クーデターが起こった。それに対して野村は代表して意見を具申してきた三浦清弘に対して強制的に任意引退の手続きを取るという強硬な手段に打って出た。(最終的に三浦は、同じ大分出身の稲尾和久のいるライオンズに引き取られた)1975年オフ、巨人はこのシーズン最下位に沈むと、コーチ陣のテコ入れのため、極秘で野村に接触、巨人の当時球団常務だったロイ佐伯、広報担当の張江五が交渉し、選手兼任ヘッドコーチというオファーを打診。当時、チーム内の派閥抗争に巻き込まれ孤立していた本人は快諾した。ところが肝心の長嶋監督がクビを縦に振らなかった為、“巨人・野村克也”は幻に終わる。1977年9月28日、シーズン終了まで2試合を残して解任される。当時はまだ愛人関係にあった現夫人・沙知代(当時は伊東芳枝)の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が理由で、このことが野村を大事にしていた川勝オーナーの耳にも入り解任に至った。野村が「鶴岡元老らOBの政治的圧力があった」と述べているように、監督退任後も依然として支配力を発揮していた鶴岡との確執が原因の一つと考えられる。広瀬叔功は著書の中で「南海の監督を辞めてから鶴岡親分が監督人事に口を挟むことなど考えられなかったし突拍子もない言いがかりだと思った」、「当時を思い起こせば監督夫人が球場へ出入りしていろんなことに口出していてチーム内に不協和音が満ちていた。川勝傳オーナーが『泣いて馬謖を斬る』と、自分がもっとも信頼をおいていたノムやん解任に踏み切ったのも無理はなかったろう」と記している。なお、後任の監督に広瀬が決定するまでの残り2試合は、当時二軍監督だった穴吹義雄が指揮を執った。1978年(昭和53年)、前妻との離婚が成立した野村は沙知代と再婚した。この時のことについて野村は著書で後援会長の葉上照澄と会った時に、「野球を取るのか女を取るのか」と聞かれ、「女を取ります」と答えたと書いている。解任後は進退について大いに悩み、多くの知人にも引退を勧められたが、現役続行を選び、以前より誘われていたロッテに移籍した。南海の選手のうち、野村の解任に反対していた柏原純一、江夏豊はそれぞれ日本ハム、広島に移籍、打撃コーチの高畠導宏も南海を退団し、野村と共にロッテに移籍した。この年を最後に南海はAクラスに入ることなくにダイエーに身売りされた。また、ホークスの連続Bクラスはまで20年続いた。、金田正一監督率いるロッテが獲得の意思を示し、選手として移籍。懇意にしていた草柳大蔵からの「生涯一書生」という禅の言葉を教わり、新たに標榜した「生涯一捕手」は流行語となり、今でも野村の代名詞の一つとなっている。ロッテの一選手として親子ほど歳の違う選手と一緒に練習をしていると、何とも言えない虚しさを感じたという。ところが金田から「若手らにいろいろ教えてやってくれ」と言われアドバイスするとコーチ陣から煙たがられ、金田から「コーチがやりにくいと言っている。悪いが、教えるのはやめてくれ。」と言われたり、悪口をフロントに吹き込んで、監督の座を狙っていると直接問い詰められる等確執が生じる。元々金田が野村を獲得した理由は戦力としてではなく、野村が南海時代に培った他の5球団のデータを丸ごと手に入れる為であった。同年オフ、ロッテのオーナー重光武雄から「監督をやってくれませんか」、「ロッテを君に再生してもらうしかないんだ。本当の野球を教えてくれ」と言われ監督就任を要請されるが、金田が誤解すると察し、固辞し、同時に自由契約となる。ちなみにロッテは野村への監督要請を打ち切った翌日に山内一弘の監督就任を発表している。、根本陸夫監督率いる西武へ移籍。は控えに回ることが多くほとんど目立った活躍はなかったが、オールスターゲームには全パ・西本幸雄監督の推薦により出場。1950年代、1960年代、1970年代、1980年代の4つの年代での出場は史上唯一の記録である。また、選手として22回のオールスター選出は歴代最多。このうち1957年からまで21年連続でファン投票選出されており、ファン投票選出回数、連続選出回数ともに王貞治と並ぶ歴代最多記録となっている。同年8月1日に前人未到の3,000試合出場を達成。同年11月15日に引退を表明、実働26年、45歳だった。