ルー 大柴(ルー おおしば、1954年1月14日 - )は、日本の俳優、お笑いタレント、茶人。本名、大柴 亨(おおしば とおる)。茶人名としては大柴宗徹。東京都新宿区富久町出身。浅井企画(2008年1月末まで)→株式会社Carino所属。山野美容芸術短期大学客員教授。遠州流茶道師範。身長174cm、体重65kg。立教高等学校(現・立教新座高等学校)卒業。第二次世界大戦後にシベリア抑留から引き揚げてきた父と日本で知り合った母との間に、東京で生まれた。父親は旧満州のハルビンで生まれ育ち、ロシア語・中国語・英語に堪能で、幼少のルーにハグや接吻をするような人物であったという。また、ルーの父方の祖父はロシアのウラジオストクで宝石商を営み、ロシア革命後に満州に移り、日本軍に飛行機を一機寄付してしまうほど富裕だったという。母親は再婚で、既に2女の親だった。母親の実家は印刷所を営んでおり、父親は婿養子に入っていた。両親が不仲になったこともあり、高校卒業を機に家を出て独立。欧米各地で、自作のアクセサリーを露天商売販売しながら数年間放浪。これを機に英会話が特技となる。帰国したとき、両親は離婚しており、一旦は実家が経営する印刷会社に就職するものの即退職。三橋達也の付き人を経て、1977年にテレビドラマ『俺たちの朝』で俳優としてデビューする(ただし、一話限りの出演でそれも端役扱い)。1979年、勝新太郎が主宰した『勝アカデミー』に第一期生として参加。この時、同期だった小堺一機と知り合う。この間、俳優業は鳴かず飛ばずで、司会業やモデル業をして雌伏の時を過ごす。また、この時期に関根勤とも知り合う。折り込みチラシなど、モデル時代の事務所のパンフレットに掲載されていた“カジュアルなスタイルにウエストポーチをつけた格好”が『スーパーギャング・コサキン無理矢理100%』で話題となり、番組内で“ポシェット・ルー”として人気に火がつく。後に番組内でレギュラーとしてポエムコーナー『ルー大柴のパックインミュージック』が出来るまでになった。1989年、関根の主宰する劇団『カンコンキンシアター』の旗揚げに参加し、その独特のキャラクターが脚光を浴びる。アデランスのCMでの「トゥギャザーしようぜ!!」のキャッチフレーズで一躍有名になる(ただし、ルーは35歳で完全に遅咲きだった)。1992年、第29回ゴールデン・アロー賞芸能新人賞受賞。また『浅草橋ヤング洋品店』の司会、『笑っていいとも!』曜日レギュラー、NHK大河ドラマ『花の乱』や、舞台『ハムレット』などに出演。またタレントとしてのキャラクターとは裏腹な演技力を発揮する俳優としての側面も持ち、近年では舞台俳優としても多くの作品に参加している。1990年代前半の短期間のブレイク後、しばらくはカンコンキンシアターをはじめとする舞台演劇に活動の重点を置いていたせいもあり、テレビでの出演機会が少なくなり世間の露出度としては「控えめ」の状態が続いた。しかし、2007年初頭頃からは「クド過ぎるブログ」と発言自体が「ルー語」と言われ、以前ならば最も嫌われていた女子高生層の間で話題となり、再びブレイク。「寝耳にウォーター(「寝耳に水」の意味)」「藪からスティック(「藪から棒」の意味)」などのギャグで露出が増加する。みんなのうたにも起用された自身のCDがきっかけで、ワンガリ・マータイが提唱したMOTTAINAIプロジェクトに賛同し、テレビ出演時にはそのTシャツを着ていることが多い。2010年4月、遠州流より準師範を許可され、当代家元小堀宗実より、宗徹(そうてつ)の名前をいただく。2012年10月、「ルー語」の英語と日本語が混ざった独特の口調でナビゲートしてくれるAndroid™端末用カメラアプリ「ルー大柴のCameraでLet's TOGETHER」をリリース2013年4月 遠州流より師範を許可される。茶道当代家元小堀宗実お家元より貫庵(かんあん)大柴宗徹(そうてつ)の庵号をいただく。「ルー」は、本名の「亨(とおる)」から。家のなかで暴れる幼い大柴を、父親が「ルー台風」と呼んでいたのが由来だという。役者活動を始めた22歳の頃は大柴允人(まさひと)、新劇に参加し始めた1983年からは大柴亨介と名乗っていた。自称「職業は旅人」。 愛車は2代目トヨタ・プリウス。 1981年に結婚した妻の万規との間に2人の息子がいる。俳優を目指して研鑚を積み、数々の舞台・テレビでは一般庶民も含めた様々なキャラクターを演じ、ミュージカルのタイトル・ロールもこなして見せるなど、演技者としての力量は高い。完全に抑制した、地味な脇役もこなせる。しかしルーと言えば、くどくてアクと押しが強くやや空回りしたようなキャラクター、またうるさ過ぎるタレントとしての顔の方が有名である。本人は自分の芸風を「西川のりおをおしゃれにしたような芸風」と、テレビ番組で語っている。小堺や関根が指摘するように、常識がないというわけでもない所も特徴的である。実際、テレビに出演している時は絶えずモニターをチェックし、モニターチェックが終わった後にはスタッフに「今の良かっただろ?」