交代寄合(こうたいよりあい)は、江戸幕府における旗本の家格の一つ。広義の寄合に含まれる。江戸定府の旗本寄合に対して参勤交代を行う寄合の意。交代寄合の用語は1703年(元禄16年)刊行の武鑑が初出。20家が表向御礼衆と呼ばれるようになるのは元文期(1736-1740)頃という。禄高が1万石以下ではあったが、旗本が江戸在府であり若年寄支配であるのに対し、交代寄合は領地に所在して老中支配であったため大名と同等、もしくはそれに準ずる待遇を受けた。江戸城内での伺候席は一部の家は“帝鑑間”、ほとんどは“柳間”に詰めた。また大名と同様に参勤交代することを許されていたが、諸大名と異なり参勤は強制・義務ではなく、自発的に行うものとされていた。このため数年に一度しか参勤しない家もあり、寄合御役金として100石に付き金2両を8月と2月に分納した。官位については、一部の例外を除いて通常の旗本と同様に役職就任時以外の任官はなかった。また、伺候席が帝鑑間詰であっても役職に就くことはほとんどなかった。須原屋版『文化13年武鑑』による、1816年~1817年頃の交代寄合は以下の通り。この一覧以外にも以前に交代寄合であった家がある(代表例を末尾に記述)。表向御礼衆は大名と同じ扱いを受け、登城の際は表御殿でそれぞれの間に詰める大名嫡子の後に将軍と拝謁した。太字は維新立藩により大名として認められた家。四衆は下野国の那須衆、美濃国の美濃衆、信濃国の信濃(伊那)衆、三河国の三河衆の四国出身家の総称であり、「四州」とかけられている。表向御礼衆と異なり、将軍とは廊下で通りがかりの拝謁しかできない。このため「御勝手御礼衆」とも呼ばれる。那須衆は隔年参府、他は数年に一度の参府であった。四衆同様、廊下での将軍拝謁を行った。米良家は人吉藩相良氏の支配とされ、寛政重修諸家譜でも独立の項目ではなく、相良氏の項目に記載されている。文化13年刊行の須原屋版武鑑には記載のない交代寄合である。などである。
出典:wikipedia
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