最後の本塁打は7月29日の対阪急戦で放ったもので、このとき45歳1ヶ月、岩本義行の持つ最年長本塁打記録(45歳5ヶ月)に4ヶ月及ばなかった。出場試合数は3017試合まで伸ばし、この記録は2015年に谷繁元信に抜かれるまで35年間、歴代1位だった。野村の著書によると、引退を決めたのは現役最後の年である9月28日の阪急戦だという。この日、野村は捕手としてスタメン出場。4-3と西武が1点を追う展開の8回裏、一死満塁で迎えた野村の打席で、実働26年の選手生活で唯一の代打(鈴木葉留彦)を送られる。犠牲フライくらいはいくらでも打てると思っていた野村は愕然とし(野村は犠飛数のプロ野球記録保持者であり、横変化の球種をやや遅れ気味に打つという犠飛を打つコツも体得していた)、ベンチに下がった後、代打策の失敗を祈っていた。結局鈴木はショートゴロ併殺打に倒れ、その瞬間「ざまあみろ」と思ったという。この逸機が響いて西武は試合に敗れた。野村は帰途の車中、自分の気持ちが勝利を目指すチームとは逆の方向に向いてしまったことを悔い、引退を決めたという。引退セレモニーは西武全選手が一・三塁間に横一列で並び、一人ずつピッチャーマウンド上のマイクで言葉を贈った後キャッチャーズボックスで構える野村に投球し、それを野村が受けるというものだった。南海の高卒新人捕手香川伸行から花束贈呈された。その後の記者会見終了後の野村の肩にはハローキティのカメラを持った当時小学1年生の息子・克則が乗っていた。なお、打席時に着用したヘルメットは南海時代から引退まで着用し続けたが、チームを移籍する際にも塗装を塗り替えながら使用し続けた。そのヘルメットは引退後西武球団に保管されていたが、5年後に清原和博に引き継がれる。入団時、自分に合うサイズのヘルメットがなく、たまたま見つけたヘルメットがピッタリと合ったことによる。移籍後も塗装し直して引退まで使い続けた。1981年からTBSテレビ・TBSラジオの野球解説者およびサンケイスポーツの野球評論家を務める。1983年からはテレビ朝日 へと所属放送局を移籍。また1981年から6年余り、週刊朝日で「野村克也の目」を連載した。テレビ朝日解説者時代には、ストライクゾーンを9分割した「ノムラスコープ」による配球の読み、打者・投手心理の解説が評判になる(「次の球は、ここに投げておけば必ずファウルになる」と予想し、その通りの結果になったなど。現在も解説者として出演する際には登場することがある)。これは野球中継では初の試みであった。またこの時期は講演や、沙知代がオーナーを務める少年野球チーム港東ムースの監督就任など公私にわたって活動した。1988年オフ、古巣である南海ホークスを買収した新球団福岡ダイエーホークスより、監督就任要請を受けるが固辞する。1989年に野球殿堂入りする。1989年の秋、野村の野球解説の鋭さを評価していたヤクルトの相馬和夫球団社長(当時)から監督就任の要請を受ける。長嶋茂雄が固辞したことによる要請であった為、一度は渋り断っていたが、南海時代に残っていた監督業への未練や、現場以外の多忙な生活から開放されたい一心でこれを承諾する。当時のヤクルトは松園尚巳オーナー(1994年没)の下、ファミリー主義と明るいチームカラーでファンからも親しまれていた。しかし勝負への甘さがあり、長年にわたって負け越し、Bクラスに甘んじていた。野村の就任に対しては、暗い性格がチームカラーに合わないと懸念する声も多く、世間からは「過去の人」「ヤクルトにとっては部外者」というイメージを持たれた。また就任直後の12月、心疾患の疑いで一時入院すると早くも「野村の次の監督」を推測する報道がされるなど、健康面での不安も囁かれていた。、データを重視するという意味の「ID野球」(IDは、Important Dataを意味する造語)を掲げてチームの改革を図る。主砲の池山隆寛や広沢克己らには、三振を減らすことや状況に応じたバッティングを指導。結果として、広沢は後に打点王のタイトルを獲得し()、池山もその90年にキャリアハイの打率.303打点97(本塁打は31)を記録した。また、ドラフト2位で入団した古田敦也らをレギュラーに抜擢、前年まで正捕手だった秦真司を外野手に、控え捕手だった飯田哲也を二塁手にコンバートした。