と、確認するほどである。タレントとしてはキャラクター作りとして「Togetherしようぜ!」「この間department storeで」「Januaryで50歳になるんだよ!」など、会話の中に簡単な英単語を入れるのが特徴(しかも我流当て嵌めで文法にも適っておらず正しくない)。その発端は、高校生時代に帰国子女の同学年生と交際していて、どうしても言葉の端々で英単語が出てしまうから、と述べている。また、実父が満州生まれで日本語は無論露・中・英の3カ国語をも自由に話せるマルチリンガルであったという、幼少時の体験も少なからず影響していた。一方でラジオで共演した伊集院光に対して、それまで英単語を混ぜてしゃべっていたにも関わらず、別れ際に「さらば!」と日本語であいさつしたことを、後で突っ込まれていた。また関根勤のことを「トム」、その娘の麻里のことを「メァ〜リ〜」と呼び、前述の伊集院光のラジオ番組内では、恩師・勝新太郎のことを「“ビクトリーNEW太郎”」と呼んでいた。また俳優を目指していた経緯から演劇指向が強く、舞台に生きる自らの事を「板人(いたじん)」、また『カンコンキンシアター』では、後輩達に自身の事を「板長(いたちょう)」と呼ばせようとしている。業界でもそんな呼び名はないが、板=舞台の長として団員をまとめあげる、座長の直下のポストであるという自負から来た造語であると推測される。実際、『カンコンキンシアター』では、年齢的にもキャリアも座長の関根に次ぐ年長者でもあり、舞台公演時にカーテンコールで座長を紹介できる唯一の人物でもある。小堺や関根らによれば、普段の素顔はテレビのキャラクターは必ずしも当てはまらず、実像はよく気がつく人柄のいい人物だという。水辺の生き物が好きで、趣味の一つに“ローチ”の飼育があり、川などに出て採集したり、白変種などを観賞魚店で買い求めているという。現在まで続いている“ローチ”との出会いと付き合いは、1998年頃、ルーのテレビ出演が激減しスケジュール帳はいつも真っ白の時期に、息子が通う自然教室についていった際「どじょうってかわいい」と開眼したのがきっかけ。当時のルーは自ら「人生の“バッドタイム”」であったと思っていたが、今思えばそれは必要な時間であったかもしれないと語っている。2006年11月に観賞魚雑誌の月刊アクアライフ2006年12月号で、インタビューを受け、飼育風景の一部が掲載され、その後同誌2007年5月号から連載を開始した。記事の内容は川や用水路での採集や、珍しい“ローチ”の紹介、時には大学の研究室(“ローチ”関係の研究を行っている研究室である)を取材することもあり、独特な文章と裏腹にかなり専門性が高い内容となっている。愛魚には10年以上飼育したヒドジョウのチャッピーなどがいる。2007年6月に『ゆうどきネットワーク』にゲスト出演し、密着取材でオフの日に多摩川で小魚採取に興じるルーを特集した。『どうぶつ奇想天外!』でも、魚部の子供たちと魚捕りをした。自宅でくつろぐ方法の1つに、愛する“ローチ”たちを眺め、バッハのG線上のアリアを聴きながら“ポテト焼酎”をゆっくり飲むスタイルであると語っている。横浜が好きで、コサキンではよく横浜好きをアピールしていた。福山雅治とは新人でまったくの無名時代からの交友関係で当時無名だった彼に親身になって相談に乗ったりアドバイスしたり彼のアルバムの帯にタイトルバックして欲しいと頼まれ快諾し「僕のようにビッグになりなよ!」と書き込んだが大柴曰く「今じゃ福山君の方が遥かにビッグなってしまった。」と述べている。定期的に彼から携帯電話に掛って来るらしく一度、福山本人から「ルーさんの自宅にお邪魔して良いですか?」と言われたが大柴の妻が彼の大ファンで大柴の妻曰く「恐れ多い」との事で流れてしまった。関根勤の娘・関根麻里とも長い付き合いである。クリスマスの日にルーがサンタクロースに変装し、関根家に来たことがある。なお、「お父さんが勤からルー大柴に変わると言われてもタダ(0円)で受け入れることができる」と麻里が発言したことがあり、周囲を驚愕させた。石田純一とは生年月日・血液型が全く同じで、よくネタにしており、これまでに二人は『快傑!ドクターランド』や『ダウンタウンDX』等で顔合わせをしており、後者によるところでは生年月日も血液型も同じなのに生き方が違っていることを羨ましく思っているが(例えば石田に離婚歴と再婚歴があっても自身にはない)、実際には以前から仲がよいことを自身のブログで語っている。2007年5月18日に『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」に登場した際には、福山雅治から花が届いた。ルーは次の回お友達として、谷原章介を紹介している。また、ブレイク前の福山とラジオ番組で共演した際には、福山に色々とアドバイスをしていた。2008年、所属する浅井企画をマネージャーと共に退社し独立。
出典:wikipedia
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