しかし1年目は改革が勝利には結びつかず、開幕からの巨人戦は大里晴信の疑惑の判定もあり、2試合連続のサヨナラ負け、3戦目に初勝利をあげるものの、その後も連敗を重ね結局5位に終わり、前年の4位を下回った。9月8日の試合では巨人の優勝が決まり、目の前で胴上げを見ることになった。野村の要請でヘッド兼打撃コーチに就任した高畠導宏は一年で辞任、「野村さんはすっかり変わってしまった。いろいろな事に疑心暗鬼になる人に変わってしまった。かつての野村さんはそんな人じゃなかった。相変わらず夫人の介入もありました」と述べている。はキャンプ時から若手の成長が注目され、巨人の極度の不振(1979年以来12年ぶりにBクラスに転落)などもあってAクラスの3位に躍進。野村が徹底的な英才教育を施した古田は、守備面で大きな進歩を遂げるとともに首位打者を獲得して一流打者への仲間入りも果たした。二塁手から中堅手へ再度コンバートされた飯田は強肩俊足を生かした華麗な守備と走塁で注目を浴びた。高津臣吾に「日本を代表する抑えになれ、潮崎哲也のシンカーを参考にしてシンカーを投げろ」と助言し、その成長を促した。なお、IDバレー(眞鍋政義監督)やIDサッカー(野村雅之監督)など、他のスポーツでも「ID○○」という言葉が、後に使われるようになった。に混戦を制してセ・リーグ優勝。胴上げ投手はこの年ケガから復活したベテラン伊東昭光だった。この年は前述の選手に加え、投手では西村龍次、岡林洋一、内藤尚行、高野光、野手では荒井幸雄、橋上秀樹、笘篠賢治、ジャック・ハウエルらが活躍。ベテラン選手の渋い活躍もあったほか、9月には故障から4年越しで復帰した荒木大輔の起用もあった。他球団から移籍してきた新浦壽夫、角盈男、金沢次男らは中継ぎ投手として、ヤクルト一筋の杉浦享や八重樫幸雄は代打として働いた。日本シリーズでは最終第7戦までもつれ込む激闘を演じたが、西武に敗れた。は長嶋一茂を巨人に金銭トレードで放出し、前年のリーグ優勝で自信を深めた古田、広沢、レックス・ハドラー、ハウエル、池山、荒井、飯田、秦のレギュラー陣が安定した活躍を見せた。投手では、新人の伊藤智仁が前半戦で大活躍。伊藤は酷使が祟ったのか故障で後半戦を棒に振るが、先発の伊東、西村、この年にカムバック賞を受賞した川崎憲次郎、中継ぎの内藤、8年目でブレイクした山田勉、リリーフエースとして定着した高津らの働きもあり、チームはそのままリーグ優勝。前年に続いて西武との対戦となった日本シリーズを、再び最終第7戦までもつれ込む激闘の末に制し、遂に日本一に輝いた。は投手陣や古田など怪我人が相次いだこともあり、5月中旬を境に低迷。ペナントレース最終戦に勝ってようやく最下位だけは免れた。は、投手の石井一久、山部太、高津、野手の古田、土橋勝征、池山、飯田らのほか、新人の稲葉篤紀外野手、新外国人テリー・ブロス投手、さらに阪神を自由契約になっていたトーマス・オマリー一塁手、前ロッテのヘンスリー・ミューレン三塁手、近鉄との間で西村とのトレードで獲得した吉井理人投手など移籍してきた選手が活躍。前年オフに主砲の広沢(FA制度を利用)とハウエルが揃って巨人に移籍したことによる穴をこれらの選手が十分に埋め、安定した戦いぶりにより、最終的には全カード勝ち越しでセ・リーグを制した。また、オリックスと対戦した日本シリーズはイチローを内角高めの速球を意識させることで封じ込め、4勝1敗で日本一になった。は4強の一角に食い込むも投手陣の総崩れから早々に脱落、終盤にはイニング連続無得点のリーグ記録も更新して4位に終わる。の開幕戦(対巨人)、前年広島を自由契約になり獲得した小早川毅彦がエース斎藤雅樹から3本の本塁打を放ち快勝、ヤクルトはそのまま開幕ダッシュに成功する。8月には横浜との熾烈な首位争いを繰り広げ、最終的には1度も首位を明け渡すことなく、2位横浜に11ゲーム差をつけてリーグ優勝。日本シリーズでも西武を破り3回目の日本一となる。この年活躍した選手に投手の石井、吉井、田畑一也(ダイエーから獲得)、野手の古田、土橋、池山、宮本慎也、真中満、稲葉、シーズン前に酷評したドゥエイン・ホージー、1996年に田畑と共にダイエーから移籍した佐藤真一、青柳進、同じく1996年に西武を戦力外になり移籍した辻発彦、オリックスから移籍した馬場敏史、中日からテスト入団した野中徹博らがいる。は4位に終わり、この年のオフで勇退。最初に2連覇した後は日本一と4位を交互に繰り返したが、スワローズ歴代でも屈指の名将と評価されている。ヤクルト監督時代の成績は1187試合628勝552敗7引き分けで勝率.532。ヤクルトの前身国鉄・サンケイ時代を含め、野村の勝利数、勝率はいずれもトップである。現役晩年を野村指揮下で過ごした渡辺久信はヤクルト時代での体験を著書『寛容力 怒らないから選手は伸びる』で振り返り、カルチャーショックだったと語っている。曰く、野村ヤクルトは西武では考えられないほど、まず何よりミーティングに長い時間を費やした。そしてその形式も非常に独特のものであり、野村が延々と講義しながらホワイトボードに板書し、選手はそれを耳で聞いていては理解が追い付かないので、ノートをとって試合、オフ時間に見返す、というまるで学校の授業のようなことをしていたという。その講義内容自体も渡辺にとっては大きな衝撃であり、それは当時「常勝軍団」としてNPB界屈指のハイレベル野球を展開していた西武ですら実践していなかった深いものだったと語っている。特に打球カウント別の打者・投手・捕手心理がその講義の中心で、カウントパターンに合わせた野村の緻密な独自理論は、渡辺に指導者・戦略としての野球の面白さを感づかせてくれるような機知に富むものであったという。トーマス・オマリーは「監督、大好きね。リスペクトしているんだ」、「とにかく色々教わった。データから相手の強み、弱み。すべて理解し準備した上で試合に臨むことが重要だとね。」と述べている。、三顧の礼をもって阪神の監督に迎えられる。ヤクルト監督退任直後であること、阪神は例年生え抜きを中心に監督人事を進めていたことから、電撃的な就任だった。久万俊二郎から野村には対して「今まで球団が監督要請をした中で、私が直接出てきてお願いするのは野村が初めてです」、「今、タイガースはどん底にあります。来年、一からスタートするのにあたり、監督にふさわしいの野村しかいない。野村は球界の第一人者。あなたの右に出る者はいません」とそう熱っぽく語ったという。当時阪神の球団本部長だった野崎勝義によると野村が連れてきたコーチは松井優典、八木沢荘六、柏原純一の3人である。他に多くの要望が来ると覚悟していたが、野村が注文を付けたのはこれだけである。なお野村の監督就任には当時中日の監督を務めていた星野仙一からは上記の通りヤクルト監督退任直後に阪神の監督に就任したため「仁義を知らない」と批判された。だが当の星野も2001年オフ中日監督勇退後2002年より阪神タイガース監督に就任している。の日本一以降長く低迷するチームの再建を託した野村に対する期待は大きく、就任時の会見ではフロントが「野村監督様」と紹介するなどVIP待遇を受ける。またファンの人気も絶大だった。「野村TOP野球」(TOPとは、Total・Object lesson・Processの略語)をチームのスローガンとし、開幕直後から快進撃を続け、6月9日には単独首位に立ち(この年優勝した中日以外唯一首位についたチームとなる)、野村の誕生日である6月29日に発売される予定だった時価100万円の純金製野村監督像(通称・純金ノムさん)が前倒しで発売された(最初の購入者は、月亭八方)。オールスター戦を挟んで9連敗、9月28日には前年記録した球団ワースト記録の12連敗を喫し最下位に終わった。また安芸キャンプにおける新庄剛志の投手兼任プランや、遠山奬志の松井秀喜キラーとしての再生、遠山と葛西稔のスイッチ起用(通称「遠山・葛西スペシャル」、遠山 - 葛西 - 遠山 - 葛西、この頃の阪神の選手層の薄さから抑えに指名できる投手がいなかったため。どちらかが一旦一塁を守って再度登板する)なども行った。のオープン戦で、強肩の新庄を「投手心理を理解させるため」投手として起用。野村が提言する「考える野球」と新庄の積極的な性格も相まって関係は良好だった。6月12日の対巨人戦では新庄が敬遠球をヒッティングし、三遊間を抜けるヒットになりサヨナラ勝ちを収めた。サヨナラ劇では新庄が「敬遠されたらボール球を打ってもいいか」と奇襲策を提案し、野村は「好きにせえや!」と事実上のゴーサインを出している。ダレル・メイが「あの監督は勝てば自分の手柄、負ければ選手の責任」と放言。文書で野村批判のビラを自ら配る。メイはシーズン終了待たずに解雇された。なおこの年の8月7日の対ヤクルト戦、3回表無死一二塁で、阪神・湯舟敏郎が送りバント。一塁塁審の小林毅二は湯舟を一塁アウトと判定したが、野村は一塁ベースカバーのヤクルト・馬場敏史の足が送球を受けるより早くベースを離れたとして抗議。野村はセーフではないかと審判団に詰め寄り、その抗議の中で「このバカ」と暴言を吐いたため、小林は野村に退場を宣告し、野村の野球人生で初めての退場処分となった。は、4月の9連勝(1分け含む)で首位浮上した時は「今年は違うぞ」の印象を与えたが、すぐさま6連敗。以降立て直しがきかず球団史上初の3年連続最下位に終わった。チーム得点は両リーグ最低の2年連続400点台、投手陣も川尻哲郎が復調の気配を見せたぐらいだった。は、4番として自己最高の成績を収めた新庄がFAで前年オフにニューヨーク・メッツへ移籍。厳しい状況の中、若手選手育成を掲げ、7人の俊足選手を「F1セブン」(後述)と名付けて売り出したが、打率・得点・本塁打はリーグ最下位、この年も順位は最下位。野村が招聘した松井、八木沢、柏原の3コーチは解任された(松井はフロント入り)。2001年10月19日に来季の首脳陣が発表され野村の留任も発表されヘッドコーチに木戸克彦、投手コーチに佐藤義則、打撃コーチに和田豊が就任した。秋季キャンプは指揮を執ったものの、沙知代夫人が脱税容疑で東京地検特捜部に逮捕された当日に辞任を発表した。尚、著書の一冊である「女房はドーベルマン」によると、野村は沙知代が逮捕されるまで脱税行為をしているとは知らなかったとのこと。結局、阪神監督としては3年連続最下位で終わった。F1セブン(エフワンセブン)は2001年に、本拠地である阪神甲子園球場が広いということ、ホームランバッターが皆無というチーム状況の中で、機動力重視のチーム方針の象徴として名付けられた選手たちのことを言う。なお、この当時から俊足選手として重宝されていた田中秀太を忘れたため、発表翌日に「秀太忘れとった、F1エイトや」と訂正したが、ほとんど話題になることはなかった。なお、『野村ノート』(小学館)では「高波、藤本、沖原、秀太ら足の速い選手を7人集めて「F1セブン」といって売り出した。まぁ、沖原などは決して速いほうではなかったのだが、セブンの語呂がよかった」と説明している。メディアの紹介では「阪神では常勝チームとなる礎を築き〜」などと紹介されることが多いが、最下位からの浮上は出来ず、あまり結果を残したとはいえない3年間であった。上述のように南海、ヤクルト時代とも多少なりとも戦力は揃っており、チームの弱点(絶対的な抑え投手、捕手、1番打者などの不在等)を的確に改善してきたが、阪神は当時、本塁打数は20本程度打てるが三振も多く規定最低打率を争う状態だった新庄と桧山進次郎がクリーンナップとして出場するなど、選手層が薄いチームであった。投手陣では、リリーフエースから先発に転向させた福原忍や、若手で野村監督就任時2年目だった井川慶に大きな期待をかけていた。井川がエースとして成長したのは野村が監督をつとめた3年間である。当時の「遠山・葛西スペシャル」などは人材難の裏返しだったが、チーム防御率は4.04⇒3.90⇒3.75と年々改善されている。2003年、阪神優勝時のチーム防御率は3.53だった。野村が招聘したヘッドコーチの松井優典は「ミーティングを仕切れない。その言葉に説得力がない」、打撃コーチの柏原純一は「外国人選手に対してものを言えない。また特定の選手、例えば人気の新庄剛志外野手しか指導しない。それ以外の選手に熱意を持った指導がない」そんなことを野崎はオーナーの久万に伝えた。一方でチームの打撃成績は中々上がらず、戦力が少ない中でのやりくりも上手く行かず、「何度駄目なところを指摘しても直さない。日本語が通じないのか」と酷評していた今岡誠や大豊泰昭(後に中日移籍)との対立が話題になる事もあった。但し、こうした対立はあくまでも少数派であり、岡田彰布監督時代以降でも赤星、藤本、矢野輝弘、桧山らは楽天戦の試合前には必ず挨拶し、その様子は新聞などによって度々報じられていた。また、低打率と三振数が多くレギュラーポジションを奪われていた桧山が中距離打者としてその地位を確立したのも、新人の赤星がリードオフマンのポジションを得たのも、野村監督時代であった。野村が阪神監督時代二軍監督だった岡田彰布は「阪神の二軍監督の時は野村さんとの関係でいろいろ言われた。野村さんとは話をせずに報告ばっかりやったから、コミュニケーションが取れんかったのは事実だ。野村さんは一度も二軍の試合は見にこんかった。鳴尾浜には松井(ヘッドコーチ)がいつも来ていた。二軍の選手も数字がついてくる。打者も投手もファームで成績を残し一軍に上がりたい。打っても、抑えても一軍からお呼びがかからなければモチベーションは下がるし、「なんで俺より先にあの選手が?」と疑問に思う。野村さんは一軍に昇格させた選手を一度も使わず、二軍に戻すこともあった。あの頃は、頑張っている選手たちの汗に応えてあげることができず本当につらかった。野村監督で一番参っていたのは今岡だろう。今岡自身にも問題はあったかもしれないが、野村さんは覇気のない態度や、時に見せる淡泊なプレーが気に入らなかったようだ。今岡という選手は二軍に置いて調子を見るというタイプではない。気持ちで打つ選手やから、難しい球をホームランすることもあれば、あっさり三振する時もある。この点も野村さんには嫌われていたのではないか。」と述べている。グラウンドでの采配のみならず、フロントに積極的な戦力補強の進言をしたとされる。野村は史上初めて久万と会談した阪神の監督である。久万は元々、FAなど多額の金銭を使って日本人選手を獲得することに消極的で、補強はトレードと外国人獲得で済ませていたこともあり、「巨人のようになれというのか」「4番バッターを育てるのが監督の役目」などと拒否していた。しかし野村は「ある意味では(巨人の補強方法は)正しい、時代に合ったものです」と進言し、「じゃあ今まで60年あった阪神の歴史の中で誰が4番バッターにまで生え抜きで成長しましたか? 掛布雅之ぐらいでしょう。あと60年待ちますか? 4番バッターだけは(才能ある選手との)巡り会いなんですよ」と説いたという。また、当時阪神が短期間で監督を代えていたこと、編成部の有力な新人選手獲得失敗にも言及し、「監督だけ代えてもチームは強くならない。戦力補強と編成部の強化を行うべき」とも進言した。これらの意見に対し、久万は会談中激昂する場面もあったものの、会談後、野村の意見を取り入れたと見られる施策を打っている(片岡篤史やジョージ・アリアスの補強、鳥谷敬の獲得等)。当時の阪神はOB会が強い権力を持ち、ベンチにも入って選手を勝手に指導したりする場面もあり、野村との確執があったと報じられた。また、後任として中日の監督だった星野を久万に推薦したのも野村であるという。任期途中で自分では阪神再建は不可能と悟り「今の状態の阪神を再建できるとすれば西本(幸雄)さんか星野だ」と、既に熱血指導型の星野に後を託す考えもあったと言われる。後任の星野も久万に直談判し、「ここまで低迷したのは、失礼ですがオーナー、全てあなたの責任ですよ」と発言した。その後阪神は、野村辞任の2年後にあたると岡田監督2年目のにリーグ優勝を果たした。5月30日、野村は楽天の監督として初めて甲子園球場における対阪神戦(セ・パ交流戦)を迎えたが、選手交代を告げにグラウンドに姿を現す野村を、甲子園の阪神ファンは歓声と拍手で迎えた。2002年秋から社会人野球チームのシダックス野球部監督兼ゼネラルマネージャーに就任した。就任当時のシダックスは低迷していたが、野村は持ち前の理論を元にチームを再建。またオレステス・キンデラン・アントニオ・パチェコの元キューバ代表選手を獲得、2003年の第73回都市対抗野球大会では準優勝を果たした。この年のオフにはサンケイスポーツなど一部スポーツ紙から中日ドラゴンズの次期監督候補として名前が挙がった が、結局は落合博満が就任した。2005年10月3日、楽天監督就任要請を受けたため同年限りでシダックス監督を退任することを発表。11月19日の対日本生命戦(1対2で敗退)が最後の指揮となった。なお、日本野球連盟は同年の社会人ベストナイン特別賞を野村に授与している。のちにキューバの監督をつとめるパチェコは「野村の野球を日本で吸収した」と語るなど、シダックスで得たものは大きいようである。9月、楽天は「チームの再構築が必要」という理由から初代監督の田尾安志を就任1年足らずで解任。この時、野村は楽天側から非公式の監督就任の打診を受けていたものの、契約条件や巨人を自由契約になった清原和博の獲得問題などで難航した。だが、10月3日、社会人日本選手権を最後にシダックス監督を退任するとともに、楽天の監督就任要請を正式に受諾。5年ぶりにプロ野球界に復帰することとなった(3年契約)。日本のプロ野球において70歳代で監督となったのは仰木彬に次いで史上2人目。監督就任に際し野村は「このおじいちゃんに監督の要請が来ること自体プロ野球に後継者が育っていないことを意味している」とコメントしている。1年間監督を続け仰木の持つ最年長監督記録を更新した。三木谷が清原のファンみたいだね。オレは知らないけど、オーナーが獲りにいくでしょう。ピアスに代表されるように、精神構造が乱れている。チームの統制が乱れるので、指揮官としてはやりにくい」と改めて難色を示し、コーチ人事は伊勢孝夫、八重樫幸雄、川崎憲次郎の名前が候補に挙がっていたが、川崎に投手コーチの要請をしたが断られ、自身の人脈で連れて行ったのは池山隆寛だけだった。5月11日、セ・パ交流戦の対横浜戦において、8回裏に谷中真二が投じた肩付近への死球が危険球とみなされ退場処分になったことに激昂、木内九二生球審を突こうとするなどして猛抗議。あわや野村も退場処分になるところだった。5月16日、フルスタ宮城で行われたヤクルト戦では、ヤクルトを率いる古田監督との師弟対決が実現した(結果は、10-9でヤクルトが勝利)。以後この師弟対決は5回戦まで全てヤクルトが勝っていたが、雨天中止で予備日(6月19日)に回された6回戦に4-2で勝ち、ヤクルトの交流戦単独優勝の可能性を消滅させた。かつては自軍の選手が本塁打を打ってもベンチに座ったまま出てこようとはしなかったが、ベンチから出て選手をハイタッチで出迎えるようになった。相変わらずの毒舌も度々飛び出す一方、記者の質問にジョークを返したり、ユーモアを交えて回答するようになった。テレビのスポーツニュースでは毎回野村の試合後のコメントが伝えられた。特に田中将大が登板した日のコメントは「マー君、神の子、不思議な子」や「不思議の国のマー君」などと残しており、スポーツ紙などでは名物コーナーとして「野村語録」が次第に常設されるようになった。育成方針は基本的に叩いて伸ばすタイプだが、楽天時代には活躍した選手や、進歩が見られる選手に対しては素直に感謝や賞賛の言葉を贈るなど、以前とは違った面を見せ始めた(これは年齢を重ねていくに伴って「性格的に丸くなってきた」とする意見が多い)。ただし息子のカツノリを低打率弱肩であるのにもかかわらず起用し続けたことに関してはファンから疑問の声もあった。カツノリは同年に戦力外通告されたのを機に現役を引退し、コーチに転身。2006年は昨年続き最下位に終わり、飯田徳治、別当薫、根本陸夫、近藤昭仁に次いで史上5人目の両リーグ最下位の監督になった。公式シーズン後(11月)に行われた日米野球の監督を務めたが、選手の出場辞退が相次ぎ苦戦、史上初めてメジャーリーグ選抜チームに5戦全敗。72年ぶりの記録を作ってしまう。2006年11月23日に開催された楽天のファン感謝祭において、「来年は私の野球人生のすべてを賭ける。Aクラスに入れないようなら辞めて次の人に譲ります。いくら東北のファンが粘り強いと言っても、(新規参入から)3年連続で裏切ったら許してくれないでしょう」と、来季の成績に自分の進退を賭ける旨の決意表明をした。このことは球団側も聞かされておらず、米田純球団代表も突然の事態に困惑していた。野村は就任当初から「作る年、戦う年、勝つ年」と3年かけてチームを作る方針を語ってきたが、は3年契約の2年目であり「戦う年」にあたる。監督自らが提唱する計画に反するため、本当に辞めるつもりだったのか、それとも辞めるくらいの決意で戦うというリップサービスであったのかは定かでない。また、球団側は2007年シーズンが終了してもまだ契約が残っていることを強調したため、来季の成績如何にかかわらず慰留する方針であると考えられていた。11月26日に行われた球団納会において島田亨球団社長から前述の発言の再考、撤回を求められたが拒否した。11月28日に行われた楽天の経営諮問委員会に出席し、その場で三木谷浩史オーナーや東北の財界者にAクラス入りを果たすまでは辞任しないで欲しいと長期政権を望まれた。しかし「成績が悪ければ進退伺を提出するのが通例。来季は自分の野球生命を賭ける」と今までと同じ姿勢を崩さなかった。2007年シーズンは、新人を含め若手選手を積極的に起用する場面が目立った。投手陣では一場靖弘、岩隈久志らのシーズン序盤での離脱の影響もあり、永井怜、田中将大らを先発ローテーションに起用。捕手は育成を兼ねてルーキーの嶋基宏を多用。またシーズン中盤には渡辺直人、草野大輔らが台頭した。後半戦開始間もなく福盛和男が離脱するものの小山伸一郎をリリーフエースとして起用、一場靖弘、岩隈久志が一軍復帰したこともあり先発ローテーションを再編し、それまで主に先発だった山村宏樹、有銘兼久、永井怜らをリリーフ転向させた。結果は球団3年目で初の最下位脱出となる4位となる。2007年10月4日、3年契約最後の年であるも予定通り監督を続けることを表明。2008年6月29日、対ソフトバンク戦では球団史上最多の20安打の猛攻で15点を奪い大勝。この日は73歳の誕生日で、7年ぶりの誕生日白星となり、選手達が用意した帽子型のケーキで祝福された。7月5日、対西武戦(西武ドーム)では「ライオンズ・クラシック」の企画の一環として、当時(1963年)の日本記録である野村の52本塁打達成の舞台となった西鉄ライオンズ対南海ホークス戦を再現する形でイベントが行われた(この試合では豊田泰光(元西鉄)が始球式を行い、野村が捕手を務めた)。同年7月15日、対日本ハム(東京ドーム)戦で監督として通算3,000試合出場を達成、選手としても通算3,017試合に出場しており、日米ともに前例のない、選手・監督両方での通算3,000試合出場を達成した。この年は序盤に球団初の単独首位になるものの交流戦後半から失速、かろうじて最終戦で勝利して最下位脱出をしたものの5位に終わる。2007年とはうって変わり、得失点差はプラスとなり、エース岩隈久志が21勝を挙げて復活するなど戦力の整備は進んだものの、順位には反映されなかった。同年シーズンを以って3年契約が終了。去就が注目されたが、球団から戦力の整備を評価され、1年契約での続投要請を受ける。野村自身もそれを受諾し、も引き続き楽天を指揮することになったが、ドミンゴ・グスマンとホセ・フェルナンデス(中村紀洋をFA獲得)が退団。2009年シーズンは開幕から投手陣を中心に怪我人が続出した。特にドラフトで獲得した新人投手全員がオープン戦前に故障してしまい、片山博視や青山浩二といった期待の若手もキャンプで出遅れた上、前年活躍した新守護神川岸強も開幕後すぐに体を傷めるなど、投手に関しては就任以来の災厄に見舞われた。さらに野手に関しても、高須洋介やリック・ショートなどが故障でシーズン中に長期間戦線離脱するなど怪我人の多い年となった。スポーツ紙での解説者の順位予想では楽天は軒並み下位予想され、野村はこれに対して「下馬評が低いからやりやすい」とコメント。開幕当初はチーム初の開幕4連勝を果たす好スタートを見せ、4月を首位で終える。しかし、怪我人が続出した5月以降は調子を落とし、交流戦では最大6連敗を喫し、7月には3年ぶりの8連敗を喫し、一時は5位にまで後退するが、8月に入り最大6連勝を含め通算17勝7敗。9月以降も好調を維持し、9月12日のソフトバンク戦(ヤフードーム)でチーム初のクライマックスシリーズ(以下「CS」)進出マジックナンバー「19」が点灯。2度消滅するが、10月3日の対西武戦(Kスタ宮城)で勝利し、チーム初のCS進出決定。同9日のオリックス戦で2位が確定し、CS第1ステージの地元開催権を獲得する。楽天としては初のAクラス入りとなり、野村自身のキャリアでもヤクルトで最後に優勝した1997年以来8シーズンぶりであった。しかし、その翌々日・11日にKスタ宮城で行われたレギュラーシーズン最終戦(対ソフトバンク)終了後、球団から契約を更新しない旨を告

出典:wikipedia

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